『TRACKS』で冒頭を飾る声の主って、コロンビア・レコードで受けたオーディションであなたの声を読み上げるジョン・ハモンドですよね。あの日の事で覚えてる事ってどんな事になります?
「まぁ、あれは俺にとって本当に重要な日だったからね。それまでバーでならたくさん演奏してきたし、色んなコンサートもやってきて、22歳になって、あの日、キャスティールズのドラマーから借りたアコースティック・ギターを、ケースがないからって言うから、むき出しのまま持ってバスに乗ったんだよ。むき出しのアコースティック・ギターを手に町中を歩き回るのがなんだか恥ずかしくてさ。それで、ジョン・ハモンドの事務所に出向いて、何曲かやって、するとジョンはこう言ったんだ。『うん、君にはぜひコロンビアに来てもらいたいんだけど、その前にね、人前での演奏をぜひ観せて欲しいし、また、テープにレコーディングするとどんな音になるのかも知りたいんだよ。』ってね。それでどうにかしなくちゃって、俺とマイク・アペルとでビレッジを駆けずり回って、飛び入りでステージに立たせてくれそうな店を探して、ビター・エンドに掛け合ってみたんだけど、駄目でさ。別な店に行っても駄目で、最後にマクドゥーガル・ストリートにあるガスライトに掛け合ってみたら『オープンの晩があるから、その日なら30分ぐらいやれるよ。』って教えてくれたんだ。で、やってみたら客は10人ぐらい、やっぱり30分ぐらいの持ち時間で。すると、ジョン・ハモンドが『いやぁ、良かったよ、これだったらコロンビア・レコーディング・スタジオで、まずデモを作ってみてくれないか。』って言ってくれたんだ。デモなんて、69年にサンフランシスコのビル・グレアムのスタジオで作った事があって、それっきりだったからね。でも、コロンビアのスタジオはやたらと古臭い感じでさ、みんなワイシャツにネクタイ締めてるって感じで、エンジニアも白シャツにタイって格好でね。歳も50とか55とかそんな雰因気なんだ。現場にはそのエンジニアとジョンとマイクしかいなくて、そのエンジニアが無造作にボタンを押して、整理番号を読み上げて、それで始まったわけだ。本当に興奮したよ。自分でもなかなかいける曲をしたためてきたつもりだったし、もうやるしかないんだ、っていうね。失うものなんてありゃしないし、これがいよいよ始まりなんだって。
ジョン・ハモンドについてはよく知っていたし、ジョンのそれまでの業績、実際に発掘してきた数々のアーティスト、音楽界全体への貢献などといった事を考えると、その本人が今、自分のために時間を割いてくれてるんだって、それだけで物凄く興奮したよ。その後、どんな結果に転んだとしても、とりあえず、この今の自分のためにジョン・ハモンドが時間を割いてくれてるんだって、それがね、俺には本当に重要な事だったんだ。そういう意味で凄く励みになったんだよ。そのジョン・ハモンドがコントロール・ボードに付き添ってくれてるんだっていうのがね。俺にとって最高の体験だったんだ。」あのオーディション・テープで聴けるサウンドはどういう経緯で出来上がったものなんですか?
「その前まではスティール・ミルっていうバンドをやってて、そのバンドじゃ基本的にリフを中心にしたハード・ロックをやってたんだけど、そのバンドを一度サンフランシスコに持って行った事があったんだよね。そこいらにある今の俺の48年型よりもさらに古いトラックでアメリカを横断したんだ。俺は19で、1969年で、当時のサンフランシスコじゃ有名な店だったファミリー・ドックって店でオーディションを受けたんだ。オーディションを受けたバンドは3ついて、別なバンドが結局、仕事にありついて、俺達としてはボラれただとか、なんだかんだ言っていたけど、本当はそうじゃなくて、単純に向うの方が俺達の上を行っていたわけだよ。俺達は地元のニュー・ジャージーではずいぶん長く活動してて、俺達の上を行ってるバンドなんかそれまで見た事なかったのに、あの午後、その店に来てみたら俺達より上のバンドがしっかりいたわけだ。それからもね、ショーは何回かやったけど、あの時点でなんか別の事をやってみなきゃ駄目なんだなって事がわかったよ。
その時点で財布の金も底をついて、這うようにしてまた東海岸を目指してアメリカを横断したんだけど、結局、二日かけてトラックの荷台にこしらえた箱の中で過ごしてね。その中で機材と一緒に、冬だったからベースの奴と寝袋に入ってたんだ。で、東海岸に帰ってからはまた別のバンドを初めて、俺もハード・ロックからリズム・アンド・ブルース色の濃い音楽へシフトしたんだ。ただ、俺達(スティール・ミル)それまでにかなりでかいオーディエンスを作り上げてて、南部とかニュー・ジャージーとかだったら3000席ぐらいの会場だって売り切れるっていうね、レコード契約のないバンドにしたら、とてつもない規模のフォロワーを誇ってて、それだけでも楽に食えてたはずなんだよね。でも、路線を変えたせいでそのオーディエンスもほとんど離れちゃって、そのまま立ち行かなくなっちゃったんだよ。とりあえず、ブルース・スプリングスティーン・バンドって名前になって、基本的に面子は俺、ヴィニ−・ロペス、スティーブ・ヴァン・ザント、デビット・サンシャス、ゲイリー・タレントっていうもんで、アズベリー・パークにあるバー、スチューデント・プリンスっていう店でまずは活動を始めたんだ。でも、まったくと言ってもいいくらい客が離れちゃってたから、最初の晩は玄関でお客から1ドルづつチャージを貰ってそれが報酬になったんだよ。最初の晩はそれでギャラが15ドル。翌週は30ドル稼いで、店を満杯にしたら150ドルは稼げたし、それを山分けして、週に三晩やればどうにかなったんだよ。
その内にね、あちこちでちょっと面倒な事があって、今度はカリフォルニアへ一人で行って演奏して稼ぐ事にしたんだ。でも、現実的には無理な話で、当時はどこの馬の骨とも分らない奴に金なんか払わないもんだったんだ。それで、『また地元に戻らなきゃ駄目なんだな、ミュージシャンとして稼げるのはあっちだけなんだ。』って分かったわけだ。カリフォルニアに移住していた両親にはね、こんな俺を支えるような金はなかったし、2人は狭いアパートに暮らしてて俺はソファーで寝るという始末だったし、車でニュー・ジャージーへ戻って、これからはちょっと違ったアプローチで全てを考え直さないと駄目なんだなって思ってさ。それで、ほんとならクラブとかには向いてないような曲を真剣に書き始めたんだ。つまり、客の目を引くだとか、印象を引いて聴いてもらう、あるいはお客さん自身に気持ちを集中してもらうって意味でね。お客に負担が多過ぎるような曲になっちゃったんだけど、でも、もしこの生業も真面目に考えるんだったら、他のものとはまるで違う、オリジナルなものをやらなくちゃ駄目なんだっっていうね。ソロ・キャリアとして、自分の自立した個性を打ち出したくて、ちょうどその頃に『アズベリー・パークからの挨拶』に収録された曲でもごく初期の頃のものを書き出したんだ。その頃はつぶれた美容院の二階に住んでて、店にピアノが置いてあったからね、夜になると階下の店に忍び込んで、ヘア−・ドライヤーに囲まれながらあのピアノで、あのアルバムに収録された曲をたくさん書いたんだ。
マイク・アペルにはカリフォルニアに行く前に一度会ってて、『ふふん、ニュー・ヨークの音楽業界にパイプを持ってる奴と知り合ったぞ』って思ってたんだよ。マイクも気合いを入れてくれて、ジョン・ハモンドとのオーディションにしたって、ジョンの秘書から強引にねじ込んでくれたわけだし、それだけでも奇跡だったからね。つまりさ、ジョン・ハモンドはあの時、会ってみたらどうですか、という秘書の直感に耳を貸したからこそ、俺達も街中からあの建物に入れたんだよね。今でもああいう話があるのかどうかは分らないけど、あの玄関を通れただけでも驚いたよ。
とにかく、自分がこれから作ろうとする音楽については、それまでやってきたものよりもっと大きな発想を持っていないとなぁ、って思ってたし、何かそれまでとは違った文脈も欲しかったんだ。バンドはずっと前からやってきたけど、その合間によくアコースティックで曲も書いてたし、そういうのを一人で地元のコーヒーハウスとかで弾き語りでやってたりもしてたんだ。でも、あの時点で、そういうものに焦点を絞る事にして、それまでとは違う形で自分の音楽にコミットする事にしたんだ。バーでの演奏もぱったりやめたし、自分の作曲だけのために時間を費やす事にしたんだよ。これで何処かに行けるかもしれないと、これを聴いてくれる人がいるかもしれない、って願ってね。」で、そういうソングライティング面での転機があって、その後であなたはまたバンドを連れ戻したわけですが、周囲の反応はどういうものだったんですか?
「多分、ジョン・ハモンドが思い描いていたイメージでは俺に相応しいレコードは『TRACKS』の最初の4,5トラックで聴けるようなものだったと思うんだ。あるいは、あのオーディション・テープのまんまが良かったかもしれないし、今聴き直してみると、ジョンが正しかったのかなって気もするよ。ちょっと遡ってあの辺の音を聴き直してみると、あの辺の楽曲は極端に簡潔なプレゼンテーションになっていて、むしろフォーク・ミュージックに直接繋がっているようなものなんだ。で、あの辺の楽曲は実際そういうものなんだよ。あの頃住んでたアズベリー・パークで俺が直接体験した事だとか、実際にいたキャラクターだとかを抽象的に表現したものだったんだ。人はこういうものをひねりの入った自伝とか呼ぶけれど、基本的にこれはストリート・ミュージックだったって事なんだ。
それで、出来上がったレコードを会社に持ち込んだら突き返されたんだ。クライブ・デイビス(当時のコロンビアの社長)が言うには、シングルがないって事だった。で、既に音楽業界の一員になったという自覚からね、俺は『分かったよ、何曲かシングルを書いてくるよ』って答えて、家に帰って『Spirit In The Night』とか『Growin' Up』を書いたんだな。でまぁ、この辺の曲ではちょっと前までやっていたR&B路線に少し立ち戻っていったわけで、それで『これならいけるなぁ、でも、これをやるんだったら、あのサックス・プレイヤーも探してこなくちゃなぁ・・・』って思って。クラレンス・クレモンズにはアズベリーで活動してた頃に会ってたんだけど、滅多につかまらない奴で、まぁ、あの頃はそういう事ってそう珍しい事じゃなかったんだ。誰かに会って、その後、ぱったり消息が分らなくなるっていうね。誰もが住所不定だったから、今度会うまでに数カ月くらい経ってたりするんだよ。でも、なんとかクラレンスをつかまえてスタジオに呼んで、あの2曲で吹いてもらったわけだ。そうやってバンドも揃ったってわけなんだ。
けれども、今あらためて聴き直してみると、あの頃のごく初期の楽曲の、純粋で、ストレートなプレゼンテーションの方がより真実味に溢れてるのかなぁって気はするね。」その頃、例えば、楽曲を書いて、これはライブ・パフォーマンス用とか、あるいは特別な用途を考えているって事ってありました?
「うん。いきなり、ファースト・アルバムのプロモーションのためにショーをやり始める事になったし、で、30,40分の持ち時間で客に自分の印象を植え付けなきゃいけないんだけど、俺はそういう事を散々やってきたから、そういうもんのやり方については良く分かってるつもりだった。だから、10年かそこらバンドを引き連れてきた経験から学んだ事とアコースティック・ミュージックやそういったアイデアを融合させようと考えてね。で、そういう思い付きからセカンド・アルバムが生まれたんだよ。俺としてはね、『こうしたキャラクター、こうしたものの見方や作曲スタイルをもうちょっと追求しつつ、ここにロック・ミュージックやバンド・ミュージックの肉体性を加えたいな』って考えたんだ。」それにしても、あなたの未発表音源、つまり、ファンがこれまで聴いた事のなかったブルース・スプリングスティーンがここまでたくさんあって、それを一気に『TRACKS』として発表してしまうなんて、ファンを却って戸惑わせるのではないかと躊躇しませんでした?
「でも、俺がやってきた事をどれだけつぶさに見てきたかによって違うんじゃないかな。ここに収録されている曲の多くは初期のコンサートで良く演奏してたもんだし、『Sannta Ana』なんていっつもやってたわけだし、それにツアーに出るとね、ファーストで自分なりに研究したソングライティングの視点を元にして、その一方で頭の中でバンドの設定もして、その両者を混ぜ合わせようって考えてたんだよ。この辺の楽曲は全てその頃やったもんで、それでもって最終的に洩れたトラックなんだ。理由は、多分、レコードにはおのずから時間的な制約があって、36分とか40分っていう上限があって、とにかく入りきらないから入れなかったとか、あるいはヴォ−カルがあまり上手くいかなかったような気がするとか、ある曲についてはバンドの演奏があまり気に入らなかっただとか、そうじゃなきゃ、もうちょっと曲をいじってみたいとか、そういうもんだったんだろうな。
あの頃の俺達のバンドってもう、まるでフォーク・ミュージシャンの集まりだったんだ。アコーディオンのレッスンを受けていたダニ−・フェデリシを除けば、まともな素養を持ってる奴なんかいなかったし、みんなただひたすらにパーソナルに、エキセントリックに演奏してて、『THE WILD,THE INNOCENT&THE E STREET SHUFFLE』のトラックを聴いてみると、バンドの演奏がかなり普通とは違ったものだったんだって分ると思うんだよ。なんか妙ちきりんな見世物芸人団みたいな感じでね。あと、ダニ−が持ち合わせていた資質が影響として表れているのがよくわかるし。橋桁のある町だとか、アコーディオンとか、アズベリー・パークのあの独特な環境から生まれた歌詞がもたらす雰因気とかね。そして、聞こえてくるのは、それまで自分達の演奏した音なんてろくすっぽ聴いた事のなかった連中の音で、だから、みんなは自分達の流儀に素直に演奏しているだけで、誰の事も意識してなきゃ気にもしてないんだな。ギャリー・タレントのベースなんてもうあっちこっち走りまくってるし、ヴィニ−・ロペスのドラムも凄まじくとっ散らかった印象でね。もともとがジャム・セッションばかりやってるバンドだったから、バンドをアンサンブルとしてまとめてみると、もうとにかく、いつまで経っても演奏を止められないっていうものになっちゃうんだよ。ヴィニーのドラム・スタイルなんかは本当に美しいし、凄くレスポンスも良くてね。もう、まったくもってオリジナリティに溢れてるよね。でも、それもあんまり長く続かなかったんだ。その次のアルバムは『BORN TO RUN』で、既にあのエキセントリシズムがそれほどなくなってきてたからな。」その頃になると、レコーディング自体、時間がかかるようになってたんですよね。
「うん。最初のレコードは仕上げるのに3週間しかいらなかった。で、俺の記憶が正しければ、セカンドの楽曲や、セカンドの時のもので、『TRACKS』に収録されてるものにかかった時間は、2ヶ月、どんなにかかっても3ヶ月だった。しかも、それは完璧なレコーディングを目指すってもんじゃなかったからね。つまり、それまではレコーディングではステージでの演奏をそのまま演奏したりとか、ジョン・ハモンドの部屋でやったようなものを演奏するとか、そういう具合だったのに、『BORN TO RUN』から初めて俺はスタジオを道具として、それまでの、演奏をただ再生するという試みとは違うアプローチで使うようになったんだよ。
このアプローチって基本的にフィル・スペクタ−がやってきた事なんだ。例えば、フィル・スペクタ−がああいうスネアの音を初めて作り出したとして、あのサウンドってね、スタジオでしかあり得ない音だったんだ。あんな音は、相当でかい兵器庫だとか、週末の学校の体育館とかじゃなきゃ到底あり得ないものなんだよ。で、俺はそういうプロダクションについての発想が面白くなってきて、どうにかしてそういうものを自分なりに追求出来ないかな、と思っていたんだ。けれども、そういう音をどうやってものにするか、あの頃には誰にも分らなかったから、凄く時間もかかったっていう事なんだな。とにかく何でも放り込んじゃぇっていうのが好きだったんだけど、その一方で、ギターの音がなんでこんなにちっぽけなのか、それが腑に落ちないっていう。でも、ギターの音が頼り無いのは他にも20個ぐらいの音が同時に鳴ってるからだけで、それぞれに喧嘩し合ってたからなんだよ。本当にでかいギターサウンドが欲しいんだったら、とにかくギターの他にあまり音を詰め込んじゃ駄目なんだな。そんな事が分るのに10年ぐらいかかったからね。だから、『BORN TO RUN』を作る段階になって、まず、この曲を書く事自体、凄く大変だったし、それから自分が考えていたような音にするのも本当に大変だった。自分にはやり方がさっぱり分らない、ある特別なものをものにしようと七転八倒してるようなもんでね。それで、その方法を探るんでずいぶん時間を費やしたんだよ。
『BORN TO RUN』はあのトラックだけで半年かかって、他のトラックは全て合わせてもう半年かかったね。スタジオに入った時に8曲出来上がってて、俺にはこのアルバムが8曲で組み立てらると、もう良く分かっていたんだ。で、どの曲についても、歌詞的にも音楽的にも凄まじいテンションで取り組んだんだ。結局、やったのはそれだけで、あの8曲を綺麗な形にしていったって事だけなんだよ。
で、『DARKNESS ON THE EDGE OF TOWN』の頃になると、すっかり状況が変わってしまってたんだ。俺達にかかってる金の大きさがまるで変わってきちゃってたんだよね。気がついてみると、俺には突然オーディエンスがついてたんだよ。それまで俺にはオーディエンスと呼べるようなものなんてなかったし、あったとしても、それは草の根的なものでしかなかったんだ。ファースト・アルバムの時、マイクに、『一体どれだけ売れたの?』って聞くと、『ま−、2万3千ってところだね』ってマイクは答えて、がっかりしてたようだけど、俺は『すげぇ!そんなに?』って応えたもんだよ。やっぱり自分の知りもしない人間が2万3千人も自分の作った音を買ってくれたという事実がどうしても衝撃的でね。それで大成功だと思ったし、2枚目も大体同じような数字だったんだ。で、3枚目が当たって、俺達にはレコード会社の食指が動くような本当のオーディエンスがついてたんだよ。すると、突然、自分が細かい所まで注目され始めるし、自分のやる事なす事からも突然、意味性がほのめかされるようになるんだ。それで、自分がどういう人間でどういう所から来ているのか、考え始めたんだね。ひどく混乱した時期だったけど、でもそれと同時に、これが、初めて地に足が着くか、あるいは自分を見失って永久に戻れなくなるかっていう、そういう分かれ道となる時期でもあったんだ。それで、俺は自分がどういう人間になりたくて、どういう事をやりたくて、自分にとって何が大切なのかをじっくり、根を詰めて考えたんだよ。その過程で、自分の音楽の版権とか権利を取り戻そうと、自分のクリエイティビティを自分でコントロールしようと、訴訟を起こす事になって、それがかなり長い間続いたんだな。(裁判の係争中、ブルースはレコーディングおよびレコードのリリースを差し止められていた)
この長い裁判が終わって、『DARKNESS ON THE EDGE OF TOWN』を作るんでようやくスタジオ入りした時にはどういうレコードを作りたいのか、かなり細かい所まできっちり考えてあったんだ。それで、バンドを連れてきて、『じゃあ、今夜は”Give The Girl A Kiss”でいくから』とか『”So Young And In Love”でいくぜ』っていうノリで、とにかく、スタジオのテンションを和らげるためになんだって演奏したんだ。しかも、俺はまだ自分がどういう音を鳴らしているのか、あるいはスタジオの使い方とかを学習してる段階だったからね、色んなタイプの音楽がこの時期には出てきたんだよ。けれども、『DARKNESS ON THE EDGE OF TOWN』はかなりタイトに、特にあのエモーションを狙って編集したし、しかも、自分がどういうものを書きたいのか、そこに焦点をずっと絞り込んでたんだ。だからね、色んな作品が脇に置かれる事になっちゃったんだよ。
俺の感じでは、ちょうど同じ時期に俺のソングライティングそのものが変わり初めてたんだ。『DARKNESS ON THE EDGE OF TOWN』の頃までは、作中のキャラクターがいつもどこへ向かおうと、何かしらの理由から自分のコミュニティから逃げ出そうとしてるものだった。ある意味じゃね、その後のキャリアで俺がやってきた事って、そうやって逃げ出したキャラクターをまたコミュニティに連れ戻そうとする作業だったようにも思えるんだ。あの頃、俺がぶつかった疑問はそういうもんだったんだよ。最初は何かしらの自由を探しているつもりだった。自分の人生が辿る道のりをなんとか自分の思い通りにしてみたいと思うわけだ。人は各々にある特定の環境で育つもんだし、すると、自分がすっぽりはまる自分だけの居所ってものもそういう所にあるわけだから、まず最初の衝動はそういう自分を型にはめている限界を破壊してしまいたいというものだった。で、音楽が俺にもたらしてくれたものって、基本的にそういうものだったんだ。しかも、この頃には11時、12時に起きて、朝の3時とか4時、5時に寝るような男になっていて、そういうライフスタイルが俺は大好きだったんだ。自分にしっかりとしたオーディエンスがついたんだと分かって、しかも、個人として自由をたくさん手中にした事にも気付いた時、俺は『じゃぁ、これで何をやるべきかな?』って考えたわけなんだよ、つまり、これまで俺よりも先に活躍したたくさんの人達が、自分の音楽に活力をもたらし、先に進ませてくれていたある本質的なものを見失った姿を散々見てきたわけだから、俺にしてみれば、これが自分にとって正にそういう局面なんだという事は分かったんだ。俺がギターを手に取るのは、いつだって誰かに語りかけたかったからなんだ。しかし、皮肉にも、自分にオーディエンスがついた瞬間っていうのは、自分が切り離されて孤立させられる瞬間でもあるんだ。その局面にどう対処するかで、自分の音楽がその後辿る道がかなり左右されるものなんだよ。
俺は裁判のせいでレコーディングが出来なくなってたから、こうした考えを色々吟味する暇もあってね。ニュージャージーのホルムデイルにある牧場で生活してて、夜になるとバーへ行って出演して、すべてが膠着しないようにツアーも可能な時にはちょこっとやったりしてね。自分がレコーディングする機会にまた恵まれたら、どんなレコードを作ろうかと色々考えてたんだ。『TRACKS』に収録されている楽曲が結局脇に押しやられちゃったのはそういう事なわけで、つまりね、どれも楽しい曲ではあったけど、『この時点で俺は自分をアイデンティファイしなくちゃならない』っていう瞬間を迎えていたんだよ。俺達は『BORN TO RUN』で一躍成功して、それから俺は数年間姿をくらます事になった。新聞とか広げるとたまに『あの人は今?』とか、そういう記事で自分の事が書かれてて、それはまぁ、やっぱり不愉快なんだな(笑)。だから、ようやくまた自分がレコーディング出来る事になった時、俺は自分自身を、そして、自分が何を書いていくのか、正確にアイデンティファイしていかなくちゃならなかったんだ。一体、俺はどこへ向かおうとしているのか、オーディエンスの人生の中で俺はどういう所に位置するべきなのかというね。俺のソングライティングが根本的に路線転向した核心的な瞬間で、まぁ、今の俺はその延長線上にあるっていう事なんだ。」という事は、あなたは常に自分の事を、ある程度は書き続けてきたと考えていいでしょうか?
「っていうか、いつだって自分について書いてるものなんだ。その、文字道りとか、具体的にどうって事じゃなくて、でも、何をやるにしても自分自身を放り込まなくっちゃさ。たとえどんな風にストーリーを選んでキャラクターを設定して、それが自分が何の経験も積んだ事のない話だったとしても、そこでやるべき事はそこに接点を見い出して、ある一つの理解を生み出していく事で、その姿の中で自分を見い出し、オーディエンスにも見い出させる事なんだよ。例えば、仕事、信仰、希望、家族、絶望、情愛、喜びなどといったかなり基本的なテーマの中で、自分の根本的な共通項が潜んでいそうな所を探してしていくわけだよ。何かしらの形で自分をキャラクターの中に見い出していけない限り、曲は失敗してしまうんだ。俺はさっきも言ったように、文字通り自分について書いた事はないし、まぁ、何度か書いたかもしれないけれど、でも、これは自分のエモーショナルな経験にとって、メタファーのようなものなんだ。世界の一部分をを自分の目に映った通りの形で捉えようとする、それがこの仕事で問われる事なんだ。でも、その一方で、曲が本当に伝えようとしているものは、曲が伝えているように見える事とは違ってるんだ。だから『Be True』なんかは、本当は恋愛について歌ったものではなかったりするんだ。」『Roullete』はその後『THE RIVER』となった作品群の中でも一番最初にレコーディングされたものですが、このアルバムも『Roullete』が収録されていたらかなり違った雰因気なっていたはずですよね。
「うん、あのアルバムのために最初に切ったトラックで、後になって、俺自身、もっと一般的な話を語るようになったのに、これじゃぁちょっと内容が具体的すぎると判断したんだったけな。ちょっとビビった所もあったかもしれないし。この曲はちょっとやり過ぎたかなとも思える所があって、でもそれがこの曲の魅力でもあったわけだし。でも、本当のところを言うと、この曲もあのアルバムに収録されるべきだったんだと思うよ。きっとあのアルバムの中でも際立った曲の一つになっただろうし、そういう誤りの一つだったんだよ。作品をリリースするとなると、どうしても神経質になってしまうところがあるんだ。あのアルバムは、素材については山のように溢れてたってもんだし、『THE RIVER』から洩れたトラックだけを合わせただけでもアルバムが出来ちゃうんだよ。
あの頃は妙な時期で、俺は生まれて初めてウッディー・ガスリーに入れ込み始めてたんだ。『DARKNESS ON THE EDGE OF TOWN』を作り終えて、俺が本当に描きたいキャラクターや作曲スタイルを見い出したかったんだよ。でも、その一方で、あの年の夏、俺が一番気に入っていたアルバムの一つが『ラズベリーズ・グレイテスト・ヒッツ』で、どの曲もきちんとまとまった素晴しいポップ・レコードだったんだよね。音の作り方とかも凄く気に入ってたから、スタジオに入った時はあれに近い事をたくさんやったんだよ。2分、3分、4分のポップソングが立続けに出てくるっていうね。で、自分が没頭している二つのもの、『DARKNESS ON THE EDGE OF TOWN』からの延長にもなっていて、キャラクターにも共通点の多いもの、その二つのバランスを取るアルバムが作りたかったから、結果的に使われなかった曲がアルバム一枚分出来ちゃったというわけなんだ。そこへさらにライブ・ショーの肉体性と興奮と楽しさも折り込んでいきたかったわけで、スティーブ・ヴァン・ザントもプロデュース面に関わっていて、ステージで感じていたダイナミックスや起爆力の捕らえ方をようやく学んだんだよ。
だから、考え方によっては、ここで初めてスタジオを効果的に使う事に成功したってもんなんだ。例えば、スネアの音質をおもいっきり上げていくっていうね。70年代からの影響で、ドラムってこの頃は必要以上に重く、深い音に押さえてあったものなんだよ。でも、俺は(エルヴィスの)『ハウンド・ドック』のスネアの音が好きだったからね。音が高くて、スネアが破裂するような音で、そこで爆発する音を聴くっていうさ。レコーディングを始めた時、木造のスタジオを探してきてね、ど真ん中にマックスを座らせて、俺はこう言ったんだよね、『音を聴いたら、マックスが腕を振りかざして、振り下ろしてドラムを叩き込む、それがちゃんと目に見えるようにしたいんだ』って。それを中心にバンドを組み立てていって、ライブ・ショーの生々しさと興奮の一部を始めて捕まえる事が出来たんだ。」例えば、『THE RIVER』のレコーディングと、後に『NEBRASKA』となった音源のレコーディングの間で、あなたはかなり長い間ヨーロッパへ出かけていますよね。
「そうそう、頭がおかしくなってわざわざ戻ったんだな(笑)。」その時の体験があなたの、例えば、アメリカとか、あなたが書いてきたモチーフに対するパースペクティブにどう影響したと思います?
「って言うか、特にあの時点の、80年代初期のアメリカじゃぁ、極々日常的な感覚で、暴力が空気として流れてたんだよね。で、それが俺には悲しく思えてさ。俺は30になってて、子供を生むとか、そういう事が現実的な問題として見えてきていたからね。けれども、テレビとか、様々なメディアから流れてくる現状というのは、全てがますます攻撃的で、人に危害を加えるものになりつつあるっていうもんでね。ヨーロッパへ行くと、そういう匂いがまだ希薄で、もっと文明的というか、もっとまともに思えたんだ。
もう一つ、大きな理由としてあったのは、ヨーロッパのオーディエンスとこの時本当に接点を持てたっていうね。ヨーロッパには70年代の後半にも行った事があって、その時には本当に自分がバラバラにされるような経験をしてたから、単純にヨーロッパに戻るのが恐かったんだ。まぁ、結果的に幸いしたのは、80年代に戻って、それから何度も戻ってる事なんだね。ヨーロッパでの経験は俺がやってきた仕事のなかでも強烈な興味の対象になってきてはいるんだ。」そうした海外へ渡るという経験が、例えば、『NEBRASKA』で描いていたキャラクターなどについて、新しいパースペクティブをもたらしたとか、そういう事はなかったのでしょうか?と言うのも『NEBRASKA』の内容が極端に政治的だったからなんですけど。
「でも、俺は『NEBRASKA』の政治性については、レビューで、様々な政治的な暗示がこのアルバムには込められてる、って言うのを読むまでまったく考えた事がなかったんだ。あの当時、これは俺にとって最もパーソナルなレコードだったんだ。俺が子供だった頃、生活がどう感じられたのか、俺が育った家がどういう家だったのか、それを思い出させてくれる作品だったんだよ。そういう物を掘り起こそうとしていたんだよね。
一体どうやってああいうストーリーが生まれてきたのかは分らないけど、ああいうものがあの頃の俺には興味深いものだったんだ。キャリル・フュゲイトについての本も読んだ事があって、例えば、『Nebraska』はそれがきっかけで出来た曲だった。あの話を50年代に報道した女性に電話してみると、25年経った時点でも同じ新聞社でまだ働いていて、電話をかけてみたら、交換台がその女性の机に繋いでくれてね。あの曲にはね、なんだかあのアルバムの核になるものがあったんだけれども、それが何だったのかは特定出来なかったし、俺に分かったのは、自分が読んだものに俺は感銘を受けたって事だけだった。そこで、この話を物語ろう、それと同時に、自分についても何かを物語ろうと感じるわけなんだよ。
でも、自分の人生においては、あの頃、俺はある種の虚無と戯れているような気になり始める、そんな局面に差し掛かっていたんだと思うよ。俺は根の深い孤独感を感じていて、それでああいうキャラクターだとか、ストーリーに向かったんだと思うんだ。生い立ちの過程で出会ってまだ覚えている人達、特に親父の側の親戚だとか、そういった人達の口調、人生へのアプローチとか、そういうもんが音楽の中で反映してたんだ。それと同時に、『いや、ちょっと待てよ、もし自分がかつて逃げようとした自分の出自にもう二度と戻れない身になっていたとしたら、俺はこの先どうなるんだ?』っていう疑問の答えを見つけたかったていうね。あの頃、俺は色んな事に頭を悩ませていたんだよ。ある程度歳を取ると、自分のエモーショナルな生い立ちを作り上げてきた問題と正面から腰を据えて向き合わずに逃げ出した事が、ある代償として浮かび上がってくるんだね。22歳の頃、自分に言い聞かせた答えや屁理屈や嘘が、26や28歳くらいになってくると、どこかぎこちなく思えてきて、歳を取れば取る程、そうした代償は高くついてくるんだよ。俺はあの頃、そうした代償の高さが分るような局面を迎えていて、あらゆるものから切り離されているように感じて、あのレコードが形を作り始めた頃、自分が少しまともじゃないように思えてたんだ。だから、このレコードはそうした問題となんらかの関係があったんだね。人には人生の意味を解き明かすものが各々にあるもんで、それが人によっては友達だったり、仕事であったり、コミュニティであったり、連れ合いとの関係性であったりするものなんだ。でも、そういったものが失われたとしたら、そこで自分に何が残されてるだろうっていうね。だから、このアルバムの政治的な側面についてはこの頃、特に意識してなくて、むしろ、こうしたエモーショナルな、あるいは心理学的な問題ですったもんだしている人々を描くっていうものだったんだ。」それと同時にこの頃からヴェトナム戦争の問題があなたの作品に反映されるようになりましたよね。
「70年代末とか80年代初頭において、ヴェトナムについての文学とか映画とかが初めて作られるようになったからね。サブテクストとしてはもうちょっと早い時期からあって、『ドック・ソルジャー』っていうニック・ノルティーの映画とかもあったりしたけど、けど、突然、この頃からダイレクトにこうした問題が取り上げられるようになったんだよ。」とは言え、あなた自身はヴェトナムに行ってないわけですが。
「うん、俺はお馴染みの徴兵拒否をやったからね。」戦争へ行かなかった事に後ろめたさなどは感じました?
「いや、別に。でも、あの頃はあの戦争が誰もの生い立ちに本当に影を差していたわけで、どの過程にも毎晩、あの戦争は現実的な問題としてあったんだよ。キャスティールズというバンドをやっていた時には、ドラマーが出征して、死んだんだ。当時、ニュージャージーじゃフロントマンとして最高って評判だったウォルター・チッコーネという奴がいて、そいつも海兵隊に引っ張られて行方不明になって、街じゃみんなが怯えてて、誰も彼もがどうやって徴兵から逃げおおせようかって考えてたんだ。だから、ヴェトナムへ行ったとしても、あるいは、アメリカにいたとしても、あれはアメリカのカルチャーにとって決定的な瞬間だったんだ。俺の歌には折に触れて顔を出すものだし、ヴェトナムへ行った、行かないに関係なく、人生で大きな位置を占める事件だったんだよ。
当時、俺は18か19で、政治とは無縁の家庭に育っていた。まぁ、言ってみればサブカルチャーの一員になってたわけだけども、それでも多分、保守的な側にいたと言ってもいいはずなんだ。と言うのも、俺はまともなドラッグ体験というものをまったくしてないからね。小さな街に住んでて、その街はあちこちで境界が細かく引かれていたんだ。」『TRACKS』には特にあなた自身の事としか思えてならない曲が2つあって、その一つが『The Wish』で、これは明かにあなたの母親について歌ったものですよね。
「そう。そいつが危なっかしい領域なんだよなぁ(笑)。この間のツアーではこういう話をしてたんだけど、ロックンローラーっていうのは、あんまり自分の母親については歌いたがろうとしないっていう。カントリーやラップでさえ、母について歌ったりするももだし、ゴスペル・グループでマザーラバーズっていうのがいるのにな。エルヴィスはもちろん、いつだって母親について歌っていたけど、直接的ではなかったし、だから、変な感じな歌なんだよ、これは。それできっとこれまで収録しなかったんだろうな。」もう一つ自伝的な歌があって、『Goin' Cali』がそうなんですが、ここで歌われているモチーフは見方によっては、アメリカでは古典的とさえ言える西を目指すというものですよね。元々自分がいた場所に折り合いがつかなくて、絶えまなく場所を移っていった人達によってアメリカが成り立っていると考えた場合ですけど。
「まぁ、そうした孤独っていうのはアメリカ的なキャラクターにおいては本当に大きな役割を担ってるんだよね。目が覚めてみると、とにかくそのまま逃げ出してしまってまったく新しい存在になりたいと、アメリカ人だったら誰だってそんな朝を迎えた事があるはずだよ。西海岸や西部は、長い間アメリカにおいて、明らかにそういう願望を象徴するものだったし、今だっておそらくそういった幻想を象徴してるんだ。でも、俺は何か別なものを求めたいと、そういう心境に至ったんだよね。、ニューヨークの街に住んだ事もあったけど、どうもやっぱり都会っ子になれなくて、80年代の初めくらいからカリフォルニアにちょっとした家を持ってて、そこに行けば、俺の車もバイクも揃っているし、カリフォルニアっていう州の地理も気に入ってね。ロサンゼルスから30分車を走らせればもう砂漠の端っこで、そのまま100マイルもの旅が出来るっていうさ。カリフォルニアには漠然とした空っぽさが今もたくさんあって、俺はそれが大好きだったんだ。そうすると自分が凄くちっぽけに思えて、日常的に頭を悩ませてる事についても、すぐに見方ってもんが見えてくるんだよ。」あなたの作品におけるイメージ群っていうのは、キャリアを通してどんどん無駄な肉が切り捨てられてるように思うんですけど、どうですか?初期の頃は、あなたの曲で歌われるイメージはそれこそ色んな描写で賑わっていて、言葉も物凄く多かったわけですよね。
「そう、それで何枚かレコードを作ってみると、そうしたレコードに俺はぎこちなさを覚えるようになったんだよね。でも、今じゃぁあの頃のレコードを聴き直しても、これもこれで凄くいいと思えて、それはどうしてかというと、ああいうレコードは、俺の事を聴こうとする人なんかいなかった頃に俺が作ってたものだからなんだ。つまり、レコーディングされるまで俺はこうした曲を自分でも聴いた事がなかったわけで、それは家にテレコを持っていなかったからで、もうただやみくもにやるだけで、それで楽しかったんだよ。だから、今振り返ってみると、あれは自分の作曲にとって、本当に自由な時間だったんだな、っていうね。ただ思い付いたものを書いて、曲は抽象的なレベルで効果を持っていたんだけれども、そこが面白いんだよね。つまり、『Santa Ana』だったら、イメージの羅列でしかないんだけど、物語にもなってるんだよ。でも、その後、俺はああいう書き方から意識的に離れたんだけど、それはボブ・ディランとの比較をよくされるようになったからなんだ。今ね、聴き返せば全然ディランとは違うんだけど、当時の俺は自分のアイデンティティを確立しようと神経をすり減らしていたし、それでああいう書き方をすっかりやめたんだよ。それでも、『Born To Run』とか『Jungleland』とか、所々でまだそういうテイストは残ってたんだけど、『DARKNESS ON THE EDGE OF TOWN』になると、ちょうどそういう痕跡さえなくなったっていう感じなんだ。」例えば、ジョン・ハモンドに会いにいった22歳の青年ブルース・スプリングスティーンは今のあなたを見てどう思うと想像します?
「それはわからないな。やっぱりね、ある時期の自分の声が聞こえたりする事もあるわけで、そうすると、自分が何を考えていたんだろう、自分は誰だったんだろう、と振り返ってみて、まぁ、自分は変わっちゃいないと、多分、考えるものなんじゃないのかな。ある意味じゃね、本質的には確かに変わってはいないのかもしれないんだけど、でも、もちろん、その同じ人が昔とはまったく違う人生の局面を迎えたりするわけだよ。あの夜、ドアを開けて入ったきたあの若者は、子供や妻と暮らし、責任を負った人生を送る事などについてはまだ想像した事もなかった筈だっていう。そもそも俺は責任を回避したい一心でなんだってしたもんだよ。ミュージシャンになりたかったのもそういう事なんだ。
だから、俺は懸命に、長い間、自分が逃げてきた問題や考え方と折り合いをつけようとする今の自分に気付くわけで、これはちょっと大変な変化だったと自分では思うんだけどな。ある程度歳を取って気が付くのは人生において満足感や新しい自由が息づいている所は、実はある特定な選択、自分の人生が進むべき方向を決める事で辿り着けるものなんだ。でも、そういう選択は若い頃には自分を束縛するようなものに思えるんだよ。どうしてかというと、若い頃には全てが欲しいわけで、無限の可能性というファンタジーの中で生きているわけだからね。そして、自分が成功を手にすると、今度は本当の可能性を凄まじいばかりに手渡されるわけで、その規模は危険なぐらいなんだね。そして、ある道を行き過ぎてしまうと、それがかつて見えていたものとは違っていた事に気がつくんだ。自由を求めて間違った選択を数知れぬ程おかす事もあるわけで、特に自分を取り囲む人間が自分と反対の意見を言おうとしない境遇にいたりすると、それはなおさらなんだ。楽しい事はたくさんあるんだけど、そこを整理しておかないと、破滅へのレシピとなりかねないんだな。」『TRACKS』の魅力の一つは、例えば、『Part Man,Part Monkey』のような、これまであまり聴かれるチャンスもなかったおかしな曲を聴く事ができる事だと思ったんですけど、どうでしょうか?
「うん。このレコードをやってて一番良かったのは、やっぱりちょっとエンターテイメント過ぎるということでお蔵入りになった曲を全部こうやって表に出す事が出来たっていうね。ほとんどのものがその場で自然に出来たトラックなんだけど、脇に置かれてしまったんだ。だから、『TRACKS』はその曲の持ち味がはっきりしていたせいで外されてしまった曲が膨大に収録されてるんだよ。特にディスク2の、ごく初期の頃に、男と女について書いてて、俺としては『TUNNEL OF LOVE』までそういった事について書いた事がないって思っていたから、それが面白かったな。あるいは、『Dollhouse』を見つけて、ああいったモチーフが80年代の初めの頃からもう見え始めていたんだなっていうね。」『Stolen Car』はそうした作風の先駆けとなった曲だと思いますが、どうですか?
「まぁ、あのタイプのキャラクター、ああいった想いを抱えてもがいている奴を初めて形にしたものではあるよね。自分と自分の家族、あるいは世界との接点を見つけていかないと、なんだか自分が消滅していくような、消えてしまうような気がするっていう、俺は本当に長い間、そんな気持ちをずっと抱えていたんだ。大人になりながら、俺はずっと自分が透明であるような気がしてならなかった。で、これって、多くの人にとって本当にとても大きな苦痛になってる心情なんだよ。自分の人生を実感するには、何も大掛かりな事をしなくてもいいわけで、場合によってはその答えは、自分の家族、あるいは仕事とか、自分が生きるごく基本的な所にあったりするものなんだ。そうしたものら自分が霞んでいくように思えて、自分でもどうしたらいいのか分らない人物を登場させるっていうね、その着眼は、俺がやってきた音楽の全ての核心にある問題なんだ。何かしらの衝撃を生み出したくてすったもんだして、自分自身の意味、そして、自分の表現が伝わる誰かにとっての意味を生み出すっていうね。
『Stolen Car』では、温かみのある人生、自分の人生にとって本質的な何かを埋めていく事、そういった事だって出来るんだという発想も歌い込まれてるんだよね。あの男は、あれに続いた他の曲で登場するモチーフの全てを始めた人物だったんだよ。つまり、俺がベースで書いたもの、『Goin' Cali』の男でも、『Loose Change』の男でも構わないんだけど、とにかく、自分が関わると全てがポケットに余った小銭のようになってしまうっていう。これは誰もが学ばなくちゃいけない事でね、自分なりの活路を見い出していかなきゃならないんだ。で、その後に続いたのが『TUNNEL OF LOVE』だったんだよ。」『NEBRASKA』をリリースした頃、それと『BORN IN THE USA』の爆発的な成功で凄い事になってしまった後、あなたは凄く孤独だったと言ってますよね。でも、その孤独が何かを取り戻そうとするあなたの気持ちに影響したと思います?
「それは考え方によると思うんだよね。って言うのも、俺にとってのヒーローっていうのは誰もがヒットレコードに恵まれてる人だったからね。あの時点で俺はもう33か34になってて、20年も経験を積んできてたし、自分に何が出来るのか、興味を引かれるのはもうそれだけだったんだよね。特にあのアルバムがあそこまで誰にも彼にも聴かれる事になるとは思っていなかったけど、でも、あの曲を仕上げた時、この曲はきっと受け手のイマジネーションをがっちりとらえる曲になるな、まぁ、俺としては多分『』以来、出来なかったような形で受け手のイマジネーションに訴えかけるだろうなって事は分かったんだ。スタジオであれを聴くだけで、これはとんでもないものに化けるって分かったもんだよ。だから、成りゆきに任せてみようかっていうね、『じゃあ、どうなるもんか見届けようじゃないか、どこへ行き着くのか』っていうね。
でも、当時としてはあの喧騒を俺は楽しんでいたよ。今になって振り返ってみれば、あれだけの露出にさらされるのって、どんな人間でもある程度不安やぎこちなさをおぼえるものだと思うんだ。でも、あの綱渡りの舞台に上がって、渡ってみるっていうのがね、滅多にない機会だったんだよ。もしあの機会はあったのに、その機会を充分に追求しなかったって感じていたらね、かなり後悔する事になったと思うよ。あの頃経験したものをもう一度やれと言われたら、それは困るし、決して自分から選ぶようなもんじゃないんだけど、まぁ凄いスケールの冗談のようなもんだったわけで、しかも、俺もあれにはうってつけな時期だったんだ。まず、子供もまだ生まれていなかったし、経験もそれなりに積んでてあの騒ぎの中で起きた事についても、もう心の準備も出来てたよね。」それにしても、あなたのコンサート、あなたのコンサートは個人的には、必ず、自分が感じているのに自分では気が付いてはいなかった何かに触れるものなんですけど、これについてはどう思います?
「つまり、それがものを書く人間の仕事なんだよ。最初にまず、誰にだって記憶や思い出ってもんがあるわけだよ。どこの事を思い出すのか、どうして思い出すのか、あれは11歳の時だった、ある日、ある通りを歩いていたら風が吹いて木の葉を鳴らして、歩道を歩いている自分の足音がどうしても思い出されるっていうね。そういう思い出や記憶って誰にでもあると思うし、何故だかは分らないけど、そういう思い出をいつも引きずっているものなんだよ。こうした思い出は自分の中で確かに棲息していて、自分が誰なのかっていう事については本質的な要素であったりするんだ。それに、ひょっとしたら、その思い出の頃、何かが起きたかも知れないんだ。あるいは何も起きなかったかも知れない。いずれにしても、何かしらの必然から、あの日、自分が経験した一瞬の事が自分に生きる意味を教えてくれているものなんだよ。自分が自分の人生をどう生かせるのかっていうね、それがどれほど重要な問題なんだって事を、そうした記憶は教えてくれるんだよ。
で、その人生の一瞬というものは、自分が歩道に足を着いたそのものの音、そんなもので突然、思い出されたりするものなんだ。もの書きの仕事っていうのはそこにあるんだよ。書き手は自分の経験や、自分を囲む世界から、そうした瞬間を引き出してきたり、作り上げたりするんだ。想像力を使ってそうしたものを一つに集めていき、そうやって作り上げた一つの経験をオーディエンスに提示していくんだね。そして、受け手はそれを通じて、自分の内面に潜む豊かなエネルギー、自分自身の核心、人生に、あるいはモラルに対して感じている疑問をそのまま体験するんだよ。どんな事を書いたとしても、そういう繋がりが生まれなくちゃならないんだ。ものを書いてお金を貰えるのは、受け手に『あぁ、自分って孤独じゃなかったんだ』と実感させた事に対する報酬なんだよ。
あるいはね、夜、ステージでも同じ事が出来るんだよね。ある瞬間にある形でエネルギーを爆発させる事で客を奮い立たせ、動かす事が出来るんだよ。そして、受け手は家に帰って、その時、自分が必要としている感情を実際に味わう事が出来たりするんだ。とにかく書き手のやるべき事は、経験を何かしらの形で提示する事で、受け手のみんながそれぞれの世界で抱えている事とアクセスしていく、そんなきっかけを作る事なんだ。それがもの書きの本当の仕事なんだよ。それがあればこそ、書き続けたくなるものなんだ。それがあればこそ、次の曲を書きたくなるわけでね、そういう事を人々の為にできる、そして、君にとって大切な事をやるのはどうしてなのかといえば、それはやっぱり、俺にとって大切な事でもあるからなんだ。」自分の仕事で特に楽しい所ってどんな所になります?
「って言うかね、これは世界で本当に最高の仕事なんだと思う。だってね、レコードを作れるようになる前から最高だったよ。22,23くらいの頃は本当に楽しくて、自分の人生は最高だと思ったしね、最初のレコード作りながら寝袋で生活して、ここから4つ程離れた街にある友達の家に住んでたんだけど、俺は本当に幸せだなぁって思ったよ。夜遅くまで起きて、しかも、好きな事をやってるんだからさ。とりあえず、地元のヒーローってものにはもうなってたと思うし、まだね、ちょっとした曲をちょこちょこやってるだけだったんだけど、とりあえず地元じゃ名の通ったギタリスト−シンガーにはなってたわけだ。ちょっとした尊敬の的になってたわけで、最高だったよ、いつだってこれは最高だった。この仕事をしている状態を”WORKING”とは言わずに”PLAYING”と言うのは、正にその為なんだな。これをやらせてもらえるって事は本当に恵まれた事だし、バンで13時間ぶっ続けで移動するなんて事をやっても苦にならなかったよね。どっかでどんづまりになってるとか、囚われになっているという心境からは確実に解放されていたし、これまで見た事もなかったような土地や場所を見て回って行ったわけだよ。一度なんか、友達とアメリカを車で僅か三日で横断した事だってあったんだ。俺は19で、物凄い古いシェビィのトラックに機材を積んでね、俺はまだ免許を持ってなくて、運転した事もなかったのに、暗くなってきたら、『三日で行かなきゃならないんだから、今度はお前の番ね』っていう。トラックのギアをファーストに入れて動かしてから、座る所を替えるっていうね、そのバンは俺がずっと運転したんだ。ニュージャージーからカリフォルニアのビック・スールにあるイサリン・インティテュートって所で大晦日のギグをやらせてくれるって話だったんだ。1969年で、本当に大冒険だったんだよ。今振り返ってみても、辛かった事が本当に楽しい事でもあったんだ。だから、この仕事の在り方そのものにも魅力がたくさんあって、ちょっとした事だけでも大好きだったんだよ。」今も同じような喜びを感じます?
「うん、感じるよ。やっぱり基本的な所は、ギターを持って人々に語りかけ、本当に聴いてもらう機会に恵まれてるっていう、あるいはこれまで聴かれた事のない歌を自分が書くっていうね、その喜びにあるんだと思うんだけどな。やっぱりこれをやってるって事自体が、今も俺には大きなインスピレーションになってるんだよ。俺はこれで世界と繋がったんだ、音楽を通じて外にあった世界と繋がったんだよ。そのインパクトはね、客が100人だろうと、大観衆だろうと、まったく同じなんだ。その感触は基本的に変わらないものなんだよ。それは客の数とか、演奏会場の大きさとか、そういうものに左右されるものじゃないんだ。って言うのは、これは自分の内面でやってる作業であって、自分自身を感じる事、自分の存在を感じる事、そういう存在としてのインパクトを、地元の街で、隣近所で、世界の中で感じる事だからなんだ。これをやらなきゃ俺はどうにもならないって気持ちをね、つまり、ここが俺の居場所であって、ここに俺は居るべきなんだという表明をする必要性を、俺は今も感じるよ。今も出来る限り上手にやりたいと考えるし、どうせやるんなら、常に向上してきたいとも思うよ。それが俺のやりたい事なんだ。」やっぱり、音楽はあなたなりの活路を見い出すのに大きな支えになったと思います?
「もちろんだよ。音楽こそが俺にとって核心的な繋がりになったものなんだ、初めて歌い始めたその瞬間にね。初めてステージに上がった時、エルクス・クラブへ行って『Twist&Shout』を歌った時、俺はそれまでと違った、全然違う気持ちになったんだよ。」