
「子供の頃、家で不評をかってるものが2つあった。一つは俺で、もう一つは俺のギターだ。親父はよくキッチンに座っていたんだけど、キッチンにダクトのついてない、大きなヒーターみたいなのがあったんだ。ただ、穴があいているんだけど、そのすぐ下に、ガス・ストーブがあって、俺がギターを引きはじめると親父はガスをひねって、煙り攻めにして俺を追い出そうとしたもんだよ。俺は屋根の上かどっかに避難したんだ。親父はギターの事を、よく文句言ってたんだけど、絶対にフェンダーのギターとか、ギブソンのギターとか言わずに、いつだって『くそったれギター』って呼んでいたよ。ドアから頭を出して、『そのくそったれギターを止めろ!』って怒鳴ったもんさ。
親父は俺を弁護士にしたかったんだ。おかしいんだけど、17歳の頃バイクで事故っちゃってね、キャデラックが俺の前に突っ込んで来たんだ。それで、乗ってた奴が俺に向かって、『よくもキャデラックに傷を着けてくれたな!』って怒鳴ったんだ。で、訴訟になったんだけど、俺が親父に弁護士の所に連れてってもらったら、その弁護士がこう言うんだ。『なんてこった!これじゃぁ到底勝ち目はない』その時の俺はほとんど今と同じ格好をしていたんだ。裁判所に行った日なんか、まったく酷い様だった。足なんか折れちゃってたし。で、弁護士に『もし私が判事だったら、君を有罪にするだろうな!』って言われちゃったよ。何故だか分らないけど。たぶん裁判所みたいな所に俺みたいなのがいる事自体が罪なんだろうな。
でも、とにかく親父は言っていた。『お前は弁護士にならなくちゃいかん。何か自分の為になるような事をしなくちゃ駄目だ。』で、お袋はこう言っていた。『あら、あの子は作家になるべきよ。本を書けば良いのよ。作家はいい生活を送れるし、自分の為になるわ。』ってね。でも、親父もお袋も俺が全てを欲しがっている人間だって事を分かってなかったのさ。だから、俺に弁護士になって欲しかった親父も、作家になって欲しかったお袋も、今夜は一緒にロック&ロールしてくれよな!」(78年 GROWIN' UPを演奏する際に)「俺は20マイル程内陸部にある小さな街で育った。みすぼらしい、2階建ての、2世帯用の家で、隣はガソリンスタンドだった。お袋はダウンタウンで秘書をやっていた。親父の方は職を転々としていたな−−−敷物工場でしばらく働いていたかと思うと、刑務所で看守をやったりってね。刑務所で働いていた頃の親父は、いつも不機嫌な様子で酔っぱらって帰ってきて、キッチンに座っていたのを覚えてるよ。
夜、9時頃になると、親父は灯りを全部消しちゃうんだ。家の中の灯りを一つ残らずにね。そして、缶ビールを半ダースとタバコを一箱持ってきて、キッチンの椅子に座るんだ。そこに帰ってきた俺は、家の中に入るのが恐くて車道に立ったまんま、入り口の網戸とか、親父のタバコの火を眺めていたもんだ。
俺はいっつも髪をオールバックにピッタリ撫で付けててた−−−どのくらい伸びたか親父にばれないようにね。そして、そっとキッチンを通り過ぎようとするんだけど、あのオッサンときたら、毎晩俺に気づいてキッチンまで引きずり戻してさ。真っ暗いところで食卓に俺を座らせて、自分も腰をかけて説教を始めるんだ・・・・。思い出すよ、暗闇の中で座っている自分、親父の説教をただただ、ずっと聴いている自分の姿を・・・・。
そうこうする内に、『お前は何をやってるつもりなんだ』って親父が言い出して、俺達、最後にはいつも怒鳴り合っていた。すると居間にいたお袋が必ず駆け込んで来て、泣きながら親父を俺から引き離そうと、喧嘩を止めさせようとするんだ。で、俺はというと、結局いつも裏口から飛び出して、そして、そして、そして親父に向かって叫ぶのさ−−−『これは俺の人生だ!俺のやりたいようにやるんだ!』ってね。」 (76,7年頃に頻繁に演奏されたアニマルズのIT'S MY LIFEを演奏する際に)「もちろん、俺は友達が好きだよ。だけど、ほとんどの場合一人っきりでいる事が多いんだ。親父もいつもそんなだった。親父と20年一緒に暮らしたけど、一人の友達が家に訪ねて来るのを見た事がないよ。ただの一度もね。」(81年のインタビューで)
「彼(第二次世界大戦後、兵隊の制服を着て写真に収まっているダグラス)は、こういう凄いスーツを着るとジョン・ガ−フィールドみたいに見えた。カメラマンの頭を食いちぎってやろうとしているみたいに見えた。だけど、俺の子供の頃にこんなに挑戦的で自慢気な親父なんて思い出せない。あのプライドはどうなっちゃったんだろう、どうしてあれがこんな苦々しに変わっちゃったんだろう、ってよく思ったもんだ」(84年のインタビューで)
「親父はあまりにも失望させられ、あまりにも打ちのめされ続けてきたから・・・、俺には夢があるし可能性もあるっていう俺の考えを受け入れる事が出来なかった。俺が求めているものを、彼はただ馬鹿げてるとしか思っていなかった。」(84年のインタビューで)
「若い頃、俺と親父って、相当喧嘩したんだよね。ほとんど全ての事に関して喧嘩した。まぁ、髪の毛も長かったし、肩を超えるぐらいあったね。17か18の頃かな、あの当時は、かなり憂鬱だった。時には相当喧嘩したんで家にいない事もあった。夏の時とかそう悪くなかったんだよね。友達とかも結構いたし、天気もそう悪くなかったから。でも、冬になると、ダウンタウンの街角に立っていたのを思い出すなぁ。風は吹いていたし・・・、電話ボックスがあったんだよね、よくそこに入っていたんだ。そこから、よく女の子に電話したね、夜通し話していた事もあったり・・・。そういう事があると少し元気が出て、家に帰るようにした。
家に車が入る所があって、そこから台所に行くと親父が待っているんだ。そこで長い髪をシャツの後ろなんかに入れてね、部屋の中に入って行くんだ。そうすると親父に呼ばれて、座って話をするんだけど、まぁ、親父がよく言っていたのは、『お前、何をするつもりなんだ』って事をよく聞かれてた。最悪だったのは、それに答える事が出来なかったんだ。それと、もう一つ思い出すんだけど、一度、オートバイで事故を起こしたんだ。ベットにほとんど縛り付けられたって感じで、そこに親父が散髪屋を呼んで髪を切ったんだよ。俺、凄く怒って親父に『大嫌いだ、今日の事は絶対に忘れないぞ』って言った事を憶えているなぁ。親父はこう言った事もあったんだ、『徴兵されて、お前がいなくなるのを待ち遠しく待ってるよ。』・・・そういう事を言ってた。そして、『軍隊に入ったら、お前を叩き直すだろう、髪を切るだろう』とも言っていた。この時は、68年の頃で軍隊に行った友達は、戻って来なかった頃なんだよね。戻って来た奴も前とは同じじゃなかったし・・・。
徴兵令状が届いた日を思い出すんだ。両親に見つからないように隠して、身体検査の3日前に友達と飲みに行ったんだ。ずっとその晩起きてて、朝になってバスに乗った。みんな身体検査に落ちて家に帰って来たんだ。それで、家に帰ると親父とお袋がいた。親父が聞いたんだ、『お前はどこに行ってたんだ?』俺は言った、『身体検査を受けに行ったんだ、だけど、俺を取らなかったよ。』そしたら親父は、『それは良かったな』と言ってくれたよ。」(85年 THE RIVERを演奏する際に)「長い事ある癖が取れなかったんだ。車に乗って、故郷の街の昔住んでいた辺りを回ってみるんだ。自分が住んでいた家々の前を必ず通ってね。それが高じて、一週間に2回3回、4回ってペースで通う状態が何年も続いたんだ。それでとうとう、俺は一体何やってんだ?って所まできちゃって、精神科医に診てもらったんだ。本当だよ。俺は言ったんだよ。『先生、俺はどうなっちゃってるんだ?』すると先生はこう言ったんだ、『昔そこで何か酷い事があって、それをなんとか修復出来ないか、やり直せないか、って思ってるから、いつまで経ってもそこに戻ってしまうんだよ。』俺は診察室に座って、そしてこう言ったよ。『あぁ、俺がやっているのはまさにそれだよ。』とね。すると先生はこう言った。『でもそれはやっちゃいけないんだよ。』」(90年11月17日 MY FATHER'S HOUSEを演奏する際に)
「俺はずいぶん個人的な曲を書いてきたよ、親父の事を書いた曲とかね。完全な自伝じゃないにしても、かなり近いものなのさ。My Father's Houseは個人的な歌だ。個人的な歌を書く事で何かトラブルが起こるとしたら、俺のやり方がどこか悪かったって事になるんだろうな。俺はあまりいい歌を書いてないからね。」
そういった歌に対するあなたの父親の反応はどんなものでしたか?
「親父と俺の関係はずいぶん変わったんだ。実際、俺が家を出てからは、ほとんど一夜の内に変わってしまった。凄く興味深い事だった。たぶん、俺達はそういう事に関して直接話しをするような人間じゃなかったんだと思う。親父はどんなやり方にしても、自分の反応を表にあらわすタイプじゃないんだ。それがある奇妙な方法で、決して最良な方法とは言えないんだけど、そういう雰囲気が一掃されたのさ。親父に一度聞いてみた事があるんだ、どんな歌が好きかってね。そしたら、『俺の事を歌った曲がいいねぇ』だってさ(笑)。前にも言ったけど、心をかよわすのにこういう方法がベストだとは思わないが、少なくとも俺と親父にとっては、こういう方法しかなかったんだ。今じゃ、俺達の関係はもっと親密なものになってるよ。俺の場合は、自分自身にとって全てを明らかにする為にそういう方法をとったけど、他の人が同じ道を辿るとは限らないからね。俺と親父はずっと長い事、無意味な距離を保ち続けていたってわけだ。だけど、今の関係は実に理想的だよ。まさしく、父親と息子さ。」(86年 ビル・フラナガンのインタビューで)「俺は元来孤独を好む方なんだ。それは心理的な意味での事だ。親父も同じ傾向を持っていた。孤独でいるために、金銭や外壁は必要無い。半ダースのビールとテレビがあれば孤独になれるやつらは山ほどいる。それが俺の生まれ持った性格の大きな部分だった。」(92年のインタビューで)
「子供の頃、親父はフリーホールドのプラスティク工場で夜のシフトで働いていた。ある日親父は弁当を家に忘れてしまった事がある。お袋はランチを渡す為に俺をそこへ連れていってくれたんだ。そこでの騒音とか仕事の状況をよく覚えている。また、親父はしばらくトラックの運転手をしていた事もあったんだ。俺はトラックの荷降ろしを手伝ったよ。それは俺にとって素晴しい日々だったよ。」(94年のインタビューで)
ADAM RAISED A CAIN
You're born into this life paying
for the sins of somebody else's past
Daddy worked his whole life for nothing but the pain
Now he walks these empty rooms looking for something to blame
You inherit the sins, you inherit the flames
Adam raised a Cain
おまえは誰かの過去の罪を償いながら
この世に生まれてきた
親父は一生苦しみの為に働いてきた
そして、今、彼はこれらの虚しい部屋を何か責める事の出来るものを探しながら歩き回る
おまえはその罪を受け継ぐその炎を受け継ぐ
アダムがケインを育てたのだ
FACTORY
Through the mansions of fear, through the mansions of pain,
I see my daddy walking through them factory gates in the rain,
Factory takes his hearing, factory gives him life,
The working, the working, just the working life.
多くの不安と痛みを通って
俺は親父が雨の中工場の門を通って行くのを見ている
働き過ぎて耳が悪くなっても働かずには生きていけない
働くだけの、働くだけの、働くだけの人生だ
INDEPENDENCE DAY
Now I don't know what it always was with us
We chose the words, and yeah, we drew the lines
There was just no way this house could hold the two of us
I guess that we were just too much of the same kind
俺達のどこがいけなかったのか分らない
言葉を選び、互いに距離を置いてきたんだが
この家に二人一緒にいるのは不可能だ
俺達はあまりにも似た者同士だったのかも知れない
MANSION ON THE HILL
At night my daddy'd take me and we'd ride
Through the streets of a town so silent and still
Park on a back road along the highway side
Look up at that mansion on the hill
夜 親父に連れられて
ひっそりと静まりかえった通りをドライブした
裏道のハイウェイ側に車を止めて見上げた
丘の上のあの大きな家に
USED CAR
My dad, he sweats the same job from mornin' to morn
Me, I walk home on the same dirty streets where I was born
Up the block I can hear my little sister in the front seat blowin' that horn
The sounds echoin' all down Michigan Avenue
Now, mister, the day my numbers comes in
I ain't ever gonna ride in no used car again
親父は一日中汗水流して同じ仕事の繰り返し
俺は俺の生まれたこの街の汚い通りを歩いて家に帰る
妹がフロントシートで警笛を鳴らしている
それはミシガンアベニューに響き渡る
宝くじが当った日には
もう決して中古車には乗らないぜ
MY FATHER'S HOUSE
My father's house shines hard and bright
It stands like a beacon calling me in the night
Calling and calling, so cold and alone
Shining `cross this dark highway where our sins lie unatoned
父の家はしっかりと輝いて立っている
夜の闇の中で俺を導く明りのように
その光は冷たく孤独に俺をしきりに呼んでいる
そして、その光は、我々の罪がまだ償われていない
この暗いハイウェイのこちら側にまで輝いている
MY HOMETOWN
I was eight years old and running with a dime in my hand
Into the bus stop to pick up a paper for my old man
I'd sit on his lap in that big old Buick and steer as we drove through town
He'd tousle my hair and say son take a good look around this is your hometown
This is your hometown
This is your hometown
This is your hometown
僕は8歳だった、10セントを手に持って
親父の使いで新聞を買いに、バスストップへ走った
親父のビュイックに乗せてもらったものだ
親父の膝の上でハンドルを握り、一緒にドライブした
親父は俺の頭を手荒く撫でながら言った
良く見ておくんだ、これがおまえのホームタウン
これがおまえのホームタウン
これがおまえのホームタウン
これがおまえのホームタウン
WALK LIKE A MAN
Well now the years have gone and I've grown
From that seed you've sown
But I didn't think there'd be so many steps
I'd have to learn on my own
Well I was young and I didn't know what to do
When I saw your best steps stolen away from you
Now I'll do what I can
I'll walk like a man
And I'll keep on walkin'
長い年月が経ち
僕はあなたが蒔いた種から成長しました
こんなにも多くの道程があるとは思いませんでした
自分の力で学ばねばなりませなりませんでした
あなたの人生の最も大事な部分が
あなたから奪われるのを見た時
僕はまだ小さくて、どうしていいか分りませんでした
今、僕は出来る事をやっていくつもりです
男らしく歩いていくつもりです
歩き続けていくつもりです
IN FREEHOLD
well now something broke my daddy's back in Freehold
he left and for 30 years he'd never come back
except once he drove from California in just 3 days
called my relatives some dirty names
drove straight out of Freehold
Now he's buried by the highway, buried in the dirt
his ghost just flippin' the bird, to everybody in Freehold
フリーホールドにうんざりしていた親父は
この町を出て、30年間戻らなかった
ただ一度だけ3日かけてカリフォルニアからドライブして来た
そして、親戚のみんなにひどい悪口を浴びせて、また飛び出していった
親父は今ハイウェイ沿いに埋められている、土の中に埋められている
彼の亡霊はフリーホールドのみんなに向かって中指を立てている