チャイコフスキー ピアノ協奏曲 第1番
| マエストロ・ヴィルコミルスキーからファックスが来たのは帰国後、引っ越しの後かたづけに精を出している頃でした。(1997年7月)「私達はあなたの素晴らしい(splended)演奏が忘れられない。来年ぜひソリストとして招聘したいが来てもらえるだろうか?滞在ホテルはこちらが用意するが演奏料は800ズローチしか払えないので遠くから呼ぶのは大変申し訳ないと思っているのだが・・・」とありました。800ズローチと言えばポーランドでは大金です。その頃ポーランド人の平均月収が1000ズローチとか聞いていましたから、とてもありがたい申し出だと思いました。でも貨幣価値に差があるので日本円にすると3万円くらいにしかなりません。航空運賃を考えたら当然大変な赤字です。 でも私は嬉しかった!行きたかった!格安航空券なら10万円位で手に入るし、なんとしてでも行こうと思いました。しかし、いつ?何の曲を弾くの?と具体的相談に入ると、お金の事はさておきもっと心配な問題が持ち上がります。オーケストラからの依頼は「チャイコフスキーのピアノ協奏曲1番を来年の5月に」というものでしたが、それまでの私のペースだとこんな一度も弾いた事ない大曲、譜読みするだけでも2年くらいかかります。おまけに楽譜さえ持っていませんでした。まず楽譜を買って、CDを聴くと、(それも私が弾くのだ!と思って聴きました)・・・・無理かもしれない・・手も体も小さい私が大編成の金管鳴りまくりのこんな大曲、ピアノの音がオケの音に埋もれてしまうに違いないし、だいいち10ヶ月弱でさらえるのか?・・・と不安ばかりがつのってきました。しかし迷いに迷った後、ついに不安よりもやりたい気持ちが勝つのです。 もうそれからの私は何かにとりつかれたかのように1日8時間、さすがに腕がだるくなるまで練習しました。何度も、ダメだ!やっぱり弾けない!と落ち込んでは又ゆっくりゆっくりさらいなおす事を繰り返す毎日。すると本番の1ヶ月位前、ある日突然ウソみたいに急に弾けるようになったのです。峠を越えたという感じで、気がつくと音の張りも切れも以前の私とは別人のようにしっかりしたものになっていました。今思えば、プロのピアニストとして活動するための気力、体力、テクニックを思い切り鍛えた時期だったと思います。 かくして私はあのかっこいい出だしで有名な45分の大曲、チャイコフスキーピアノ協奏曲1番を携えて2度目のポーランドへ向かいます。今回はマスタープレイヤーズコンクールの後ろ盾もなく、たった一人ソリストとして招聘され、すべて自分で手配しなければなりませんでした。もちろん空港への出迎えもなく、まずはオーケストラの待つ町にたどり着くまでの苦労話から聞いて下さい。 その頃私は大学でピアノを教えていました。昨年もコンクール審査員やデビューコンサートで無理を言って休ませてもらったので、今年はぎりぎりまで補講をして1週間だけお休みすればいいように準備を進めたのですが、あまりの忙しさで私の体調は直前になって最悪になっていました。出発の前日、授業を終えて帰宅するとのどが痛くて熱が出る始末です。お医者様に事情を話してお薬を余分にいただき飛行機に乗り込んだのですが、こんな時に限って隣の席はとってもうるさいオヤジ!(ごめんなさい、ため口をきいてしまいました。)靴下まで脱いで足を前の席の背もたれに投げ出して私の出入りをさせてくれません。そしてスチュワーデスさんが通るたびにねえちゃん!ねえちゃん!と大声でからんでいます。 あぁぁぁ・・しんど〜・・・ルフトハンザの格安航空券でフランクフルト経由でベルリンへ、ベルリンで1泊して次の日列車でポーランドに入る旅程でしたが、(空路でワルシャワ経由で行くよりかなり節約できましたので)しょっぱなからこのしんどさでは無事に着けるのかと、先の長い旅を思ってげんなりしたのを思い出します。 ベルリンのホテルで爆睡して少し気分は回復したものの、次の日の列車の旅はそれはもう大変なものでした。東欧行きの国際列車は旧東ベルリンの古い駅から出発するのですが、当時はまだベルリンの壁崩壊後の混乱が残っており、ネオナチのような独特の髪型と服装で眼光鋭い若物の集団が駅周辺にたむろしていました。彼らは外国人排斥の感情が強く、いやがらせに合う事もあると話に聞いていましたので、ひたすら目を合わさないようにさっさと歩いてやり過ごしたものの、おかげでホームを間違えてしまいます。重い荷物を持って何度も階段を上がったり降りたり、泣きそうになりながらやっとホームにたどり着くと5月だというのに雪が降っているではありませんか。おまけに列車は遅れて来て、寒いホームで1時間も待たなければならず、泣きっ面に蜂でした。 やっと列車に乗り込んでポーランドへ向かう車窓からは決して豊かとは言えない旧共産圏の風景が目に飛び込んできました。何だか自分がここにいる事、ポーランドのオーケストラが私を待っていてくれる事、すべてが不思議に感慨深く、今でもその時の景色や心情は忘れる事ができません。しかし旅の感傷にひたるのも束の間でした。ポーランドの古いローカル列車はアナウンスもなく、駅も駅名が書いてなかったりして、いったいどこで降りたらいいのかさえ不安でたまりませんでした。おまけに列車のドアは自分で開けるのですが(ヨーロッパの列車はほとんど乗客が自分で開閉します)ものすごく固そうで、みんな足で蹴り飛ばして開けています。あ〜ん!どうしよう・・・こうなったらどこをどうやって蹴ったら一番簡単に開くか研究しようと、扉の前に陣取って、降りる人がドアを蹴るのを観察しました。いざその時が来てさあ〜蹴るぞ〜と構えたら、横から頑強そうな男の人がガーンと一蹴り。 (ほっと一息!でもちょっと蹴りたかったなぁ・・・・) ホテルは駅から歩いて5分、やっとたどり着いた私はもうふらふらになっていて、部屋に入るなり泥のように眠ったのはいうまでもありません。もう熱もせきもどこかにふっとんでしまっていました。 次の日(月曜日)1年ぶりになつかしいオーケストラと再会です。マエストロは笑顔で出迎えてくれましたが忙しいらしく、打ち合わせもそこそこに練習スケジュールを告げて行ってしまいます。オケ合わせは水曜日からなので、それまでは広いホールでたったひとりピアノの音を愛しむかのように味わいながらしあげの練習をしました。 いよいよオケ合わせの日が来ました。録音してみると、ピアノの音がぶ厚いオケの音を突き破って響き渡っています。大丈夫、充分聞こえる。それにマエストロは1回目から「お前の演奏にはラインがあるので何の問題もなく合わせる事ができる」と上機嫌です。私は本当にほっとしました。来て良かった。がんばろう! ところが本番(金曜日)というのは何が起こるかわかりませんよね。私は1カ所、オーケストラにテーマを移すつなぎの箇所で1小節間違えてしまいます。すぐに気づいて戻そうとしたのですが手が言う事を聞いてくれません。なむさん!こうなればずれたまま突っ切って次のテーマの前で待って合わせてもらうしかないと思い、ひたすら合図を送りました。コンサートマスターがいち早く気づいてくれてオケはほとんど私にあわせてくれたのですが、マエストロには気づいてもらえず、結果指揮者の空振り状態。ひぇ〜〜ごめんなさい!まあよくある事らしいですけど肝が冷えたに違いありません。(特別大公開、その箇所をビデオでどうぞ・・・最初から2〜3分の一番かっこいいところです)結局この失敗で開き直った私は、ジャネット・リン(フィギアスケートでしりもちをついた後ニコッと笑ってまたさわやかにすべった事で有名になった)のようにニコッと笑って全楽章絶好調で弾きまくりました。 おまけにアンコールで弾いたヒナステラのアルゼンチンダンスが大受けで、これを聴いたマエストロは「お前にはハチャトゥリアンのピアノ協奏曲がぴったりだと思う」と言って、私の失敗もとがめず、次年度の招聘も約束してくれたのです。 ところが、その後マエストロ・ヴィルコミルスキーも心臓発作でたおれてしまいます。(もしかして私の失敗のせい???)しかしオーケストラをはじめ皆の祈りが通じたのか手術が大成功し、マエストロは見事に復活を遂げるのです。私もその後、ラフマニノフ2番、プロコフィエフ3番、ラヴェルと共演を重ねる事ができたのですが、本当に奇跡の幸運としか思えません。 マエストロ・ヴィルコミルスキーには言葉では言い尽くせぬほど様々な事を教えてもらいました。第2次世界大戦の中を音楽家として生き抜き、その後のソビエト連邦支配下の時代にオーケストラを立ち上げ、今ポーランドに押し寄せる資本主義化の波の中で、質の高いオーケストラを守り続けているその生き様には感動すら覚えます。レコードでしか聴いた事のない往年の名プレイヤーとの共演話を聞かせてもらったり、プロコフィエフとスターリンの話や、果ては今の世界情勢にいたるまで、激動の時代に指揮者として世界中を回った彼の話は私にとってとてもわくわくする興味深いものです。私はいつも、そんなマエストロの人生をとてもいとおしく思い、そのタクトにあわせて音楽を作れる幸運にどんなに感謝しているかしれません。来年2006年80才を機にリタイアーすると聞かされ、残念でたまらないのですが、最後にヒナステラのピアノ協奏曲1番を共演する約束をしてもらいました。きっと私の人生で一番の宝物になると思って、練習しようと思っています。 |
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| マエストロ・ヴィルコミルスキーと 2005年5月27日 |
ちなみにこのチャイコフスキー共演の次の年(1999年)、ハチャトゥリアンピアノ協奏曲を弾くのですが、マエストロが病後すぐだったため、ポーランドの若手有望指揮者であるボイチェフ・チェピエル氏と共演します。そしてその後、彼の招きでレバノン国立交響楽団と共演する事になるのです。 |