なつかしの鍛冶屋線
昭和57年に私は鍛冶屋線存続運動にともなって描いた7つの駅の風景のことで
「わたしの鍛冶屋線」と題して20部ほどの画文集をごく近親に配りました。そのときの
文をそれぞれにつけて、あわせて今この風景のところがどうなっているのか述べて
みようと思います。

野村駅の次ぎに市原駅を描いていたころ、(s56-3)西脇の観光協会が市内の鉄道の駅の繪葉書コンクールを企画した。で、私もその2点を応募してみた私は仕事柄ファッションコンペにもよくスタイル画を出すのでB4のケント紙を多く持っていた。で、それに駅の繪も描いていた。駅の応募規定には四つ切りとなっていたのを簡単に勘違いして応募した
が、やはり見事 規定外で失格となった。
それで私は中町も含めて鍛冶屋線七駅を独
自で完成させて自分で繪はがきを作ってみよう
と、ぼつぼつスケッチをすすめていた。
 年末の忙しい季、中町役場から打診があった。57年の年賀状に鍛冶屋線のPRもかねて駅の繪をカットにあしらいたいとのことだった。ほぼ完成に近い中村町の繪を検討してもらって採用となった。私が葉書を作るよりも先に中村町駅の繪は縮尺され町の年賀状のカットになって、ひとりあるきしていった
 あとは羽安と鍛冶屋など、、、と思ってそれとなく駅舎を観察したが、なんと中村町駅と似た様子だろうと思った。多分、ローカル線の駅舎の建てられた頃に、駅の格というか規模というかで、一定の規格があったのだろうと思う。S57-7-10

中村町駅のあとは周知のことですが今現在、あかね坂

公園となっています。線路あとも中町中学校の前から

羽安のアカ山のはずれまで歩道つきの2車線の道路に

なり様相は一変してしまいました。この繪のアングルから

は茂利の西バイパスへのびる道路がゆるやかに上り坂

で、夕茜を望み観る「あかね坂」となった訳です
中村町駅はもうひとつ別のアングルの繪が私にはあります。中村町地区の西区といっている公団の
南棟東端の4階踊り場より眺めみた風景です。鍛冶屋線50周年の時の「やまなみ」の表紙絵になっ
たのだった・・・とたしか記憶しています。
  
だ妙見
現在は写真のようにあかね坂公園のおおきな交差点になっています。日赤病院や、煙突が
むかしながらの位置に変わらぬ姿を見せています。若い頃、祭りや、宴席などで「中町の整理
工場の煙突は太くて長くてシャンとして吹き出す煙はマックロケノケ・・・」とすこし卑猥な替え歌
を高歌放吟したものでした。その工場もいまはH工場とオーナーも変わっています。妙見山はこの
風景の移り変わりをじっと観ていたのでしょうか・・・・・

鍛冶屋線七駅を描くのに羽安駅が最も遅くなってしまった。何度もアングルを工夫したが、いつ見に行っても羽安駅の、そのあまりにささやかなたたずまいにつくづく繪にするむつかしさを感じてつい最後になってしまった。当初、駅前の方からみて背後に武嶋山を入れようかと思ったそうしているう内に、当初、野村駅を描き始めてから一年余の今春の桜の季となった。私もかって鍛冶屋線で通勤したことがある。その日々 春になると羽安駅の東彼方にある墓地の大樹の桜が停車中 眺め観る眼になんともうららか映ったものだ。そうだ、桜の枝ごしに駅を眺めようとある日、無人の羽安駅のホームから田園へ降りたって、スケッチしてみた。
 この駅は、羽安町のみならず、中町の三安田の人々も乗降する。駅前の空き地は自転車が三々五々置いてある。オレンジ朱色のジーゼルカーが入ってくる。それも描こうとしたが、停車中のほんの数刻では果たせず、その部分は西脇駅の引き込み線に停まっているものを改めてスケッチしに行った。そうするとジーゼルカーの車輌は右サイドと左サイドで窓や扉の位置、形が違うことが解り興味深かった。
 ホームの人をジーゼルカーが運び去った後、桜はしきりに花吹雪していた。
   S57-7-10S57-7-10記
羽安駅の駅舎をおもわすものは、いまはもうまったくあとをとどめて

いません。駅跡は小公園になってモダンな屋根つきの休憩ベンチが

並んでいます。アカ山のはずれから日野大橋までは線路あとも遊歩

道に整備されて歩行者以外は通学の高校生が自転車で行き交うの

みです。墓地の桜も幾星霜の時のうつろいを眺めてきて老木になり、

繪のようなたっぷりの花をこころなしかつけなくなったように思います。

駅のほとりの大将軍神社の白肥後椿だけがますます多く花をつけていました。
しまったしまった。

日野の中根石油店から春日橋まで土手道が舗装されてからなんだかここが最短距離のような気がして気持ちの急いでいるときよくここを走って西脇へ出る。そうすると日野染工のあたりから眺める市原駅が、川、ブロック積みの堤、鉄路、田園、出会町へぬける山路のみえる山なみ・・という横平行の構図のなかに妙に絵画的に整って見えて繪ごころを誘う。
 最近、この駅の近くに住まわれる吉田太郎先生の一文から識ったことだが、鍛冶屋線がかってひかれるとき、地元の篤志家bが私財を投じて駅舎を建てられたのだという。当時の進取の気風が市原駅のどこかハイカラな雰囲気につながっているのだ。なんでもレールも西脇駅から市原駅までは継ぎ目までが長い舶来をとりよせ敷設されたそうでその間は揺れが少ないそうだ。
 初夏のある日 繪とは反対側の表入り口から眺めてみた。待合室の天井は蜘蛛の巣が残っていてわびしく事務室の内側から白いカーテンが下がっていて、建物の無人とはどうしてこう荒れるのだろう。つい先日変わった運賃表がその中で真新しかった。
S57-7-10記
市原駅は鍛冶屋線廃止あと解体移築されました。この風景のすこし

南西に動かされ、その北側にジーゼル車輌も設置されて鍛冶屋線7駅

のなかで唯一、このあたりが往時の面影を伝えるところです。駅舎も、

ミニ博物館で鍛冶屋線当時の写真や、駅員の制服、表示板、運賃表

などなど、往時の資料が展示されています。管理人のおじさんがこつ
こつと木彫りにいそしんでおられました。
だか

私の家の近くの菓匠、戎屋さんから絵葉書のはなしがかかった。まだ鍛冶屋と羽安が完成していないこの春先のことだ。戎屋さんの若当主の園崎
弘明氏の発案で、なんでもこのたび「ふるさと鍛冶屋線」という切符の形を模したモナカを製造発売しそれに駅を描いた絵葉書をサービスに添えて
ふるさとの懐かしさを方々へ届け、あわせて鍛冶屋線キャンペーンに一役買われるらしい。で、その駅の繪を・・という訳ではやばやと絵葉書が実現しそうで、有り難いことと思い、早速出来上がっていた五枚を届けた。
 絵葉書が出来てモナカに添えて配られるようになると「ふるさと鍛冶屋線」なのに肝心の鍛冶屋駅がないのは・・・という声がでてきてとのことで
私は慌てた。鍛冶屋駅も駅前からみると中村町駅と変わらぬ形だし思い切ってプラットホームの方から見ようと今度は少し仕事を放り出して二日半ほど通った。ホームに人があふれているときは恥ずかしいので昼間の汽車の本数の少ない時をねらってスケッチしたが、なじみの駅員さんがけげんそうな顔をして見られた。全然人のいないホームも淋しいのでスタイル画の要領で人物を添えた。と、絵葉書をルーペでみた人から「鍛冶屋駅は多可高生が乗降するので中学のセーラー服はおかしいよ」といわれギャフン。ここのところオオ・ミスティックである。とまれそれぞれの駅を描いておもうこと、鍛冶屋線、活きているということだ。
 S57−7−10記 
鍛冶屋駅あとは建物もリニューアルされて集会所として再利用されています。私達もなにかと集会に集います。この駅あとは敷地がひろく、北側の県道に出るまでの道路周辺がゆったりとした公園で町木のケヤキのいい林ができています。

ここの線路あとから中町中学校までが遊歩道に整備されて「ポッポの道」と命名されて町民のウオーキングに愛用されています。繪葉書のアングルからは記念物のジーゼルカーがとまっていて駅舎は屋根しか見えませんでした。
S57.7.10そmぉく存

西脇駅を描こうと思っていろいろアングルを探したが、見るほどになんと平ぺったい駅だろうと思う。
結局、駅前のククポーレの二階の喫茶室から俯瞰することにした。コーヒー一杯でペンを進めていても時間のかかることおびただしいので落ち着かない。写真を撮って家で仕上げようと思ったが建物の陰の暗部などやはり肉眼で見ないとごまかしになる。またしてもコーヒー一杯でねばる。と、そうしていても今度は商用で忙しい日常のこと、留守宅では用事が起こっていないだろうかと気になりだし匆々とひきあげる。
 こんな具合に私の繪はこまかな時間の集積だ。
だいぶ出来上がってからロータリーの手前の石畳が大きく空いてしまったので、ジーゼルカーの当面の敵であるマイカーを描いてしまって、一寸複雑な気持ちになっている。   S57−7−10記




西脇駅のあとほどおおきく様変わりしたところはないでしょう。この繪のアングルでは、いまでは眼のしたに三井住友銀行西脇支店がみえ、その階屋はアピカマンションがそびえ、西方彼方にのびる道路をはさんで西脇ロイヤルホテルが偉容を見せています。昔日のおもかげはまったく在りません。高田井町の山並みのみがかわらない光景です。


「錆色の遠近法に鉄路みゆ踏切を越す右一瞥に」という短歌を以前、詠んだことがある。鍛冶屋線が羽安駅をすぎ、アカ山をまわって中町盆地にさしかかり西方の笠形山をめざすようにしばし一直線に走る。丁度、そのはじまりあたりに曽我井駅がある。羽安・市原のようにかっては人のいた無人駅とは違って、ここは当初より無人が前提で出来た駅なので、電話ボックスとプラットホームのベンチとその上のスレートの屋根とが桜木の繁みの中にあっけらかんと在る。
 駅のすぐ東側に繪のように踏み切りがある。ここを南へ過ぎるとき、右西方が「錆色の遠近法」にみえるのだ。
 田園が緑になっても黄金色になっても鉄路は年中錆色・・・ただレールのみ銀色に光って空をうつしている。    S57−7−10記



曽我井駅のあとはおおきくかわりました。プラットホームは跡形もなくなり歩道付きの二車線の道路に様変わりしています。この踏切もまっすぐには通らずクワムラハム側から出てきてすこし新道を東進して曽我井徳部野峠の方角に曲がるようになっています。鉄路の錆色の遠近法と違って、アスファルトの遠近法でしょうか・・・・かなたの笠形山の稜線が変わらぬ姿です。


国鉄は昨年、五十余にわたる赤字ローカル線の廃止を答申した。私の住む中町を走る鍛冶屋線もご多分にもれず赤字線だが、廃止反対の必死の努力が効をを奏したか、九州の某線とともに只 二線、第一次答申から除外された
反対運動にたずさわった我々は愁眉をしばし開いたが、まだまだ六十年一日四千人の達成目標の壁が控えている。
 日頃、商用に車を用いることの多い私は罪滅ぼしもかねて私なりの存続キャンペーンとして鍛冶屋線の駅を描いてみようと思い立ち早春の野村駅をまず写生にでかけた。加古川線を北上すると西脇市に入って初めての駅が野村駅である。この駅の北東で杉原川と加古川が合流しているが、丁度、この二つの川に平行して福知山線の谷川へ連なる本線と、中町鍛冶屋へむかう鍛冶屋線がこの野村駅から分かれる。そういう訳でこの駅には乗り換えのための陸橋がある。無機的な水が下をゆく橋とちがって、陸橋は描くほどにみつめているとなんだか人生の交錯が匂ってくる・・と思うのは私の深読みだろうか。    S57−7−10記


野村駅は西脇市駅とただいまは改名されています。鍛冶屋線が廃止されて、どこにも西脇の名が残らないのは忍びないし、加古川線全体からのイメージでも西脇の位置をはっきりさせたい意図もはたらいたのでしょう。バスターミナルも駅の西側におおきく設置されました。鍛冶屋線に乗り換える為の陸橋でしたからいまはもう用はないと思うのですが、まだ陸橋はそのままで鍛冶屋線7駅のなか、風景のほぼ変わらないのはここだけですね。駅の南に踏み切りがありますが、そこを渡るとき振り向くと今もこの光景です。
冶鍛冶
 
菓匠 戎屋さんはいまも絵葉書をきっぷモナカに添えて「なつかしの鍛冶屋線」として販売なさっています。酒米として名高い  「山田錦」の名前を冠した酒饅頭も有名でそのPRにと封筒の裏側には私の山田錦の稲穂の繪があしらってあります。