源頼朝物語 〜イイ国作ろう☆鎌倉幕府〜 最終話・武家政権の確立

★北方の王者

頼朝は義経を探しつつ、義経を匿ったとされる公家や寺社を糾弾し、畿内においての勢力を伸ばして行ったのですが、肝心の義経を見つけることは出来ませんでした。

時政:
「殿、義経の居場所が分かりましたぞ! なんと!奥州の藤原秀衡のもとに逃げ込んでおりました!」

頼朝:
「なんだと!九郎のヤツめ…そりゃあ見つからん訳だ!」

京都・奈良近辺を執拗なまでに捜索し、義経の部下たちや愛妾の白拍子・静御前を捕らえることには成功していた鎌倉軍団でしたが、当の義経はまんまと奥州の地に逃げ込んでいたのでした。

時政:
「これはやっかいなことになりましたな。奥州を支配する藤原秀衡は今まで我らと平家の争いには中立を守ってはいたものの、決して我らに下ることを良しとしている訳ではありませぬ。そんな危険分子に戦の天才・義経が結びついたとなると、これは一筋縄では行かないことでしょう。」

頼朝:
「秀衡め…これまでも遠まわしに我ら鎌倉連合に下るよう圧力をかけていたのを、のらりくらりと避わしていやがったが、九郎を受け入れたと言うことは完全に我らと対立する道を選んだと言うことか。」

以前に少し触れたとおり、当時の奥州(東北地方)は藤原秀衡の支配する半独立国状態となっていたのですが、平家を倒して全日本総地頭総追捕史となった頼朝としてはそんな状態を許す訳には行かず、鎌倉武士団連合の版図に組み入れようとしていたのでした。とは言ったものの、奥州の地は藤原秀衡統治のもとガッチリ一枚岩にまとまっており、奥州17万騎と言われる強力な騎馬軍団が控えているとも噂され、さすがの鎌倉軍団も手が出せずにいたのです。なので頼朝は外交的に威圧的態度を取って鎌倉連合に下るようプレッシャーをかけていたのですが、対する藤原秀衡にしても頼朝は正面から戦って勝てる相手ではないことは重々承知しています。そこで藤原秀衡は表立って頼朝と対立することはせずに頼朝の要求を上手に逃げ避わしておりました。義経奥州入りの報が頼朝の下に届いたのは、両者の間にそんな不気味不穏な空気が漂っている矢先のことだったのです。

藤原秀衡:
「いくらわしらが下手に出ても、いずれ頼朝めは難癖を付けてこの奥州の地に攻め入ってくるであろう。それならたとえ鎌倉と公然と敵対することになってもこの戦の天才を使いこなした方が得と言うもの。」

このように考えた秀衡は義経を手厚く保護していたのですが…

秀衡:
「ぐ、ぐほっ!!! ど、どうやらわしの寿命も尽きようとしているようじゃ…」

1187年10月、齢60を超えていた秀衡は病に倒れます。

秀衡:
「よいか息子たちよ…わしら奥州民と頼朝の坂東武者たちは決して相容れることの出来ぬ存在同士。間違っても話せば分かる相手などと考えぬことじゃ。もし鎌倉が攻めて来たときには、九郎の君を大将として仰ぎ、鎌倉に当たるがよい。おぬしら兄弟が九郎の君の下に結束すれば、きっと奥州は安泰じゃ…」

北方の王者、藤原秀衡は、今ひとつ頼りない息子達ではなく、戦の天才・義経にこの奥州の行く末を託し、この世を去って行きました。

頼朝:
「なにっ!藤原秀衡が死んだだと!? ヤツさえいなければこっちのものよ!」

時政:
「秀衡の息子達はバカ者揃いの上に仲まで悪いと聞いております。少し揺さぶりをかければ奥州は簡単にバラバラとなることでしょう。」

頼朝:
「よーし、後を継いだとされる藤原泰衡(やすひら)の下に、義経を引き渡すよう院宣をジャンジャン送ってやれ!」

院宣:
「謀反人義経を引き渡せ。さもなくば攻め滅ぼす。従えば許す。」

頼朝はジワリジワリと奥州に圧力をかけていったのでした。

★義経の最期

跡目を継いだ泰衡:
「鎌倉からは義経を引き渡せと連日の催促だ。あげく朝廷からの正式な命令書まで出ちゃっているし…こうなったら義経なんてブっ殺した方がイイんじゃねーの?」

弟の忠衡:
「なにを言われますか兄上!父上の遺言を忘れましたか!!!」

泰衡:
「そうは言ってもよぉ、そもそもなんでオレらが赤の他人の義経を大将と仰がにゃイカンの? それに頼朝は義経引き渡せば許すって言ってるぜ?」

忠衡:
「そんなの頼朝のワナに決まっているでしょう!それが分かりませぬか兄上!!」

長兄だが庶子の国衡:
「まあまあお前ら落ち着けよ。なにするにしても兄弟みんなで力を合わせなきゃだろ。」

泰衡:
「うるせーよ妾腹は黙ってろ!!」

国衡:
「な、なんだとっ!」

頼朝の揺さぶりは功を成し、藤原兄弟の結束はてんでバラバラです。

泰衡:
「ええいもう俺は決めたっ! 義経を殺して鎌倉に恭順する道を選ぶぜ!」

1189年4月30日、戦の天才・九郎義経は、平泉衣川館において頼朝の脅しに屈した泰衡の襲撃に合い、あっけなく討ち取られたのでした。また、時を同じくして義経派の先方であった弟の忠衡も殺されてしまったのです。

泰衡:
「よーし、後はこの義経の首を鎌倉に送って一件落着っと。頼朝に屈するのはちょっと癪だけど、これで奥州藤原氏も安泰だろ。」

泰衡は頼朝の言うことを聞けば、奥州は鎌倉政権下には組み入れられるものの、自分の地位は安泰だろうと考えていたのですが、もちろん頼朝はそんなに甘い男ではありません。

頼朝:
「そうかついに九郎も死んだか! そのうえ兄弟で殺し合いまでヤラかして弱体化している奥州なんざ屁のカッパだろ! よし早速、朝廷に対して泰衡追討の院宣を出させるぞ!」

こうして頼朝は後白河法皇に院宣を求めたのですが…

後白河法皇:
「泰衡はワシらの言うことをしっかり聞いて、朝敵義経を討ち果たしたではないかwww それを討伐する理由なんて無いだろwww」

これまでの頼朝の戦略は、朝廷の許可を取ることによって大義名分を得てから動くことによって自らの正当性を主張しておりました。なのでなんとしても泰衡追討の口実が欲しかったのですが、頼朝の勢力拡大を良しとしない後白河法皇は、頼朝の申し出に頑として首を縦に振らなかったのです。

★大義名分

頼朝:
「ぐぬぬ…ええい院めっ!」

法皇の言うことはもっともなので、頼朝としてはこれ以上、院に対して強く出ることは出来なかったのですが、

時政:
「……殿、ちょっと考え方を変えてみてはいかがでしょう?」

頼朝:
「なん…だと…?」

時政:
「奥州藤原氏の祖・藤原清衡はそもそも昔は八幡太郎義家公の配下にありました。と言うことは、もともと奥州藤原氏は源氏の家人のようなものではありませぬか。」

時政の言うとおり、奥州藤原氏はかつて八幡太郎義家が奥州を平定した際にはその配下にいたのですが、八幡太郎義家が中央の政争によって奥州の地を去ると、ドサクサに紛れて奥州を自分のものとしたと言う過去だったのです。また、頼朝が奥州との対決姿勢を崩さなかったのも、このような事情があったからなのでした。

頼朝:
「(ぽんっ!)なるほどそうだよな☆藤原泰衡はもともと源氏の家来なんだから、家来をどう扱おうがオレの勝手だよな?」

時政:
「それに殿はこの日本の総追捕史でもありますぞ。日本総追捕史ともあろう方が、たかだか家人の一人に懲罰を与えるのに、何故いちいち院にお伺いを立てる必要がありましょう?」

頼朝:
「はーはっはっは!! ざまあ見ろ院め!!」

こうして泰衡懲罰の大義名分を無理矢理ヒネり出した頼朝は、全国の武士たちに大動員令を発したのでした。

頼朝より全国の武士たちへ:
「オレはこれから奥州の藤原泰衡を懲らしめに行く。今回の戦に来てくれた者には、御家人としての然るべき地位を与えるので奮って参加してくれ。それからこれは、今まで鎌倉御家人連合に登録していなかった者とて例外ではないぞ。さあ、これを機に、皆も我ら鎌倉武士連合の一員となろうぜ!」

頼朝はこの奥州合戦への参加の是非を問うことにより、全国の武士達に対し鎌倉武士連合の一員となるかどうかの意思確認をすることにしてみると…

御家人たち:
「今こそ鎌倉殿の恩に報いるときぞ! それに奥州は宝の山と聞いておる。うまく手柄を立てればきっと鎌倉殿が奥州の地頭にしてくれるはず!これは絶対行くべきだろ!」

今まで御家人じゃなかった武士たち:
「これまできっかけが無くって鎌倉武士連合に入り損ねていたけれど、これは鎌倉殿に自分をアピールするいいチャンスじゃん! よーし俺も御家人になるぞー!」

なんと!頼朝の下には28万人もの武士が集まったのでした。

頼朝:
「見たかオヤジ殿…思えば蛭ヶ小島ではたったの300人の旗揚げだったのが、この大軍はどうだ? オレたちの鎌倉武士連合を信じて着いて来てくれる者がこんなにもいてくれたんだ!」

時政:
「朝廷からのお墨付きなど貰わずとも、もう殿は誰もが信じる立派な武士の棟梁です。さあ、号令をおかけください!」

頼朝:
「皆の者、よくぞ集まってくれた! 思えば以仁王の令旨を受け取ってから7年…皆には沢山の苦労をかけたが、そのおかげでこの鎌倉には、武士たちの武士たちによる武士たちのための政権が誕生した! この奥州合戦がオレたちの鎌倉武士連合最期の戦いだ! 奥州平定の暁にはこれまでの皆の労を報いねぎらい、オレたち武士が誰からも束縛されず、自由に安心して暮らせる世の中を作ってやるぜ! みんな最期まで着いて来てくれ!」

武士たち:
「おおーっ!!」

1189年7月18日、こうして頼朝は自ら28万の武士たちを率いて出陣して行きました。

後白河法皇:
「なに?頼朝がワシの許可を取らずして奥州に向けて出陣して行っただと?www それはマズいwww もしこれが既成事実となってしまったら、今後も頼朝は朝廷の許可無しに何をやっても大丈夫だということになってしまうwww でも今の頼朝の勢いではワシが無許可で奥州征伐に出かけたことを咎めようとしても誰も頼朝を抑えることは出来んだろうwww こうなってしまっては仕方ない…今更だが頼朝に対して藤原泰衡追討の院宣を出してやることにしようwww そうすれば一応なんとか、頼朝はワシの命令で出陣して行ったという形にはなるwww それが精一杯のメンツ保ちであろうwww くやしいのうくやしいのうwww」

頼朝の勢いの前にはもはや後白河法皇もその動きを追認せざるを得なかったのです。

頼朝:
「はーはっは。院がこんなものを送って来やがったぞ!」

時政:
「殿の勢いの前には院も成す術は無いようですな。これで奥州合戦への弾みがつくというものです!」

大義名分までも手に入れて一致団結闘志満々の鎌倉軍団に対し、兄弟で殺し合いまでおっ始めてしまって屋台骨グラグラの奥州軍団が敵うはずもありません。1189年9月、鎌倉軍団はわずか3ヶ月で奥州の首都・平泉を陥落させて泰衡の首級をあげ、鎌倉に凱旋して来たのでありました。

後白河法皇:
「今回の奥州征伐は、曲りなりにもワシの院宣によって始められたものだから、恩賞の一つでも出しておかなくてはカッコがつかんwww それに恩賞を受け取ると言うことは配下であるということの証であるwww 頼朝はじめ今回の戦において手柄のあった者に恩賞を与え、真のボスはワシであることをハッキリさせておかないとなwww」

頼朝が28万もの武士を率いたことは頼朝独自の力ではなく、院の命令によるものだと言う形にすることによってメンツを保とうと思った後白河法皇は、さっそく鎌倉に恩賞の沙汰を送ったのですが…

頼朝:
「だが断る!!」

院からの使者:
「あんですとー!!!!」

頼朝:
「親が子供を叱ったら恩賞が貰えるのですか? 主人が家人の罪を咎めることが手柄になるのですか? 此度の戦はあくまで源氏家内の出来事でありますので、院から恩賞を受け取る言われなどございませぬ。」

後白河法皇の魂胆など当に見抜いている頼朝は、恩賞をアッサリ辞退し、武士間での出来事はあくまで武士間で決着をつけるという姿勢を明確にしたのでした。

御家人たち:
「朝廷からの恩賞や官位など貰わずとも、今は鎌倉殿がしっかり恩賞を下さるし、土地の支配権も明確にしてくれる。もう俺たちの鎌倉武士連合に、朝廷なんて必要ないぜ!」

奥州までも制覇して国内には敵無し状態となり、朝廷からの介入も跳ね除けた頼朝の威光は、完全に揺ぎ無いものとなりました。

頼朝:
「九郎を葬り、奥州藤原氏を倒し、武士間にはもはやオレに敵対するものはいなくなった…いよいよ残る最後の敵と決着をつける時が来たようだな…」

時政:
「ついに殿が上京する時が参りましたか…」

頼朝:
「待っていろ日本国随一の大天狗!」

頼朝に残された最後の敵…それは平家に義仲、そして義経、頼朝までも翻弄し、常にこの戦乱の日本という台風の中心にいた後白河法皇でした。
1190年11月、頼朝は平家に追い落とされて以来、実に30年ぶりに京都に上って行ったのです。真のラスボス・後白河法皇との決着をつけるために…

★最期の戦い

頼朝:
「お初にお目にかかります。某が日本国総追補使総地頭・源頼朝にございます。」

後白河法皇:
「おおwww おヌシが源氏の棟梁・頼朝かwww これまでのそなたの働き、実に見事であったwww 改めて礼を言おうぞwww」

これまでこの物語を読んで来て頂いた皆さんには実に違和感のあることだと思いますが、なんと!頼朝と後白河法皇はこの時が旗揚げ以来、初めての対面であり、それまでは直に書状のやり取りをしたことすらなかったのです。

本作品でもこの日本史演義シリーズでも何度か触れていることですが、この時代には電話もメールもファックスもありません。また、身分の壁が物を言うこの時代、武士と天皇(法皇)が直接話をすることなどそうそうあることでは無かったのです。

頼朝:
「さて法皇様、平家が滅び、奥州も潰えた今、ようやくこの日本に平和が訪れたと言えるでしょう。これも一重に法皇様のご人徳によるものです。つきましては今後のこの日本のあるべき姿についてじっくり話し合いがしたいのですが…」

後白河法皇:
「うむwww よかろうwww この日本の恒久の平和こそが我が望みwww そのためにはこれからもおヌシには存分に働いて貰うつもりだぞwww」

頼朝:
「それではまずは…」

頼朝と後白河法皇は、余人を交えず二人っきりで長いこと長いこと話し合いました。これは凄いことですよ。なにしろこれは日本を二分して相反する勢力によるトップ同士の一対一の会談なのですから、現代社会に例えてみれば、アメリカのオバマ大統領と中国の胡錦濤首席とが一対一で会談したようなものでしょう。

頼朝:
「ふ〜終わったぜ…」

時政:
「いかがでしたか?その首尾は」

頼朝:
「アレはやはり、煮ても焼いても食うことの出来ぬ、日本国随一の大天狗よ。義経を捕らえるためにと無理矢理毟り取った日本国総地頭総追捕史の座については、義経を捕縛し大義名分を失った今後もなんとか継続して就任できることになったが、もう一つの方はどうしてもダメだった…」

時政:
「そうですか…征夷大将軍の方は認められずですか…」

頼朝:
「古の世に存在した役職、朝廷軍を束ねる武官のトップ・征夷大将軍…これを復活させ就任すれば、武官のトップであると言うタテマエをもってして、奥州合戦の時のような理屈を金輪際使い続けることが出来るってのはいいアイデアだと思ったのだが…」

時政:
「その意図を見破られてしまったのでは院が首を縦に振るはずはありませんな。」

頼朝:
「まあいい。それでもオレたちの鎌倉武士連合はしっかり軌道に乗ってるし、征夷大将軍の件については鎌倉派の公家たちにでも働きかけて、ゆっくりやって行くことにするさ。」

征夷大将軍とは、平安時代の初期に存在した職で、蝦夷(当時、大和朝廷に従っていなかった東北地方の民のこと)を征する軍団の大将を意味しています。でもやがて蝦夷が大和朝廷に屈服すると、その職は長らく空位となっておりました。征夷大将軍は、遠征中には朝廷からの命令を受け付けずに独自に軍を展開することを許されていたで、頼朝はココに目を付けていたのです。
でもそんな頼朝の意図を見抜いた後白河法皇は、頼朝には征夷大将軍の代わりに、宮廷近衛師団長とも言える官位、右近衛大将(うこのえだいしょう)を与えます。(とてもエラい職です)

後白河法皇:
(どうだ頼朝www これはこれで武官のトップだろwww)

頼朝:
(違う!近衛師団長じゃあ宮廷から出られないってことじゃんか! 征夷大将軍ってのは遠征軍の将であるってことに意味があるんだろ!!!)

それでも頼朝はいちおうこの右近衛大将に就任しますが、たったの10日でその職を辞してしまいます。

頼朝:
(どうだ院よ、オレのような大物が、一見従うように見せながらもやっぱり無位無官でいるってのは不気味なモンだろう。)

その後、頼朝と法皇の間ではこんな駆け引きが展開されていったのですが、1192年3月、その後白河法皇も66歳にてこの世を去ったのでありました。

★イイ国作ろう☆鎌倉幕府

頼朝:
「ついにあの大天狗も去った!これでもうオレの邪魔をするものはいねえっ!」

1192年7月、ついに頼朝は、念願の征夷大将軍の位に就いたのでありました。

頼朝:
「…でもこの征夷大将軍、ぶっちゃけオレの自己満足なんだよな。この鎌倉武士連合はもう揺ぎ無いものに育ちきっている。これを言っちゃあオシマイだけど、オレが右近衛大将だろうが将軍だろうが何だろうが…極端な話、もうオレなんていなくたって大丈夫なんだよな。」

時政:
「でもそれは実に凄いことではございませぬか。一人の絶大なカリスマに頼ることなくとも運営することの出来る組織、殿はそんな素晴らしいものを作り上げたのです。この殿の偉大なる功績は、未来永劫忘れられることは無いでしょう。」

頼朝:
「オレは別に自分がエラくなりたかった訳じゃあねえ。オレはただ、武士たちがしっかりと自分達の権利を守り、自分達の力で健全に生きていける世の中が作りたかっただけだ。それが成ったんだから、もうオレの役目は終わりでもいいさ。」

時政:
「でも東国はともかく、西国にはまだまだ御家人となっていない武士も沢山おります。それに後白河法皇亡き後の朝廷の動きにも警戒しなければなりませぬ。殿にはまだまだ働いて貰わねば困りますぞ。」

頼朝:
「まったく…あの蛭ヶ小島の旗揚げ以来、オレはずっとこうしてオヤジ殿に上げられ乗せられ続けて来たんだよな。ええい分かったしょうがねえ、この鎌倉武士連合をよりよい組織にするために、オレはまだまだ走って行くぜ!」

時政:
「それでこそ殿ですぞ!」

頼朝:
「オレたちの鎌倉武士連合はこれからだっ!」


源頼朝物語 〜イイ国作ろう☆鎌倉幕府〜 完

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さてさて鎌倉武士達の物語、いかがだったでしょう? 武士たちにとってのイイ国を作り上げた頼朝と武士たちの苦労と苦心、その複雑な成立事情がお分かりいただけたでしょうか? 
筆者は結局、最期の最期まで作中において「鎌倉幕府」という組織を登場させませんでしたが、その意味はきっと分かって貰えたかと思います。だってそもそも、鎌倉時代に鎌倉幕府なんてものは存在しなかったのですから。鎌倉にあったのはあくまで鎌倉武士連合(これも筆者による造語です)による侍所や公文所、問注所と言った機関だけであり、「幕府」なんてものは無かったのですよ。

筆者が最初にいきなし「鎌倉幕府なんてものは存在しなかった」なんて言い出したら、「何バカ言ってるんだコイツ?」と思われたことでしょう。でもこの物語を全部読んでくれた皆さんなら、筆者の意図としてはむしろ、鎌倉幕府ってのは、「1192年・鎌倉幕府成立」なんて一言で片付けることの出来ない奥深い組織だったってことが伝えたくて本物語を書いたと言うことが、きっと分かって貰えましたよね? それともう一つ、年表で見るとたった一行で書いてあるだけの歴史的事実には、実はこんなに面白いドラマがあるんだぞってことと、歴史ってのはこんなにも楽しいものなんだよってことが、分かって貰えたら嬉しいですねえ。

ってことで最期、それじゃあ鎌倉「幕府」ってなんだんだYO!ってことだけ書いて締めさせて貰いますね。
幕府とはそもそも中国の言葉で、将軍が野営している駐屯地みたいな意味です。よって日本では、将軍の館と言うような意味で使われており、必ずしも政府のような意味で使われていた訳ではありませんで、そのような使い方をされるようになったのは江戸時代になってからのことです。…で、江戸時代になって、それなら鎌倉時代に存在した政府のことをなんと呼ぼうかと言う話になって、江戸の幕府と区別するために、頼朝たちが作ったヤツは、鎌倉幕府と呼ぶようになったと、そんな話です。…ってこういう解説ってそれだけ読んでも「ふーん」で終わりですよねたぶん。なればこそ、筆者は楽しい歴史のお話を書きたいなと思っている訳なのですが。

長らくのご愛読、誠にありがとうございました。


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