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ハロハロの記 第二回

4 貧困 とは何か

 今回は、少し堅い話しになるが、でも「支援」とは何かを考える上で避けて通ることができない、 「貧困」とは何かという問題について考えてみたい。言葉を換えて言えば、 ACCEが支援しているフィリピンの人々にとって何が問題で、 私たちはどういう現実を変えようとしているのかについてである。  

 先日、この問題についてACCEでボランティア活動をしてくれている学生スタッフの人たちとワークショップを行なう機会があった。 テーマは、「パヤタス(マニラの巨大ゴミ捨て場)でスカベンジャー(廃品回収でリサイクルできるゴミを拾って生計を立てている人たち)の人たちが抱えている、 解決されるべき問題は何か」。参加者たちは1時間を超える熱心なグループ討論をおこなってくれた。当日は、二つのグループに分かれて討論を行なったのであるが、 それぞれのグループから出された意見が、この問題を考える上で適切な手がかりになると思うので、 紹介したい。  

 一つのグループからは、次のような意見が出された。「基本的な教育を受けることができない人が多い」 「労働や治安などの安全が保障されていない」「衛生面が悪い」「居住環境が悪い」「ゴミを拾う以外の職がない」 「政府がパヤタスの人々にすべきことを行なっていない」。ここに挙げられた点は、パヤタスの、 そしてマニラの都市貧困地区に共通する基本的な諸問題であるといえる。 <職がない→所得が少ない→居住環境・衛生環境・栄養の劣悪さ→健康の悪化→就労の機会の減少→所得の少なさ>、 <職がない→こどもが教育を受けられない(教育関連の費用が賄えない・家計補助のため子どもたちが働かなければならない)→職を得る機会の減少> という、いわゆる貧困の悪循環と呼ばれるサイクルが、日々の生活および世代の継起を貫いて都市貧困地区に住む人々を支配する。 その中で、少なくない人々が、明日への絶望に押しつぶされ、絶望感を麻痺させるため酒や麻薬に溺れる。このように考えると、いかにこの貧困の悪循環を断ちきるかが問題なのであり、第一のグループが指摘した、 その一つ一つの環を形成している諸問題こそが解決されるべき問題であるという指摘は、的を得たものということになる。 こうした観点から、私たちNGOの課題は、就労機会・教育・住居・保健衛生・医療といった諸問題の解決に向けてサービスを提供して行くことになる。 実際、ACCEがフィリピンで行なっているプログラムのほとんどはこれらの諸問題に取り組むものとなっている。  だが、「解決されるべき問題」は何かという設問への答えは、実はそれほど単純ではない。 それは次の問いを発してみるとより明瞭になる。

 「それでは、彼ら・彼女らの生活はどうあるべきなのか?」

 この設問は、一つ目の設問と関連はするけれども、重要な視点の変更を要求する。 「解決されるべき問題」は何かという問いの中に、スカベンジャーを取り巻く客観的な状況をいかに評価し分析するかという問いのみならず、 誰が・何を「問題」だと考えるのかという問いが内包されているからである。「それでは生活はどうあるべきなのか」という、 そこで働き生きている主体の「生活」のありようを問う設問に対し、「基本的な教育を受けられるようにすべき」「安全が保障されるべき」 「衛生・居住環境が保証されるべき」等々と、日本のワークショップ参加者が答えるとき、パヤタスのスカベンジャーたちは何を望んでいるのか、 という問題が抜け落ちてしまう。 実際、第一のグループでは議論の中で、「スカベンジャーの家庭を訪問して話しを聞いたとき、確かに生活は苦しいけれどそれなりにハッピーである、 と言っていた」という経験に触れながら、日本人である自分たちがそのように言ってしまって良いのだろうかという疑問が提出されている。

 このスカベンジャーの発言は、私たちが貧困とは何かを考える上で、三つの重要な視点を示唆している。一つめは、絶対的貧困と相対的貧困という視点である。絶対的貧困の一つの目安として貧困線という考え方がある。 一日三食食べ、子どもたちに初等教育を受けさせ、最低限の住環境を得ることができる収入で示される。 6・7年前の古い数字で大変恐縮だが、政府が発表したマニラ首都圏の、両親と子ども4人の家族を想定した貧困線が月8千数百ペソだったと記憶している。 現在では9千ペソを超えているだろう。他方、スカベンジャーたちの月収は2000ペソ前後である。ところが、私などはとても自分の身を置き換えて想像することすら困難な労働・生活環境の中で暮らしている彼ら・彼女らが、 異句同音に「田舎の暮らしよりはましだ」という。毎日現金収入があり、乏しくとも食事を取ることができるから、というのがその理由である。 パヤタスのスカベンジャーに限らず、マニラ首都圏の貧困地区に居住する人々の大半は、ビコール・ビサヤ・ミンダナオといった貧しい農村の出身である。 フィリピン社会の最大の問題の一つが、農業・農民問題であり土地所有の問題であることは言を待たないが、それは次の章で触れるとして、ここで見ておきたいのは 「田舎の生活よりはましだ」ということである。「生活は苦しいけれどもそれなりにハッピーである」とスカベンジャーが言うとき、 田舎の生活と比較している面もあるのではないだろうか。そうした他者との比較において「貧困」を考えようというのが相対的貧困である。  

 二つ目は、この相対的貧困という観点からただちに派生する問い、すなわち貧困を誰が定義するのかという問題である。  フィリピン全体で、貧困線以下の生活を余儀なくされている人々は7割を超えるという。その大半が農村生活者と都市貧困層である。 農村という貧困の重しがあり、社会の平均的生活水準が農村の生活にあるという意識が一般化している時、 視界の端にいつも近代的なビル群とそこを闊歩している富裕層の姿が入って来ても、自分たちの生活はまだましだと自らを励ます意識が生れる。 この場合、貧困(の水準)を定義しているのは、日本風に言えば「世間並み」の生活の在り様であり、それを「常識」として受け入れている社会の共通認識である。  

 

 ところが、相対的貧困という観点を国境を越えて適用させようとすると、問題は複雑になる。この「社会の共通認識」が成立しなくなるからである。 とりわけ「世間並み」の生活の在り様が異なる「北」と「南」の間ではそうである。所得の階層分類から言えば低所得者層に入る私のような者の生活「水準」でも、 フィリピンの大多数の人々のそれよりも「上」である。 ここから往々にして、私たち「北」の人間は、自分たちの「水準」を基準にして「南」の生活の在り様を判断してしまう傾向にあるのではないだろうか。こうした傾向は、対立する二つの要素を内包しているように思う。一つは、国境を越えた民主主義の要求としての要素である。つまり、 少なくとも「北」で達成されている程度の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」は、「南」でも達成されるべきであるという要求の要素であり、 肯定的に評価すべき要素であると考える。 もう一つの要素は、西洋中心主義的な要素である。近代以降、「北」が創り出してきた生活・価値・文化は普遍的なものであり、 その「水準」に達していない「南」の在り様は「遅れている」「劣っている」とみなす要素であり、NGO活動を行なう上で、 この要素と意識的に闘う必要があると考えている。  

 15年ほど前(だったように思う)には、「開発」という概念をどのように捉えるべきかという文脈で、日本でも3C批判ということが盛んに言われていた。 つまり、「南」における「開発」の到達目標を、三つのCすなわち自動車(Car)・カラーテレビ(Color TV)・コカコーラ(Coca Cola)に象徴されるような 西洋的な生活スタイルを享受しうる所得の向上に置くのではなく、「南」のそれぞれの国・地域に固有の文化と価値に基づいた「開発」の理念を求めようという動きだったと理解している(さらには「開発」という概念そのものに一元的な進歩史観を読み取り「開発」そのものを拒否しようとする捉え方すらある)。 一方で86年のプラザ合意以降の急激な円高の中、資本の生産拠点の海外−主に北米と東南アジア−への移転に象徴される日本の「国際化」の進展と、 他方で日本では戦後の「高度経済成長」を通じて形成された大量生産−大量消費型社会がもたらした自然環境の破壊への反省から生み出された エコロジー的指向の一般化を背景に、「南」の問題への大衆的な関心の拡大と、西洋近代の産業主義に対抗する文化や価値観を 「南」のそれに求める動きとなって現れたのではないだろうか。

 

 こうしたいわゆる文化相対主義が果たす役割は大きい。93年・94年と、ACCEは、 フィリピン・ミンダナオ島ダバオに拠点を置く劇団Kaliwatを招いて公演ツアーを行なったが、 彼ら・彼女らの活動のモチーフは、フィリピンで支配的な影響力をもつ米国・スペインの文化(フィリピンは300年間をスペインの、 その後の50年間を米国の植民地支配を受けている)を相対化し、米・西文化、イスラム文化、そしてマノボ族などのフィリピン先住民の文化をフィリピンの、 とりわけミンダナオの文化の源泉として、それぞれの要素を抽出し舞台の上で融合させることを通じて、 フィリピン人(ミンダナオ人)の文化的アイデンティティーを新たに創出しようというものであった。 「南」において植民地支配の結果支配的になった西洋文化を相対化し、独自の文化を創造しようという一例である。が、文化相対主義が果たした役割で日本人である私たちが特に注意しなければならないのは、「北」の住民である私たち自身の歴史・世界の見方を対象化し、 それを<「南」は遅れている・劣っているとみなす先進国中心主義=西洋近代至上主義>として私たち自身が批判する契機となること、つまり、 地球儀を逆さまにして世界を見ること、「南」の視点から歴史を見ることの重要性を訴えることである。蛇足だが、こうした視点からはコロンブスによる 「新大陸の発見」などというフレーズは出てきようがない。「新」大陸には遅くとも洪積世末(数万年前)には人類が居住を開始し、 紀元前1500年には既に農耕共同体を形成しているのである。

 

 少し脱線が長くなった。文化相対主義については、次回以降、その隘路についてもう一度言及することになるが、いったん話しを元に戻そう。 貧困を定義するのは誰か。少なくとも、西洋近代の達成したものを基準として、そこに達成していない状態を貧困とするというような、 「北」の「我々」が一方的に定義するものではないということを確認して、先に進みたい。 「生活は苦しいけれどそれなりにハッピーである」というスカベンジャーの発言を手がかりに、 貧困を考える上での視点を探ろうとしていたのであった。

 

 三つ目は、スカベンジャーは自分を取り巻く状況を正確に知り、それを語ることができるかという問題である。 これは「ハッピーである」と彼/彼女が言ったとき、私たちはそれをどのように受け止め、どのような態度を取るべきなのかという問題でもある。  いくつかの態度を想定しうる。一つは「ハッピーである」という発言を額面通り受け取り、介入すべきでないという態度。 他方、彼ら/彼女らが自己の置かれている状況を知り・語ることができないのだから、その「悲惨」さを代わって訴えるべきであるという態度。 あるいは、彼ら/彼女らが発言できるよう、もっと発言の場を提供すべきであるという態度…。私は、これらのいずれにも同意できないと考えている。 が、この問題も、ここでは問題の所在を指摘するに止めて、次回以降改めて触れようと思う。 貧困の問題を考える際の視点として、以上見てきたように、主体の要素を含めて考えることは不可欠であろう。アカデミズムの世界でも、 貧困の定義を、「〜がない」という取り巻く環境に焦点を当てた捉え方から、「〜ができない」という主体に焦点を当てた捉え方へと シフトしてきているようである。  

 最初に紹介したワークショップに参加したもう一つのグループは、端的に「自分たちの生活を改善・向上させるための行動力を身につける環境(資源) にアクセスできない」ことを最も重要な問題だと結論づけてくれた。さらには「先進国も含めた第三者が貧困地域の現状を知らなさすぎる」とも指摘している。 まさに主体の在り様こそが問題なのだという、的確な指摘だと思う。

 

5 貧困を生み出すもの

 それでは、貧困はなぜ存在し、なぜ無くならないのだろうか。この問題を考えるとき、逆説的な物言いになって恐縮だが、 逆に「主体」にのみ焦点を合わせて考えることは大きな過ちに陥ってしまう。前回紹介したように、スタディーツアー参加者の最初の反応は次のようなものが多い。「政府が何とかすべきである」「頑張って働けば何とかなるはず」 「恥の意識を持つべきだ」「フィリピンにも金持ちはいる。生活に余裕のある人に訴えて支援してもらうべきだ」等々。

 ここに示されているのは、1)個々の人が頑張って働くべきである、あるいは2)政府や経済的な上層の人々が解決すべきであるという認識である。前者の意見を述べるのは年配の方が多い。確かに、スタディーツアーでアペロクルスやパヤタスを短時間回っているだけでも、そう言いたくなる光景が目に入ってくる。昼間から大人が集まってカード遊びをしたり、酒を飲んだり、あるいは何をするでもなくブラブラしていたり。。。 戦後、空襲による焼け野原の中から、懸命に働いて家族の生活を支え、ひいては60年代以降の日本経済の「高度成長」を成し遂げてきた自己の経験と そうしたフィリピンの「現状」とを重ねあわせてしまわれるのであろう。 だが、戦後の日本が持っていた条件とフィリピンの置かれている現状とを同列に論じるわけには行かない。 日本の場合、第二次世界大戦前に、既に相当程度の経済発展を成し遂げていた。日清・日露の二度の戦争を経る度に、 繊維産業・鉄鋼業という主要産業における産業革命を成し遂げ、第一次大戦中の戦需景気を背景に1920年代には既に重化学工業の基本的な発展が達成されていたとされる。 さらに米国の経済支援が、戦後復興のために大きな力となった。戦後の東欧諸国における社会主義政権の発足とアジアにおける中国革命・朝鮮戦争に直面した米国は、 西欧諸国とならんで日本・韓国・台湾に対し多額の経済援助を行い戦後復興を支援したのである。その上、戦前の日本の経済・社会構造の基礎を形成していた大地主制度が、戦後の米占領軍による改革により解体され大量の自作農が形成された。 この農業革命が戦後の経済成長の大きな条件となる。  このようなマクロな経済的諸条件の中で、個々人の「頑張り」が「成果」となって実を結び、実感できるような環境が戦後の日本にはあった。 右肩上がりの経済成長の中で、望めば職があり、頑張って働けばささやかであれ今日の食事と住居を心配しなくても良いだけの収入を手に入れることができたのである。

 

 他方、こうした条件はフィリピンにはない。フィリピン社会の貧困問題は、国内的な要因と国際的な要因とからなっている。国内の最大の問題が、大土地所有制を基礎とする農業・農民問題である。大土地所有制というのは、地主が広大な土地を所有し、そこで農作業する人は、 自分では土地を持たず土地を耕す権利を得る代わりに収穫物の6〜7割にも相当する小作料を地主に支払う小作人か、農繁期に短期間雇用される季節農業労働者である。パヤタスを初めとしたマニラ首都圏の都市貧困層の出身地のほとんどが、ルソン島のビコール地方、ビサヤ地方の小さな島々ないしミンダナオ島の貧しい農業地帯であり、 両親はこうした土地を持たない小作人か季節農業労働者である。年に3回か4回のサトウキビの収穫時だけ、家族総出、幼い子供まで働いて若干の収入をえる。 その間3ヶ月か4ヶ月は一切の収入がなく、地主から米を借り飢えをしのぐ。収穫時の収入はこの借金の返済に当てられるが、借金はどんどん増大して行き、 ついには娘を身売りせざるを得ない。こうした生活が多かれ少なかれフィリピンの貧しい農村地帯では繰り返されている。この大土地所有制が抱える問題は、フィリピン社会ではある意味常識であり、 歴代の政府も農地改革(実際に農作業を行なっている小作人に土地を分配すること)の必要性を常に掲げてきている。 だが作られる法律はいつも抜け道が用意されており、農地改革は一向に進まない。上・下院の議員、政府の高級官僚たちの大多数が、大土地所有者の利益を代表する人たちであるからだ。近年の大統領たちも、エストラーダ前大統領を除き、大土地所有者を家族・親族に持つ人たちである。さらに昨今のグローバリゼーションのなかで推し進められている貿易自由化によって、大量の安価な農産物が国外から輸入され、 フィリピン国内市場における農産物の競争が激化してきたことにより、一部の大地主や大農業資本を別にして、農業で生活することはますます難しくなっている。こうした農村生活に見切りを付け、職を求めてマニラその他の大都市に流れて行く人は跡を絶たない。 だが、そうした膨大な流入労働力を吸収するだけの産業は発達していない。市場経済の中で常に「北」の企業の商品との競争にさらされて、 競争力をもたないフィリピン国内資本は、金融・流通といったサービス業のほかは大きな発展を遂げることができないできた。90年代、ラモス政権の下急速に進められた外資導入政策によって、多くの欧米系企業そして日系企業が進出してきた。経済特区が設定され、 部品組立工程等労働集約型の工場が、安い労働力を求めて相次いで建設された。また、それに伴い「北」の資金も流入し、建設業を初めとしバブル的様相を呈した。 だが、97年のタイ・バーツの崩落に始まるいわゆるアジア通貨危機以降流入していた短期資金は国外に逃避し、バブルははじけた。その上、さらに「安価な」労働力を求めて、 多くの企業が中国へと生産拠点を移転しようとしている。これらは、外資に依存する経済発展政策の脆弱さを端的に物語っている。

 

 「低開発の開発」という考え方がある。「低開発」というのは、「未開(発)」に対する批判概念である。全ての社会は「野蛮な」「未開(発)」状態から脱して文明化された状態に至るのであって、「北」は先にtake off(離陸)を行なったが、 「南」はいまだ未開状態にあって遅れているという、単線的な進歩史観に対して、そうではなく、「低開発」状態は「北」によって「開発」された、 すなわち人為的に創り出されたのだとする考え方である。1950年代から60年代にかけて、かつて欧米の植民地であった「南」の諸国の政治的独立が相次いでかちとられていった。そうした中で、先進国から見た歴史ではなく、 「南」の視点から歴史を捉え返そうという動きが活発になり、その中で、「南」が貧しいのは「北」による長きにわたる経済的・政治的支配の結果であり、 「北」が豊かなのも同じ支配の結果なのであるという考え方が、南米やアフリカの学者から提唱され、強い影響力を持つようになった。フィリピンの大土地所有制も、 まさにスペイン植民地支配の中で新たに作り出され、支配の為の道具として機能してきたのであった。「低開発の開発」というフレーズはこうした考え方を端的に表現したものである。 私は80年代の前半に学生生活を送ったが、そこで初めて、こうした新従属論といわれる考え方と出会った。 新従属論自体は、70年代以降NIES(新興工業経済地域)と呼ばれる諸国が「南」から生れ始めてから、すでに影響力を弱めつつあったが、それでも最初に知った時の衝撃は大きかった。 自分自身がそれとは意識せずに享受してきた日本の「豊かさ」が、実は「南」の人々の犠牲の上に成立しているというのである。

 

 私は学者ではない。だから、こうした「論」が科学的に「正しい」のか否かは分らない。証明する力もない。でも、NGOのスタッフとして、少ないながらもフィリピンの実状に肌で触れる中で、フィリピンの歴史や現状を学ぶ中で、新従属論が提起した視点はいまなお有効なのではないかと思っている。 その意味で、私は20年以上経った今でも、最初の衝撃に突き動かされてこうした活動を続けているのかもしれない。たとえ意識していずとも、 いや意識せずにそうしてしまっているからこそ余計に、他人を踏み付けにすることによって「豊かさ」を享受していること、そうした「北」、そうした日本、 そうした自分のありようが嫌でたまらないと思ったあの衝撃に。