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ハロハロの記 第四回

 

7.支援について (2)

 前回は、「参加型」開発について考える際の前提的な問題として、日本人あるいは「北」の人間の関わり方、あるいは「日本人の価値観とフィリピン人の価値観との関係」について宿題を出して終わった。

 つまり、<ペレーズの人たちが問題だと思っていないにもかかわらず日本人の目から見て「問題」だと思えることを、日本人は外から持ち込んで「問題」を人為的に顕在化させてはならない> という主張、さらに、<フィリピンのことはフィリピン人の手で解決すべきであり、外国人は援助はしても(あるいは、できても)主体となってはならない(あるいは、なることはできない)> というより一般化された主張に対し、どのように考えるべきかという問いである。

 今回は、この問題について考えてみようと思う。

 フィリピン現地でプロジェクトを行なっていると、文化や価値観の違いに起因するトラブルや衝突は大きなものから小さなものまで日常茶飯事である。 ACCEもこうした問題にぶつかってきているが、いくつか特徴的なものを紹介しよう。

 次に引用するのは、「となりのアジア」69号(2003年4月)に掲載された永井伸子さんのレポートである。永井さんはフェアトレードチームの一員で、 アラバット島ペレーズで行われている手芸品協同組合プログラム・マパヤパを支援する活動を行なっている。マパヤパがある「問題」を抱え、 もう一人のメンバーである伴野冴子さんとともにマパヤパと話し合いをもつために現地を訪問した時の報告である。

 (マパヤパが抱えた「問題」とは)マパヤパリーダーであるスーサンさん一人の独断で、誰をメンバーに入れるか、誰をやめさせるかを決めている事、 その結果スーサンさんの家族がマパヤパメンバーに入っていること。スーサンさんが誰に何個作ってもらうかを決めている事を知りました。 つまり、マパヤパの現状はリーダーに決定権があり、他のメンバーは指示待ち状態であるということでした。私たちフェアトレードチームは、 ペレーズの貧困を解決するための手段でフェアトレードを取り入れているのだから、まずマパヤパチームの決定事項は一人の独断ではなく、 全員が参加できるかたちで決めて欲しい、閉鎖的な組織ではなく様々な人が自分の意見を言い合える、地域に貢献できるような組織にしてほしいと思っています。 将来はマパヤパの利益を個人だけのものにするのではなく、地域に還元できるような組織になってほしいとも考えています。現状ではまだまだ利益も少なく、 時には材料費がカツカツであったりし、決して波に乗っているとは言えません。けれど、この現状のまま進むよりも、 日本サイドが考えているマパヤパの目的をしっかりと伝えて、マパヤパという組織を目的に向かって活動していけるしっかりした組織にする必要があるのではないかという事と、 きちんとした会則を決めて、メンバー全員で決定できる組織になってほしいと考え、それを伝えるためにフィリピンに向かいました。

 実際マパヤパの製作現場を見て、楽しそうにわいわい話しながら作業していて、良い感じを受けました。久しぶりにあうスーサンさんは、 現在妊娠中なのにもかかわらず懸命にココボタンを作っていました。生まれてくる子のためにも頑張って働くんだ! と同じくマパヤパメンバーであり夫のアントニーさんも話してくれました。けれど、同時に他のメンバーはどことなくスーザンさんに遠慮気味で、 話す中心も彼女であることを実感しました。また、FTTもACCEスタッフも知らないのに、スーサンさんの弟が作業に参加していたのを見て、 スーサン中心に組織が作られている!という現地からの情報も実感しました。このままスーサン一家がマパヤパを組織し、閉鎖的になってしまったら、 私たちFTTはこの家族のためだけに支援しているのだろうか…。そんなことも想像してしまいました。

 このような事を改善する為に、大塚さん、ACCEペレーズスタッフのマイリン、アーチとマパヤパメンバーとFTT伴野・永井で5時間にもわたる大会議が開かれました。 マパヤパの目的をFTTでも提案し、ACCEペレーズスタッフからも提案し、マパヤパメンバーと一緒に考えました。そして、マパヤパチームが自分たちだけでなく、 地域も考えていけるようなチームになってほしいという思いを伝えました。

 

 ――目的(Purpose of MAPAYAPA)――
 
マパヤパは、ACCEペレーズ・カリカサン・デベロップメントセンターと日本ACCEのFTTが組織し、支援協力しているペレーズ住民の手芸グループである。

  •  我々は、愛するペレーズの自然が与えてくれる材料と、ペレーズにあり、ペレーズが教えてくれた知恵と技術を持ち寄り、丈夫で美しく役に立つ手芸品を作り、 それを実現し、シンプルライフを実現したいと願う。

  •  私達が願うシンプルライフとは、充分な食べものがあり、必要な衣服と住む場所があり、子ども達に教育を与える事が出来、病にかかった時に薬があり、 家族が健康で平和であるような、そのような生活のことである。

  •  そのために我々は、より良い商品を開発し、高い統一された品質を保って生産し、FTTと我々の商品を正当な価格で買ってくれる人々の信頼と期待にこたえられるよう努力する。

  • 私達マパヤパは、マパヤパ会員のシンプルライフを実現するために、より貧しい隣人がシンプルライフを得られるように努力する。

 また、今まではっきりと決められていなかったマパヤパ会則も今回決められました。 これからはマパヤパメンバーとACCEペレーズスタッフが協力して会議を行い、 リーダー、会計、それぞれの補佐など役割をしっかり決め、運営される予定です。また、正会員と訓練生の区別もはっきり定義され、メンバーに入る基準も決められる予定です。

 

 

 ここで報告されている問題は、実は単に目的やルールが徹底していなかったとか、 実権を握ったリーダーが自己の利益のためにその権力を利用するという日本社会にも当たり前に見られる腐敗構造が発生したとかを示しているのではない。 この問題の背景にはフィリピン社会における家族の果たしている役割の問題が根深く存在している。

 フィリピンにおいて、西欧の近代的な個人主義が浸透しているかどうかにかんしては、興味深いテーマではあるけれどもここでは言及しない。 だが、家族の果たしている社会的な機能という点から言えば、例えば日本のそれとは明らかに異なる。それは社会保障という機能である。日本の場合、社会保障といえば、健康保険や年金といった公的社会保障制度や保険会社などが提供する各種の保険サービスが主流である。 病気や怪我をして日常の生活を営むことが困難になったとき、こうした社会保障制度に頼ることで突然の出費を賄ったり休業保障を受けたりして危機を回避することができる。

 ところが、フィリピンではこのような社会保障制度が発達していない。産業が未発展で中央政府の税収がそもそも少なく、 歳出も大きな部分が対外債務の返済に充てられるため、社会保障費に回せる額は非常に限られている。そうした中で、 民間の常雇用されている労働者や公務員を対象とした社会保障制度はあるが、都市スラムや農村の住民の大多数はそうした制度に加入することはできない。 その代わりに社会保障の機能を果たしているのが家族である。

 フィリピン人と日本人が結婚した場合、夫婦間によく発生する問題の一つが、フィリピンの家族への仕送りの問題である。日本人の場合、 家族の間の経済的な支援といえば親子の間ぐらいであり、せいぜい兄弟姉妹の範囲ではなかろうか。 ところが、フィリピンでは兄弟姉妹どころではなく「いとこ・はとこ」までが収入のある者・社会的な地位のある者に頼るのが当たりまえの社会である。 家族への仕送りについて、初めのうちは寛容な態度を取っていた日本人も、出費がかさむと「なぜそこまでしなければならないのか」と音を上げ始める。 他方フィリピン人の方は「家族を助けるのは当たり前で、それを嫌がるなんて、なんて冷たい人だ」ということになるケースをよく見聞きする。

 こうした家族を中心とした相互扶助の論理がさらに拡大されて、<家族>の外側に日本語で言うと<身内>といった感覚 (これに対応するタガログ語の概念および日本語訳を知らないので、とりあえずこう呼んでおく)の仲間意識が発生する。一端<身内>の関係が発生すると、 お金の貸し借り(借りた方は必ずしもお金を返さない一方で、恩義を受けたという意識は持ち続ける)やひいきをしてもらって当然という意識が生まれるのである。

 フィリピンの住民の大多数を占める貧しい人々は、こうした<家族>を核とするいわば社会のセーフティーネットを作り上げ、 いざとなったときそこに頼って生活をしている。これがなければ生きていけないのである。 こうしたいわば家族中心主義の文化は社会の底辺で生活している貧しい人々だけではなく、上層階級の人々も共有している。中央・地方を問わず、 フィリピン政府の汚職・腐敗構造はつとに有名であるが、ACCEフィリピンのスタッフに言わせると、 これも「国民の利益より自分の家族の利益を優先させる家族中心主義の結果」である。

 マパヤパに起きた問題が、単にルールの不備とか職権濫用の問題ならば、事は簡単である。ルールを改めて作るなり、 職権濫用を起こした人物にしかるべき処分を行なえば済む。だが、上で見て来たように、この問題が、 ペレーズの住民たちのような貧しい人たちが生き抜いていくために歴史的に形成されて来た家族中心主義という社会システムとそれに基づく価値観から生れたものとして捉えるならば、 マパヤパメンバーにとっては、不利益を被る人をも含めて、当たり前のこと・仕方のないことということになる。 それを日本人が外から「問題」だとするとき、問題は異なる文化・価値観の間の対立にこそあるということになる。

 そして、この時ACCEとフェアトレードチームは、家族中心主義的なマパヤパの組識運営を批判し、それとは異なる価値基準と組識運営の原則−「一部の家族のため」ではなく「より貧しい隣人がシンプルライフを得られるように」という目的と「リーダー、 会計、それぞれの補佐など役割をしっかり決め、運営」するという組識原則−を持ち込んだのである。

 こうした問題が発生したとき、取りうる態度は論理上次の三つが考えうる。 一つは、原理的にペレーズ現地の文化や価値観を尊重しなければならないという立場である。この場合、実践的にも現地の慣習的なやり方に任せることになる。 二つ目は、原理的にはペレーズの文化・価値観を否定し、それを長期的に変えていくことをめざすという立場に立つが、 短期的な実践としては種々の妥協を受け入れるという立場である。そして、三つ目は原理的にペレーズの文化・価値観を否定し、 実践的にも妥協しないという立場である。

 このように考えると、ACCEとフェアトレードチームがとった態度は二つ目と三つ目の中間ということになるだろう。 ペレーズ現地のやり方を批判し別のやり方を持ち込んでいるのだから、その意味では三番目の立場に近い。 原理的にペレーズ現地の文化や価値観をすべて尊重するという一番目の立場ではない。 また、実践的にも妥協することなく基本的にACCE=フェアトレードチームの言い分を通す結果になっているのだから、 他方、日本から訪問することも含めて現地で話し合いを持つ努力を行い、また家族中心の組織運営をしたからといってその当事者を処分するようなことはせず、 中心的なメンバーとしてなお認めている。さらに、同じような問題が形を変え今後も繰り返し起こりうると考え、 その度に同様の対応をしなければならないと認識しており、長期の課題として考えている点では完全に三番目の立場だとも言えないからである。 一般的に言って、この種の問題に対するACCEの態度を定式化すれば、二番目の立場ということになるだろう。

 こうした態度に対し、次のような疑問が生じうる。ペレーズの人々とは異なる社会背景と価値観を持つ日本人、 しかも「南」を支配・抑圧する「北」の一員としての日本人が、自らの価値観を持ち込みペレーズの住民の価値観を否定するというようなことを行なっても良いのか? 行なってよいとするなら、一体いかなる根拠に基づいて正当化されるのか?そうした行動はあってはならないことではないのだろうか?

 これらの疑問に答えるためには、原理的な問題として、私たちがペレーズ現地の文化や価値観を否定するということはどういうことなのか、 その意味を明らかにする必要がある。そのための手掛かりとして、これまで何度か言及して来た文化相対主義についてもう一度考えてみたい。

 文化相対主義とは、二つの異なる文化の間で、どちらが優れている・劣っているとか、どちらが進んでいる・遅れているとかではなく、 互いの文化や価値観の違いを認め、それぞれの生活のスタイルを認めようという考え方であった。そして、こうした考え方は、 西洋近代文明中心主義的な考え方に対する批判として、とりわけ私たち「北」の側の者たちにとって重要な問題提起となっていることを確認してきた。

 だが、日本の考え方や価値も一つのあり方、フィリピンの考え方や価値もまたしかり、 というこうした相対主義の立場からは、マパヤパに発生した「問題」のように二つの文化・二つの価値観がぶつかり合い、 しかも一つの実践方針を決めなければならない場面において、いかに判断し行動すべきなのかという基準は出てこない。 二つの異なる文化・価値を持つもの同士が共同のプロジェクトを実践していくためには、基盤となる一つの共通の価値が必要なのであり、 相対主義や複数主義では、価値観の対立は止揚され得ない。

 そうかと言って、私たちは、すでに歴史的にその限界が明らかになってきている西洋近代文明中心主義や、とりわけアジアの人々にとっては過去に、 そして残念ながら現在においてもなお支配的・抑圧的・差別的であり続けている日本中心の大国主義的態度・価値観を、私たちの活動の基盤に据えるわけにはいかない。

 他方、ペレーズの、あるいはフィリピンの家族中心主義といった伝統的な文化や価値を私たちの活動の基盤にすえることもまたできない。

 つまり、私たちは、出来合いの価値や文化の「優劣」を判断し、そのいずれか「優れた」ものに依拠することによっては問題を解決することはできない。 私たちに問われている問題は、<フィリピンの価値観対日本の価値観>という二項対立図式を乗り越えて、 フィリピン人と日本人との間の共通の基盤となる新しい価値を模索し生み出すことである。相対主義の積極的な役割を認めその意義を掬い上げながらも、 私たちはその先に進まなければならない。

 それでは、ACCEの活動が導きの糸とすべき、新たに生み出されるべき価値とはいったいどのようなものか。 それは、いわば「地球市民」によって共有されるべき価値とでも言うべきものでなければならないだろう。

 むろん、「地球市民」によって共有されるべき価値なるものが、ア・プリオリに存在しているわけではない。 それは、異なった文化を持つ市民同士が国境を越えて実際に共同の生活や共同の事業を行なう中で、自分とは違った価値観や文化とぶつかり、 たとえ時に衝突や対立に発展しようとも、なお相手との共同の生活や事業を大切にしたいと願う時、 相手の価値観や文化を鏡として自らの文化や価値観の特殊性や民族性に気付き、相対化したうえで、初めて新たに創り出されるものだろう。

 上で紹介した「マパヤパの目的」は次のように述べている。「私達マパヤパは、マパヤパ会員のシンプルライフを実現するために、 より貧しい隣人がシンプルライフを得られるように努力する。」

 ここに示されているのは、明らかにフィリピンの伝統的な、家族中心主義的な価値観とは異なる、あらたなコミュニティー観である。 (むろん、価値観だけの押し付けは力を持たない。マパヤパの活動をはじめとする様々なプログラムを通じて、 家族中心主義でなくても生活していける物質的基盤を地域コミュニティーをベースに形成していくことが必要である。 と同時に、この新たなコミュニティー観に立つことが、貧困問題の真の解決の道が開くための必要条件なのであって、 家族中心主義からは現状維持以上のものは何も生まれない。これについては、次回もう一度触れる。)

 そしてまた、海を越え国境を越えて「より貧しい隣人」を想定するとき、私たち日本人にとっても、 なによりACCEの会員である私たちにとっても共有しうる価値観ではないだろうか。つくりだされ、 共有されるべき価値観とは、このようなグローバルな価値観であろう。

 このように考えてくると、私たちがペレーズ現地の文化や価値観を否定するということの意味が明らかになってくる。 それは、決して日本人の価値観や文化を基準として、それをア・プリオリに正しいものとして、フィリピン人の価値観や文化を裁断することではない。 それは、生み出され、実現されるべき「地球市民」の価値観や文化を基準に、より良い明日を作り出すために批判を行なうということでなければならない。 そしてその批判は、私たち日本人の価値観や文化に対しても同じように向けられることになるだろう。その時、私たちは、 生活する中で無意識的に身につけてきた日本人としての価値観と、新たに創造されるべき「地球市民」としての価値観とを二重に身につけたものとして活動することになる。

 それでは、このような「地球市民」の価値観とは、いったいどのような内容を持ったものであるべきなのか。この問いに全て答えることはもちろんできない。 それは、ACCEも含め、全世界で進行中の、そして今後ますます拡大するであろう異文化間の共同事業・共同生活のなかで、ますます豊富に、 時に悲劇的な結果をも伴いながら、生み出されるべきものであるからだ。

 とはいえ、ACCEにもそのわずかな経験からでも抽出しうると思えるものがある。次回、引き続きペレーズでの経験を紹介しながらこの問題について考えてみたい。