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ハロハロの記 第五回

8.支援について (3)

 前回は、ペレーズで行なっているマパヤパ(手工芸品作製協同組合)の経験をもとに、新たに創出されるべき「地球市民」としての価値に基づいて活動を行なうべきことを述べた。 今回もペレーズでぶつかった問題を素材に、それでは「地球市民」としての価値とはどのような内容を持ったものであるべきなのかについて考えてみたい。そもそもマパヤパ・プログラムは、3年前に当時立命館大学の学生であった廣瀬昌代さんと田中雅規君(お二人は現在就職しながらACCEの理事を務めてくれている)が企画し、 6ヶ月間現地に滞在して立ち上げてくれたプログラムである。 二人は、自分たちの経験を「フィリピン・アラバット島ペレーズ村奮戦記」としてとても興味深くまとめてくれているが、 その中で次のような問題にぶつかったことが報告されている。ある日、二人はACCEが運営している就学前児童の教育施設(デイケアセンター)での工事作業に参加した。

 <スコップの数に限りがあったため、私達日本人組(といっても二人)は交代でスコップを使うことにし、最初にフィリピン人の10倍ほどの勢いで掘っていた田中に交代して廣瀬が作業に取り掛かりました。廣瀬はもともと、大きなスコップで土を掘ったり、金づちで釘を打ってモノをつくるようなことが好きだったので、今回も何の抵抗もなく、ガツガツ働いてみせるという自信はありました。そんな彼女が楽しそうに作業を始めた時です。 「やめろー!」と言う声が聞こえてきました。  ACCEのペレーズ地域の共同発起人でもあるデルモロ氏の声でした。 「女性は家にいなさい。一緒に作業をしていると自分達が恥ずかしい。」 「マサヨ、あなたは女性だ、だから家にいるべきだ。」廣瀬は困惑しながら 「好きでやりたいからやっているだけ。なかなかの働きぶりやろ?」と返答。 しかしそれでもデルモロ氏は執拗に作業を止める様に繰り返したのでした。  そのうち、デルモロ氏の妻のニーダ氏も加わり、「今すぐやめろ」と声を荒げてきました。 次第に苛立ちを見せ始めた廣瀬はムッとしながらも、フィリピン人は人前では怒らないという習性を思い出し、ここは忍の一字でぐっと我慢。そのうち休憩時間がやってきました。>

 休憩時間中に、廣瀬・田中・デルモロの三氏は議論を始めた。

 <彼女の言い分は、自分はやりたいからやっただけの話で、 単に女性だからという理由で作業に参加するなと言うのは非常に腑に落ちない。 この世の中にはこうした労働が好きな女性も入れば嫌いな男性もいる。また力の弱い男性や力の強い女性もいる。 そうした中で一概に「女性」だから家に居ろというのはおかしい、という主旨のものでした。一方デルモロ氏は、 ここでは伝統的に男性が作業し、女性はしない。また、もし廣瀬が怪我でもしたらと思い、 デルモロ氏の立場(現地代表者)からして止めるべきだと思ったとのことでした。> <徐々に浮かび上がってきたポイントは次のようなものでした。もともとペレーズでは伝統的に性差による仕事の分担がはっきりとしており、 男は外で力仕事、女は家庭で料理や洗濯、育児をする、 (しかし生活の中で最も重労働と思われる水汲みの大半は女性や子供が担っているのだが…) という習慣が根強く存在し、そしてそれは当然の日常として受け入れられている、ということでした。 また廣瀬としても女性が男性と同じことをしなければならないといっているのではなく、 近年の研究によると女性と男性は体のつくりから脳のつくりまで一般的に違っているというのは事実として明らかになっている。 だがその違いを上回る違いとして個性がある。それにそもそもその性差による違いが社会的な活動に対して拘束力を持つのかというのは甚だ疑問である。 そして彼女が最も言いたかったのは、男だから女だからなどといわず、自然体でやりたいと思うことを、自己責任において、 楽しくやればいいではないか。。そしてそれを止めることなど誰にもできないということでした。  だがしかし、私達からするとこれほどまで強くこの地域に性差による区別が強くあるとは思っていなかったので、 正直驚きました。そして気を付けなければならないとも思いました。 というのも、あまり私達が私達の考え方でやりすぎるとこの地域で受け入れられない可能性があったからです。 というのも、今回の様なことをしすぎると、例えば娘を持つ親がその娘を私達から遠ざける可能性(要は教育上良く無いという事)があったからです。 プロジェクトの事もあったので、やはりそこは慎重にならざるを得ませんでした。それと同時にこの問題は個人的な問題では無く、 地域全体の認識であり、根が深く難しいと感じました。  少し話は飛躍しますが、興味深いのはここフィリピンでは性差による役割の区別以上に階級による役割の区別が進んでいます。 御存じの様にフィリピンの大統領が女性だったり、ペレーズの市長(村長?)が女性だったりし、 ある意味(男女による役割の区分)では日本よりも進んでいると言えるかも知れません。 しかし、それはあくまで階級による力の差が強いからであり、生活全般の中ではやはり女性の発言権は小さすぎると感じます。  さて、話し合いに戻ると、最終的にお互い相手を理解できたかというと、そうはなってはいないと思います。 しかしながらお互いに考え方が違うということははっきりと認識しました。 話し合いの最後には廣瀬とデルモロ氏は笑顔?でお互い握手してわかれることができました。  こうしたことを通してまた一つ私達はペレーズのことを理解していくのでした。>

 本当は、もっとユーモラスな表現がちりばめられて愉快な文章なのだが、紙幅の関係上要点だけを抜き出したので、 原文のニュアンスを十分に伝えられないのが残念である。日本人がフィリピン現地においてプロジェクトに携わることの難しさ、 面白さがよく伝わってくる文章なので、関心をお持ちの方はぜひお読みいただきたい。  さて、二人がぶつかったこの出来事を、私たちはどのように理解したらよいだろうか。  この出来事を最初に聞いたとき、私は「基本的人権」という概念の両義性を思い起こした。  「基本的人権」という概念は西洋近代が生み出したものであり、その意味で特殊な概念であって、現在でも世界中で普遍的に受け入れられているわけではない。 そうした特殊な概念をアプリオリに普遍的価値を持つものとして上から強制するとき、米国が展開している「人権外交」のように、それは胡散臭い強者の論理となってしまう。米国による「人権外交」と呼ばれるものは、米国内において曲がりなりにも認められている「国家に保障された、国民の法的権利としての人権」を根拠として、他国の政治・法制度のレベルにおける「人権」の不在を断罪し、時には軍事力を用いて政治・法制度そのものを転覆し、「民主主義的な」国家にとって代えようというものである(最近のアフガニスタンやイラクでの戦争がそうである)。 その胡散臭さは、第一に、ある国の住民達が、「国民の法的権利としての人権」を国家に保障されずその国の政府に抑圧されている場合、その政府に抵抗し、政府を倒し、「民主主義的な」政府を樹立しなければならないのは、それらの住民自身であって、決して米国政府ではないということにある。 第二に、「人権」という概念が指し示す内容は、決して「国民の法的権利としての人権」にとどまるものではない。 それは日常生活の中で、人と人との関係の中で日々生み出され、尊重されるべきものである。 「人権外交」の胡散臭さは、一方でこうした社会生活の中で現れる第三世界の貧困(これ自体が人権の抑圧である)やその他の人権抑圧といった諸問題の多くが、 南北関係の中で、米国を始めとする「北」の諸国自身が生み出しその再生産構造を支えているにもかかわらず、 さらにまた自国住民内に多数の貧困・差別・人権抑圧に苦しむ人々が存在しているにもかかわらず、臆面も無く、声高に「人権」を語り、「正義」を語り、 他国の「人権抑圧」を糾弾することの欺瞞性にある。もし、廣瀬さんが、「基本的人権」のアプリオリな正当性に依拠して、「同じ女」としてペレーズの女たちを代弁する形で、ペレーズのジェンダーのありようの「後進性」「封建性」を批判していたら、こうした米国の「人権外交」と同様の論理の罠に陥ったかもしれない。すなわち、ペレーズの女たちによって次のような批判、<私たちが抱えている人権問題は、「性差による仕事の区別によりやりたいことができない」といった問題以上に、収入を得る道が無いこと、食えないこと、子どもたちに教育を受けさせられないこと、最低限の医療を受けられないこと、等々という問題であり、そうした問題を生み出している原因は、日本を始めとする北の諸国による搾取にこそあるのだ>というような批判を受けたかもしれない。だが、「基本的人権」という概念は、上で見たような特殊西洋的な概念であるという側面にとどまらず、より普遍的な、「地球市民」が共有すべき内容を内包している。 「基本的人権」は、政治的・社会的に抑圧されている人々と直接に結びつくとき、歴史上偉大な役割を果たして来たこともまた紛れも無い事実なのである。 「全ての人は生まれながらに自由で平等である権利を有する」という思想は、封建制度を打ち倒したフランス革命のように、 政治的・社会的に抑圧されている状態にある人々を励まし、抑圧を生み出している政治や社会の制度を変革しようとする行動を支えて来たのである。  廣瀬さんの抗議は、自分自身への抑圧的言動に対する自分自身による抵抗であるがゆえに、結果として、同じ抑圧の中に置かれているペレーズの女たちにも届き、 共感を呼び覚ます可能性を持つメッセージとなりうる行動であると言える。この問題について当時ACCEは次のような結論を出した。
@男女の役割についてペレーズの伝統的な考え方があることを認識し、それを認める。
Aしかし、いろいろな場面を捉えて、おかしいと言い続けるべきである。
Bこの問題が「解決」するためには長い時間がかかる。  相手の考えを全面的に受け入れるのではなく批判は続け、また私たちの考えと違うからといって関係を断絶したり敵対的なものにしてしまうのでもなく、 時間をかけて語りかけ続けようという立場である。

 廣瀬さんたちが直面した出来事の背景には、女性の役割に関するペレーズの人々の考え方があり、 さらにその背景には「生活全般の中ではやはり女性の発言権は小さすぎる」という指摘にあるような女性たちの抑圧された現実がある。  そうであるならば、私たちは、「基本的人権」という概念をアプリオリに正しいものとして押し付けることなく、 かといって「女性は家にいるべきだという」ペレーズの考え方を無批判に受け入れるのでもなく、ペレーズの人々に対し、 一人の抑圧に抵抗する者として、そして南北間の抑圧的な関係の変革を望む者として、抑圧された者の抵抗の思想について、 「人権」について、語り掛けていくべきなのではなかろうか。そして「女性の発言権が小さすぎる」現実がある限り、 こうした語り掛けに対して肯定的に反応する人たち、女性たちが、どんなに時間がかかろうともきっと出てくるにちがいない。