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賃金の高さを理由に、労働契約を更新しないというのは、なんとも世知辛い話だが、実務上は大いにありうることである。交渉事には「ホンネ」と「タテマエ」がつきもので、本当に「契約を更新したいが高賃金がネックとなっている」のであれば、賃金を下げてもらいたいという方向で、交渉の余地があるはずである。
ところが、そういう交渉にまじめに取り組んでいる会社は意外に少ない。たとえば、名古屋高裁で2月にあった控訴審では、パナソニックの子会社「パナソニックエコシステムズ」(愛知県春日井市)で働いていた愛知県の元派遣社員2人が、「派遣切り」をされたとして直接雇用や慰謝料の支払いを求めていたのだが、この訴訟では「賃金の高さ」が議論の的となった。なお判決では、計約130万円の支払いを命じた一審判決を支持し、双方の控訴を棄却している。
一審名古屋地裁は「賃金の高さなどを理由に突然の派遣切りをしており、著しく信義にもとる対応」として同社の不法行為を認めた一方で、派遣社員と同社の間に直接の雇用契約があったとは認めなかった。要するに「賃金の高さ」を理由に派遣切りをすることは、好ましくないということになる。
が、現実にはそれで突っ切ってしまったわけで、そこには言葉には出せない別の理由が潜んでいたのかもしれない。
ある理由があって辞めてもらいたいのだが、それを前面に打ち出すといろいろと障りが出るような場合、「高賃金」を名目にすれば、とりあえず無難である。ただこっちのケースでは、最初から更新というカードは用意されていないということになる。
本ケースがどちらであるかは定かでない。もちろん、「賃金を下げてもらえば更新できる」というアプローチがあったとしても、当事者が金額に執着すれば交渉は成立しない。130万円の慰謝料を貰うことが、当事者にとって損だったのか得だったか。これは微妙なところである。
御承知の通り公共職業安定所(ハローワーク)は、「雇用機会の均等」を標榜している役所である。そのため「男子だけ」「女子だけ」という採用枠は、建前として設けることが出来なくなっている。また、障害者の雇用についても、「雇用率」を定めて、それに到達していない企業には課徴金を課す。もちろん部落解放運動に代表されるような、門地による差別もしてはならぬというのが、日本の常識である。しかし、ウェイトレスは若い女性に向いている仕事であるし、建設現場の作業員が女性ばかりでは成り立たないというのは、現実問題として存在している。採用現場では、性別で採否を決めなければならないことは当然あるし、身障者を採用することが適当でない現場というのも存在している。
さてこの春、良識ある老舗出版社が、傲然と「縁故者」でなければ採用しないと宣言したことにより、現状の労働行政がいかに「タテマエ」ばかりで、実態にそぐわないものであるかが露呈してしまった。
発端となったのは、老舗出版社の岩波書店(東京)が、2013年度の定期採用の応募条件として「岩波書店(から出版した)著者の紹介状あるいは社員の紹介があること」を掲げ、事実上、縁故採用に限る方針を示したということだった。同社の就職人気は高く、例年、数人の採用に対し千人以上が応募しているという。担当者は縁故採用に限った理由を「出版不況もあり、採用にかける時間や費用を削減するため」と説明している。
ただ当初は、入社希望者は「自ら縁故を見つけてほしい」としていたが、厚生労働省から事実関係の確認が行なわれたことにより、「著者等の紹介を選考の基準とはせず、筆記試験と面接試験により厳正な選考を行う考えである」と見解を改めた。さらに、厚生労働省の指導等を受けて、「著者等の紹介を得ることが難しい応募希望者についても、採用担当部門で話を聴いた上で、応募機会の確保を図っている」との苦しい弁明をした。
国は今後も、同社の対応が公正採用選考の趣旨に沿ったものとなっているかについて、しっかり注視していくとしているが、これまで実態から乖離した「空想論」だけを振り回してきた労働行政のやり方を、このあたりで反省すべきなのではないか。
優秀な人材とノウハウの流出防止を目的に、外資系生命保険会社が執行役員との間で取り交した「退職後2年以内に競合他社に就業するのを禁止し、違反した場合は退職金を支給しない」とする契約条項の有効性が争われた訴訟の判決で、東京地裁が1月に、「職業選択の自由を不当に害し、公序良俗に反して無効」との判断を示した。
かねてから転職禁止条項については、退職後の個人の行動を必要以上に制約するおそれがあるという観点から、その有効性を疑問視する声があった。しかしその一方で、会社が長年にわたり相当の資金を投入して当人を教育し、身に付けさせてきた技術やノウハウを、そっくり競合他社に持って行かれたのでは、たまらないと考えたくなるのも当然である。そのため、この手の条項を就業規則に是非とも盛り込みたい、という要望は結構ある。
この裁判はその条文の有効性に一定の判断を示したという点で、非常に意義があると思う。裁判所の判断をごくごく手短にまとめてしまえば、「転職前と転職後の業務が相似していて、現実的に実害を生じさせるような転職」であれば、条文は有効ということになりそうだ。禁止期間は最長でも1年半というのが常識的な目安だろうか。
日本には平安時代から、「すまじきものは宮使え」という言い回しがある。サラリーマン・サラリーウーマンであれば、上司とぶつかった経験のない人というのはまずないと思う。たとえ自分に、幾分なりとも非があったとしても、それを面と向かってあげつらわれては、誰でもカチンとくるものである。それで数日間ヤケ酒をあおったなどという経験は、誰にでも一度や二度はあるはずである。しかし、まあその程度ならば、人生のスパイスとして割り切ることも出来る。
人には個性があって、「負けず嫌い」「勝気」な人というのは、比較的早く組織の中で頭角を現す。頭角を現すというのは、出世の階段を上りはじめるということなのだが、この手の人はともすると「悪魔のような上司」になる素質を内在している。「勝気」な人は、部下が自分よりも優秀であるということが気に食わない、といったコンプレックスを内包していることが多い。これが思わぬ悲劇をもたらしている職場は少なくないのではないか。
いったん部下にコンプレックスを抱いてしまった勝気な上司は、何の非もないのに朝から怒鳴り散らすことが多い。また、社会的地位の高い上司に多い例だが、すべての失敗を部下になすりつけてしまうというタイプも結構いる。どちらにしても、部下にしてみれば、立つ瀬がない。
そういうトラブルを未然に防ぐために、社内に「パワーハラスメントの相談窓口」を設けましょう、と厚生労働省などは推奨している。だが、変な話だがとうの窓口の担当者が、悪魔のような人材であるというケースが結構目につく。
なぜこんなミイラ取りがミイラになってしまうような現象が生じているのだろう。それは会社が、「どこの職場においてもお荷物になってしまう人だから」とくだんの管理職を閑職に追いやっているからである。こうして窓口を最後の駆け込み寺だと信じていた従業員にとっては、パワーハラスメントの窓口こそが地獄の一丁目となってしまうのだ。
身も蓋もないことを言ってしまうが、技術や技能はある程度社内教育などで向上させることが出来るが、人格を社内で変えていくというのは、滅多に成功しない。どうやらわれわれは、この一番難しい「矯正」という問題に、真剣に取り組まなくてはいけない時代に差し掛かってしまったようだ。
QCサークル活動・TPM活動・改善活動・小集団活動などなど、日本の企業は「自己研さん」の活動を奨励(強要)する傾向が強い。しかし自己研さんというが、研鑽した結果は、企業の生産性のアップにつながっているわけで、厳密に言えばこれは工夫による仕事の効率化に過ぎない。真に自己研さんというのであれば、そこで身に付けた技術や技能・知識は、その人の先の人生に役立たなければいけない。先の人生とは会社を退職した後の暮らしである。自己研さんで命を落としてしまっては、本末転倒である。
このあたりの切り分けをすっきりとしない限り、本当の意味での日本の生産性アップは不可能なのではないか。いつまでも従業員のボランティアに頼るような技術技能に支えられているのでは、日本の生産性は世界的な水準には戻れまい。
パナソニックの子会社で働いていた福井県敦賀市の元派遣社員の男性が「派遣切り」をされたとして、子会社と人材派遣会社に直接雇用や慰謝料100万円などを求めた訴訟の判決で、福井地裁は9月に請求を棄却した。
男性は「日本ケイテム」(京都市)から派遣され、2005年2月から「パナソニックエレクトロニックデバイスジャパン」(大阪府)の敦賀市の工場で勤務していたという。ところが、同社は福井労働局から雇用の安定を図るよう是正指導を受けて、06年1月にアルバイトとしての直接雇用を打診した。ところが、くだんの男性がこれを承諾しなかったために休業となり、同年3月に契約期間が終了してしまった。
これはきわめて例外的な案件と言って良いと思う。派遣先は原告に対して、直接雇用することを申し出ている。原告がそれを拒否したということは、その段階で「日本ケイエム」の派遣社員という身分のままでいたいと主張したことになる。それは給与などの処遇がよかったからなのか、他に理由があるのか詳らかにはわからない。
いずれにせよ申し出の際には、派遣社員のままでは仕事が出来なくなる(契約の更新はない)という説明は受けたはずである。そして結果は説明された通りの結末となってしまった。にもかかわらず、派遣先を相手に「派遣切り」だと訴えたという心根がわからない。この事例の場合、働き場所は、「派遣」であっても「直接雇用」であっても同じである。あくまでも「派遣社員」にこだわったということで、原告は働き場所を失ってしまった。さすがにこの手のわがまままでは、労働法規は守ってくれないという事である。
JR北海道が9月7日、労使協定で定められた協議を経ずに、社員に上限を超える時間外労働をさせたのは労働基準法違反に当たるとして、札幌中央労働基準監督署から是正勧告を受けたことを明らかにした。
労働基準監督署は行政警察権を持っている役所である。そのため前々からこのような是正勧告は行われていた。それは間違い事実のだが、自民党が政権を握っていた頃には、今ほどには時間外労働違反で是正勧告を受けることはなかったように感じられる。法を厳格適正に運用すること自体は、悪いことではない。ただ、厳しく取り締まるだけで、実労働時間短縮の流れをつくることは難しい気がする。それというのも、労働時間の短縮が業務効率向上の結果になっていれば、それは間違いなくグローバルな意味での競争力の強化になるからだ。本来行政では、そのあたりの技術的な啓蒙活動をしなければならない。是正勧告を出した件数を成果ととらえているなら、国には産業育成の方針がないということである。
なお、この案件と直接かかわりがあるかどうかは不明だが、JR北海道の社長は勧告を受けた後に失踪し、その後遺体で発見された。
サラリーマンであれば、昼休みに電話番を頼まれたという経験は、一度ぐらいはあるのではないか。その際に、一度も電話がかかって来なかったら、それは「仕事」として認められるのか?という疑問は、結構昔から議論されて来た。
結論から言ってしまえば、これは「仕事」として認められなければいけない。
使用者の指揮命令下にある時間を労働法では「労働時間」と呼ぶ。電話番を頼まれたということは、その時点で業務命令されたわけで、これは「労働時間」となる。裏返して考えれば、休憩時間には労働から完全に解放されていなければいけない。よって、実際に電話がかかって来たかどうかには関係なく、休憩時間中の電話番は労働時間となるのだが、現実には電話番そっちのけで、パソコンでゲームをしていたというようなケースもあり、杓子定規には適用しにくいというのもまた現実である。
他に裁判で労働時間とされたケースとしては、「始業前の強制参加の朝礼、ラジオ体操」「強制参加の接待飲食」「定期健康診断」「
強制参加の運動会」などがある。大まかにポイントをおさえるとすれば、@強制のあるなしA指示のあるなしというところだろうか。
県や市町村が直接運営して来た施設が、年に一度の入札によって民間企業に委託されるというケースが頻繁に起きている。いわゆる「指定管理者制度」と呼ばれるもので、公務員に運営を任せるよりも効率が良くなり、またサービスの質も向上するというのが、これを採用する「セールストーク」になっている。
サービスの向上が額面通りであるならありがたいが、効率がよくなるという点については、眉に唾を付けて考えてみる必要がありそうだ。仕事を出す側(国や地方自治体)は、その委託料が安いことで「効率が良い」と判断しているようである。その結果、指定管理者が雇用する労働者は、皆最低賃金ぎりぎりという水準に留め置かれている。それでいて雇用期間は委託期間の一年であり、翌年の雇用は約束されていない。まさに官が、ワーキングプア―と潜在的失業者を作りだしている感が強い。
こんな内幕であるから、サービスが良いのは入札後の数カ月だけという施設が多いのが現状である。公共施設のサービスの質は、やはり公務員が知恵を出して進めるのが本当の姿なのではないだろうか。
大阪府茨木市にある建設機械販売会社の執行役員を務め、勤務中に死亡した男性=当時(62)=が労災保険法上の労働者かどうかが争われた訴訟の判決で、東京地裁で5月19日、労働実態に即し「労働者に当たる」との判断が下された。原告側の弁護士によると、これは執行役員を労働者と認めた全国初の判決だという。
商法改正前後から「執行役員」制度を導入する会社が一気に増えた。法律に明記されているのは「執行役」で「執行役員」ではない。「執行役員」は、登記簿上に載らない役員である。日本はバブル経済崩壊後に、株の持ち合いという慣習が一気に崩れ、企業買収が水面下で大いに進んだ。資本を注入した企業は、当然の権利として役員を送り込んできて、儲けを吸い上げるという工作を始める。しかし買収を仕掛けた企業は、財務諸表だけでその会社の業績を判断してきたというきらいがあり、業務内容や仕事の特性を良く理解していないことが多い。そこで登記簿上の役員は、今や帽子の徽章のような扱いをされている。要するに業務を仕切る最高責任者として、「執行役員」の役割が増して来たということになる。
そういった意味では、これは合理的な変化と言ってもいいのだが、役員の数が妙に増えてしまったのは困りものである。100人規模の会社に、役員と名の付く人が20人もいるなどといったケースも珍しくない。こうなると、役員とは呼ばれていても、部長と給料は同一などということもざらになる。
それでもまあ、「うちのお父ちゃんも、とうとう役員になった」と胸を張れるだけよい、という楽観的な見方もあろう。だが、この事例のように亡くなってしまっては元も子もない。「名ばかり執行役員」という言葉はまだ出来ていないようだが、いつか来た道で、そんな言葉がこの先はやり出しそうな世相になってきた。
酒は百薬の長と言われる一方で、「きちがい水」という呼び方もある。酒を飲むことによって、正常な判断力が出来なくなり、ひいては性格まで変わってしまうことが往々にしてあるからなのだが、そんな危険な飲み物なら、「最初から売らなければいいではないか」という議論は昔からある。よく知られているように、その昔アメリカには禁酒法という法律さえあった。
同様の事は煙草にも当てはまり、「煙草を吸うと肺がんになる。健康を害する」とまでパッケージに印刷するくらいなら、売らないように規制してしまえば良いというわけだ。大麻や覚せい剤を煙草と同列に並べるのは乱暴かもしれないが、その手の薬物はすでに流通が禁止されている。
しかし酒やたばこの販売が禁止されるという話は、ここのところ全くない。それはこの二つの嗜好品の値段の大半を税金が占めているからである。ちなみに民営化された日本たばこ産業の株式は、いまだ国が保有している。「ドル箱」という言い方は出来ないとしても、国庫または地方の財政の一翼を担っていることは確かなのだ。同じようなことは公営ギャンブルにも言えていて、馬券も車券も宝くじも、かなりの部分お上に吸い上げられている。
要するに、社会を不安全にするもの、健康を害するもの、公序良俗を乱す恐れがあるものはすべて、お上が統制し国庫を潤す手段になっている。これはなにも日本だけに限った話ではなくて、万国共通である。
もっとも買わない自由は、国民に保障されている。無理やり買わせて、税金を払えというのではない。しかし、嗜好という人間の弱みにつけこみ、近代国家はその原資を得ているということは覚えておいたほうが良い。
酒にしても煙草にしても、国民の健康を害するものだから、国家が統制しているのだという考え方もある。実はこの手の詭弁を、我々はこのところよく耳にしている。原子力の管理の事である。
電力会社はどこも民間の顔をした国策会社である。放射能が危険だということは周知の事実なのだが、それを使って電気を起こし、我々は料金を払って来た。大震災によって、この仕組みは破綻寸前である。我々は、国家統制のあり方について、もっと真剣に考えなくてはいけない岐路に立たされている。
うつ病を労災認定してもらおうという戦いが、各地で繰り広げられている。ポイントは業務とうつ病との因果関係をどの程度証明できるかということになる。
最近の傾向としては、労災認定されるケースが以前より多くなってきてはいるが、それはあくまでも過重労働の実際をきちんと記録してあるケースに限られている。記録はタイムカードや出勤簿、給与明細などで確認できることが望ましいが、本人や家族の日記でもいい。こまめに記録しておけば、それだけ労災認定される可能性が高くなる。
ただし、裁判で労災認定を勝ち得たとしても、当人のうつ病が直るという保証はない。精神病は一進一退を繰り返す。労災と決まってから先が、本人や家族にとっては本当の戦いとなる。
3月の上旬のことだが、早稲田大が勤続20年以上の退職者や遺族の年金を一方的に減額したのは無効だとして、受給者側が従来通りの年金額を受けられる権利の確認を求めた訴訟で、最高裁第2小法廷(竹内行夫裁判長)が、受給者側の上告を退ける決定をした。これによって大学の措置が「有効」とされ、受給者側の逆転敗訴となった二審判決が確定した。
早稲田大学の行った年金減額というのは、厚生年金本体の話ではない。厚生年金基金で言えば、上乗せ保障の部分の話である。年金基金は厚生年金基金にしても企業年金基金にしても、すべてバブル経済が破綻する前に設計された「運用計画」によって運営されている。年利5.5%というのが、当時の平均的な金利とされていた。設計時の銀行預金の金利は軽く6パーセントを超えていたわけだから、これでも基金には余剰金がどんどん貯まっていくという仕組みだった。そのため「金利の先食い」と称して年金原資を流用し、立派な体育館や保養荘を競って建築してしまった。それが甘かったのだ、と今更指摘しても益のないことである。おそらく私も、その時代に担当していれば、似たような判断をしたに決まっている。
ただ、「箱もの」は悲しいことに時とともに古くなる。メンテナンスを怠れば、どんなに素晴らしい施設でも廃墟に変わってしまうのだ。大震災も起こり、それを行えるだけの余裕のある企業は、極めて少ないに違いない。そんな「箱もの」に手を出さなかった堅実な基金でも、5.55%の運用など到底無理だから、3%程度の運用で再計算し、規程を変更したという基金が多い。
今はまだ減額が基金の枠内にとどまっているので、社会に与える影響はさほど大きくはない。しかしこの考え方が、基金の代行部分要するに厚生年金本体に及ばないという保証はない。民主党幹部の最近の発言を聞いていると、そんな悪い予想を立てざるをえなくなってしまう。嫌な世の中になった。
日航を整理解雇されたパイロットと客室乗務員が所属する2労働組合が、2月4日、労組との十分な協議をせずに解雇し、所属労組による差別もあったとして、国際労働機関(ILO)に是正勧告を申し立てた。
日本航空は日本に本社のある日本の企業である。もっとしつこく言ってしまえば、日本の労働法規が適用される企業だ。そこを解雇された者が、そのことを不当だと主張するのであれば、まず最初の相談窓口は、本社を管轄する労働基準監督署か、都道府県(この場合東京)労働基準局というのが正規のルートである。日航の二つの労組は、それを丁寧に行ったのだろうか。相談したところ、これは日本の労働行政では手が負えないからとILOへ行けと照会されたというのならわかる。しかし、そんなことを日本の行政機関がするとは思えない。
なんだか昨今の日本政府の動きを見ていると、何もかもが頼りない気がする。国が頼りないから、国の枠を飛び越えて、一思いに国際機関に駆け込んだというのかもしれないが、これはやはりまずのではないか。
日航は日本国のフラッグシップエアーラインだ。そこで働く労働者は、なるほど他の民間企業よりもプライドが高く「偉い」のかもしれない。が、今は経営破たんして国の管理下に置かれている立場だ。国の頭越しに国際機関に訴えては、日本という国のメンツもなにもなくなってしまう。話は必要以上にこじれてしまうはずだ。
昨年暮れに、休業中の日本航空の副操縦士の男性に、労災保険の給付が短かったのは誤りであるという判決が出された。いったんなされた労災保険の判断が差し戻されるということは、まれにはあるが、この男性の場合、それが解雇撤回問題にまで及んでしまったという点で、特徴的だった。男性は2004年10月に羽田空港で行われた訓練に参加し、脱出用スライドを滑り降りた後に椎間板ヘルニアを発症した。大田労働基準監督署(東京)は労災申請を退け、再審査で労働保険審査会が約1カ月分に限って労災と認めた。これが今回差し戻しの対象となった判断である。
問題は、この男性が自己都合で休業していたことをを理由に、日航から整理解雇を通知されていたからで、会社としては6年も前の事故を蒸し返されて、リストラが出来ないという状態に立ち至ってしまった。
労災に起因するケガの治療のために休業している従業員は、解雇することが出来ない。
本件は6年前に発生した腰のケガのために、いまだに休んでいる従業員を、解雇できるか否かという判断である。ただ、整理解雇の対象者とされたときには、労災保険の補償は6年前に1カ月分支給されただけだった。
ということは社内的には、それ以降は「私傷病」扱いになっていたはずである。私傷病の休業だったら、整理解雇の対象にしてもかまわないはずだ、というのが会社側の言い分である。ところが本人は、休業はもとをただせば労災が原因であると主張した。
ここでどうしても気になるのは、6年間この人はどこから収入を得ていたのかということだ。日本航空は大企業であるから、最初の1年ぐらいは給料を支払っていたのかもしれない。まっ、そういうことはなかったとしても、「私傷病」ということであれば、健康保険から傷病手当金が出る。ただし、それもふつうは1年6カ月が限界だ。その後は、収入が途絶えたはずである。にもかかわらず、「解雇を不当」と主張して、ここまで頑張れたのはなぜか?
もちろん、「日航の副操縦士」という肩書にプライドを持っていたということはあるかもしれない。しかし、それだけでここまで頑張れるのか。ニュースというものは、氷山の一角を見ているに過ぎない。報道にはいっさいないのだが、どうも支援者が支えてきたような気がしてならない。弱者を支援することは悪いことではない。しかし、そこにある種の政治的理念や宗教的理念が持ち込まれると、少々話が複雑になる。背後にある団体が力を持っていると、時には国の判断さえ替えてしまうことが出来る。本件には、単なる労災・解雇の問題だけではない、裏の理由が垣間見える気がしないでもない。
産業能率大学の実施した上場企業の課長アンケートによると、課長の多くがメンタル面に不安を感じているという。(調査は従業員規模100人以上の上場企業に勤め、部下が1人以上いる「課長」が対象、有効回答428人の分析)
上場企業の課長に、自分自身のメンタルヘルスに不安を感じたことがあるかを尋ねたところ、「ある」とした人が43.7%に達したと言う。
「ある」と答えた人にその原因を尋ねた結果では、「上司との人間関係」「成果創出へのプレッシャー」「仕事の内容」が44%前後で上位を占め、「部下との人間関係」「仕事の量」も目立つ。
同調査の対象になった課長は、ほとんど(98.6%)がプレイイングマネージャー。課長の2人に1人は悩みを抱えていても相談する相手がいないと答え、「昔の課長がうらやましい」と思っている課長が8割を超えていた。
「昔がうらやましい」というのは、「今がきつい」ということの裏返しであろう。いわく、仕事や時間に余裕がなく、その割に処遇が良くないということになる。
昔はこうした「グチ」を吐くのは、決まって中間管理職であった。「係長あたりが一番きついぞ」というのが、サラリーマンの共通認識としてあったような気がする。ここを抜け出して、課長になれば「一気にバラ色」とまではいかなくても、随分と羽振りがきくようになった。それはアフターファイブに飲み屋に行けば一目瞭然だった。「係長」は「ヒラ」で、「課長さん」は「将来を嘱望されたエリート」扱いされた。
しかし、日本経済のデフレは、いよいよ役職にまでやって来てしまったようだ。「名ばかり管理職」などというへんな言葉が出て来たあたりから、日本社会の管理職は一気にダンピングされてしまった。いわゆる投げ売り状態というやつで、昨今は入社3年で部長に昇進などということも珍しくないという。
新入社員に毛が生えたようなひよっこ(失礼!)が、名刺に「部長」と刷られるわけで、これでは部下から尊敬されるはずがない。それは現政権の国会議員を見ていれば良くわかる。なんであんな若い人が、副大臣を拝命したのだろう、と首をかしげてしまうような場面にしばしば出くわす。
若くても優秀であればかまわない。という考え方は確かにある。実際、年が若くても企業を独力で立ち上げたといった逸材もまれにはいる。しかし、それはあくまでも例外で、組織として企業を回して行こうと言うのならば、ある程度の年功序列は守るべきではないか。「能力主義」こそ錦の御旗とばかりにあまり極端に振り回すと、社内の秩序はずたずたに引き裂かれてしまう。管理職がやる気をなくしてしてしまえば、組織の再生は難しくなる。
同僚や部下たちが見ているところで、大声で「死ね」と言われたら自尊心も何もあったものではない。いや、それどころか現代は単純に誤りを指摘しただけで、「全否定」されたと思い込み、翌日から出勤できなくなる「新型うつ病」というのが若い社員を中心に蔓延している。こういう病気が出て来ると、世の中ますますややこしくなる。何にしても慎重に行動せざるを得なくなっているのだ。
そのうちに、激しく叱責されている先輩を見ていて、生きていく自信がなくなったなどという若者も出て来るのではないか。まっ、そんなケースにまで労災を認めてやってくれというつもりはない。
昔「体の傷ならそのうち癒えるけれど、心の傷は癒えない」というような歌(逆だったかもしれない)があった。日本の労災保険はこれまで、主に体の傷のほうだけをカバーしてきた。それが時代の要請で「心の傷」にまで広げられようとしているのだが、悲しいことに「心の傷」は目に見えない。詩人の金子みすずは、昼間の空を指差し、この上には「目に見えなくても星があるんだよ」と言ったが、労基署のカウンターで「あなたの目には見えなくても、私の心は傷ついている」と主張しても、相手にしてくれる役人はいまい。見えないものを説明する技術や能力が求められる、難しい時代になってしまった。
今年のノーベル経済学賞は米マサチューセッツ工科大のダイヤモンド教授(70)、米ノースウエスタン大のモルテンセン教授(71)、英ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスのピサリデス教授(62)に授与された。 同アカデミーは、授賞理由として「労働市場で、多くの求人がありながら、なぜ多数の失業者が出るのか」「経済政策が失業に与える影響は何か」を解き明かす理論を3氏が構築したと説明している。
ノーベル賞は、前年に人類や社会の発展に貢献した人に与えられるそうである。今年ノーベル化学賞を受賞された日本の二氏の研究に関しては、その理論が製薬から液晶ディスプレイの製造にまで使われているというのだから、社会の発展に貢献したという点では、誰もが頷くに違いない。しかし、「前年」という点には大いに疑問が残る。二氏がこの理論をまとめたのは三十年以上も前だと聞いた。
そこへいくとノーベル経済学賞というのは、時機を逸することなく決められているようだ。ただし過去には、公共投資優先の経済学者や、バブル経済を引き起こす元凶となった投資会社の経営者にこの賞が与えられたりしている。
社会科学というものには、自然科学のように恒久的な真理というものはいまだ発見されておらず、常に思惑で揺れ動いているようなところがある。言ってしまえば、それを「科学」と呼んでいること自体、間違いなのだと思うが、ノーベル賞を授与することにより、あたかもその理論が恒久の「真理」であるように錯覚されてしまうのは困ったことだ。ノーベル賞をもらった学説によって、経済の波が悪い方向に増幅されることが過去何度もあったという点については、覚えておいても損ではない。
今年の受賞を例に取れば、不況になると「職業紹介」関連のビジネスが儲かるというようにとらえられかねない怖さをはらんでいる。ここにまた一つ、公にバブルの種がまかれたということである。
「毎朝、ソニーの工場に出勤しているようだ」「日産自動車のユニフォームが毎日物干しに干してある」
こういう人は、近所の人からはソニーの社員、日産自動車の社員と見られているに違いない。
しかし、「ソニーで働いているが、ソニーの社員でない」「日産の車を作っているが、日産の社員でない」という人が実に多くなった。本人になんら非はないのだが、これは「いつわりの社員」と言えよう。言うまでもないことだが、「いつわりの社員」の待遇が、「本物の社員」を越える事はない。
「いつわりの社員」は、派遣社員とも請負社員とも呼ばれているが、転勤や残業などに関しては、本物並である。こんな働き方が、今の日本には蔓延しているようだ。
国会などで派遣労働を廃止しようという議論が始まると、それは「働き方」の選択肢を狭めるものだ、と声高に反対する人たちがいる。しかし、安易に彼らに雷同せず、周囲を眺めてよく考えてもらいたい。
「働き方」は処遇と表裏一体の関係にある。自由な働き方をしていて、処遇を高くしてくれというのは、わがままで許されるものではない。
効率化でしか生き残っていけない日本の会社は、本物並に働いてくれる安い偽物の労働者をいつも捜している。というわけで鬱屈した思いは、いつわりの社員の心の中に日々蓄積されていくことになる。
人間ならば、いつわりの仮面を脱いで正々堂々と生きて行きたいと思うのが、当然なのではないか。そのへんのことを軽く考えていると、この事例のように、あとで手痛いしっぺ返しを食らうだろう。
日産自動車では10月から段階的に事務系の派遣社員を、直接雇用の契約社員に切り替えていくという。昨年5月に、派遣社員の雇用安定を図るよう東京労働局から是正指導を受けていたことが直接のきっかけだが、これで本当に問題は解決されるのだろうか。
メーカーにとってもっとも大切な社員というのは、はたしてどの職種の社員なのか?ものづくり企業であれば、実際に現場で手を動かす技能職こそ大事だと思う。だが、日本においてはワーカーの待遇はそれほど高くない。いやそれどころか、工場を海外に移し、生産はすべて海外というところも多くなった。となると残りは事務職と技術職と営業職ということになる。
ところが経営者は昔から、「営業は仕事をとってくるのでかわいい」が、事務職は利益を生みださない「ただの穀つぶし」で無駄という意識を持っている。しかし事務に関しては、海外に出すというわけにもいかないので(海外に出している会社も出てきた)、必要悪と考えている。というわけで、ここ20年は、事務系正社員は派遣労働者にどんどん切り替えられて、いつでも切り捨てられるという体制を整えてきた。男女雇用機会均等が叫ばれても、事務系正社員の多くは女性であることが多い。
上司がセクハラを認識しているかどうかはわからないが、「どうせ代わりの派遣社員を頼むのなら、かわいい娘にしてくれよ」などというやり取りが、堂々としているのが事実だ。
というわけで日産に限らず、メーカーの場合は営業部門が別会社になっていることも多いため、「利益を生み出す(はずの)技術職」だけで会社を回していきたいというのが本音であろう。あとは、かわいい若い女性派遣社員さえいれば良い。
しかし、この路線で本当に間違っていないのか?よく考えてもらいたい。
日本にあまたある文系大学の学生は、男女を問わず現状でも名のある企業への就職は無理となってしまっている。結局、契約社員という不安定な身分のまま、社会に放り出されるしかないわけだ。契約社員の雇用期間は2年11ヶ月が上限。これで若者たちに明るい未来像を画けというのは酷ではないか。
国敗れて山河ありではないが、雇用敗れて企業ありというのが、今の日本の状況であろう。国全体、産業界全体で、目指すべき社会のあり方を真剣に議論する時期に来ているのではないか。
いまさらいうまでもないことだが、人間だって生き物である。泰然自若と見える人でも、神経が過敏になっている時というのはどうしてもある。そういうときに、知人にからかわれたりすれば、当然カチンと来る。この「カチン」をいじめられたと表現することは、おおいにありそうだ。
別の人からみれば、「あんなのふざけただけじゃん」となるのかもしれないが、当人にとってはいわれのないイジメである。そんなことがきっかけで、職場内で孤立感を深めている人は、案外多いのかもしれない。
評論家であれば、「それこそ現代人のコミュニケーション力の欠如である」と指摘してしまえば、それで済む。だが、因果関係を単純化してしまうことは、真相究明に蓋をしてしまうということである。
個人の性格が形成されるまでに、驚くほど長い時間を要している。今のあなたの感情は、直前の出来事によってかなりのの影響を受けているものの、実際には昨日までのあなたの人生に引きずられている。それは頭脳の「記憶」だけではなくて、細胞の「記録」も含めてのことである。ただし悲しいかな、細胞の記録のほうは、自覚することも制御することもきわめて難しい。
だからある特定の日に、あなたの神経が過敏になっているかどうかなど、ほとんど予測不可能である。
要するにコントロール不可能な神経の働きで、「カチン」と来て、イジメを受けたと判断するということもありうるのだ。
門外漢である筆者には、詳しい事はわからないが、その手の形而上の問題でうつ病まで進むという例も、案外多いのではないか。
こうなるとおそらく役所は、そのうつ病に業務起因性があるとは認めてくれまい。いったん私傷病として判定されてしまえば、それを理由に解雇されるということも、もちろんあるわけで、あなたにしてみれば神経をずたずたにされて、加えて会社の外にホッポリ出されるということになる。
まったく理不尽この上ないことで、同情するしかないのだが、こうした案件では、悪者が誰と決め付けるのは、いささか難しい。
詩人ならば、「あなたを取り巻いていた過ぎ去った日々が原因なのですよ」とでも答えるだろうが、そんなことを言われても、あなたは慰められたとは思わないだろう。
「間が悪かった」「運が悪かった」という幕引きでは、いかにも無責任のように聞こえてしまうが、人生には人知の及ばぬ不幸もある。
「楽しく仕事をする」「生きがいを持って働く」「報われる社会」「幸福になるための労働」。色々な言葉が世の中に溢れている。しかし氾濫する言葉は、現状の裏返しである。
紛争の絶えない社会において、人々は「平和を希求」し、格差のひどい国に限って「平等」を標榜していたりする。わが国においても、民主的でない政党が、「民主党」の看板を掲げているではないか。
残念ながら、世の中には人知の及ばぬ流れというものがあり、それに巻き込まれると思わぬ不幸を拾うはめになる。我々の周りにはそんなリスクがいくつも転がっているのだと肝に銘じておくことも無駄ではあるまい。
精神疾患型労災の増加は、日本の労働現場が「肉体酷使型」から「神経酷使型」へと変貌を遂げたということと、関係が深いのではないか。身近な周囲を見回しても、本社は日本にあるが、工場は海外という会社が多くなっている。人件費・製造コストの関係で、そうしなければ生き残れないというのがその理由の大半であろうが、自分の手でもの作りをしなくなったメーカーは、もはや真の意味でのメーカーではないのではないか。
製造ライン作業についたことがある人なら、おそらくご存知だろうが、作業環境と作業方法が適切であれば、もの作りの現場はスポーツに似ていて、結構ストレス解消できるものである。
その意味では、一部の学者や政治家などが主張するように、製造現場は皆「蟹工船」のように辛く厳しいものだというのは間違っている。
かく言う筆者も、実は大学でマルクス主義経済学をかじったことがあり、爪に灯をともして「資本論」を買ったクチである。そのため最初に製造ラインに放り込まれた際には、「これこそブルジョワ階級による搾取の実態である」などと思い、前途に失望した。しかし、これは一種の刷り込みであったと今にして思う。
目の前にある仕事を「不当にやらされている」と思う人もいれば、「金のためだ」と割り切っている人もいる。いやいや、「これこそ自分の天職」と情熱を傾けている人や、「こんなに他人の役に立つ仕事はない」と胸を張って会社に来る人だっているのだ。一つの仕事であっても、光の照射角度によって、結ばれる図像は変って来るというのが、本当なのである。そういった意味では、「酷使されている」のと、「力の限り取り組んでいる」というのも、極めて近い関係にある。
まっ、それはそれとして……。
「頭脳労働」と「肉体労働」とは、本来車の両輪のようなもので、どちらかだけをやっていれば、病気になってしまうに違いない。頭でっかちは良くないが、筋肉マン一辺倒というのもちよっと困る。
さて、日本の中小企業には技術がある、という言い方をする人がまだたくさんいるが、あれはまちがいなのではないか。実際に町工場にいるのは、高い技能を持った人たちなのである。製造工程がなくなれば、技能はいつか消えてしまう運命にある。結局、頭脳労働者が絵に描いた餅を追い求めるだけという社会では、精神が病んでくるのはあたりまえかもしれない。
リストラによる首切りと契約の非更新とは、企業側からみるとまったく違う次元の話なのだが、辞めさせられる側から見れば、どちらも等しく働く場所を奪われ、収入の道を断たれるわけで、ほぼ同じといって良い。
某大手予備校で、1981年度から2005年度までの25年間、1年ごとに公民などの担当として契約を結んでいた男性が、05年12月、生徒数の減少などを理由に06年度以降の講義数を、週7コマから4コマへの削減を提示されたのだが、この男性はこの提示を拒んだ。拒んでいるうちに契約期間が過ぎてしまい、契約は更新されなかったのだが、地位確認をもとめた訴訟で、最高裁は予備校側が不適切な説明をしたり、不当な手段を用いたりした事実はないとして、男性の訴えを退けた。
この事例は、会社側が「適切な説明をし、正当な理由を根拠に話し合いに臨んでいるかぎり」リストラも契約非更新も、認められるのだ」とお墨付きを与えた判決と言えよう。
もっとも法的にはそうであっても、窓口となった者が仏頂面の杓子定規では、辞めさせられる側は憤懣やるかたなしという気持ちになってしまう。実際雇用問題の多くは、法的根拠云々よりも「担当者の言葉遣いが気に食わない」とか「人事担当者の偉そうな物言いがたまらなかった」というようなことが、引き金になっていることのほうが多い。 人事担当というものは、役員から担当者まで、なにはさておき「誠意」ある対応が必要である。口は災いの元と肝に銘じておきたい。
実は筆者は髭が濃い。それでというわけでもないのだが、20代の頃は鼻の下に髭を蓄えていた。自分で言うのもなんだが、結構似合っていたと思う。今は剃っているが、別に職場で注意されたのがきっかけというわけではない。
さて筆者の住む群馬県では、伊勢崎市役所で、職員に「ひげ禁止令」が出された。公務員として相応しくないというのがその理由のようだが、皇室ファミリーにもひげを蓄えている方は多い。一律に禁止するのはいかがなものか。筆者は 歳を重ねるごとにますます髭が濃くなるばかりなので、数年後にはまた髭を蓄えようと思っている。もっともどういう関係か、頭髪のほうはほとんどなくなってきた。
ま、それはそれとして、3月26日に郵便事業会社灘支店(神戸市灘区)に勤務する男性が、ひげや長髪を理由に手当を減らされたとして、慰謝料など計約157万円を求めた訴訟の判決が神戸地裁であり、郵便事業会社に約37万円の支払いを命じた。
男性は1985年ごろからひげを伸ばし、口とあごのひげを出勤前に整えているほか、長髪を後ろで束ねていたという。ひげも濃いが髪も濃いというところに、いくぶんやっかみを感じるが、どうも郵便局には、髪形や容姿についての細かい基準があるようで、彼はひげを理由に窓口業務から外され、200点満点の人事評価で2年続けて70点以下とされ、手当も月5,400円減らされたという。
ここで、おやっと思った。
200点満点の人事評価というのは、「能力・実績」と「容貌容姿」を分けて、それぞれ100点満点で採点していると推察できたからだ。
髭を生やしていたのが理由で、それが70点以下になったというのは、「容貌・容姿」という属人部分がほとんど0点だったことを意味する。まっ、他にも理由があるのかもしれないが、「イケメン」や「美人」であれば評価が高くなるというのは、郵政の民営化の意識の低さが垣間見えるようで面白い。
それにしても、裁判長の「郵便窓口の利用者は特別に身なりを整えての応対を期待していない」との指摘は、ふるっている。こんなことをまともに議論している日本は、なんだかんだ言っても、平和な国だとしみじみ思う。
★閑話休題☆ あなたの会社が守るモノは? 2010.05
この原稿を書いている時に、たまたまニュースが流れたのを耳にしたのだが、日航の早期退職には予想以上の応募があり、通常営業にも支障が出る見通しとなったため、退職時期をずらすなどの調整を行っているという。
高度成長期の日本では、「企業は永遠なり」という文句を社是に入れるのが流行った。思えばあのころは、長島さんがカクテル光線を浴びて、「巨人軍は永遠に不滅です」と後楽園のマウンドで高らかに宣言し、喝采を浴びていた時代である。
さて本来のリストラは、「業務再構築」のことである。それでは何のために業務を再構築するのか。優等生的な答え方をすれば、「企業の社会的責任を果たすため」ということになろう。たしかに日本航空の場合には、日本の航空路線を守るという大義名分がある。そのためには、社員の首を切って経費を浮かすこともやむをえないというわけだ。
意地の悪い見方をすれば、企業の名前を守るために、働いていた者が犠牲になる。これが「企業が永遠に不滅である」という言葉の真相であるのかもしれない。
しかし航空業界のように、国内に同業者が数社しかない寡占業界は珍しい。「当社が日本の○○を守って来た」と胸を張って堂々と言える企業は、はたしてどれほどあるか。となると、企業の名前を守るために、働いている者を犠牲にするリストラを決断することは、是か非か。
ことによると某社の社会的責任は、地域の雇用を守ることだったという事だってありうる。そんな会社がリストラを断行すれば、その途端に存在意義がなくなってしまう。
世の中の動きは、良しにつけ悪しきにつけ、景気の動向に左右される。「フィリピン人の看護師・介護福祉士を日本へ」というプロジェクトが始まったのは、看護介護現場での人手不足がきっかけだった。介護の現場は、マスコミなどでかつての3K職場と同じように喧伝され、若い人の志望が極めて少なくなってしまった。まともな暮らしが出来ないほどの給与水準というのが本当であれば、確かに問題である。
しかし、私の周りには、その介護職よりも低い処遇の生産現場で働いている人たちが多くいる。賃上げが出来ないのではなくて、給与カットをしないと、会社がもたないのだ。昨今は、企業規模と賃金水準とが正比例していない。理想を言うなら、最低賃金である程度の生活レベルが確保できる社会が望ましい。ただし、この「ある程度」というものの中には、主観が絡んでくる。判断はなかなか微妙である。少なくとも、時給制でない政治家・役人・マスコミ人は、皆非常識だと考えておいたほうがよい。
そんな真実が少しずつ知られるようになったからなのか、介護の現場にも求職者が入っていくようになった。そこでトコロテン式に、フィリピン人看護師へ触手が動かなくなってしまっている。
奇麗事を言ってしまえば、国際交流がこのように経済状況だけで大きくぶれるのは望ましくない。だが人の動きも所詮需要と供給の仕組みから切り離すことは出来ない。物にしても人にしても、国境を越えての移動は、エントロピー(混迷度)増大の最大要因であると、肝に銘じておかなければならない。
一国二制度とは、現在の中国の体制を指す言葉である。政治や社会体制は、共産党一党が独裁する社会共産主義であり、経済は自由競争を標榜する自由資本主義である。これを車の両輪としていて、さして不都合を感じさせないというのが、中国という国の懐の深さだと言われている。
もちろん、社会制度と経済システムとを、すべて一つの思想で統一していなければいけないという道理はない。しかし、つい最近まで農地の個人所有すら認めていなかったのだから、自由資本主義を取り入れるための妥協は、なまなかなものではないと思う。
現在の中国の強みは、物価と労務コストが安いことである。物価は経済成長にリンクして自然と上がるものだから、これは数年後には世界の水準とそう変わらなくなると思われる。ただし、労務コストに関しては、共産党が低く誘導してきている。自然と上がっていくというものではない。
ただし相手は人間だ。党が国民生活の質の向上を掲げるなら、締め付けてばかりもいられない。結局、年々賃上げに踏み切らざるを得ないのだろうが、はたしてどのあたりまでの賃金上昇ならば、中国は今の成長を維持できるのか。
日本もかつてはそうだったが、賃金を上げながら経済成長することは、ある水準までは可能である。中国のジレンマが始まるのはいつのことか。それを読みきることが、今の経営者には求められているのではないか。
会社が社内制度やルールを変更しようとする場合、それが社員の処遇に関わることであれば、従業員の過半数を代表する者の意見を聞かなければいけないことになっている。それが就業規則の変更であれば、「意見を聞くだけ」で、その意見がたとえ「異議あり」というものであっても、形式上は是認される。
ただし実際問題として、それで意見を聞かれた側は、納得するだろうか。納得しないまま見切り発車的に、処遇の引き下げやリストラ関係の新制度を始めてしまった会社は多い。
会社の経営ではないが、目下大揺れに揺れている「八ツ場ダムの問題」にしてもそうだ。
前原国土交通大臣は、マニュフェスト作成の際に、たしかに政党支持者の意見は聞いたのかもしれないが、地元の意見や関係者の意見には耳を傾けずに来た。はたして、自分の耳に入ってきたもののみを「民意」と考えて、よいものかどうか。最近はさすがに、「地元の意見も聞く」と言うようになり、地元住民との対話も始めたようだが、何を言ってもすでに腹は決まっていて、馬の耳に念仏であるならば、意見を聞いたことにならないだろう。
翻って処遇見直しの労使交渉においては、双方が主張するばかりで、まったく歩み寄らないというケースが結構見られる。会社側・組合側ともに、交渉前にすでに最終シナリオを書き終え、自陣営内で採決まで取ってしまっていることが多い。こんなスケジュールでは、容易には振上げた拳が下ろせなくなるのは当然である。
冷たい言い方になるが、これは段取りがまずい。交渉ごとには、押したり引いたりする伸びしろがなければうまく着地できない。最初から結論はこうだと言い切ってしまうのは愚の骨頂である。別の言い方をすれば、交渉相手をすでに人格のある人間としては認めていないということになり、少なくとも「民主的」とは言えない。民主的でない団体に限って、「民主」をスローガンにしたがるというのは、現代の皮肉である。
他の社員の見ている前で、叱責するというのは、上司として避けるべきだとされている。コーチングの研修を一度でも受講していれば、それは大抵の管理職が知っているはずである。しかし、「基本」を基本どおりにやっていたのでは、駄目だという考え方も一報にあり、ビジネス書などには、「あえて叱る」のが有効などということも書いてある。こうなると、「じゃあ、どっちにすれば良いのだ」と言われかねないのだが、どっちも間違いで、どっちも正解なのだと思う。
要は、叱る相手の性格、周りの雰囲気、問題の大小などなどによって、手法を使い分ける必要があるということだ。いわゆる「空気を読む」ということである。それが出来る人が管理職として成功する。残念ながら、この部分はいかに教育しても、素質のない人には身につけようがない。
結論から言えば、手法を使い分けられない人を、管理職に登用してはならないということになる。長年採用面接に関わってきた立場から言わせてもらえば、社員として採用すべきでない人というのは、少なからずいる。これを見分けられない採用担当者が人事に居座っていたりすると、その会社も従業員も不幸になる。
10月28日に、東京地裁で一つの裁判があった。有線放送会社のキャンシステム(東京)から有線最大手USEN(東京)の関連会社に一斉に転職した300人が、元の勤務先に退職金を求めた訴訟で、請求が棄却されたのだ。300人に対しては、会社が対抗処置として「懲戒解雇」を適用していた。
この裁判で、裁判長は「全国規模で一斉退職すれば、会社の業務が完全にまひ、停止すると認識しながら、あえて示し合わせて退職届を出しており、会社への著しい背信的行為だ」と指摘した。
それまでの経営者のワンマンぶりに愛想をつかし、従業員たちが示し合わせて、ある日突然退職願いを提出するといった事例は、中小企業ではそう珍しいことではない。私の知っているある会社では、課長以上の管理職が一斉退職し、別会社を作り、顧客も八割方持って行ってしまった。
社長は怒り、キャンシステムの例と同じように、退職した者を「懲戒解雇」とし対抗したので、退職金は支払われなかった。ただし、従業員たちは新会社の処遇が良かったので、不平は言わなかった。
ところが数ヵ月後、今度は新しい会社の経営が危うくなった。従業員の半数は慌てふためき、元の社長に頭を下げて復職がかなった。しかし、仕事量は旧対新で8対2となっていた。無論、前のような給料は支払えないということを明記した条件付の復帰である。この勝負、会社同士は痛みわけとなったのだが、踊らされた従業員に良い事はほとんどなかった。
まず何と言っても、月々の給料が下がったというのが大きいのだが、それだけでなく将来にも暗い影を落としてしまった。退職する際に前の会社の企業年金を脱退してしまったからだ。社長に詫びを入れても、消えた記録はもとには戻らない。かくして数十年の努力は、水の泡となってしまった。
一か八かの勝負を駆けるなら、良くも悪くも自分の判断で動いたほうがよい。誰かにそそのかされて、元も子もなくしてしまうというのでは、誰のための人生かということになる。
近頃、不祥事のお詫び会見がスマートになった気がしてならない。それだけ企業や公務員の不祥事が相次ぎ、過去の例を「他山の石」として、「改善」が進んでいるということなのかもしれないが、寸分の隙もないスーツ姿で、神妙な面持ちで頭を下げられても、誠意はほとんど感じられない。
はたして謝り方がうまくなったことと、問題が解決されるということに相関関係があるのかどうか?
特に労災事故の場合、被災者のほとんどがネクタイや背広とは縁遠い作業者である。その被災者本人や場合によっては遺族のもとに、きちんとしたスーツで謝罪に行くというのなら話は分かる。
しかし、テレビカメラの前で「今後は安全管理によりいっそう注意し」云々、と事務方らしき人たちが頭を下げて見せるのは、どうみても白々しい。
といって、別に作業服姿の現場監督に謝らせるべきだ、などというつもりはない。
現場から遠い責任者が立場上頭を下げなくてはならないのであれば、「いつまでに」「どのような」安全対策を作って徹底させるか、ぐらいまでは宣言してしかるべきなのではないか。対策を宣言すれば、それが自ずとレールとなり、安全意識が高まるということはある。今の状態は、頭を下げることが対策になってしまっている。
8月に国の労働保険審査会が、 仙台労働基準監督署で下した労災非認定の決定を取り消すという稀有な事案があった。
審査は佐川急便で勤務していた派遣社員の男性の自殺が、過労を原因としたものであったかどうか、というもので遺族である母親が申請していた。
男性は佐川急便仙台店に配属され、構内作業員として勤務していたが、2006年2月末頃までにうつ病を発症し、同年3月に自殺したという。自殺前の約1年間は月平均で100時間以上の時間外労働をしていた。
過労死を判断する場合、勤務の「強度」が問題となる。裁決では、男性が午後7時〜翌日午前4時の勤務を5年以上続けていたと指摘して、「業務による心理的負荷は精神障害を発病させる危険のある強度だった」と認定した。
ところで、昔のフォークソングに「体の傷なら癒せるけど、心の傷は……」というフレーズがあった。最近、鎌田慧氏の「橋の上の「殺意」」という本を読んだ。この本は秋田県で起きた児童連続殺人事件の犯人畠山鈴香の公判記録である。マスコミ報道では「鬼女」の如く報じられていたが、公判で明らかになっていくのは、彼女が意外なほどに脆い精神の持ち主だったということである。わが子を「誤って」橋の上から落としてしまったという記憶は、今もって彼女の脳みそからはまったく失われているという。
一方仙台の事件は、夜勤専業勤務者の悲劇である。会社は「同じような勤務をしている人は、他にも多数いて誰も問題を起していない」から「過度な負担」ではなかったと主張したいに違いない。
しかし、同じ仕事作業でも、人に与える「心理的負担」は様々である。筆者も工場で夜勤をした経験がある。誰とも言葉を交わさず、黙々と自動車部品を作り続けていると、自分がこのまま意思のない機械に変容してしまうのではないか、と恐怖を覚えたものである。それを負担と感じてしまう人は、その手の仕事についてはいけない。本来は採用・配属時に、そのあたりの「心の強さ」を計れるようになれば良い。
★閑話休題☆ 闘争なくして歴史は前進しないのか 2009.09
6月の末に、昭和シェル石油(東京)の女性社員12名が、性差別による賃金格差があったとして、同社に賃金の差額など計約5億5,000万円の支払いなどを求めた訴訟の判決があり、東京地裁が「違法な男女差別による処遇を受けていた」として、慰謝料など計約5,000万円の支払いを命じた。
男女差別というものは、歴史の中で脈々として受け継がれてきた一種の悪慣習と言って良い。時系列的に見れば、男女を平等に扱えという法律が成立したほうが、男女不平等の慣習よりも後ということになる。
だから「仕方ないのだ」と過去を封印してしまって良いなどというつもりはない。歴史的な順番などはどうでも良く、不平等は何が何でもまかりならんという主張は確かに出来る。虐げられてきた側の痛みを考えれば、たしかに「過去の分も返してほしい」と訴えて当然である。
しかし、時間の流れを巻き戻す事は、思いのほか難しい。私事になるが、私は三十代半ばで生活習慣病により右目の視力を失いかけ、手術を受けた。ストレス性の高血圧症をそのままにしてきたつけである。全面的に自分の責任なのだが、そのときからこれまで、長い長いリハビリ生活を続けてきている。
五十を過ぎて、やっと体調が安定してきたのだが、そのことで感得したのは、「長い時間をかけて悪くしたものは、本来の調子に戻すために、同じ期間が必要である」ということである。私の場合は、十五年かけて病気になり、十五年かけて回復したということになるのかもしれない。ことほど左様に、過去の是正というものは、長い時の積み上げを要する。
社会の仕組みや慣習などの場合、いかに旧態依然と見えるものでも、社会に定着するには膨大な年数がかかっているはずで、それは往々にして人の半生に匹敵するものであると思う。それを是正するためには、下手をすると一生を棒にふることになってしまう。
「闘争だけに捧げる人生」を歩むのはむごいことだと思うが、そういう人物が存在しなければ、歴史の歯車が前進しないというのもまた本当である。
そういう意味で、今度の裁判にかかわった人たちは、未来への礎となる貴重な生き方をした、と歴史に長く名をとどめることになると思う。ただ、それが必ずしも個人の「幸せ」と等価でないところが、なんとも悩ましく哀しい。
自動車会社のマツダが、本社宇品工場(広島市南区)と防府工場(山口県防府市)で働く派遣社員計約100人に対し、7月13日から直接雇用するべく、期間従業員契約を結んだという。この雇用形態の見直しは、広島、山口両労働局による是正指導を受けたものである。
派遣社員について、マツダはこれまで、直接雇用の義務が生じる連続3年の派遣期間を超えないよう、期間従業員として一時雇用し、再び派遣に切り替える形態を繰り返していた。両労働局は6月上旬、このやり方は労働者派遣法違反などに当たるとして是正指導していた。
マツダは減産強化に伴い、昨年12月以降、契約満了に合わせ段階的に派遣社員を削減し、製造現場では、昨年11月の約1,800人が今年4月には約100人に減っていた。マツダによると、契約期間は6カ月間で、派遣会社との派遣契約は中途解約したという。
去年の暮、「派遣法の目をかいくぐる方法がある」と取引している派遣業者側から持ちかけられたのだが、という相談を頻繁に受けた。
中には「本当にそうなの?」とやる気満々で真正面から訊いてくる会社もあったが、大半は「そんなうまい話はないよねえ」というような口調だった。天から、マユツバな話であると受け止めていた会社が多かったようだ。今になって思えば、そういう会社は健全だった。
もちろんこちらは、その都度、絶対駄目ですよと口を酸っぱくして指導してきた。
実際の法律の文面がどうなっていようが、法律が定められた経過から考えれば、一目瞭然だからである。
困ったことだが、世の中には、ルールというものはかいくぐらなければ損だ、と考えている御仁が、少なからずいる。飼われた犬の如く、体制に従順に生きろなどというつもりはないのだが、人生の裏街道ばかり歩いていくというのも、あまりお奨めできない。
マツダは世界で唯一、ロータリーエンジンの量産化に成功したカーメーカーである。そして今年は水素エンジン車を世に出そうとしていると聞く。つい先日は、アイドリングストップ機能のついた乗用車も発売した。こんなことで汚点を残してしまったのは、実に惜しいことだと思う。
近頃はネーム入りのユニフォームを着ているからといって、その会社の社員だと安易に信じてしまってはいけないらしい。多くの空き巣は、宅配便のユニフォームを着て、留守かどうかを物色しているという話も聞く。
犯罪がらみで思い出したが、古典的なだましの手口に「消火器詐欺」というのがあった。作業服を着て「消防署のほうから来ました」と言って売りつけるアレである。それを真似たわけではないだろうが、最近は「会社のほうから来た社員」が増えている。
住宅設備や家電業界ではメーカーとメンテナンス会社が別になっているというのはごく普通のようで、銀行などでも窓口業務は子会社が受け持っている場合が結構ある。そういえば、郵便局も窓口でお金を預かるのはゆうちょ銀行で、配達は日本郵便がやっている。これも厳密に言えば別会社である。
ゆうちょと日本郵便のように、もともと同じ会社であったのなら納得できるが、現実には「本当に同じ系列なの?」と首を傾げてしまうことのほうが多い。特に下請け側が会社組織になっていない場合は、職人がそれぞれ親会社と単独で外注契約を結んでいたりする。こうした人が仕事で怪我をしたらどうなるのか。微妙である。
住宅設備大手「INAX」の子会社「INAXメンテナンス」(愛知県常滑市)が、個人で業務委託契約を結び製品の修理をする「カスタマーエンジニア(CE)」の労働組合との団交を拒否したのは、不当労働行為に当たるとした中労委の命令に対し、子会社側が取り消しを求めた訴訟の判決で、東京地裁が4月22日、請求を棄却した。
CE側が2004年9月、労働条件の改善を求めて労組を結成し、団交を申し入れたがこれを拒否されたため、大阪府労働委員会に救済を求めていたもので、これが認められていたのだ。
この事案では、団体交渉する権利があるか否かで、「労働者性」が問われたが、件数的には労災発生で頭をかかえてしまうほうが多いのではないか。
「雇用」と「自営」の線引きは実に厄介である。ただし、どちらも働いているのは事実だ。行政担当者は、働いている人を守るという視点で、暖かい判断をする必要がある。
リストラの大量整理解雇が大流行だが、その陰に隠れるように個別解雇も随分と増加しているようだ。
公金横領や刑事事件の犯人として有罪が決まったというようなケースであれば、これはだれが見ても懲戒解雇で問題がない。しかしそんな事例はまずまれで、実際にはそこまでの「ワル」ではないが、「なんとなくウマがあわない」から解雇してしまった、といったケースのほうが圧倒的だ。その「ウマがあわない」根拠として使われるのが、「噂」や「評判」である。
3月に全国共済農業協同組合連合会(JA共済連)兵庫県本部の男性職員(55)が、地位確認などを求める訴訟を神戸地裁尼崎支部に起した。その結果裁判所は、部長から降格させられたのは不当だとして、JA共済連に対し慰謝料100万円と降格以降の毎月7万円の管理職手当を支払うよう命じた。
裁判でJA共済連は、「この男性が他の職員と結託して本部長人事に介入しようとした」とか、「本部長候補の幹部について批判した」ことなどを降格の理由として挙げたのだが、これらはことごとく信憑性がないとして退けられた。
さて、噂や評判を「情報」として、どこまで採用してよいものか?
人事担当でなくても、これは悩むところだ。そんなものにはまったく耳を貸さないという人もいるだろうが、「火のないところに煙は立たない」と大いに気にする人もいるに違いない。もちろん一律に線をひくことは難しい。しかし証拠として採用するからには、出所をある程度は調べるといった配慮・慎重さが必要であろう。根も葉もない噂では、まったくお話にもならないということになって、権利の濫用となってしまう。個別解雇を検討する場合には、この事件を他山の石としてほしい。
過労を原因とする労災は、実際には被災者が担当していた業務の「困難さ」や「大変さ」によって、発生の引き金がひかれる。しかし、どの仕事・作業をその人が負担と感じていたかは、当人でないとわからない。いや、もっと厳密に言うならば、本人も「慣れ」によって感覚が麻痺し、それほど大変だとは自覚していないという場合が多い。それでも体は生物学的に正直だから、ある一線を越えると脆くも崩れてしまう。
ところが残念なことに、そういう具体的な「引き金」までは、行政や司法は踏み込もうとしない。確かに、個別の事情まで逐一汲み取ろうとすれば、膨大な手間と暇とがかかってしまう。それは、役人がもっとも嫌うことなので、結局数字で簡単にわかる発症前の残業の多寡だけで、「業務起因性」を判断するといったことが、いまだに主流となっている。
被災者側からみれば、まったく隔靴掻痒の感をまぬがれないのだが、役所に言わせれば「それしか客観的な数字で表せないのだからしょうがない」ということになろう。しかし、本当にそうだろうか。
横浜地裁で2月26日、神奈川県相模原市の設備業の男性(63)が脳出血で半身まひになった事案について、監督署の労災保険不支給決定が取り消された。裁判所は、この事案は過酷な業務が原因で起こったと認め、休業補償などの給付を認めなかった相模原労働基準監督署の決定を取り消す決定をした。
本件では労基署は、「月平均67時間の残業」であるから過酷な業務ではなかったと主張していた。労基署が明確な残業時間をつかめたのは、それがタイムカードの記録だったからであろう。ところが裁判所は、それは「建前」に過ぎないじゃないかと判断したのである。
こうなると、打刻された残業時間というものが、本当に「客観的な数字」だったのかどうかが問題となり、肝心な土台が揺らいでくる。
本音と建前が異なるというのは、実社会の様々な場面で目にするが、このように陰日なたのある尺度だけを基準に労災認定することは、もうそろそろ改めなければいけないのではないか。この判決は血の通わない機械的な判定に一石を投じたという点で意味があったと思う。
今回の不況は、特に雇用において崖から突き落とされたような感がある。各社が発表したリストラが実際にすべて実施されてしまえば、製品を買ってくれる人はほとんどいなくなってしまうのではないか?今はまだ企業の多くが日々の資金繰りに汲々としているときなので、悲観的な雇用施策の採用も仕方ないと思うが、一歩引いて考えれば、自社の従業員こそ自社製品をもっとも愛し、買ってくれるコアなファンなのである。
このファンを失うということは、ブランド力がますます薄まってしまうということを意味する。不況が終息した後は、新製品の開発をこれまで以上に加速しなければ、バッヂだけでは物が売れなくなってしまうに違いない。
これはまさにリストラのパラドックスであり、おそらく2009年は後世、スタグフレーションの始まり年として記憶されるのではないか。「不況の時こそ、技術・技能を磨け」と叱咤激励するのは、まことに無責任で心苦しいかぎりなのだが、ここが案外勝敗の分かれ目なのかもしれない。
世界同時不況が深刻さを増す中、経営危機に伴ってリストラ解雇された方々が、解雇した雇い主や会社を相手に闘争を繰り広げるという事件が多発している。リストラによって、生気を取り戻した会社が、あいも変わらず漫然と放漫経営を続けていて、その解雇が正当性を疑うようなケースであれば、大いに労働者の権利を主張し、闘争すべきである。
しかし、リストラしても再生がならず、会社が消滅してしまった場合はどうだろう。適切かどうかは別として、相撲でたとえれば、相手の力士が休場で病院に入り、再起不能となりそのまま死亡してしまったようなものだ。間違いなく、不戦勝である。だが、勝ってもなにももらえない。こんな場合は、やはり法廷に場所を移すしかないのだと思う。相手のいない土俵に居座るというようなことをすると、周囲に迷惑がかかる。雇用主がいなくなったのに労働者側が、「働き場所をよこせ」と主張するのは、日本は社会主義国になれと言っているのと同じである。昨今の経済情勢は一歩間違うと社会体制の変革運動にまで発展しかねない勢いがあって、不気味である。
今年の前半は、企業のリストラ競争となりそうだ。整理解雇による人員削減は、特にメーカーの場合は技術技能の流出となってしまい、削減した人員以上のダメージが出る。人減らしによって、企業体力が想定した以上に落ちてしまい、再建が難しくなるといったことも懸念される。分かりやすく言えば、景気が回復していく局面になっても、新製品が出せなくなるということだ。
にもかかわらず、人員整理をする会社がこれだけ増えているのは、こんどの不況がかなり長期間に及ぶと読んでいる企業が多いからだろう。
需要の低迷が長く続くならば、とにかく出る金を最小限に抑えて、貝が口を閉ざすようにしてただひたすら嵐の吹きぬけていくのを待つしかない。どうやら世界経済をそのように見切ってしまった企業が増えているようだ。
また組合との春の賃金闘争や国の強力な行政指導が始まる前に、人の問題を決着させておきたいという思惑も見え隠れしている。
だが、ここで慌てて汽車に乗りこむことがはたして得か損か。それはわからない。残った人材で市場のどこを目指すのかが明らかになっていないと、結局「だしがら」だけの会社になってしまう。使用者も雇用者も今年の前半は踏ん張りどころだろう。
昨年10月ことであるが、職場でアスベスト(石綿)を扱い肺がんで死亡した兵庫県姫路市の男性をめぐり、13年前に認められなかった労災が、新資料を基に一転し認定されるということがあった。これだけ古い決定が覆るのは極めて異例である。
男性は姫路市の会社で溶鉱炉を組み立てるなど石綿を扱う作業に約22年間従事し、1991年12月に肺がんで死亡している。遺族が労災を申請したが、姫路労働基準監督署は「石綿によるものと認められない」として95年6月、労災と認めないとの決定を下していた。
ところが2006年3月に石綿健康被害救済新法が施行されたため、遺族は一昨年12月に弔慰金を申請し、その審査の過程で、手術で摘出した男性の肺の一部が病院に残っていることが判明しそれが検査し直された。すると労災認定基準を超える濃度の石綿小体が確認されたため、厚生労働省の指示を受けて労基署が昨年9月に決定を覆したのである。
どんなに立派な人であっても、見落としややりそこないを起こすものだ。私のような凡人は、ほとんど毎日がやりそこねの連続である。まっ、それはそれとして……。
医療現場などでは、その見落としで命を落とすというようなことがままあり、こうなると訴訟を起こされるため、近頃はそれが医師不足の背景になっているという指摘さえある。
だが、見落としややりそこないで他人の生命を奪うのは、医師だけではない。公共交通機関の運転手などは、常に何百、何千の乗客の命を預かっているわけで、そのプレッシャーたるや想像を絶する。長時間勤務で判断力が落ちぬよう、管理する側には細心の注意が必要である。
それはそうと、公務員は国民の暮らしの行く末を預かっているわけだから、公共交通機関の運転手以上に見落としややりそこないがあってはならないはずだ。しかし、後期高齢者医療制度にしろ年金記録問題にしろ、どうもそういう自覚がかけているように見えてしかたがない。
上で触れたアスベストの労災認定のように、見落としがあっても後に露見するのならまだ救われる。だが、現実問題としては天網恢恢疎にして漏らさずとはいかない場合もあろう。制度の不備などを部外者から指摘される前に、当事者が内部から悪いところを直す声をあげられないものだろうか。
景気の急速な減速ということもあって、春の賃金改定交渉の行方が政治問題化している。つい数年前までは、この春の賃金改定の労使交渉のことを「春闘」と呼んでいた。もっと遡れば、昭和40年台までは正真正銘の「賃金闘争」であり、赤い旗を立てての最大の団体交渉だった。「順法闘争」や「ゼネスト」などという言葉もいまやすっかり死語となってしまった。
ここで忘れてはならないのは、そういう過激な闘争時代にあっても、政治家は使用者に「できるだけ賃金をあげるように」などと口先で介入してこなかったということである。そもそもわが国の自由民主党は、結党以来経営者の側に立った政策を推進してきたわけで、賃上げを抑制する側に加担してきた。
それがどうしたわけか、ここにきて掌を返すように、労働者側に立った発言ばかりするようになった。これはだれが考えてもおかしいわけで、眉につばをつけて聞いたほうが良い。選挙前のパフォーマンスだと取られてもしかたないだろう。
まっしかし、今回の不況がサブプライムローン問題に端を発する世界的な需要の縮小の起因していることは明白だから、これまでの尺度をあてはめてはまずいのかもしれない。労働者の可処分所得を増やせば、少しは需要が盛り上がるだろうという政治家の計算はわからないでもない。だが、需要の縮小でギリギリの費用削減経営に追い込まれている企業に、「賃金を上げてほしい」と口先だけで命じたところで、どれほどの効果があるだろう。
話が突然飛んで恐縮だが、昨年夏に広島県三原市の造船会社で、作業員がレールの下敷きになって死亡するという痛ましい労災事故があった。この事故は最終的に、労働安全衛生法違反容疑で会社と施設管理者・担当技師が書類送検されたのだが、この会社ではこの事故も含め、2006年5月以降に7件8人の死亡事故が続発していた。
この会社に限らず、メーカーはどこもギリギリの人員で作業している。3Kという言葉はいまや死語なのかもしれないが、そういう現場作業はそのままのこっていて、3Kという言葉が製造現場に不用意に使われるようになってからこっち、現場には優秀な人材が入ってこなくなってしまった。もっとも今後は就職難の時代が来る事があきらかだから、3K(危険・汚い・きつい)だからといって、仕事を敬遠するというわけにはいけなくなるかもしれない。
それはそれとして、現在のところは求人しても人が集まらない製造現場が多い。そんなわけで、現場作業員の高齢化は急速に進んでしまっている。もちろん自動化機械などを導入し、高齢者でも十分に活躍できる場にカイゼンされているのならそれはそれで良い。が、こういう時代でギリギリの費用でやっているために、経験のあるベテランに丸投げして日々をしのいでいるところも結構ある。その丸投げの日常に、油断が入り込んでしまったというのが、この造船会社の事故の根っこにあるように思う。
ギリギリでやっていれば、むしろ緊張して事を運ぶはずなどと考えるのは、素人の考えで机上の空論に過ぎない。事故は常に弱いところで発生するものなのである。
ひるがえって、ひとこと申し上げたいのは、政治家の賃上げ口先介入のことである。現場は人も金も設備もギリギリの状況でやっている。賃上げできるくらいならば、派遣や臨時の社員の首を切ったりはしていない。「知恵を出せば賃上げの余地はある」などというのは勝手だが、それを押し付けられては困る。
そもそも厚生年金保険料を滞納する会社が多いというのを、国は「標準報酬の引き下げ」でごまかしてきたのだ。それがこの国の今の行政の姿なのだ。
経営の現場では、賃上げの原資も社会保険の保険料の原資もすでに底をついている。その証拠に「絞った雑巾でもまだ絞れる」と豪語していたあのトヨタが、いとも簡単にギブアップしてしまっているではないか。
需要がないから需要を喚起せよなどと鸚鵡返しに言っているだけでは、今度の不況は乗り切れまい。経済成長なしで安定する社会をどうやれば作り上げられるかが、いま世界の指導者に求められている。
9月9日京都地裁に、異色の訴訟が起こされた。それは、顔などに著しい傷が残った場合の労災補償に関して、女性の方が高い障害等級を認められるのは、男女平等を定めた憲法に違反するというもので、訴えたのは34歳の男性だった。
男性は1995年11月に、勤務先で金属の溶解作業中に大やけどを負い顔や腹部に跡が残った。顔などに著しい傷が残った場合、労災保険法による障害等級で、女性は7級、男性は12級と認定される。ちなみに労災保険は1級に近づくほど支払われる年金などの額は高くなるしくみだ。労働基準監督署は2004年4月に、複数の症状を併合して男性を11級と認定し、男性はこれを不満として再審査請求したが、今年3月、「精神的苦痛が女性の方が上という社会通念は妥当」として棄却されてしまった。
求人票に「容姿端麗な女性を望む」などと書くと、男女雇用機会均等法違反で、すぐに訂正を求められるというのは、広く知られているところである。近頃はそればかりか職業名でさえ、「看護婦」→「看護師」、「保健婦」→「保健師」などと改められ、それが徹底されている。そういう性差を無くすのだったら、顔の怪我についても、男女差をなくせというのが男性の主張である。いままで突き詰めて考えてみたことがなかったが、言われてみればなるほどと思う。
しかし、男女平等の流れからすると、女性の7級を12級に下げるべきという主張のほうが正論なのかもしれない。「容姿端麗」という表現がいけないということを前提にすれば、そうでなければ終始一貫しないようだ。
そもそも日本の男女雇用機会均等は、外見よりも中身で勝負すべきという方向で推進されてきた感が強い。私はその考え方にはどこか無理があり、全面賛成しかねているのだが、この再審査の結果を見ると、役所もホンネのところでは女性は美貌で価値が決まると考えているように思えてならない。これではダブルスタンダードである。
それにしても昨今はテレビをつければ、美女・美男のオンパレードである。近頃は女子児童の半数近くが「Age嬢」になりたがっている、というようなことを平気で言う評論家さえ出てきた。「Age嬢」とはキャバクラ嬢の化粧専門誌のモデルのことをいうらしい。一昔前ならば水商売の女性の化粧は、「ケバイ」などと言われて敬遠されていたのだから、変われば変わるものである。知らぬ間に化粧道具が進化していたのかもしれない。それにしても、小学生が水商売にあこがれるというのは、ちょっとあれである。しかしテレビをつけると、ほんとうに動くマネキンといった感じの娘や青年が出ていたりするのだから、無理もないのかもしれない。
こういう時代になると、頭の出来とか芸のすごさなどはほとんど評価されない。こうした傾向はすぐに一般社会にも反映されるので、営業の最前線では、容姿=売上というような見方が力をつけていて、要するにイケメン→営業成績アップ→高収入というような公式になるらしい。そんなわけで、34歳の男性が憤っているというのも、仕方ない背景があるわけだ。
しかし見てくれだけで人生の何分の一かが決まってしまうような国は、あまり上等とは言えない様に思う。こんなことに現をぬかしていたら、今の世界同時不況など、日本は絶対に克服出来なくなってしまうのではないか。そんなこと、チビ・ハゲ・髭面の「イケテナイ」あんたに言われたくないといわれてしまえば、黙るしかないのだが……。
この夏、群馬大で職員の残業代不払いが明らかとなった。不払い分は約2,500万円で、前橋労働基準監督署の是正勧告を受け、昨年12月に支払ったという。国立大の残業代不払いは、7月に広島大の2年3カ月、約1億9,000万円が判明するなど各地で問題となった。
群馬大側の発表によると、不払いだった残業時間は昨年6〜9月の4カ月で計1万1,688時間。対象の職員は約920人で、大半が同大病院職員だという。
国立大で残業代不払いが相次いで発覚している背景として、「国立大学法人化により労働基準法の対象になったため」と分析する専門家が多いが、それが本当だとすれば呆れてしまう。
もちろん法人化イコール民営化ではない。が、当事者は法人化に先駆けて、業務の効率化を行うべきであったと思う。
「入るを計って出るを制すという」のは、渋沢栄一翁の言葉だが、健全な法人は収支のバランスが取れていなければいけない。
公営企業であるからサービスの質は落とせず、やむなく働いている者にしわ寄せがいってしまったのだとでも弁明したのかもしれないが、それは言い逃れに過ぎない。
かつてのソビエト連邦を例に引くまでもなく、国営企業というのはとかく責任の所在があいまいになりがちで、業務の各所に無駄が潜んでしまう傾向がある。それを国立だから経費支出は管理不要の野放しで良く、人件費は基準法の適用外なので極力抑えてしまおうというのでは、いただけない。
言いたくはないが、国家公務員の心の中には、いまだに「我々は選良であり国を指導しているのだから、一般国民を対象とした労働法の枠外にある」といった特権意識が根強く残っているのではないか。
法を守らせる支配者側がその法令を無視しているというのは、他の国でもしばしば見られる。しかし、いやしくも先進国と呼ばれる国にあっては、この手の脱法状況はいただけない。国家公務員が愚民を統治するといった発想を捨てない限り、この国の官僚支配は終わりそうにない。
今年の夏、松下電器産業の工場長と、法人としての同社が大阪地検に書類送検された。容疑は労働安全衛生法違反である。
きっかけは食器洗い乾燥機を製造していた大阪府豊中市の工場で、2月20日に発生した労災事故である。作業中に機械の金型に右手を挟まれて、手首を切断する重傷を負うという事故で、工場長の容疑は作業主任者を選ばずに、プレス機械を使用させた疑いである。
「作業主任者」を置かなければ作業してはならない仕事、というのが法令で定められている。主なものをあげると、高気圧室内作業・放射線業務・特定化学物質等の製造・鉛業務・有機溶剤作業、それにプレス作業などである。作業主任者になるには、単に仕事の手順に精通していれば良いというのではなく、その危険性についても十分に承知していなければならない。その能力を審査(試験や講習もある)した上で、ライセンスが付与される。こういった過程を踏んだ者が、それぞれの会社で作業主任者にえらばれるわけだ。したがって彼らは、それぞれの作業のプロであり、その作業で飯を食っている会社としては、それなりの処遇をしなければおかしい。
だが、実際の製造現場においては、作業主任者が一般の作業者と同じ作業工程に割り振られ、処遇も一般社員のままといったケースもかなり見受けられる。たしかにいまやほとんどの工場では、人件費削減のために作業主任者も作業員として生産シフトに組み込まざるをえない現状で、これは無理からぬことである。しかし目先の作業に追いまくられては、作業指示や安全点検がおろそかになるのは当然である。
松下電器によると、同工場は生産拠点の再編に伴って5月に製造を終了し、滋賀県草津市の工場に移転するところだった。工場移転の直前という混乱期でもあったため、工事長は作業主任者を選定せずにいたのだろう。そのために重大事故が発生したのだ、と労基署は解釈し書類送検した。だが、選任さえしていれば、本当に事故は防げたのだろうか。
「作業主任者」を任命し、それなりの手当をつけることで、低額な月次給与の補填を行っているという企業だって結構ある。こういう会社の主任者は、自らの職務が何であるかを根本的には理解していまい。経営者は「正確で安全な作業」こそが富の源泉なのだということを、もう一度肝に銘じ、作業主任者に敬意を示すところから始めなければいけない。
食品偽装問題が飛び火したわけでもないのだろうが、このところ労働界では「偽装請負」の摘発が相次いでいる。そもそもどうして偽装されやすい社内請負制度という形態を、法は認めているのか。これは外国人研修生制度とともに、現代の雇用関連法令の中のなぞと言ってよい。というより、この制度の成立には、多分に政治の匂いが立ち込めている。
流れから言えば、法の目をくぐる形で「いつのまにか」こういう勤務実績が出来上がってしまったため、「既成事実」を法に取り込めないかという圧力が各方面からかかり、今のようにゆがんだ法律が出来てしまったのであろう。法令の立脚基盤自体がゆがんでいるのだから、本来はそちらからメスを加えるべきなのだが、摘発・指導といった一連の流れの中で、過去が云々される場面はまずないと思う。過去のボタンの掛け違いには手を触れず不問に付すというのは、日本人のうるわしい伝統なのかもしれない。
このように考えてみると、新法が出来ても、それにすぐに飛びつくのはやめたほうがよさそうである。一番乗りで得をしたと思ってもさにあらず、そこにはたいてい落とし穴が仕掛けてあると見たほうが良い。
去る6月21日に、トヨタ自動車が生産作業の「カイゼン」のために行う従業員の「品質管理(QC)サークル」活動について、「原則月2時間以内」とする指針をまとめた。2時間を超える場合は、上司の承認を得ることとし、全体の時間を圧縮したい考えだという。従業員の負担を軽減するとともに、総額人件費を抑制する狙いがあるというが、実際のところどうなのだろう。
トヨタは6月1日から、これまで「自主的な活動」としてきたQC活動を「業務」と認め、残業代を月2時間までしか支払っていなかった運用を改めると発表していた。この発表を聞いた時には、これは一つのエポックであると耳を疑った。しかしながら、わずか20日で随分と後退してしまったという感が強い。現経営陣は「カイゼン=会社の強み」であるとの共通認識は捨てずに持っていると思われるので、QC活動時間に今回のような「枠」を嵌めたからといって、カイゼンのテンポを緩めても良いとは思っていまい。ということは、今後は業務時間中に個人単位でカイゼンしていくことが、強く求められていくのだろう。だが、カイゼンのために業務が遅れるようなことがあっても、会社はそれを残業としては認めてくれないような気がする。結局、行き場のなくなったカイゼン時間は、サービス残業となるか、持ち帰り残業になるのか。いずれにせよ、過重労働という観点から見れば問題は解決されそうにない。
製造業の多くは従来型のコンベア生産方式を捨て、すでにユニットで完結する製作方式に切り替えている。その流れからいえば、集団でのカイゼンは時代遅れで、個別のノウハウを磨いていけばそれなりの成果は得られるはずである。トヨタは従来のQCサークル活動を業務と認定し、給料を払って活性化するのではなく、その活動を抑制する方向に動いた。しかし、聞こえてくる労務管理の変更は安易なものばかりで、抜本的なものは何も無い。これでは「竜頭蛇尾」のそしりはまぬかれまい。これがトヨタ帝国の衰亡の兆しでなければ良いが。
今年の流行語を見定めるには時期尚早だが、「名ばかり管理職」はその候補に間違いなく入ると思う。辞書的に書くと「世間的になるほどと思える肩書きをかぶせられ、責任ばかりが大きくなる一方、残業代が支払われなくなる労働者」のことをこう呼ぶようだ。植木等時代は、上司から無理難題を吹っかけられても、「仕事で命まではとられないさ」と笑い飛ばしていたものだが、近頃はそんな冗談も通じなくなってしまった。
冗談は無視しても良いが、過労死はもってのほかだ。そればかりか、上司のよるパワハラ(パワーハラスメント)によって、うつ状態に追い込まれるといったケースも多くなっている。
役職の肩書きを拝命しても、それが「名誉の戦死」を予感させるものであっては浮かばれない。一部の労働者だけにしわ寄せしなければ成り立たないビジネスモデルは、そもそも社会的に失格である。いや、失格なのは、そういう会社しか生き残れない米国流の過度の競争社会のほうかもしれない。
この3月末まで、群馬社会保険事務局から年金特別アドバイザーを委嘱されて、社会保険事務所の内部に入って仕事をしていた。入ってみて驚いたのは、大多数の来所者がけんか腰でやってくることである。窓口では毎日、係官と客とが壮烈なバトルを繰り広げていて、所内はものものしい雰囲気だった。
たしかに私の目から見ても、ほとんどの係官の受け答えは良いとは言い難い。たいていは木で鼻をくくったような口調で、これっぽっちも国民の立場に立っているとは思えないのが実態である。聞いていて腹が立つことのほうが多いのだが、なにもこれほど怒ることもないという客も多かった。思うにこれは、マスコミ報道によってたきつけられたという面もあるのではないか。
だから報道も自主規制すべきなどと論陣を張るつもりはない。そもそもマスコミ各社というのは、NHKも含めて公正公平などということは絶対ありえず、そこには記者個人または会社としてのバイアスがかなりかかっている。受け取る側がそうしたことを知り、情報を選別する「眼」をもっていないと、やすやすと彼らの煽動に乗せられてしまうわけで、実はそちらのほうがずっと怖い。
さて、兵庫県内の私立保育園で 20代の女性保育士2人が園児の父親から執拗なクレームを受け、うつ病やストレス障害と診断され、兵庫労働局西宮労働基準監督署に労災認定されていたことが3月 17日、明らかとなった。父親は引っ越し代や担任を代えるよう強硬に要求したという。複数の関係者によると、父親は 2006年8月、園児送迎の際や電話などで、保育園で飼っていた動物が死んだり、園内が整理整頓されていなかったりといった内容のクレームを付けていたという。
ここで取り上げた例は、「モンスターペアレント」として、ひところ盛んにマスコミで取り上げられていた問題である。昔から航空機事故や船の事故は連鎖的に発生すると指摘されているが、人による事件もその例外ではなく、連鎖がおこる。卑近な例では、自殺方法はあれよあれよという間に、練炭から硫化水素へと変わってしまった。
自分の頭で善悪を考えなくなってしまうということは、「人間としての劣化」にほかならない。品性を高める努力を忘れてしまっては、人間としての尊厳が失われてしまう。
★閑話休題★ 地図に残る仕事の光と影 2008.05
独立行政法人水資源機構による徳山ダム(岐阜県揖斐川町)建設に当たり、地権者との用地交渉を担当した同機構の男性職員が昨年2月自殺した。
この自殺は過労が原因だったとして昨年11月に労災認定されていたのだが、その後、同機構とダム建設所長が地検に書類送検されている。男性職員は一人で地権者との交渉を行っていたらしい。
地図に残るような大きな仕事も、煎じ詰めれば日々の小さな仕事の積み重ねで出来ている。新しいことを手がける場合、賛同者ばかりであるということはありえず、そこには反対者も不利益をこうむる者も、少なからずいるものだ。そういった人たちとの交渉は、想像しただけでも気骨の折れるもので、男性社員はさぞや神経をすり減らしていたことだろう。一般的にはこういう役目を「汚れ仕事」と呼んでいる。
こういった業務はたいてい裏方が担当するため、トップが直接手を染めることはまれだ。リーダーは物事の進捗管理をするのが第一の仕事だから、結局は「汚れ仕事」の担当者にしわ寄せが行ってしまう。この例はまさにそれである。
昨年来の食品業界の不祥事、公的年金の不祥事、海上自衛隊の不祥事など、同様の例を挙げればきりがない。
今日も日本のどこかで、『汚れ仕事』はひっそりと行われているのだ。その実態を白日の下にさらす勇気がなければ、結局この国は「タテマエ」だけの国になってしまうような気がしてならない。この種の輪廻を自ら断ち切れた団体のみが、21世紀を乗り切れるのだと肝に銘じていてほしい。
☆閑話休題☆ 裁判所に身をゆだねる社会の不幸 2008.04
国に認められてはじめて仕事が成り立つ、という業種は結構ある。そうした職業では、許認可のルール変更はイコール死活問題となってしまう。簡単に言ってしまえば生殺与奪権をお上に握られているようなものだから、時と場合によっては「生存権」を脅かされるような大問題となる。だが、基準の改正がひとたび「公共の福祉」に寄与していると認められると、途端に旗色が悪くなってしまう。
少し古い話になるが、政府は 2002年2月施行の改正道路運送法で、タクシー事業への参入を免許制から許可制にするなど規制緩和を実施した。そのため一部地域で、タクシー数が増加し収入が減少するという現象が生じた。そのため政府の規制緩和政策が原因で収入が減ったとして、首都圏のタクシー運転手 10人が国を相手に計約 2,700万円の損害賠償を求めていたのだが、その判決が1月25日東京地裁であった。結果は「政府の政策で、タクシー運転手の労働条件が悪化したのは明らかな事実」とあると認めたのだが、請求自体は棄却された。
棄却の理由は、概ね以下のようなものである。
「規制緩和政策の実施推進が、輸送の安全、利用者利便の実現に結び付いているとは言い難い」が、「公務員による加害行為が特定されていない」
本件において、ルール変更による利用者の利便性の向上とドライバーの生存権とが天秤にかけられているのは、今更いうまでもない。利便性が向上しないのに、生存権が犯されて良いというのでは、やらずぶったくりである。ここに「公務員による加害行為」という理屈をもってくるのは、やはり無理がある。
さて許認可ではないが、同じようなことは我々の身近でも起きている。たとえばこのところ毎年のように、法改正で公的年金から引かれる介護保険料が上がってきている。またこの春からの後期高齢者医療制度の導入で、10月以降は75歳以上の高齢者から保険料が勝手に引かれるようになってしまった。それでなくても低い額の年金なのだから、これでは高齢者がまともに「生存」することさえ危ぶまれる。
だが、この手の問題を裁判所に訴え出ても、「公務員による加害行為が特定されない」と言われてしまえばおしまいである。こちらの天秤に載せられているのは、「国民の生存権」なのだ。向こうの天秤に載せられているのは、いったい何なのか。一般国民がすべて死に絶えて、「兵どもが夢のあと」というような日本になってしまっては困る。
政治家や高級官僚が、もっと国民の実情を知るように心がけなければ、この国は良くならない。
★閑話休題★ 社会保険の存在意義 2008.03
1月9日、トヨタ自動車の堤工場(愛知県豊田市)で過重な労働に従事し、 2002年に急死した内野健一さん=当時(30)=の妻博子さん(38)が厚労省で舛添要一厚生労働相と面会した。
内野さんについては、昨年 11月、博子さんが国を相手に遺族補償年金の不支給処分を取り消すよう求めた訴訟で、名古屋地裁が原告側勝訴の判決を言い渡し、国が控訴せず確定している。これにより遺族補償年金は支払われることになったが、同労基署は遺族補償年金給付額について、時間外労働を約45時間と算定する意向を伝えてきたという。これを不当として、厚労相にサービス残業分も支給するよう要望したのだ。
社会保険とは、年金・医療保険・雇用保険・労災保険の四つをさす。このところ、この4つそれぞれの存在意義が、危うくなっている。
筆頭は公的年金不安で、これは今更言うまでもないことかもしれぬが、年金原資の先細りに端を発し、今では個人の加入データの信憑性まで疑われている。筆者も2月から「ねんきん特別便」の騒擾に巻き込まれて、民間の年金特別アドバイザーとして連日社会保険事務所に詰めている。二番目の医療保険については、後期高齢者からの保険料負担増などに代表されるように、給付を削減し、負担を重くする方向の改革ばかりが目立つ。そして雇用保険では、基本手当(失業給付)の受給日数が半減されたのは記憶に新しいところだ。最後の労災保険では、上記のケースでもわかるように「労災」の認定基準を厳しくするということで、給付を減らすことばかりに力を使っている。
支給を圧縮する方向に「改悪」が進むのは、国の財政が逼迫しているからだ、と一般には思われている。だがしかし、社会保険は企業や国民から、直接的に随分と高い保険料を徴収しているのだ。その給付を「財政再建」の錦の御旗の下に、これほど絞って良いものかどうか。本来の社会保険は、国の財政とは切り離されていて、別会計になっているはずである。それにより政治に左右されない安定的な運営が出来ると信じられてきた。そういう意味では、政治家はなにかにつけて「税金で賄えばよい」と言うのは極めて無責任である。
それはそれとして、役人たちがここまで醜く支払いを渋るところを見ると、社会保険制度の裏側にも我々の知らない「埋蔵金」が隠されているのではないかと疑ってみたくもなる。
昨年末から年明けにかけて、何かとニュースで取り上げられているグッドウィル・グループの代表者折口氏は、立志伝中の人といってよい。一時はホリエモン以上に、「ジャパニーズ・ドリームの具現者」としてもてはやされていた。ジュリアナ東京の大成功を引っさげて、実業界入りしたときは、マスコミに「時代の寵児」と絶賛した。
穿った見方をすれば、折口氏が派遣業を始めたので派遣法が成立し、その余勢をかってコムスンを全国展開するという方針をぶち上げたので、今のような介護保険制度が出来てしまったと言ってもいいと思う。
確かに氏には卓越した先見性があって、私などは足元にも及ばない。その部分はしっかりと評価されるべきだと思う。まっ、それで違法行為や登録派遣者に対する無茶な労働の押し付けなどが免責になるわけではないが……。
ただ、それはそれとして、折口氏に目をつけ、タッグマッチを組んだ官僚・政治家・マスコミ人が少なからずいたという事実を忘れてはならないと思う。彼らにとって、グッドウィルは「派遣」「介護」という新しい概念を日本に広めるための広告塔で、是非とも必要だったのではないか。
トップランナーは得てして個性的になりがちで、何かと風当たりが強くなる。本来行政や政治は、その個性が非社会的な方向に伸びていかぬよう、きちんとした道筋を作ってやるべきなのではないか。今の日本には、そういった視点が決定的に欠落しているように思えてならない。
いまだに江戸時代をまったくの封建暗黒時代ととらえる向きもあるが、少なくとも江戸中期以降の幕府の組織体制などは、意外なほど民主的なものである。
江戸の南北町奉行は、時代劇でおなじみなため、現代の警視庁にあたると思い込んでいる人が多いが、実際には東京都庁と地方裁判所の機能も兼ねていた。今で言う「ワンストップ」の役所だったわけで、行政組織は肥大化していなかった。
これが地方になると、○×藩であれば、そこにリトル江戸のような組織があるわけだが、そうでない「天領」(幕府直轄地)も多かったため、そういうところは意外にも江戸の勘定奉行が管轄していた。全国を網羅する奉行には、もう一つ寺社奉行というのもある。重要な案件は、職務領域を超えて、この三奉行が集まって協議していた。
奉行は今の国の組織でいうと、局長級といったところだろうか。その上に、奏者番・若年寄・老中などという役職があって、国が危機に直面したときなどには、老中の中から大老が選ばれた。これこそ今の職制に無理やり当てはめれば、内閣総理大臣ということになるのだが、といって、大老にほかの老中を指揮命令できる権限まで付与されていたという記録はない。要するに基本は合議制である。見方によっては、現代よりもよほど民主的だったといえる。しかしまあ、今の国会をみても明らかだが、会議の結果導き出された結論が、常に最善の策であるという保障はない。
さて、近頃は「執行役員」という役員を置く企業が増えた。取締役と執行役員の違いは、形式的には登記してあるかどうかということで区別されるが、実際の権限となるといささかわかりにくい。いずれにせよ、どちらも組織の長としての「本部長」や「部長」などよりも、強大な権限を持っているということだけは、間違いあるまい。
一般的に役員の権限は、下に広がった三角錐、表現を変えればウェディングドレスのような形で仕事をカバーしている捉えればよい。スカートの裾が描く底面の円が、その人の待遇と考えられ、体積(ボリューム)が責任となる。取締役と執行役員の違いは、ドレスの色の違いくらいのものだ。このドレスを身にまとっている人の頭は、当然のごとく雲の上まで達していて、これがそれぞれの部署の頂点となる。たとえば、責任のはたし方が少ないということは、このドレスの作る三角錐が、タイとスカートのように細くなってしまっているということで、こうなると底面積の円も小さくなるので、収入は激減しそのうちに直立していることも難しくなる。こうなると役員更迭もそう遠くはない。
話を元に戻すが、桜田門外の変で暗殺された幕末の大老井伊直弼は、日本を開国に導いた人物として一般には知られている。しかし猜疑心の強い人で、なおかつ執念深い人だったようで、さまざまな過去のいきさつから、水戸斉昭(老公)をことのほか毛嫌いしていた。そのため大老に推挙された途端、他の老中がとめるのも聞かず、何かと難癖をつけて「水戸いじめ」に走った。これが「安政の大獄」とよばれるもので、桜田門外の変の直接の引き金になったとされている。
他人に耳を貸さない大老のほうが悪いと言ってしまえば、まったくその通りなのだが、ここはちょっと視点を変えて、同僚の老中らの責任を考えてみたい。大老の政策に偏りがあると感じたならば、老中は真っ向からいさめなければならないのが筋だ。それが出来なかったというのだから、彼らの穿いていた長袴は、そろってタイトスカートのような作りになっていて、歩くのも困難だったのかもしれない。本来の機能を果たせなくなった組織は、もはや崩壊しかない。事実江戸幕府は桜田門外の変の7年後、徳川慶喜が大政を奉還して、崩壊してしまった。
「格差社会」が広がり、生活苦のために自死を選ぶ人が年々増大している。その多くは、心ならずもパートや派遣社員といった、身分の不安定な働き方に陥ってしまった人たちである。長年こうした人たちを「非組合員」として組織から排除してきた連合も、ここに来て方針を転換し、今後は積極的に組合員に取り込みたいと重い腰を上げた。
だが実際に自殺に追い込まれているのは、負け組だけではない。勝ち組として高処遇を得、会社に残留した正社員の多くは、とうてい達成不可能と思える課題を与えられて、青息吐息である。こんな仕事のやり方ばかりになってしまったのは、「成果主義」が曲解されて産業界の末端にまで浸透してしまったせいだろう。
なるほど日本の賃金は、アジア諸国に比べれば相当高い。その高い賃金に見合っただけの成果をあげてもらわねばならぬというのは、一見すると正しい。しかしよおく考えてほしい。各国通貨の為替レートは、労働生産性によって決められているのではないのだ。政治的・国際戦略的に、いや場合によっては投機的に通貨価値を低く据え置いている国のほうが多い。そんな国を相手に、個人の努力だけで何とかしろというのは酷である。政治や外交・経済の専門家たちが解決しなければならない課題を、民間企業の労働者一人一人に押し付けなければならないところに、現代日本社会の病巣がある。経営者も積極的に国の舵取りを具申しなければ、今の閉塞状況は打破できまい。
今年の夏は猛暑もすごかったが、外国人労働者の派遣に関連する攻防も熱かった。
卑近なところでは、近くの高崎市に本社を置いている人材派遣会社「群馬サポート」の幹部が、入管難民法違反(不法就労助長)の疑いで逮捕された。また、仙台では「東北留学生支援協会」の幹部が職業安定法違反と労働者派遣法違反の疑いで逮捕されている。
その一方で、公立学校が外国人子弟を積極的に受け入れよう、と真剣に取り組み出す動きも見られた。
外国人も日本で生活する限り、最低限のルールは守ってもらわなければ困るというわけで、これについては、私なども日々のゴミ出しや車の運転などで、実感しているところだ。日本人と外国人とが共生するためには、「教育」の問題は避けて通れない。それについては理解できるし、誰かが取り組まなければならないのも事実である。
だが、今のままではどこかすわりが悪い。日本はいまだに、外国人労働者に対して完全な門戸開放をしていないからだ。在日の方を別にすれば、日系人として入国するか、研修生として入国するかでなければ、「労働」することは、実質上できない。この二条件から外れた者は、「不法残留者」とされ、アウトローとなってしまう。法の網からこぼれた人々には労基法など適用されないから、彼らは低賃金の労働者として労働市場の底辺に埋め込まれることになる。10月からはこれらの人を届け出ろと職安が指導しているが、どこまで把握できるかは疑問である。
残留が長くなれば家族も増えるわけで、教育関係者は、子供には罪はないから公立学校に通わせろと主張することになる。だが、その親の多くは不法残留ゆえに、税金すら払っていない場合が多い。近頃、倒産する医療機関が増えているが、経営が行き詰まる原因の一つに、健康保険未加入外国人の医療費踏み倒しもあるようだ。
こうした構図、どこかおかしくないか。国は現行法に違反していると「逮捕」する前に、まず外国人労働者問題と真正面に向き合わなければいけないだろう。
現今の情勢は尊皇攘夷派と開国派が互いに譲らず、国の方針が決まらなかった江戸末期とそっくりである。黒船問題で問題を先送りにしてしまったことが、江戸幕府の崩壊の原因となったという歴史的事実を、関係者は重く受け止めなければいけない。日常業務に追われて、そんな歴史の勉強などしている暇はないと言われるかもしれないが、福田首相は前首相とは異なり、どことなくゆとりがありそうだ。今後の福田新政権の舵取りに注目したい。
7月末に行われた参院選で自民党が大敗を喫し、とうとう安倍総理が退陣に追い込まれた。参院においては野党が過半数を占めるに至ったわけで、今後は民主党が掲げる主義主張・政策の実現性が問われることになる。
かつては「空想社会主義」という言葉が存在し、この国においては、野党の言うことはすべて空手形と見られていたフシがあった。しかしこれだけ国民の支持を集めた以上、「理想的と思っていた政策は、実は空想でした」などと開き直られては困る。まっ、それについては、民主党も「社会主義革命」を党の公約に掲げているわけではないのだから、心配はいらないと思うが……。
権力が一点に集中する社会構造の場合、そこからはじき出された者は、「不遇」という共通認識を持つに至る。己の不遇を改善するには団結するのが手っ取り早い。企業の場合、言うまでもなく権力は経営者側に集中しているから、これが与党であり労働組合は常に野党である。
閑話休題。
7月の末に、武蔵野簡易裁判所にちょっと珍しい民事調停の申し立てがあった。それは過労死したファミリーレストラン店長の妻が行ったもので、夫が加入していた「すかいらーく労働組合」を相手取り、組合の義務を果たさなかったことへの謝罪などを求めたものである。
先ほども述べたとおり、会社経営においては、組合は万年野党である。その「野党」に対して、義務を果たせと求めた点で、この申し立ては異例である。
はたして労組に、組合員個々人の長時間残業まで監視する義務はあるのだろうか?専従職員のあるなしなど組合の組織体制も絡んでくるので、微妙な問題ではある。ただし、労組法第2条にはこうある。
「労働組合とは、労働条件の維持改善その他経済的地位の向上を図ることを主たる目的として組織する団体」
要は労働条件の改善に対して、どう取り組んできたかが問われているのだと思う。労組も「空想的」では困る時代になったという自覚が必要な時代に入った。
★閑話休題☆ 教育は懲戒ではない 2007.09
労働組合員に対して、組合脱退を迫るという「直接的な不当労働行為」というのは、ストライキや遵法闘争が多発した80年代までは、かなりの企業で行われていた。だが今や、一部の零細企業を除けば、新聞を賑わすのはJRだけのようだ。
「日勤教育」という言葉が存在することを知ったのは、例のJR西日本福知山線の脱線事故の際である。あのときは、たしか「安全マニュアルを守らなかった運転手に対する、反省の意味をこめた教育」であると説明されていたように記憶している。
もとより列車運転のことなど何も知らない私は、運転中に手袋を外すことがどれほど危険なことなのか、知る術もない。だがJR西日本広島支社では、その程度のことで「上司に反抗的な態度をとった」という理由で、69日間も教育されていたという。それほど厳しい教育が日常的に行われていたのであれば、あんな脱線事故など起こらなかったはずで、どうも腑に落ちない。
これは憶測だが、JRの内部では、「教育」をという言葉を「懲戒」の意味あいで使っていたのではないか。その結果どうなるかというと、おそらく従業員は「今年1年教育を受けなくて本当に良かった」などと会話をかわすことになる。そら恐ろしいことだ。「安全と弁当は自分持ち」という言葉があるが、運転手は自分の命ばかりでなく、乗客の生命も預かっている。一つ一つの安全確認動作は、おろそかに出来ない重いものであるはずだ。
このところ、観光バスの事故や航空機事故なども相次いでいる。原因は様々で整備不良もあれば、過密労働もある。しかし、いずれの場合も「安全第一」という基本思想が置き去りにされてしまった感が拭い去れない。
効率化や合理化、ムダの排除など、職業人に課されているテーマは多い。しかし、企業はまず最初に本当に身につく「安全教育」を、計画的・継続的に実施しなければなるまい。昨今の政治家のように「安心・安全」を声高にがなりたてたところで、現実にはなにも改善されない。まずは、「教育」は懲戒ではないのだという意識改革からはじめねばなるまい。
☆閑話休題★ カントリーリスクに対する支援 2007.08
15年も前のことになるが、ベルギーを訪問した折に、アウトバーンの車線上でいとこが運転していた車がエンストしてしまい、押し掛けするという背筋が凍る経験をした。心理的には海外との距離は随分と近くなってはいるが、外国では思わぬハプニングが付きものである。
出張で外国に行く場合、出張者には最小限の人数で仕事を期限内に完遂させなければいけないというプレッシャーがまずある。それに加えて各国独自の諸問題が上乗せされる。
一般に海外では無理な残業をする慣習が少なく、残業時間が正確にカウントできないため、「過労死」は存在しないとされてきた。それが土木建築サービス会社社員の川端英資さん=当時(56)=が 1999年に長期の海外出張中にうつ病にかかり自殺したという事案の訴訟で、初めて業務と自殺の因果関係が認められた。
本件の判決によって、長時間労働だけでない「圧力」がその双肩にのしかかっているということが法廷で認められた。海外出張を頻繁に行っている企業は、カントリーリスクに対して、国内からどう支援するか、もう一度点検しておく必要があるだろう。
カルロス・ゴーン氏の社長就任によって、日産がV字回復をとげたことはまだ記憶に新しい。その後、ゴーン氏はルノーの社長を兼務することになり、また業績不振だった米国日産に軸足を移した。そのことばかりが原因とも思えぬが、ゴーン氏の影が薄くなった途端、国内販売が失速してしまった。今年度、日産では国内の管理職以外の社員を対象に、早期退職制度を導入するという。勤続 5年以上の 45歳以上の社員 1万 2,000人が対象で、1,500人程度の応募を見込んでいる。
冷静に分析すれば、日産自動車はゴーン社長の下で新車販売ペースを前倒ししすぎた。ゴーン氏に限らず、落下傘で降りてきた社長は、周りの期待も大きいので、どうしても「結果」を出すために計画を無理やり前倒しするきらいがある。
確かにゴーン氏のハイカライメージも手伝って、日産(車)の旧態依然としたイメージは払拭され、フランス風の味付けをした車たちは次々にヒットした。だが、その間、エンジンが根本から見直されたという話は聞かなかったし、ボディデザインがライバル車より格段に良かったというわけではなかった。鳴り物入りで売り出しているスカイラインにしたって、そっくりな顔をしたメルセデスベンツがすでにある。
V字回復は、その多くが部品の共用化によるコストの削減と、従業員の削減による労務費の圧縮によって支えられていたのだ。
にもかかわらず、「すでに日本国内では改革が成功したのだから、あとは現場に任せておけば日産は大丈夫」という過信が、経営陣にはあったように思う。
たしかに、ゴーン氏の「必達の問題解決手法」などは見るべきものがあるのだが、その改革手法は、幹部が思ったほどには「現場」には浸透していなかったようだ。その証拠に、日産の技術者の中には、「会社として何を目指せばいいのかが分からない」と悩んでいる者が多いと聞く。
ものの考え方や価値観が根付くにはどうしても時間がいる。日本国憲法だって、定着するのに随分と時間がかかった。改憲論議が始まっても、9条解釈は揺れているのだ。
社風も新しいものを根付かせるには、それなりの時間がかかる。その見極めを経営陣が正確に出来ないと、このように足元をすくわれる。今日の勝ち組が明日の負け組になりかねない。しっかりと肝に銘じておかねばなるまい。
☆閑話休題★ ロシアンルーレットのような過労死 2007.06
近頃、医師の過労問題・過労死がマスコミでしばしば取り上げられている。北海道の名寄労働基準監督署が過労死として認定した道内の小児科医の男性=当時(31)=は、月 100時間を超える時間外労働をしていたという。
私事で恐縮だが、実は私は生活習慣病で二十年近く病院に通い続けている。そのホームドクターともいうべき病院を2年ほど前に替えた。以前通院していた病院は地域の総合病院で診療科も多く、救急指定医療機関でベッド数200を超える大病院であった。機械化も積極的で、外来も予約制になっていたが、それでも2時間位は待たされ、診察は2分というあっけなさであった。大病院であるから、医師の入れ替えも頻繁である。20年の間に担当医は10人変わった。
それほど馴染んでいた病院をなぜ変えたのか?それは、新任の担当医に「あんたのような慢性病の人は、別の病院に入ってもらいたい。そうしないと私の方が過労死してしまうよ」と言われたのがきっかけである。その医師のあたかも患者を敵視するような視線に恐れをなしして、転院を決意した。
その後、くだんの医師とは会っていないが、元気で働いているだろうか。まさか「過労死」はしていないと思うが……。
もっとも、彼のように、患者や周囲に当り散らせるような性格であれば、過労死はしないとは思う。過労死まで追い詰められてしまうのは、大抵責任を一人で背負い込むタイプの人間である。つい最近植木等氏が亡くなられたが、死を自ら呼び込まないためには、ある部分で彼のような「無責任」さが必要なのかもしれない。だが実際問題として、そんな連中ばかりでは、仕事は前に進まなくなる。
貧乏くじを誰が引くことになるのか。今の世の中はまるでロシアンルーレットである。ちなみに生前の植木氏は、若い頃から楽器を基礎から勉強し、画面上とは別人のようなきちっとした人物だったという。あらためてご冥福をお祈りしたい。
DIYとまで言えるかどうか別として、家の掃除や補修などは極力自分ですることにしている。もちろん最大の理由は、業者に支払う費用を少しでも節約するためなのだが、結構やってみると面白い。お陰でここ数年は、台所の換気扇は年に2回は完全に分解して掃除しているし、エアコンもはずせるところははずしてクリーニングしている。先日は縁石の欠けたところを、セメントをこねて補修した。これは3度目のチャレンジだが、見栄えは別として、今のところはがっちりとついているので、今度こそ成功だと思う。
ところで、セメントをこねる際には、猛烈に微細な粒子が舞い上がる。それは経験上わかっていたので、今回は細長い海苔の空き缶の中でこねたのだが、それでも咳き込んでしまうほどセメントの粉が舞い上がって閉口してしまった。わずか400グラムのセメントでこれである。職業としてやるとなれば、相当しっかりした保護具の着用が必要だろう。
さて、少し前のことになるが、2月の末に、工場や倉庫の天井などに吹き付けられていたアスベスト(石綿)が飛び散り、中皮腫になったとして岡山市と神戸市の男性(ともに死亡)が労災認定された。
岡山市内の男性は 1957年から岡山県倉敷市の織物工場で事務などを担当。 2005年に胸膜中皮腫と診断され、昨年死亡した。死後に石綿を吸った場合に特徴的に現れる胸膜肥厚斑だったことが判明、倉敷労働基準監督署は昨年 8月、労災と認定したのである。
織物工場では 73年、工場の天井に石綿を吹き付けており、労基署は「織機の振動で飛散していたのではないか」としている。
また神戸市の男性は市内の家具販売会社で約 15年間勤務。神戸東労基署によると、男性は家具の積み込みのため、石綿が吹き付けられていた倉庫で働いていたという。男性側は 04年 1月に労災申請。同年 6月に認定され、その後、56歳で死亡している。
天井に吹き付けてあった石綿が機械の振動で飛散し、その結果事務職の男性がなくなったというのは、驚くべきことである。コンクリート作りの古いビルには、今でもほとんどといっていいくらい石綿が吹き付けられている。これまでは、解体などでそれを掻き落とさない限り、健康に影響ないと説明されてきた。それが機械の振動ぐらいで飛散するとなれば、交通量の多い道路沿いに建っているビルには近寄りたくなくなる。こうなると労災認定うんぬんの問題だけでは済むまい。石綿被害者の特別救済は始まったが、早急にやらなければならないのは、現状と飛散防止対策なのではないか。
「チキンレース」という言葉を知ったのは、たしか景山民夫氏の著作によってである。手元の国語辞典には載せられていないので、あまり一般的な用法ではないと思う。記憶に寄りかかって説明してみると、きわめて視界の良くない車で限界スピードまで出して競いあうという、いわば度胸試しの自動車レースのことである。実際問題として、そんなレースがどれほど行われていたのかはつまびらかにはしらないのだが、恐怖で鳥肌立つというところから来た命名だろう。
ところで、今年の1月に、早稲田大(東京)が元教職員に支給している同大年金を、一方的に減額した 2004年の規則変更は無効として、安藤哲吉名誉教授ら元教職員やその遺族計約 160人が変更前の支給額を得られることの確認を求めた訴訟の判決があり、東京地裁が元教職員らの請求を認めた。
早大は 20年以上在職した元教職員やその遺族に対し、退職時の給与
の4カ月分以上を毎年支給してきたのだという。それが 1998年に支給総額が現役教職員の掛け金総額とその運用益の合計を超えるなどし、将来的に年金資産がゼロになることが予測されたため、 04年 11月に支給額を数年間で段階的に 35%まで減額するように規則を変更した。まっ、下世話な言い方をすれば、「無い袖は振れな」くなったといった水準の引き下げである。
民間企業には早大のような特殊な年金を採用しているところはまずないと思うが、定年退職時に豪華な壺を記念品を出してきたのを、経営が思わしくないので、賞状一枚で済ませることにしたなどという例は多いと思う。
端二三彦裁判長は判決理由で「早大年金制度は大学と受給者との契約であり、運営が困難などのやむを得ない事情がない限り、一方的に減額できない」と指摘した。
「当時制度は対策が必要だったが、大学の財政自体は著しく悪化しておらず、支払いを続けることが困難な状況だったとまでは認められない。変更は無効だ」と言っている。
この判決は経営者に対し、「支払いが困難な状況」までチキンレースを続けろと求めているように思えてならない。会社がつぶれる前日まで「壺」を配れというのは、どこか滑稽でもある。
早大の年金はすでに将来的に支払いが困難になると予想されていたわけで、だめになることは目に見えている。どの時点で白旗をあげれば「適正」と認められるか、そのポイントが焦点らしい。それにしても、破滅に向かっているのがわかっているのに、国権で「まだ早い」と指摘されるなんて、なんとも惨い話ではないか。
意地の悪い見方をすれば、国の年金に関しても、官僚は本音のところで「まだ改革は早い」と考えているのかもしれない。裏読みすれば、やはり破滅は目に見えているということになるだろう。早大年金のように、裁判官が最後の最後で年金受給者の側に立ってくれるとは考えにくい。 「転ばぬ先の杖」ではないが、自助努力だけは「まだ早い」などと言わずに、進めておくべきだろう。くわばらくわばら。
このところ、「日雇い派遣者」を廻る法違反が相次いで摘発(指導是正)されている。派遣法では建設業務への労働者派遣を禁止しているが、それが公然と行われているといったケースが多いようだ。厚生労働省によると、建設現場での廃材の運搬や清掃は、派遣法の建設業務に含まれないが、はつり作業などは建設業務に当たる。
日雇い派遣は、 1日ごとに仕事先が異なるため、労務管理が行き届かず、違法な派遣が多い。私の住んでいる群馬県内でも、日雇い派遣を利用している企業が増えている。昨今はどこの会社も、通常作業をこなせる人数しか直接雇用していないため、クレームなどが発生した場合には、「手直し作業」を行う人手がないのだ。そんな時は、まさに猫の手を借りたいほどだから、客先から返送されてきた箱を開けるといった簡単な作業でも、手伝ってくれる人がいれば助かるのである。
部外者には、「一日だけ来てもらってもはたして戦力になるのか」と思えてしまうが、なかなかどうして立派な工数になっているようである。
実際、ニーズは高いようで、「日雇い派遣」をメインにすえた派遣会社は、軒並み大手になってしまった。
ところが、頼む側にとって好都合なこの形態は、頼まれる側(仕事をする側)にとっては、きわめて不安定である。いつ仕事が入るかわからないから、当てにして待っているわけにもいかない。といって、仕事の依頼を一回でもすっぽかせば、声はかかりにくくなる。派遣元も派遣先も、人数さえそろえば、働くのは誰でもいいのだ。いわば「無記名」の労働である。プライバシーは結果的に尊重されるわけだが、その代わりに低収入に甘んじなければいけなくなる。こういう状況であるから、違法であろうとなかろうと、日雇い派遣者は仕事を引き受けざるを得ない。これが社会の底辺を形成しているワーキングプアーの現実なのだ。
勝ち組派遣会社の間では、目下球場の命名権を買い取るのが流行しているようだが、会社だけが儲かるという今の仕組みでは、早晩限界が来る。格差社会の根はもはや社会の奥深くにまで浸透してしまっている。
職場の安全対策はいったいどこまで行えば良いのか、と尋ねられることがある。
私も経験があるが、安全衛生委員会でこの手の議論を行うと、多くの委員が「それはコストとのからみだよ」と答えているようだ。こう言われてしまうと、まことにごもっともなと聞こえてしまうのだが、翻訳してみれば、コストが青天井ならば完璧な安全対策が可能だが、今は「出来ない」という言い訳なのである。そして、こうした意見を出した人に限って、実際にはまったく対策がとらないというケースが多い。まさに、ゼロか百かという議論である。
しかし、本当にそういうものだろうか。そもそも完璧な安全対策というものが存在するのかどうか。おそらくそんなものは、ないと思う。
高速道路では、ETCのシステムを導入してから、料金所の職員が交通事故に巻き込まれるという事故が相次いでいるという。横断時にゲートの手前に「調整中」と書いたコーンを立てるとか、大きな調整中という赤旗を持つとかすれば、それだけで多少は事故防止につながると思うのだが、「抜本的な対策」にこだわって、何もしないでいたので事故が増え続けたらしい。安全対策は事故発生を未然に防ぎ、発生してしまうであろう費用を、多少なりとも割り引くことである。対策に掛かる費用だけを算出していては、いつまでたっても災害はなくならないと思う。
昨年暮に、国語辞典を新調した。
目の不調で使い慣れていた辞典の文字を判読するのが、少々しんどくなったのが第一の理由だが、なにせ昭和47年版というしろものだったので、掲載されていない言葉も多かった。そこで大衆国語辞典の王道(?)と言われている「三省堂の新明解国語辞典」の新装版を購入した。新装版は白表紙で普及版と内容は同じというが、色の関係で、少し大振りに感じられる。
実際のところこれまでの愛用品に比べると、体積で三割方大きい。その分文字も大きくて読みやすくなった。「広辞苑」ほどの嵩(かさ)はないので、デスク脇に置いて使う分には、手ごろである。ただし、これまでの辞書のように、巻末に「歴史年表」や「度量衡」「方位時刻表(旧)」などが付録に付いていないので、ちょっと手間取っている。古文書の解読をしている関係で、気軽に調べていたのだ。そんなことも、辞書を替えてみるまではまったく意識に上っていなかった。
まっ、そんなわけで、しばらくは虫眼鏡と旧辞書は手放せそうにない。
それはそれとして、その新明解国語辞典で、新年に当たって気になっていた言葉を引いてみた。
「拉致」〜無理に連れて行くこと。らっち。
「誘拐」〜人をだまして誘い出す(連れ去る)こと。かどわかすこと。
流行語というわけではないが、近頃はニュースでしばしば耳にする言葉である。
北朝鮮に拉致されたという一連の事件について、私はどうして「誘拐事件」と報道しないのかと、かねがね疑問に感じていた。あらためて辞書で引いてみると、拉致には「だまして」というニュアンスがないらしい。ということは、「拉致」という言葉自体には、犯罪性は含まれていないというだろうか。
しかし、誘拐の説明にある「かどわかす」には次のような意味がある。
「かどわかす」〜〔甘言をもって連れ出す意の雅語「勾ふ」の強調形〕△抵抗する力の無い人を営利などの目的で(事情の知らない相手をだまして)どこかへ連れて行く。
こうなると、一連の問題は、拉致ではなくて、「かどわかし事件」といった方が実態にそくしている気がする。
報道機関が「かどわかし」を使わないのは、それがいささか古臭いニュアンスを備えているせいかもしれない。「かどわかし事件」では、警察では解決できなくて、八丁堀の旦那に登場いただかなくてはいけなくなりそうではある。
日本語は実に語彙が豊富で、それを使いこなせれば、心の動きまで手に取るように相手に伝えられるすばらしい言語だと思う。
それを認めたうえで、反社会的な事柄を別の言葉に置き換えてしまうことは、はたして好ましいことかと問いたい。
たとえば。「いじめ」ということばである。新明解にはこうある。
「いじめる」〜@〔弱い立場にある者に〕わざと苦痛を与えて、快感を味わう。A限度を超えて、ひどい扱いをする。
ただし、一般には学校内の子供同士の「いじめ」だけに、この言葉が使われている。
親が子供をいじめる場合は「虐待」と言い、夫が妻をいじめると「ドメスティックバイオレンス」と呼ぶ。企業内で上司が部下をいじめるのは「不当差別」「セクシャルハラスメント」などなど。
しかし、これらはみな同根のような気がしてならない。この際すべて「暴力行為」というくくりにしたらどうだろう。暴力は違法行為である。違法行為であるからいけないのだという毅然とした態度を示さなければ、一連の混乱は収まりそうにない。
もちろん、法律だけですべての事象に白黒をつけることが良いことだとは思わない。本来ならば、道徳やモラルで解決するほうが好ましいとは思う。ただ、ここでとりあげたような行為は、程度の差こそあれすべて犯罪行為であるに間違いあるまい。犯罪行為を新しい言葉でくくってしまうのは、とても危険なことだろう。
団塊の世代(1947−49年生まれ)のサラリーマンの年金受給額は保険料負担に対して4・1倍、生涯の受給総額は夫婦で5500万円−。
厚生労働省が団塊の世代が将来受け取る厚生年金の標準的なケースを試算したところ、こんな結果だったことが先ごろ発表された。
保険料総額に対する受け取る年金総額の割合(給付負担倍率)は、同時に試算した団塊ジュニア世代(71−74年生まれ)より有利。ただ、老後の生活を年金だけで賄うには不十分とも指摘されている。
一時、「公的年金は損だ。すでに破綻している」という類の情報が頻繁に報道され、それが昨今の公的年金離れに拍車をかけてしまった。そのイメージを払拭するために、国はこういうデータを出してみせたのだろう。説明を鵜呑みにすれば、現在58歳の人については、わずか7年で「元がとれる」ということになる。
40年保険料払って、7年で元が取れるというのは、いくらなんでも給付水準が高すぎる。そこで厚労省としては、「だから給付水準を下げなければならないのです」と、自分の土俵に引き入れたいのだろう。だが、これは数字のマジックである。実際に国庫に収められた保険料には、事業主負担分があるから給与から天引きされていた額の倍の金額が国庫に収まっている。
「ということは、元が取れるのは倍の14年後?」
いえいえ実際には、これに国の分担金が加えられているわけで、実際には20年は受給しないと、元金は回収できない計算となる。要するに、現在の公的年金は、「40年加入すれば、老後の20年間の生活を現役時の半額程度で保障しますよ」として設計された保険制度と考えれば良い。
これでも民間保険と比べれば、かなり「お買い得」なので、未加入という道は選択すべきでない。
ただし、先のことは分からない。確実にいえることは、平均寿命まで生きられなかった人は、皆元本割れということになるということだ。転ばぬ先の杖、自己防衛のためには、若い人は私的年金に加入すべきだし、高齢者は一ヶ月でも長生きすることを心がけるべきだろう。長生きも芸のうち、来年こそは良い年になりますように。
★閑話休題☆ 新庄選手を見習いたい 2006.11
生来の運動オンチで知識もないため、オリンピックとマラソン以外のスポーツ放送を見ることはほとんどないのだが、プロ野球日本シリーズの最終戦だけは見てしまった。
新庄選手の泣きながらの力いっぱいの三振には泣かされた。これは純粋なスポーツファンの方からお叱りをうけるかもしれないが、プロ野球や大相撲は、「興行」であるわけで、選手たちは観客に対して、感動を与えることが至上命題である。その意味では、色々なパフォーマンスで観客を沸かせ、笑顔でプレーし続けた新庄選手は、プロスポーツマンの鏡であろう。ちなみに私は、相撲取りの模範は「高見盛」だと思っている。
プロと呼ばれている以上、オリンピックのようにただ黙々と自らの技量を見せ付ければ良いというのではない。愛想も愛嬌も求められて当然ではないか。
さて、話題はここでスポーツから離れる。
仕事をもっている人間は、すくなくともその仕事の中では、皆プロフェッショナルである。アルバイトであっても、パートタイマーであっても、ましてや正社員であればなおのこと、プロとしての働き方が求められる。プロである以上、担当する業務を心から面白いと思い、笑顔でサービス精神旺盛に働かなければならない。
ところが、なぜか最近、正社員のほとんどが苦虫を噛み潰した顔で仕事をしている。とくに役職が上になるほど、半病人のような表情で仕事をしている。これでは部下はたまらないし、お客さんだって逃げ出したくなる。
プロならば、新庄選手を見習うべきだと思う。少なくとも一日一度は、職場を爆笑させるくらいのパフォーマンスが必要だろう。
一昔前までは、11月になると、仕事そっちのけで、忘年会の出し物を考えている人が職場に一人二人必ずいた。その程度の心のゆとりがなければ、これからの時代やっていけなくなるのではないか。忘年会の出し物を真剣に考え、その次は年賀状の芋版を彫る。そういう季節感を大切にしたほうが良い。
8月末のことであるが、地元の労働基準監督署が珍しい労災認定をした。新聞報道もされたが、某化粧品製造会社の元社員の男性(38)が「左遷人事が理由でうつ病になった」申請していた一件である。
男性はもともと本社経理部で係長を務めていたが、突然、群馬工場の総務部に転勤になった。男性側は「同僚だった社長の息子に嫌われたことによる左遷人事だろう」と主張している。 職場ではほかの社員の机とは離れた場所で、窓に向かった席に着かされた。給料もかなり減らされた。そのため転勤の2カ月後にうつ病になり、3週間入院。退院後の同年 10 月に本社に出向くと、解雇を告げられたという。
事情を知ってみると、これは「左遷人事」ではなくて「社内いじめ」といったほうが良さそうだ。
ところで、民間企業というのは、どんな大手であっても最初は個人創業である。それが合名・合資・株式会社と進むうちに外部資本が入り、銀行統治になったり、仕事をもらっていた会社から役員が送り込まれたりといった変遷をたどる。世間に名の知られる会社であっても、いまだに創業者一族を内包しているところは多い。
三洋電機の現社長は創業者の三代目だし(目くらましに会長は女性ジャーナリストになっているが)、サントリーはいまだに上場せずに、鳥居一族が牛耳っている。ガソリン高騰をリードしている出光も、ご承知の通り出光一族の経営だ。経営者一族には脈々と受け継がれてきた人脈と経営ノウハウが蓄積されている。世界的に見ても、フェラーリなど、経営者一族のカリスマ性が強調されているところは多い。私企業というのは、本来そういうものを内包しているのだ。
いったん会社とはそういうものだと割り切ってしまえば、内部で完全な公平処遇が行われているとは思えないであろう。血族経営者の中に、癖のある人物が一人でもいれば、その傾向は顕著になる。
昔、「3年B組金八先生」の中で、「腐ったミカンを捨てなければ、周りも腐る」という有名なセリフがあったが、「腐っても鯛」なのだ。一従業員が経営者の血族を社外に放出することなど、まず不可能である。そこで、こ化粧品製造会社のケースでは御公儀(オカミ)に訴え出た。男性側が言っているように、これが「一助」になればまことに結構である。
しかし、落ち着いて周りを見渡してみると、私企業の中で頭角を現した方の多くは、「番頭役」や「三太夫役」の下積み生活を経験してきている。うがった見方だが、案外、日本企業の粘り強さの源泉はこのへんにあるのかもしれない。ちなみに、トヨタ自動車現社長の渡辺氏は、「豊田本家に経営権を大政奉還するための番頭社長」とさえ囁かれているそうだ。誤解されることを承知で言えば、社内ストレスも捕らえ方一つで、毒にもなれば薬にもなるということかもしれない。ただし、ものには限度というものがありそうだが……。
★閑話休題☆ 便利さは幻想? 2006.09
8月の下旬に愛用のパソコンが突然動かなくなった。実はそれまでにも、まれにフリーズ(固まってしまう)してしまうことがあり、そんなときはなすすべもなく、強制的に電源を落として対処してきた。むろんこういう処置の仕方は、機器に悪影響を及ぼし、最善ではないと知ってはいたが、その後立ち上ってしまえば、支障なく使用することができた。それで「近頃のパソコンは安全性が増した」などと勝手に思い込んでいた。しかし、この認識が甘かったと思い知らされた。
今回はなんど電源を入れ直しても、ウィンドウズの画面が最初に一瞬出るだけで、すぐに黒字に白文字のエラーメッセージが出てしまう。結局、メーカーのサービスセンターにSOSの電話をした。
ヘルプデスクの技術者が言うには、原因はわからぬが、ハードディスクに問題が起こってしまったのだろうとのこと。再セットアップすれば使えるようになる可能性があり、それでだめならば修理に出してほしいとのことだった。どちらの場合も、「お客様が登録した文書などはすべて消えてしまいます」とのこと。再セットアップについては、添付のマニュアルにそって作業すれば、自力でできそうである。見通しは立ったが、データが消えてしまうというのはいかにも痛い。
パソコンは電子機器であるから、こういう事態だって当然起こりうると想定していなければならない。だが、やはり頭の中は真っ白になった。
商売柄、社内規程の改訂原稿とか、基準書の類だとかが、四〜五年分登録されっぱなしだった。どれもこれも数ヶ月から半年かけて作り上げたものだ。あれが、霞のように消えてしまうのかと思うと、なんともやりきれない。
不幸中の幸いは、ここ数ヶ月は訪問先にCDを持参していくことが多かったため、その分のデータがかろうじて残っていたということだ。しかし、それだって最新版というわけではない。復旧(?)させるまでには、ずいぶんと手間がかかりそうだ。こうなってみてつくづく、自分の日常があまりにもIT機器に頼りすぎていたということを思い知らされた。今更というきもするが、この手の「便利さ」というのは、幻想に過ぎないのだと実感としてわかった。
考えてみれば、いくら苦労をして作り上げた「規程」といっても、四年間一度も見ていなかったということは、すでに死蔵状態にあったということなのだ。規程などというものは、パソコンの中に保存しているだけで、骨董価値が出るとは思えない。時代の進行速度は速まる一方だ。この際、気持ちを切り替えて、死蔵していた過去の垢などすべてきれいさっぱり洗い流し生きていったほうが良い。そうなっても、自分が過去に経験した知識があれば、なんとか乗り切れるはずだ。いや、乗り切れなくても、そこからまた新しい発想が生まれてくると信じたい。
とりあえず、こう前向き(?)に開き直ってみたのだが、肝心の記憶のほうが、このところだいぶ心もとなくなってきている。気持ちの切り替えも必要だが、今後はこまめにバックアップを取っておいたほうが無難のようだ。
☆閑話休題★ 真夏の昼の夢 2006.08
不眠の問題で生じている日本の経済損失は年間約3兆 4,700億円―。日本大学医学部の内山真教授(精神神経医学)が6月に、こんな試算を発表した。
教授の研究によると、睡眠に問題のある人は、勤務中の眠気で作業の効率が約4割ダウンし、交通事故に遭う割合も高いという。
かくいう私も、夜間頻繁に目が覚めるという「不眠症状」を抱えている。教授に言わせれば、私も相当「経済損失」をしているということになる。
私の場合、原因の一つとして考えられるのは、自宅のすぐ横を交通量の多い主要幹線道路が走っていることなのだが、この道路、深夜のほうがトラックの通行量が多くなる。近くに自動車会社の工場があるため、ロール鋼鈑を積んだ長大なトレーラーが、家を揺るがして爆音とともに走り抜けていく。まるで地震のような振動である。これは一種の公害とも思うが、この程度のことでは、近頃の地方議会は動いてくれない。米軍基地の近くに住んでいる方を思えば、慣れてしかるべしということなのかもしれない。
もっとも、私は学生時代、国鉄の操車場のすぐ裏に下宿していたのだが、不眠にはならなかった。ということは、やはり年齢のせいなのかもしれない。それでも学生時代はとにかく眠くて、授業中に舟をこいでいることが多かった。それが今は不眠のせいで、昼過ぎになると無性に眠くなる。
「腹の皮が突っ張ると、目の皮が弛む」というのは、昔から良く言われることだ。しかし、これは間違いで、午後1時から3時の間は、脳に15分程度の昼寝をせよというのが、あらかじめプログラムされているらしい。それはともかく講演を頼まれるたびに、聴衆に居眠りさせないための仕掛けづくりに追われている。講演や研修の場合、居眠りが事故に直結するケースはまずない。寝ていても周囲が大目に見るというような社会のほうが、「暮らしやすい」のかもしれない。
★閑話休題☆ 自殺は殺人 2006.07
自殺者が8年連続で3万人を超えているという。私の住む群馬県は、10万人あたりの自殺者の率で全国で19位、関東地方では堂々の1位だという。
人はなぜ自死を選択するのか?生活苦、失恋、人間関係、虚無感、さまざまであろう。雑駁に人くくりにすれば、「世をはかなんで」ということになろうが、昨今は過労自殺というのが法廷で争われることが多い。
たとえば、大阪市の化学プラント設計会社カネカエンジニアリングの社員だった金谷さんが 1999年8月、福岡県筑後市にある子会社に単身赴任。不慣れな担当業務や長時間の勤務でうつ病か適応障害になり、同年 12月、会社の倉庫で首つり自殺した事件の判決では、木村元昭裁判長が「出向や子会社での業務、残業時間などを総合すると、精神疾患を生じさせる心理的負荷になった可能性がある」と述べている。
精神疾患の原因を裁判長の判断に委ねざるをえないという日本の今の状況は、はっきりいって異常ではないか。
自殺ははたして「病気」なのか、「事件」なのかと考えれば、殺す意思をもって自分を殺人しているわけで、「事件」といわざるを得ない。それに業務起因性を持ち込むということは、自殺する直前に精神的に重篤な病気にかかっていたと認めることでもある。
しかしここで考えてもらいたい。世の中には、人間が殺人を犯すときは、多かれ少なかれ精神的に異常をきたしていたに違いないと考える風潮(むき)があるのだ。その証拠に、しばしば殺人者の精神鑑定が行われる。その結果、多くのケースで、罪は問えないという結果に至っている。それはなぜか加害者救済だけに力をいれる「人権派弁護士」の手柄、ともいえるが、それはそれとして、自殺も精神異常の結果・発露と考えられる。
ただし自殺者の場合、事後に精神鑑定するのは不可能である。自死については、「人権派弁護士」がどんなに活躍も更生の道は開かれない。すべて「後の祭り」となる。
業務に起因していようがいまいが、企業は従業員の精神安定によりいっそう気を配る必要があるだろう。
洗濯の途中で突然停止し電源が落ちるといったトラブルがしばしば起こり、我が家の洗濯機が本調子でない。 9年目というのは洗濯機の寿命としては少し短いような気もするが、保障期間はとっくに過ぎているわけで、修理で直るかどうか。直ったとしても相応の出費を覚悟しなければならない。だったらいっそのこと、新調するかと、先日家電量販店を覗いて来た。
家電の世界では、最近はデジタルと頭につけるのが流行しているらしい。もっともデジタル家電の旗手は、薄型テレビやビデオなどのAV機器のようで、洗濯機に「デジタル」と付いているものはなかった。そもそも売り場が地味で、商品を吟味している客もあまりいなかったから、店員がすぐに寄ってきた。仕方ないのでお勧め商品の説明を聞き、いくつか質問した。それでわかったのだが、洗濯機業界(?)は現在三極化している。まずは従来型の縦型全自動洗濯専用機、これは1万円代からあるから、まあ手ごろだ。その対極にあるのが横または斜めドラム式の洗濯乾燥機、こっちは最も安いものでも13万円はする。その価格差、実に13〜25倍。そして、その間に位置するのが、縦型の全自動洗濯乾燥機というしろもの。これが7万から10万という微妙な価格帯である。店員はどれも昔のものよりは「省エネ」であると説明していたが、実際見た目も風変わりなものが沢山あり、何を基準に選ぶべきか、途方にくれてしまった。
店員いわく、20万円台の横ドラムならば、ダブルサイズの毛布も楽々洗えるとのこと、しかし、そんなでかい毛布を頻繁に洗う人が一体何人いるのだろう。クリーニングの取次店に持っていけば、その手の毛布も1,000円以下で洗ってくれる。それに乾燥時間が、もっとも性能の良いものでも2時間はたっぷりかかると聞いて、思わず手を引っ込めてしまった。洗濯時間とあわせて、3時間も洗濯機が動き続けると思うとぞっとする。これで本当に省エネになっているのだろうか。うちのロートル洗濯機でさえ、30分足らずで一日の仕事を終えているのだ。どう考えても電気の無駄だと思う。
ついでに言わせてもらえば、洗濯機売り場の店員が全員男性というのも考えものだ。いや、中には私のように自分で洗濯機を使っているという「変わり者」もいるかもしれないが、店員の説明はいかにも的が外れていた。洗濯機の説明ならば、最初に来るのは「汚れ落ち」とか「生地が傷まない」だろう。男の客だから、その手の説明は必要ないと考えたのかもしれないが、隔靴掻痒の感のある説明であった。
そこで、まっ色々あるが「新し物好きの見栄っ張りでなければ、高い横ドラムを買う必要はない」と勝手に判断した。しかし、縦型の洗濯専用機の外観は、あまりにもうちのロートル機に似ている。「9年も経っているのに、進歩してねえな」という気持ちもないではない。というわけで、やはり迷う。人間というのは、中身を知っても見た目に惑わされてしまうのだ。
うーん、今年いっぱい今の洗濯機ががんぱってくれれば、横ドラムの価格も下がるかもしれない。天に祈るような気持ちで店を出た。
★閑話休題☆ 今時そんな制度あり? 2006.05
去る3月2日、人事院が国家公務員に1日あたり30分間与えられている有給の休息時間を廃止し、無給の休憩時間に一本化するため、人事院規則を改正すると発表した。民間企業には有給の休息時間制度というものはほとんど普及していないことなどから、8時間勤務の場合、1日あたりの無給の休憩時間を60分間に延長(現在は30分間)するよう改めるという。2006年7月1日から施行されるということだ。
なぜこのような制度が残っていたのか。おそらくそれなりの歴史があるに違いないと思う。その穿鑿は別の機会にするとして、「有給の休憩時間」というのは、いかにも恩恵的である。
8時間勤務の場合、勤務の時間の間に60分の休憩を挟むのは、労基法で定められている。公務員には労基法の適用はないので、仕方ないといえばそれまでだが、法定休憩の半分を「働いたこと」にしていたわけだ。働かずして給料をもらっていたのである。
これが民間企業であったなら、労働者思いのあっぱれな会社ということで賞賛されるかもしれない。が、公務員の場合、「税金の無駄遣い」ということになる。要するに、この人事院の発表は、国家公務員の俸給を一律に一日あたり30分分引き下げるという「賃下げ」である。
実は民間企業でも、ここ数年、この手の「伝統的な運用」の見直しによって、実質的な賃下げを行なうところが多い。労働組合に言わせれば、既得権の侵害もいいところなのだが、こうした慣習は、団体交渉で勝ち取ったわけでもなく、比較的簡単に引き下げが可能である。人事院の発表は、小泉政権の公務員改革の一つの成果なのだろうが、時代を感じさせる。景気は回復基調にあるといっても、世知辛い世の中ではある。
愛知県半田市の山田紡績が一方的に紡績事業を廃止し解雇したとして、紡績部門で勤務していた男女計百人が、従業員の地位確認と未払い賃金の支払いを求めた訴訟の控訴審判決が1月17日に名古屋高裁であった。野田武明裁判長は元従業員側の請求を認めた一審名古屋地裁判決を支持し、会社側の控訴を棄却したというものであったが、この裁判は会社側の「口約束」の効力が問われた訴訟でもあった。
山田紡績は 1951年に紡績事業を始め、中部地方では大手である。しかし全国的な繊維不況の波には勝てず、 2000 年 10 月に民事再生法の適用を申請している。同年 11 月に会社は紡績事業の廃止を原告たちに通知し、翌 12 月から 01 年2月にかけて解雇したのであるが、ここに一つの「口約束」が存在したらしい。
一審の事実認定を引用すると次のようになる。
「同社は従業員らに相談せず民事再生手続きを決め、労組との交渉で紡績事業を続けると明言したのに翻した」
民事再生手続きに入るということは、平たく言ってしまえば「会社が潰れてしまう」ということに極めて近い。そんな状況に陥っているのに、「事業を続ける」と明言すれば、それはウソをついてしまうことになりかねない。出来もしないことを「出来る」と口約束するのは詐欺である。
これは、このところ世間を騒がせている問題にも一脈通じている。
建築強度偽装事件、ライブドアの偽計事件、米国牛肉の検査不履行事件。東横インの勝手に改修事件。どれをとってみても、当事者は「出来ます」「問題はありません」と弁説さわやかに返答してきたものばかりだ。
当事者にしてみれば、最初は「かけひき」のために、ちょっと方便を使っただけなのかもしれない。そうした心理は充分に理解できる。
ただし、一度ウソをついてしまうと、辻褄を合わせるためにずっとウソをつき続けなければいけなくなる。この詐称の連鎖をたち切るには相当な勇気が必要である。だが、どこかで断ち切って謝って撤回しておかないと、手痛いしっぺ返しを食うことになる。私自身も、このあたりのところを常々肝に銘じておきたいと思っている。
★閑話休題☆ 本格的な年寄りいじめ? 2006.03
いよいよ今年の4月分の年金から、毎年、自動的に年金が引き下げられていくシステムが動き出す。
これが、一昨年まで与野党が侃々諤々議論していた「年金制度改革」の最大の売りである。とどのつまり、支給額を自動的に減らしていけば、年金財政の収支バランスがとれるというものであったわけだ。
しかし、煎じ詰めれば、支給額の減少は公的年金制度の破綻を追認したようなものである。こんなことを「年金改革」と呼んでいたのだと思うと情けない。
それに加えて、厚生労働省は1月25日、公的年金の受給者が払う国民健康保険(国保)の保険料について、年金から天引きして徴収する仕組みを導入する方針を固めた。
こちらは国保を運営する市町村の徴収事務のコスト軽減や未納を防ぐ狙いがあり、今国会に提出予定の医療制度改革関連法案に盛り込み、08年度からの導入を目指すという。
たしかに、保険料を市町村の窓口や口座振替などで納めなければならない国保加入者が、手続き漏れなどで保険料を納めていないという例は少なくない。中小零細事業者の景気低迷を背景に、保険料の納付率は年々下がっていく一方で、04年度は90.09%(速報値)と過去最低の水準を更新している。しかし、高齢者の納付率は概して低くなかった。一連の改革には、どうもやさしさが感じられない。
老夫婦二人が公的年金だけを頼りに生活している場合、年金の額にもよるが、たいていは国民健康保険に加入している。
今回検討されている年金からの天引きその他の改正で、手取りはますます減っていくことになる。そもそもすでに天引きされている介護保険料は、年々値上げされて来ていて、老年者控除も廃止されている。その上に、75歳以上に新たに保険料を上乗せするという制度も作られようとしている。
これで噂どおりにインフレが始まったら、生活が破綻してしまう高齢者が続出するに違いない。実は、現状でも「年金だけで生活できない」という相談は増えているのだ。
政治家はライブドアの問題やマンション構造計算偽装問題、東横ホテル問題に米国牛肉問題と、問題山積だが、年金生活者の生活を破綻に追い込むような政策は、あきらかに間違っていると思う。
長崎県の池島炭鉱などで働いた際に粉じんを吸い、じん肺になったとして、元従業員と遺族計77 人が炭鉱を運営していた松島炭鉱(福岡市)と親会社の三井松島産業(同)に損害賠償を求めていた「三井松島じん肺訴訟」の判決が2005年12月13
日長崎地裁であった。
原告は1950年ごろから2001年にかけて、池島炭鉱や系列炭鉱で採炭作業に従事し、じん肺になった。02年に総額約20億円を求め提訴。会社側は時効のほか「親会社には責任がない」と反論していた。
この会社側の「じん肺認定から10年以上たった患者は、時効で賠償請求権が消滅した」との主張について、田川裁判長は「著しく正義に反し、権利の濫用で許されない」と批判し、全員の救済を認めた。
このじん肺訴訟で、賠償請求権の時効が排除されたというのは大きな意味を持つ。これで、昨年から話題になっている石綿(アスベスト)被害でも、時効消滅が適用されない可能性が高くなったわけだ。
外傷のない病気の場合、原因となった作業や悪環境はおぼろげながらわかっていても、発症が10年後、15年後ということがしばしば起こる。そういう被災者にとって、これは間違いなく朗報となろう。
しかし、手放しで喜ぶわけにはいかない。たとえば精神障害であるとか、心理的なストレス障害といったものの場合、どう解釈すればいいのか。あの病気なら救済されて、これはダメという判断は、なかなか微妙である。これらの判断をすべて法廷に任せておいていいのかどうか。厚生労働省のお役人が本来やらなければならない仕事は、この辺であると思う。
☆閑話休題★ 順法闘争 2006.01
かつての国鉄には「国労」「動労」という戦闘的な二大労働組合があって、春闘時期の4月になると要求を貫徹させるために「ゼネスト」というのを毎年やっていた。この言葉、とうの昔に死語になったとばかり思っていたら、クリスマスに米国で「復活」したそうで、びっくりした。ゼネストは利用者である国民を人質にとった戦略で、列車を止められては鉄道の社会的責任が果たせないという理由から、労働組合員の要求が通る可能性が高い。かつての国鉄は労働条件アップの先陣を切っていたから、結果として、これが日本の高度経済成長にはプラスに働いたとは言えるだろう。
ところが国鉄民営化でJRとなった途端に、国労・動労ともに解体された。以降、日本の労組組織率は下がる一方で、昨今の「連合」の弱体化は目を覆うばかりだ。こんなことを書くと、あなたはかつての過激な活動を推奨しているのかと誤解されそうだが、そんなことはない。当時の理論的支柱であったソ連の崩壊をみれば、あの手の運動がいかに荒唐無稽であったかがわかる。
もっとも、JR西日本では労組(西労)組合員への組合脱退の働き掛けをめぐり、「組合のことをどう思っている」「君を転勤させようと思えばいつでもできる」などと脅し、組合脱退を促すなどという事件が発生し、昨秋裁判になったりしているのだから、一部には日本のゼネスト時代を彷彿とさせるやり取りが行われていたらしい。
ところでゼネスト華やかなりし頃、「順法闘争」という珍妙な戦術が流行したことがあった。雇用条件を良くしなければ、「法律どおりに運転して、列車を遅らせてしまうぞ、困るだろう」と組合が脅したのである。
今考えると、こんな自己矛盾はない。いまや「コンプライアンス(法令順守)宣言」をしなければ、世間が認めてくれないという時代だ。現代の経営者ならば、「法律を守ってくれるのなら、どんどん賃金を下げますよ」と言いたくなる。
だが、これをひと昔前の話だと笑ってはいられない。
昨年11月から話題になっている「マンションの耐震強度の偽造問題」は、はからずも建設業界の利益最優先主義・法令無視体質を露呈させてしまった。偽造した側は、「上からの圧力で仕方なく法律を破った」と主張している。建築主のホンネは、「建築士に法律どおりに設計されては、鉄筋が多くなってコストばかりかかって困る」ということらしい。問題の建設会社のいくつかは、法律はあくまでもタテマエであって、「そんなことを守っていたら儲かるはずがない」と腹の中では考えていたのかもしれない。それは、再三法律の基準をクリアすることを暗黙の前提としてコストの削減を要求した、と弁明していることに現れている。
そもそも、法律というのは「最低基準」を示したものであるはずだ。我々社労士が日頃接している労働基準法にも、そう書かれている。だから、最低基準を満たさない場合は罰せられるわけで、むしろ法律以上の品質にすることが推奨されているわけだ。「安全基準」というのはもともとそういうものであって、「満たしていればいい」というものではあるまい。渦中の人たちの言い分を聞いていると、あたかも法律で定められた鉄筋の量が、最高ランクのように思えてしまうが、これは最低である。
ひるがえってみれば、似たような話はしばしば耳にする。みずほ証券の株の間違い発注も、「警告を無視するのが日常的だった」そうだ。案外我々の頭の中は、「順法闘争」時代のものと変わっていないのだ。「法律通りにやるぞ」と脅されるようでは困る。 経営者は今年こそ、法律は最低条件だと肝に銘じるべきだろう。
このところ朝と昼に小さな来客がある。
来客といっても人間ではない。小鳥である。
雀ぐらいの大きさで、朝は庭に駐車してある私の愛車の右サイドミラーに留まって、こちらを見ている。昼は物干し台に飛んで来ては、部屋の中をうかがっている。
最初はメジロかなと思った。今年の春に、裏の家の梅の木によく蜜を吸いに来ていたからだ。しかし、季節は冬。ウグイス色の春の鳥はふさわしくない。そう思ってしげしげと眺めてみると、腹の色が赤みを帯びた褐色で、目の周りも白くない。
そこで久しぶりに、「野鳥ガイドブック」を拡げて見た。
素人観察だから、正確かどうかはわからないが、モズのメスに似ている。「秋から冬までは、雌雄それぞれが縄張りをつくる」とあるから、どうやら我が家がその縄張りに選ばれたようだ。人間を恐れず愛嬌のある小鳥なので、糞害は我慢し、しばらく占領されてやることにした。
ところで久しぶりに本棚から「野鳥ガイドブック」を引っ張り出して、思い出したことがある。
この本を購入したのは、野鳥の会主催の探鳥会に参加するためだった。およそ20年位前のことである。後にも先にも、ガイド付の本格的な探鳥会に参加したのは、その一回だけである。
場所は、分福茶釜で有名なタヌキ寺、館林の茂林寺。その裏手に広大な葦原が広がっていた。当時、ここはキジの自生地といわれていて、野生のキジに出会えるというのが、最大のうりだった。その日もけっこう沢山の初心者が集まっていた。
最初に「本日は特別に当会の長老である○○先生が解説をしてくださいます」という案内があって、探鳥会は始まった。
長老の話によると、キジは「ケーン、ケーン」「キーン、キーン」という鳥に似合わぬ金属音で啼くという。昔から「キジも啼かずは撃たれまい」というくらいだから、よほどわかりやすい啼き声らしい。これはにわかバードウォッチャーにはありがたいと、一行は耳を澄ませた。
はたして、10分も経たぬ内に、甲高いケーン、キーンが頻繁に聞こえてきた。いやはやこれは大層な集団が住んでいるらしい。一行の足は早まった。
長老は、「樹幹を抜けた先に葭原があるから、そこに営巣地があるのだろう」と言い切った。初心者だけでなくベテランも先を争って歩き出した。
もちろん私もその中の一人だったわけだが、ちょっと聞こえてくる方向が違うのではという気がしてきた。ちょうど道が二手に分かれるところまで来たので、そこでいたずら心を出して、左の間道にそれてみた。その道はどうやら行き止まりになっているようだ。と思う間もなく、目の前が開けて、中学校の校庭らしきものが目に入った。
グランドでは野球の練習が真っ盛りで、ユニフォーム姿の少年達が、盛んにバットを振り回している。振り回すたびに「カキーン、カキーン」という金属音が青空にこだましている。
なるほど、「幽霊の正体みたり枯れ尾花」ということかと、私は一人で合点した。はたして、その日野生のキジを発見することはできなかった。
しかし、真実はどうであれ、その日ご一緒した人たちは、みな「こんな町中に野生のキジが大量に住んでいるなんて凄い」と感動していた。啼き声だけでも人は感動できるものなのである。要は、聞く側の耳にロマンがあるかどうかの問題なのだろう。
さて、我が家の「モズ」は、色々に声で騒いでいる。チチチと啼いてみたり、チイチイ、キュンキュンとかまびすしい。モズは漢字で書くと「百舌鳥」である。他の鳥の啼き声を真似する名人だとガイドブックにはある。それで「二枚舌」ならぬ「百舌」。
今年は、「オレオレ詐欺」に「保証金詐欺」、「保険会社の保険金未払い」にあげくのはては、「偽札」「建築強度のごまかし」と、二枚舌のだまし犯罪が横行した。来年はこんな風潮が続いて欲しくないが、おなじ「騙し」なら、相手にロマンを感じさせるようなものが流行って欲しい。
モズといえば、「ハヤニエ」という保存食料が有名である。我が家の百舌も、そろそろ年越しの保存食料確保に忙しくなるだろう。私も負けずにやり残した仕事を片付けなければ。それでは皆さん、良いお年を。
お恥ずかしい話だが、いよいよ歯のほうにガタが来てしまい。先日、かかりつけの歯医者に向かった。少し遠方だが、予約していなくてもそう待たせることなく治療してくれ、たいてい1回で済む。治療費も随分と格安である。それで10年前から折々に見てもらっていた。最近では、半年前に詰め物で取れてしまったのを「修理」してもらっていた。
ところが行ってみると、その歯科医院が閉鎖されてしまっていた。詳しいことはわからないが、住まいを兼ねていたはずの建物がそっくり売りに出されていた。私のようなブラッと訪れる気まぐれ患者が、すぐに診てもらえるくらいだったから、流行っていたとは思えない。しかし、それにしても「医者はお金持ち」という先入観があるので、ちょっと面食らった。その帰り道、いくつかの別の歯科医院を覗いて見たのだが、お世辞にも経営が順調とはいえないようなところがいくつかあった。
医療従事者というのは、医師、歯科医はもとより、看護師や歯科技工士に至るまで、ライセンスを持っている者でなければならない。そういう国家資格者の給料は高くしなければならないので、人件費が嵩む。どの職種でもそうだが、企業にとって最大のコストは人件費なのだ。 勢い「利益率の高い」治療を。患者に押し付けたりすることに力を尽くすことになる。そういう面の皮の厚い「先生」でないと、この業界では生き残りは難しいのかもしれない。
話は変わって、銀行や保険会社の職員になるには、なんの資格もいらない。支店や営業所に出向くと、きちんと制服を着た事務員が感じよく応対してくれるが、彼女たちは別に国家資格を持っているわけではない。多少押し付けがましい人もいないではないが、まあたいていは親切だ。しかし十年以上前からこの「窓口業務」は、すべて派遣社員というのが金融機関の常識となっている。
彼女たち(彼たち)の労働契約書には、「原則として残業なし」と書かれていて、労働時間が短いかまたは週に数日の勤務ということになっている。実態はパート・アルバイトなのだが、労働契約の相手は金融機関本体ではない。金融機関はたいてい100%子会社の派遣会社を作っていて、そちらと契約して本体に「派遣」するのである。労務管理を外注化し、本体単体の一般管理費を圧縮して、見た目の利益を出そうという作戦だ。このあたりは、個人経営がほとんどの開業歯科医とはアプローチの仕方が根本から違う。
しかし、はたしてこれで良いのだろうか。子会社は親会社でやっていた仕事と同じことをやっているだけだ。親会社の仕事にはライセンスが必要で、子会社の社員にはそれは必要でないという区別はない。実際、子会社化して仕事のやり方がよくなったとか悪くなったという話は聞かない。
なのに子会社に移るのだからと、社員の待遇はどんどん切り下げられていく。実際問題として10年前から賃金据え置きという派遣社員も多いという。これでは働いている人たちは、顔で笑って心で泣いている心境だろう。
いまや大手メーカーの製造ラインでは、作業者の8割から9割が派遣社員というのが当たり前となっている。
依然として経営幹部は、マスコミのカメラの前では、「わが社の製品は安全です」「わが社は品質に絶対の自信を持っています」と胸をはっている。だが、実際には製品開発のコンセプトさえ教えられず、製品になんの愛着を持っていない作業員が不満顔で物造りをしているのだ。
今の日本では医療機関にしても一般の民間企業にしても「厚顔無恥な経営者」でなければ切り盛りできないらしい。
日本の将来は本当にこれで安心なのだろうか。ちなみに、私は新しい歯医者で、「あなたの口にはいたるところに問題がある」と指摘され、随分と高い治療費を払わされた。今後長いこと通い続けなければならなくなり、先が思いやられる。
☆閑話休題★ 保険も100%頼るのは無理 2005.10
富士火災海上保険では今年2月以降、システムのプログラムミスなどが原因で、自動車や傷害、火災保険で約1万4000件の損保の保険金が未払いになっているという。またソニー損害保険では、6月に自動車保険で約600件の未払いが発覚している。加えて、明治安田生命保険の保険金不払いがマスコミで取り上げられたこともあって、損保各社はこの夏から、保険金支払いについての自主点検を始めている。
保険会社にしてみれば、率先して「自主的に」調査に着手したのだから、「企業としての責任」は果たせたのだと、加入者からの批判をかわす腹積もりもあるのだろう。だが、これではスキャンダルで失脚した政治家と、発想がなんら変わらない。
加入者に側に立てば、「おいおい、待ってくれよ」ということになる。
人間のやる事だから、百パーセント完璧ということはありえない。それはわかる。しかし、ミスの全てが「支払い不足」の方向であるというのは、どういうことか。
その昔、春日三球・照代師匠の有名な地下鉄漫の中に、「自動切符売り場というのは、どうしてつり銭が少なく出るように壊れるんでしょうねえ」というのがあった。この手のミスは、三球師でなくても、どこかに作為的な臭いを感じてしまう。
気がついてみると保険だけではない。年金も銀行預金も、いつの間にかリスクを背負うのは、利用者ばかりとなってしまった感がある。そこにいよいよ郵便局まで仲間入りしそうだ。「民間活力」という言葉は耳障りが良くて、なにかすべてうまく行くような幻想を持ってしまうが、「金融」分野においては、民間も官庁もとことん努力しているとはいいがたい状況である。ちなみに、先進各国の金融機関の金利を見ると、日本のような「バカ」低いゼロ金利などつけている国は一つもない。資金の運用ができない金融機関が、合従連衡によってメガバンク化しても、お先は見えていると思う。
★閑話休題☆ 金がからむ役所は 2005.09
人間というのは実にいい加減なもので、金が絡むと判断が曇ってしまうことがままある。労働基準監督署というのは、行政機関にしては珍しく、庶民である労働者の権利を守ることを仕事にしている。すなわち「長時間労働は労働者の健康を害するからやめろ」「休日は欧米並みに増やせ」「労働疾病を未然防止するために保護具の着用を徹底しろ」等、例を挙げればいくらでも出てくる。使用者にしてみれば、口うるさい役所だが、言っていることは正しいのだから、指導には従うしかない。
その労基署が、いざ労災の判定という局面に立たされると、いきなり使用者側に立って「業務上の災害ではない」とつっぱることが多い。
つい先日(6月29日)も、「溶接工の夫が作業現場で倒れ脳梗塞で死亡したのは過重な業務が原因」として、妻(62)=大阪市平野区=が大阪中央労働基準監督署長に遺族補償などの不支給処分を取り消すよう求めた訴訟で、大阪地裁が請求を認める判決を言い渡した。要するに労働基準監督署の判断は間違いであり、労災保険を払いなさいということになった。
判決によると、夫=当時(54)=は1996年5月、ガス管の溶接作業中に脳梗塞で倒れ、4日後に死亡している。直前の1カ月間は夜間作業が集中、日勤と夜勤の連続勤務も倍増し、時間外労働は約70時間に上っていた。
労基署は2000年3月「死亡は業務上のものではない」として不支給を決定し、労働保険審査会(東京)も今年6月、妻さんの再審査請求を棄却していた。が、一転してこの判決である。
こうなってしまうのは労働基準監督署が、労災保険の勘定を主管しているからなのだと思う。保険料のとりたてに当たっては、水も漏らさぬチェックをするが、いざ支払いという段になると、さまざまな理由をつけて渋る。まるで監督署は、「労災保険事業」を黒字化するために全署一丸となっているように見えなくもない。これでは明らかに本末転倒している。
「金が絡むと駄目になる」というのであれば、郵便局より先に民営化すべき役所なのかもしれない。
このところアスベスト関係の被害が、アルバムのページをめくるかのように、日に日に明らかになってきている。
労働疾病の観点から、これは異常事態と言って良い。粉塵の吸引などは、その場で咳き込むといったことはあっても、薬物でないからすぐに健康被害が出るものではない。炭鉱労働者の「じん肺」「けい肺」などがその代表であるが、昨今は、国内から炭鉱の灯がほとんど消えてしまったので、吸入による疾病は存在するはずがないと関係者は考えていたのではないか。
ただし、実際の作業現場というのは、いまだにもうもうとしたほこりや煙の中で行われていることが多い。たとえば、道路舗装現場では土ぼこりを吸い込むだけでなく、アスファルトのミストも年中浴び続けている。また、食品会社においては、小麦粉や砂糖の粉を、「鼻の穴」が詰まるほど四六時中吸い込んでいるのが普通だ。私は以前鋳物工場に勤務していたが、配布される防塵マスクのフィルターは、半日つけているだけで目詰まりしていた。
そんな体験からも、クボタのアスベスト現場の作業風景は想像にかたくない。素材が健康を害する危険な物質でも、製品になれば「便利」「使い勝手が良い」と評価できるものは案外多い。石綿製品にも、そんな潜在的な需要があったわけで、よほど安価な代替品でも見つからないかぎり、製造は続けられるとみるのが自然である。
米国で石綿の危険が明らかになった時点で、日本は産官学が力をあわせて、代替品の研究に着手すべきだったのかもしれない。
★閑話休題☆ マンネリを打破する報道を 2005.07
梅雨の真っ只中というのに、急にカッっと晴れた日が続き、めっきり気分が優れなくなってしまった。それでかもしれないが、近頃、NHKの放送(特にニュースの報道)があまりにもパターン化しているような気がして好きになれない。
近頃は、目が疲れるので、テレビは一日2時間が視聴する限界なのだが、朝7時のニュースは食事をとりながら、ほぼ毎日見ている。その中で気になるのは、「○○では、××が花の見ごろを迎えています」といった「情報」である。そもそもこの「見ごろ」「食べ頃」という表現方法が気に入らない。
花見客をあてにしている観光地でもあれば、この手の押し付け表現もある程度は許せる。が、野菜や果物の栽培農家の作業風景を取材していて、「××の花は、今見ごろを迎えています」はないと思う。もしも、それではと観光客が押しかけたら、現地では大変なことになる。それを言うならば、「○○地方では、××の花が満開となり、秋の収穫に向けて、受粉作業に大忙しです」とでも伝えれば良い。花はすべて観賞するものだ、というワンパターンの見方は、都会人の思い上がりである。
同様の安易なパターン化は他の分野でも散見される。たとえば殺人事件の報道などで、「殺害された夫婦の長男が、昨日から行方不明になっており、警察ではなんらかの事情を知るものとして、行方を捜しています」という伝え方をする。なるほどこの時点では、長男が犯人であるとは言えないわけで、こうした表現をするしかないようにも思えるが、これは警察発表の受け売りに過ぎない。
この手のものは、報道機関としては、これこれこういう事件がありましたと伝えるだけで十分だろう。警察にだって見込み違いがある。最初の見込みが違っても、報道機関が訂正のニュースを流すことはない。親戚などは大いに迷惑を被っているに違いない。
仮に犯人と思われる人間が凶器を持って逃走しているということであれば、そっちの方を報道すべきだ。そこに価値がある。
さて、話は変わるが、先日、町のど真ん中で、私自身が恐喝未遂にあった。
いつもと違うコースを散歩していて、外国人にカタコトの日本語で呼び止められて、自販機の使い方がわからないというようなことを言われた。ちょっと怪訝な気がしたが、「ここに硬貨を入れて」というふうに説明したのだが、その途中から、相手の態度が豹変した。「金ナイ。早く出せ」といって、右手をねじりあげてきたのだ。ふざけた外国人で、「日本人、金出せ」と何度も言う。結局、相手の隙をついてその場を離れ、被害にはあわなかったが、こうした「未遂事件」が、新聞やテレビに取り上げられることはまずない。いや、あるのかもしれないが、「外国人窃盗団に気をつけましょう」といったくらいがせいぜいだ。何しろ、わが町は外国人と共存しているモデル都市としてNHKが何度も取材しにきている。外国人がらみの事件は「少ない」ことになっているのだ。
報道というものが、注意を喚起することにより、災害や犯罪の未然防止に役立っているという側面を完全に否定するつもりはない。ただし、今のようなパターン化された報道を毎日聞かされていると、受信側の感性が麻痺してしまい。いざという場面ではまったく役に立たないということもある。あのJR西日本の脱線転覆事故にしても、注意喚起のマンネリ化がその底流にあったのではあるまいか。情報を出す側は、マンネリの打破にもっと心を砕くべきだろう。
☆閑話休題★ IT化と保険料 2005.06.01
雇用保険の保険料率が、平成17年度から労使双方それぞれ0.1%ずつ引き上げられた。
今回の「変更」は、法律記載数値に戻したということを建前に、「改悪」ではないと主張する向きが多い。それは方法論としてはまったくその通りで、文句のつけようがない。だが結果として、雇用保険料率は上昇してしまった。
そもそも法律以下の水準に押さえつけておく「暫定措置」をとっていたのは、昨今の長引く景気の低迷を配慮してのことである。急激に料率を上げると様々な方面に影響が出る、こういった場合に、しばしば政府はこの手の「激変緩和処置」を取るのだ。
今回、粛々とそしてひっそりと料率をあげた厚生労働省の腹は、「いい加減景気指標が上向いて来たのだから、これくらいの負担はしてもらうのが当然」ということなのだろう。
ところで、ハローワークはご存知の通りどこも求職者でごった返している。昨年と比べて、その数が減ったとはとても思えない。いや、数字上は減ったのかもしれない。求職者の会話に耳を傾けると、
「とうとうCさんもあきらめたそうだよ」
「そういえば、Gさんは、派遣会社に登録したって話だ」
「そりゃそうだよ。ここ(ハローワーク)だって、求人の8割は派遣かアルバイトだもの。間に役所が入らないほうが、話が早いよ」
実態はこんなものなのだ。しかし、絶望して公共職安に来なくなっても、失業者が減ったことになり、景気は上向いたと判断される。
今や正社員を増やさないと表明してしまった上場企業が増え続けている。とくに生産現場では、8割の労働者が派遣という統計さえある。
もちろん、そんな形で現場に入ってくる人たちの給料は低く抑えられている。生活するギリギリの金を払えば良いと考えている派遣会社や構内請負会社が多いのが実態だ。江戸時代ではないが、「生かさず殺さず」が、かの業界では合言葉になっている。これでは国民の可処分所得が増えるはずなどない。
厳しいことをいうようだが、ハローワークがこんな仕事ばかり斡旋していては、景気が良くなるはずなどない。まずは、低賃金の派遣会社や構内請負会社に求職者を紹介しないことが、焦眉の急なのではあるまいか。
いまや求職者の前には一台ずつタッチ画面方式の液晶パネルが据えられていて、IT化は目を見張るばかりだ。こうした設備投資額だけでも相当な額になっているはずだ。パソコン導入のおかげで職安職員の仕事のやり方も様変わりしてしまった。別に暇になったはずだというつもりはない。慣れないIT操作におろおろしている職員も多い。それはそれとして、求職者の話を親身になって聞く相談員がいなくなってしまったのは大問題だ。画面情報中心のサービスというのは、どうしてもこうならざるをえないと開き直られても困る。ITというのは手段であって目的ではなかったはずだ。いくら機器の台数が増えても、打ち込まれているデータが、低賃金の請負労働ばかりでは、宝の持ちぐされというものだ。 イメージ先行の過度のIT化で、設備投資がかさんだ結果保険料が上がったのだろうと見ているのは、私がへそ曲がりだからだろうか。
JR西日本の尼崎駅付近で起きた列車転覆事故は実に痛ましかった。不幸にして事故に巻き込まれてしまった方々のご冥福をお祈りしたい。
一昔前は、大事故や大災害が発生しても、責任者というものは滅多にマスコミには登場せず、お詫びの社告などが新聞紙上に掲載されるだけだったが、近頃は早々に肉声で会見するようになった。
事故で亡くなられた方の家族にしてみれば、「謝られたところで、家族が帰ってくるわけじゃない」と憤懣やるかたないだろうが、社長が頭さえ下げないというのでは怒り心頭に達するだろう。
今回のJR西日本の記者会見では、脱線する許容限度のスピードなどの発表数値に疑義を差し挟む声もあるようだが、私が聞いている限りでは、ことさら事実を隠蔽しようというような意図は感じられなかった。ただ、事故を起こした列車の運転手が、数度にわたって「日勤教育」を受けていたという部分が気になった。
字面だけを読めば、「日勤教育」なるものは、「安全運行のための再教育」と受け取れる。メーカーでも建設業でも物を作る現場では、昔から「安全第一」というのが大前提となっていて、緑十字旗を毎日掲揚している会社も多い。こうした企業では、厚生労働省の強い指導もあって、数年前から労働安全衛生マネジメントシステムの導入が盛んである。不肖私も某大手食品メーカーのOHSAS18001システムの構築に携わってきた。
昨今のマネジメントシステムというのは、基本的にはすべてISOと同じような構造になっているが、安全衛生システムの場合は、その中心にリスクアセスメントというものを据える。これはリスク(危険)の事前把握というものだ。「もしも」こんな異常な操作をしてしまったら、事故が発生するかもしれないと、事前に評価して、評価点の高いところから順次対策を打って行くという手法である。同様の方法は、その昔日航で「ゼロディフェクト」などと呼ばれて導入されていた。大量の旅客を運ぶ業界では、こうしたリスクアセスメントの徹底が必須であろう。まっ、今日の日航は巨大化してしまい、そのころの精神がきちんと継承されているのか疑問であるが……。
ともかくそうした視点からすると、「日勤教育」ではもちろん、「リスクの高い作業・操作」について、そのやり方をベテラン指導員が教育していなければおかしい。ところがJR西日本では、「反省文」を書かせて、「トイレ掃除」などをさせたりしていたらしい。「日勤教育送り」になるというのは「島送り」と同様で、運転手や車掌にとっては、プライドが著しく傷つけられることだったようだ。それが有形無形のプレッシャーとなり、発生した「トラブル」の多くがひた隠しにされてきたらしい。
安全衛生では、この手の事故にならない「トラブル」のことを「ヒヤリ・ハット」という、英語で言えば「インシデント」となる。「ヒヤリ・ハット」はそのまま「リスクアセスメント」の種である。これが十二分に報告されていなければ、潜在的な危険度がどんどん増えてしまう。
その意味では故に至らぬ些細な「トラブル」でなんとか乗り切ってくれた運転手は、むしろ優遇されるべきだった。小さな「トラブル」の中にも、個人では解決できない大きな問題が隠れていることがある。そこで事前に対策を打っておけば、今回のような大惨事は発生しなかったのではないか。
「教育」とは、教える側も教わる側も共に成長できるものだ。それを「懲戒」のようにしか扱わなかった会社の姿勢そのものを変えていかなければ、根本解決にはならないような気がする。
★閑話休題☆ 退職金ポイント制というデノミ 2005.04.01
家電のシャープが、在職中の業績に応じた「業績ポイント」と、勤続年数に基づき支給される「勤続ポイント」の合計で支給額を決定する「ポイント(点数)制 退職金制度」を、新たに導入する。 同社の現在の退職金制度は、各人の退職時の給与に勤続年数別の支給率を掛けて算出する年功的要素の強い制度である。新制度では在職中の成果を適正に反映する「業績ポイント」と、勤続年数に基づき支給される「勤続ポイント」の合計により退職金が決定される。
ポイント数は「毎年本人に通知し、透明性の高い分かりやすい制度を目指す」とのことだ。
基本給の内、能力給というのは、どこの会社でも資格の格付けによって、最低額(初号賃金)が補償されている。また同じ資格等級の中でも評価によりばらつきがあるから、給与には差が出るわけだ。要するに、どんな制度をとっている会社であっても、退職時現在の給与というのは、良くも悪くも過去の業績を反映していると考えてよい。
退職金ポイント制というのは、その基本給の確定基準とほぼ同様の基準で点数をつけるというものであるから、乱暴な言い方をすれば、基本給を1万円で割った数値となる。数字は小さくなり端数が丸められるので、見た目はわかりやすくなるが、これは一種のデノミにすぎない。デノミであるから、胴元である会社は、切り捨てられる端金の分だけは確実に得をすることになるが、これはちょっと姑息である。
本当に退職金のためのポイント制を作るのならば、業績評価の反映を月次給与や賞与と違う割合でかけてやらなければいけない。しかし、それでは一つの評価で二つの結果になってしまう。「一物二価」が良いのかどうか。制度は難しくするとメンテナンスが大変である。そこは「人の評価もシャープ」にできる会社という自負があるのかもしれないが……。前途多難であることは間違いあるまい。
名糖健康保険組合(東京)に勤務する女性社員3人が、女性であることだけを理由に賃金、昇進差別を受けたとして、健保側に賃金差額など計約1億 7,000万円を求めた訴訟の判決が、昨年の暮れに東京地裁で申し渡された。計約
1,800万円の支払いである。
訴えていた3人は 55
歳から 61歳で、いずれも名糖健保に約 30年勤務する主任職員。同じ業務内容の男性社員が年功的に昇進するのに、女性職員は係長以上に昇進できず、賃金差別を受けていると主張していた。
裁判長は判決理由の中で、健保の賃金規定そのものに男女差別はない、としたが「実際の賃金決定過程で性の違いによる格差があった」と認定した。
話は唐突に変わるが、物事を始めるのに「形から入る」というタイプの人は少なからずいる。たとえばゴルフを始めるについては、まずは超一流のクラプをそろえて、ファッションだけはプロ並みという人も少なくない。海外旅行に行くとなると、この手の人はなぜか外国のブランドバッグを買うことから始める。
いや別にそれが悪いと言っているわけではない。どんなことに金を使おうとその人の勝手だ。むしろ今のこのご時世に、何かを盛大に買ってくれるというのは、ともかく福の神である。しかし、これが会社の制度となるとそう話は簡単に済まなくなる。
そうそう「今の時代に男女差別の社内規則なんて時代遅れじゃん」「今は、やっぱり能力主義制度でしょう」という軽いノリで制度を導入す会社はないと思うが、結局、時代の先端を行く制度もその使い方いかんで、まったく骨抜きになってしまう。名糖健保がそんなノリであったかどうかまでは知らないが、「実際の賃金決定過程」というのは、平たく言えば「制度の運用」がまずかったということだろう。
このところ能力主義人事制度への乗り換えが、一種の流行りもののように行われている。前にも触れたことがあるが、処遇制度の寿命はせいぜい10年がいいところなので、モデルチェンジイヤーを迎えたと捕らえるのが相当だろう。ファンダメンタルズが変わってしまったのだから、制度を時代にあったものにするというのは大いに賛成である。しかし、「仏造って魂入れず」ということが結構ある。大枚をはたいて有名コンサルタントに作ってもらった制度でも、その運用が旧制度と同じ基準であれば、効果はカタログどおりには出ない。要するに経営幹部と事務当局の頭の中身を新しくするということが、もっとも大事なのであろう。
★閑話休題☆ NHKの改革? 2005.02.01
1月30日(日)に「一連の不祥事にかかわるNHKの改革」という番組がテレビ・ラジオで流された。
このところ雑事にかまけて、テレビについてはほとんど「ニュースのさわり」くらいしか観ない生活を送っている。それでも、スマトラ沖の大津波や山古志村の豪雪は耳に入ってきたのだが、このNHKの不祥事というのが具体的に何をさしているのか良くわからない。年末年始、ラジオは結構聴いていたが、それだって演芸番組中心だから、われながら現実離れしてしまったのかもしれない。
改革特別番組では、同協会の不祥事の内容についての具体的な説明はほとんどなされていなかった。察するに、年末に新聞記事になった紅白歌合戦のプロデューサーがどうしたこうしたとか、大物代議士のだれそれが圧力をかけたとかかけないとかの「問題」をさしているのかもしれない。まっ、報道・放送というものは所詮、他人の目というレンズを通過したものを、一方的に見せられるわけで、そこには何がしかの偏向(偏光)は付きまとう。こういうものには、真の公平など求めないのが良い。
それはそれとして、この番組を聴いていて(ラジオで聴いた)、受信料がNHKの収入の90パーセント以上を占めているのを知った。「これは他国にはないことだ」と自慢げに報じていたが、これは自慢ではなくで異常な事態なのではないか。
私は大学時代に一人暮らしをしていて、何しろ貧乏だったから家具や家電はほとんど中古のガラクタ同然のものを使っていた。当時は周囲を見ればみんながそうだったのだが、私はたまたま電気屋からタダで譲ってもらった旧式の白黒テレビが1チャンネルしか映らなかったので、受信料を払っていた。友人たちの中には、民放がただ1局しか映らない受像機だからと開き直り、受信料を払わない傑物もいた。
改革番組を通して、NHKは「受信料をいただいている皆様はお客様」ということを妙に強調していた。だから、お客様の声を聞くために全国行脚のようなことをするという。しかし、貧乏学生からも強制的に同一料金でむしりとっていこうというのは、どう考えても普通のサービスではない。サービスというのは、「使った分だけの料金を支払う」というのが納得の行く姿ではあるまいか。「徴収する地域社員のご苦労」という言葉も頻繁に使っているが、それはサービスと課金制度が乖離しているのだから、税金と同様に取るのは難しいに違いない。
どうしても国民から幅広く受信料を吸い上げたいというのなら、もっと安くしなければいけないと思う。税金だって、「広く安く」が基本ではないか。大体、衛星放送や地上デジタル放送でもっとも生活が潤ったのは、受像機を売っている家電メーカーである。NHKが一生懸命新技術を開発すると、電機屋ばかりが儲かって、国民は新しい機械を買わされたり、受信料を高くされたりと踏んだりけったりなのだ。老年に入ろうとしている身では、あんな技術は百害あって一理なしである。
少なくとも、家電メーカーの経営者団体とかアンテナメーカーの団体などは、NHKの事業予算の半分程度は献金してしかるべきではないのか。利益を被ったところが料金を支払うというのが、経済原則というものだ。公共放送であるから、一企業から金をもらうというのはまずいのかもしれないが、団体ならば良いのではあるまいか。
この手の提案がまったく入っていない以上、今度の「改革」はどうやら「大衆の機嫌をうかがいながら、ほとぼりがさめるのを待つ」という方針なのだと見て取ったが、これはへそ曲がりの意地悪すぎる見方だろうか。
★閑話休題☆ 形ばかりの改革 2005.01.01
年も押し詰まった先日の夕方、定形外の封書を簡易書留にする必要があり、郵便局に出かけた。私がいつも利用しているのは、いわゆる「本局」と呼ばれるところで、午後七時まで郵便窓口が開いている。公社化される前から、そうした時間帯で受け付けてくれたのだが、以前はいかにも「残業させられている」といったふうに、ぶすっとした顔つきの男性職員が座っていた。領収書が必要なときなどは、恐る恐る声をかけたもので、「面倒なことを頼む客だ」と白い目で見られるのを覚悟しなければならなかった。
それが公社化された途端、女性担当者に替わった。男女が入れ替わった程度で、こうも雰囲気が変わるのかと狐につままれた感じで、まことに当たりが柔らかくなった。
おそらくこれはいい意味での変革の兆候で、これからますます良くなるだろうと、ひそかに期待していた。小泉改革もまんざらじゃないぞ、と。
ところがである。
その日ももちろん窓口に座っていたのは女性職員で、知らぬ間に制服も公社の新しいデザインに変わっていた、というのは本論とは何にも関係ないのだが、「なにも服まで変えなくても」と思ったのは事実である。所詮貧乏自営業者の僻みなのだが、前途多難な船出であれば、こうしたところに金をかけるのはいかがなものか。
私の前には先客が並んでいた。といってもたかだか三人ばかりなので、まっ、五分もあればと列に並んだ。
ところが待てど暮らせど先に進まない。どうやら最初の客は、「不在カード」を持って郵便小包を受け取りに来たようなのだが、女性職員が右往左往しているばかりで、肝心の荷物が見つからないのだ。結論から言えば、配達したバイクがまだ戻っていないということらしいのだが、客はそれに納得していない。(この人はその後列から外れ、窓口の横で20分ほど粘っていたが、最後には諦めて帰っていった)
その次は、どうやら現金書留を出すらしいのだが、まったく何も準備してこず、笑顔の女性職員に教えられるまま、カウンターで宛名を書き始める始末である。その後、「手数料が高い」のなんのとひと悶着あり、これで十五分。その次の人は外国人で、この方が四方八方にエアーメールを十通も出すので、この料金を算出するのにまた十分。ご想像通り、私の後ろには長蛇の列が出来てしまい。口口に不平を漏らし始めた。
確かに、現金書留とエアーメールのもたつきの原因は客のほうに非がある。それは認めるが、実はこの局の郵便窓口は2つあるのである。一方の女性職員は最初の客の小包を探しに行ってしまったので、そっちの席は開店休業状態なのだ。
小さな局で、見渡しても他の職員が見当たらないというのなら我慢も出来る。ところが、客から見える範囲にいかにも上司という感じの人たちが数人自分の席に座っていて、こっちを向いて苦笑いしていたりするのだ。それでも窓口のほうには歩い来る人はいなかった。
郵政改革をひそかに期待していた私は、この様子を見て先が見えてしまった気がした。制服は垢抜けて窓口の物腰もたしかに柔らかくなった。が、肝心なのはサービスの中身ではないのか。昨今の政治経済を見ていると、どうもこの手の形ばかりの「改革」が多くなっているようで、背筋が寒くなる。
人生には色々なことが起こる。70歳を超えてますます元気だった母が、自宅玄関脇で転び右腕を骨折してしまった。もともと膝が悪く、足元がおぼつかなかったので、毎週整形外科の外来に通院していたのだが、今度は利き腕が動かなくなって、いっきにしょげ返っている。
こっちは家事はこれまでも相応の負担をしてきたので朝晩の食事の支度や洗濯などはなんとかするのだが、何しろ昼間は不在の事が多い商売なので、昼食の手配がどうしてもおろそかになる。
母はもともと手先の器用な人で、手芸を人に教えたりしていた。また、書道では師範の腕前で、最近では知人に頼まれては、毛糸の帽子を編むのが生きがいになっていた。それが利き手が使えなくなって、何も出来なくなってしまった。
「こんなふうなら、いっそ死んでしまいたい」とぼやかれるのは、子供としては、なんとも切ない。
なんとしても直るまで希望をつなぎとめなければならないと、目下のところその方法を模索するだけで頭がいっぱいである。
それはともかくとして、常日頃、当たり前のように両手が使えていたので気づかなかったが、こういう段になると、それがいかに複雑なことをしていたかがわかり、目からうろこが落ちた思いだ。卑近な例では、まず牛乳瓶のふたが開けられない。老人だから、毎日相当な数の薬の袋を破りそれを服用しなければならないのだが、この袋が破れない。そればかりでない。デザートにバナナを一本つけても、皮をむいてやらなければ、食べることは無理なのである。
まっ、慣れてくれば、いろいろと工夫もできようが、ともかくこんな感じで本人も家族も途方にくれている。それにつけても、中越地震などで被災した皆さんの中には、骨折した方もあったと聞く、今の我が家の状況から推測するに、それがどんなにか大変なことか、心が痛む。おもわず、わずかながらの募金をしてみたのだが、生きる希望というのは金では買えないということが、ここに来て、しみじみわかるようになった。
★閑話休題☆ オオカミ退治のリスク 2004.11.01
思い起こせば随分と昔の事になってしまったが、「男はオオカミなのよ」という歌詞の歌が流行ったことがあった。歌っていたのはピンクレディだったか、石野真子だったか。いずれにせよ女性アイドルスターだったと思う。
オオカミはその風貌や行動が雄雄しいことから、古くから男性(とくにある種のワル)を比喩する動物として使われていたようだ。これは洋の東西を問わない。「オオカミ男」というのはいるが、「オオカミ女」というのは、聞いたことがない。
それでは女のほうは何にたとえられているのかというと、これが「猫」であったり「兎」であったり、甚だとりとめがない。まっ、しかし、狼との対比で考えれば、「小鹿」あたりが無難なところではなかろうか。小鹿のバンビと聞いて、むくつけき男性が野山を駆け回っている姿を連想する人は、ちょっとあぶない。
というわけで、純真無垢な小鹿が湖畔の周りを遊んでいると、性悪なオオカミに襲われるといったパターンの「お話」が出来上がる。これが人間社会にも当てはまるではないかとなり、例の歌謡曲になるわけだ。
だがしかしである。
現実の日本列島では、野生のオオカミはとうの昔に絶滅してしまっている。
そればかりが原因とは言いがたいが、日光を初めとする各地で鹿の食害が進んでいる。冷静に見れば、鹿は日本の野山に住んでいる野生動物の中ではかなりでかい。体が大きいということは、自然界ではかなり優位に立てるということを示す。ましてや、日本ではハンティングを趣味にしているなどと公言すれば、警察から「要注意人物」ということで目をつけられる。したがって、人間に捕まる可能性は極めて低い。というわけで、鹿はどんどん増え続け、奥山のえさをすべて食べつくして里に下りてきてしまったのである。
「でも、鹿は神様のおつかい姫だ」という向きもあろう。それを否定するつもりなど、ない。
しかし、人里に下りてくるのは、なにも鹿ばかりではない。イノシシしかり、ニホンザルしかり、そしてこのところのツキノワグマ騒ぎである。専門家に言わせると、かつては皆オオカミに捕食されていた動物ばかりだという。
オオカミ退治は、自然動物の保護と人間の安全のためにやむなく行われたのだろうとは思う。が、ピラミッドの頂点に立つオオカミがいなくなれば、そこにクマが座るのはある意味当然であった。ただし、雑食性であったから、血なまぐさい事件はあまり起こさないで来たというのが、本当のところではあるまいか。いずれにせよ、一旦自然界に人間が手を入れてしまったのだから、バランスは崩れているのである。
だからといって、なんでも野放しが一番いいなどというつもりはない。私だって、オオカミのことを用心しながら山歩きするのは真っ平だ。ただ、オオカミが消えたリスクを我々は受け入れなくてはいけないのだと思う。
周囲を見回してみれば、私も含めた男性諸氏はほとんどを牙を抜かれてしまい、狼どころか犬ほどの元気もない。どうやら国会のセンセイたちは、小鹿のバンビである女性が、社会を動かしていけば良いではないかと考えているようだ。それを間違いだとは言わないが、そこにはそれなりのリスクがひそんでいるような気がする。現代のオオカミは、船や飛行機で外国からやってくるという話もある。絶滅の危機に瀕している我が国の「オオカミ」たちがこれを防ぐことができるかどうか、はなはだ心もとない。
★閑話休題☆ ミソシキ 2004.10.01
「ミソシキロウドウシャ」という言葉がある。最初にこの言葉を聞いたのは、23、4の頃だったと思う。ご多分に漏れず、駆け出しサラリーマンであった。会社組織というのに馴染んでいない頭では、即座に漢字が思い浮かばなかった。
「ロウドウシャ」の方は、「労働者」であるとすぐにわかった。が、「ミソシキ」がわからない。自動車関連の会社だったから、まさか「味噌敷き」ということはあるまい。結局、先輩に訊いて、労働組合がない労働者のことだと教えられた。要するに「未組織」である。折しもバブルのトバ口で、組合さんも結構強気で、他の会社にオルグに出向き、労働組合員を増やそうと頑張っていた。思えばあの頃は、労働組合の幹部も「社会的使命感」を持っていた。良い時代であったのだ。
さてひるがえって、昨今の組合情勢はどうか。社歴の長い企業では労働組合は今も健在である。既存の労働組合が空中分解したという報道はないから、それは間違いあるまい。ただし、連合の年次報告などを見ると、軒並み組合員は減少している。といっても、老齢化が進み、ここ数年で労働人口が一気に減ってしまったというわけではあるまい。
仕事を持たない人間ばかりでは国が立ち行かない。製造業の空洞化はかなり前から叫ばれているが、それだって周囲を見回せば、まだまだ工場は稼動しているし、そこに働きにいっている従業員の数も激減したようにはみえない。いったいこれはどういうことだろう。
種明かしは簡単である。企業内に「ミソシキ労働者」が増えたのである。それはパートタイマーやフリーターや契約社員、派遣社員である。もとよりこれらの人たちは、組合員とは給与体系も異なるし、労働時間だって違っている場合が多い。そこで組合は仲間に入れようとはしない。ふた昔前までは、他所の企業にまで出向いて、熱っぽく語っていた彼らがである。
その理由は、これまで連綿と続けてきた「処遇改善」をまったく無視した雇用条件で入ってきた人たちだからだ。彼らを仲間に加えれば、交渉の項目がべらぼうに増えてしまう。だいたい企業間競争が激化するであろうこれからの時代、非正社員の処遇を上げてしまえば、勢い組合員の処遇がそぎ落とされてしまうだろう。そこで、組織内「ミソシキ労働者」が増えてしまった。
人間は確実に年を取っていくものだから、今のままでは組合員の減少に歯止めがかかる可能性はない。いよいよ人数が少なくなってしまえば、組合員の処遇は非正社員と同一のレベルまで引き下げられることになるだろう。まさに固形の味噌が、味噌漉しの中で解けていくように、労働組合は自滅しようとしている。すべて解けてしまえば、味の濃くなった味噌汁の中から、あらたなソシキ化の話が出てくるのだろうが、労組はそうした輪廻転生に自らの将来をゆだねてしまっては、なんともむなしい気がする。
★閑話休題☆ 過労死という印籠 2004.09.01
右目が見えなくなったことに端を発し、持病の高血圧の治療はもう10年間続いている。相変わらずの白衣性向血圧で、病院で測定すると重度の高血圧症なのだが、自宅の血圧測定値と眼底検査の結果は落ち着いているので、まっ、なんとか暮らしている。
私の通っている隣町の総合病院の主治医はその間に4人替わった。いまどきの医療だから、待たされる時間だけが長く、診察は3分にも満たない。それはそれで仕方がないとあきらめていたが、先日の診療の際に、土曜日に通院するのはやめてもらいたいといきなり言い渡された。
すわ病院まで週休二日になったのかと思ったが、そうではなかった。病院自体は土曜日も平日と同じに外来を開いているという。ただし、新しく変わった主治医の方針は、「土曜日は身障者のみの受付にしたい」というもので、健常者(?)は平日に来てくださいというのだ。この総合病院の外来は基本的にすべて予約制である。そりゃあ平日でも無理すれば通院できないことはないが、1カ月2カ月先の予約となると土曜日のほうが確実という事情があった。
医師が身障者福祉に熱心なのは結構だが、これこれこういうわけでと説明した。すると「じゃ、別の病院に換わっていってください」といきなり転院を進められた。これにはあいた口がふさがらなくなった。
ところが身障者の方が土曜日に集中的に通院しているようには見えない。それで食い下がったところ、「あなたは私を過労死させるつもりですか」と反問された。彼が言うには、医療現場は常に忙しく、「常に過労死と背中合わせにある」のだという。だから、土曜日はなるべく外来患者を減らすことにしたのだという。「患者にはそれに協力する義務があります」とまで言われて、この医師ではだめだと感じた。結局、10年間お世話になった病院を移ることに決めたが、後で看護士が飛んできて、平謝りされた。どうやら強制転院させられた患者は、他にもたくさんいるらしい。
実はこれは医療現場に限ったことではなく、様々な場所で同じような対応に遭遇している。
たとえば、有名ブロードバントに以前契約しようとした際、工事予定日を過ぎても一向に繋がらないので、夕方問い合わせてみると、「当社は5時で受付が終了しています」とのこと。「翌日の10時に」と言われたのでその時間に電話をすると、今度は「担当者が休暇をもらっています」で、電話に出ている人はこちらの用件さえ聴こうとしない。
また、別の日、某有名銀行に封書で書類を送ったら、こちらが不在のときに確認の電話があり、翌日の午前中に電話を入れてくれという。夕方慌てて電話をすると、「すでに営業時間は過ぎました」のテープの声。仕方なく指定時刻に電話を入れると、単に書類の内容を復唱するだけの事だった。こんなことなら、昨日の夕方で用が足りたではないかと言いたがったが、言ってもわからないだろうから諦めた。
確かに長時間労働と過労死との因果関係はかなり密接で、それを予防しながら仕事をするというのは大切なことである。しかし、だからといって顧客にすべて尻を持っていくというのは、本末転倒だろう。役所の窓口などはまさにその典型で、時差勤務やローテーションを工夫すれば、サービスの質を落とさずに長時間勤務をなくすことは可能と思える。ここにきて、相手に自分の権利ばかりを主張する人間が多くなったのは、教育の失敗なのだろうか。
★閑話休題☆ 一極経済の恐さ 2004.08.01
最近、絵を描くことを覚えた。NHK教育テレビ「趣味悠々」でやっていた片岡鶴太郎の墨彩画塾を見ていて、むずむずと絵心がわいてきたのである。自分の中では、同塾の先達である高橋秀樹氏や田中好子さんなどと同期生のつもりだが、絵の出来栄えは皆さんのご想像にまかせる。
藪から棒に趣味の自慢かね、と眉を顰める方がいるかもしれないが、そんなつもりはない。絵を描くことに時間をとられてしまって、近頃テレビを見る時間がかなり減ってきている。商売柄、ニュースには敏感でないと困るのだが、前のように時々刻々とトレースしていくといったことをしなくなった。情報が「線」から「点」になったようなイメージだ。それが良いことなのか悪いことなのか、自分では判断はつきかねる。ただし、何となく社会の動きが大づかみできるようになった気がする。
このところ日本経済は、「本格的な回復基調」であるという。確かに、私の住んでいる田舎町でもピカピカの外車を見かける機会が多くなった。その一方で、隣町の大病院は閉院の危機にさらされ、恐喝まがいの電話セールスは日常茶飯事となり、銀行やコンビニは四六時中強盗に目を光らせている。
今年は気象も狂っているが、社会もおかしくなっているようだ。その原因はいったい何だろう。絵筆を洗いながらラジオを聴いていると、回答のヒントが聞こえてきた。米国の大統領選挙の演説で某副大統領候補が声高に主張していた。
「今の政治は、豊かな米国と貧しい米国の二つを作ってしまった」
競争原理を金科玉条として社会を運営すれば、こういうことになるのである。日本の現状も中国の現状も似たり寄ったりだ。今や政治体制に差はあっても経済体制は、すべて「自由競争」なのだ。それを是としない国は、ご存知の通りことごとく潰されてしまった。
いまさら埃を被ったマルクス主義や修正社会主義にのっとった社会を建設しろなどというつもりはない。ただ、世界全体が一つの思想にのめりこんでいくというのは、歯止めがないだけに恐ろしい。
物を売って金を稼ぐという行為を競ったところで、あの世まで金は持っていけない。木々や草花は金のために花を咲かせているのではないのだ。もっともその無私の美に気づくようになったのは、絵筆を持つようになった最近である。もう少し、見られる絵が描けるようになったら、雅号に「空」の字を入れたいと考えている。すべては「空(くう)」であると念じていないと、人生を見誤ってしまうような気がする。
★閑話休題☆ 見直される労組のありかた 2004.07.01
5月12日、システム開発会社S社に勤務中の脳出血で死亡した男性の両親が「過酷な労働条件を改善せず過労死を招いた」として会社と同社の労働組合に計約1億4,400万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こした。男性はシステムエンジニアとして入社し、約10年間勤務した。長時間の緊張を強いる過密な業務を続けて、02年2月の休日、脳出血のため自宅で倒れ死亡した。
死亡直前半年間の時間外労働時間は月平均67時間を超えており、両親側は「持病の高血圧症が、緊張の多い勤務で悪化し、脳出血を誘発した」と主張している。
原告の代理人弁護士は「SCCと労組は、協議なしに月30時間以上の時間外労働をさせられない、との協定を結んでいるのに、労組は協議を怠った。労災申請にも協力しようとせず悪質だ」としている。
あってはならないことだが、実態として36協定が形骸化している企業は多い。監督署に限らず役所というのは、提出書類の体裁が整っていなければ受け取ってくれず、逆に必要事項が記載されていれば、その内容が「嘘八百」であっても、受領印を押してくれる。
内容の検証(たとえば本件のようなケースでは、個々の残業が労使協定の範囲内に納まっているか否かの調査)は、この4月から実施されることになった。しかし、実際には全企業が一斉に調査をうけることはない。それではダメだから、もっと職員を増やして、厳しく摘発しろというのが、政治と行政の考え方である。これではスピード違反の取締りと発想がかわらない。
そこで弁護士は、「労働組合の協議責任」ということを持ち出した。が、労使協議で残業が減るだろうか。合理化が行くところまで行ってしまえば、人を増やして残業を減らすしかない。それで人件費を増やさないようにするには、労働者の賃金をカットするしかない。これがゼロサム社会の常識なのだが、それを認めようとしない労組がなんと多いことか。新常識に則って、役人と政治家が俸給を一律2割カットすれば、民間企業のワークシェアリングは進むかもしれない。
★閑話休題☆ 拉致は誘拐? 2004.06.01
小泉首相の直接外交で、拉致家族二夫婦の子供たちが日本の地を踏んだ。
マスコミ各社はいっせいに、一緒に帰国した曽我ひとみさんの家族だけを「取り戻せなかった」のは片手落ちであると批判した。米国脱走兵だったという特殊事情を加味しても、当事者にとってはかけがえのない家族である。涙ながらに訴えるのもわかる。だが報道機関すべてが、情にもろいというのはいかがなものか。
拉致被害者の会が、「どうしてうちの子は救ってくれないのだ」と嘆くのは、人間として当然のことだと思う。第一陣として戻ってきた5人だけは特別だったのかと勘ぐってしまう。北朝鮮の食糧事情は、木の根まで掘って食べるほど悪化していると聞くが、帰国した子供たちが身につけていたものは決してみすぼらしいものではなかった。どうなっているのだろう。
それはともかくとして、かの国が数人とはいえ拉致家族の子供たちを出国させたという事実は重い。このやり口をどう捉えれば良いのか。私を含め、一般国民は見きわめがつかない。
そもそも「拉致」という言葉を使って、一連の行方不明事件を特別扱いするのはなぜなのか。彼らは20数年前に「誘拐」された被害者である。同時期に国内で誘拐された者は、他にもいただろうし、犯人が日本人で、無残にも殺害されてしまったケースもあるかもしれない。そんな被害者の家族は、どんな気持ちで今回の報道を目にしたか。
日本人が犯人であったら、すでに逮捕され服役していた可能性が高い。心を入れ替えて、被害者の家族に損害賠償金を支払い続けているということだってありうる。
なのに「誘拐」が「拉致」という言葉にすりかえられた途端、「逮捕」とか「損害賠償」という、法律に基づく措置が不要であるかのように錯覚してしまう。経済支援とか国交正常化という問題とは別に、日本政府は「誘拐犯」を捕らえて、法の下に裁く必要があるのではないか。この問題で「裁判員」に選ばれれば、多くの人がそう主張するように思う。
もしも「拉致」は国家的犯罪だから、相手国に賠償を望むのは無理だと、国や地方自治体が、拉致帰国者の家族に手厚い保護の手を差し伸べているのだとすれば、本末転倒である。生死すらはっきりしない家族に対する補償はどうするのか。法の下の平等という基本が脅かされている。報道各社がそんな点に光をあてないのがどうも気にかかる。
★閑話休題☆ ソフトサービス 20004.05.02
近頃は、インターネットでルート確認ができるようになったので、ちょっとした遠出には重宝している。「駅すぱあと」などのデータは極めて正確かつ迅速で、ついこの間まで電話帳のようは分厚い時刻表をくって、列車の連絡時刻を確かめていたのが馬鹿らしくなってくる。
私は携帯電話すら持たない人間だが、この程度のコンピュータ社会の恩恵を実感するようになった。もっとも、すべてが便利になったわけというではない。
先日、老母を連れて鎌倉に行って来た。その帰り、私鉄の始発駅で特急券を買おうとしたら、券売機がタッチ式の機械に変わっていた。それ自体は、鉄道会社の経営事情によるものだから、別に文句を言うつもりはない。
表示板を見ると、私たちが乗ろうとした列車にはまだ空席があり、「発売中」となっている。しかし、「大人二人」「禁煙席」「行き先」「特急券+乗車券」の順にタッチすると、「希望の席はとれませんでした」と答えが返ってくる。二度やってみたが、二度とも同じである。
さて困った。
希望にそえないと言われても、それほどの希望を出しているわけではない。まして、車両には空きがあるのだ。「大人二人」が駄目なのか「禁煙席」が売り切れなのか。「行き先」が満員なのか、はたまた「特急券」だけが売り切れたのか。さっぱりわからないまま、適当に「喫煙席」で入力したら、母とばらばらの席で発券された。
母は足が少々不自由なので、これは大いに不満だったが、次の列車まで待つのもまた大変なので、その列車に乗って帰宅した。これまでは、窓口でこちらの希望を説明すると、まっだいたいはかなえられたのにと、粗くなったサービスに不満が残った。
それで腹いせに言うわけではないが、鉄道各社の連絡通路の階段はなんとかならないものか。エスカレーターが一部分付いていても、歩きにくい階段がサンドイッチされていては、「バリアフリー」とは言わないのだ。そもそも、乗り場表示だって、毎日乗り降りする通勤客相手のことしか考えていないものばかりだ。最短、正確、迅速は結構だが、もう少し温かみのあるソフトサービスが必要だろう。
おそらく三半規管が弱いのだと思うが、私は子供の頃から回転する乗り物が嫌いだった。
意地の悪いことに当時の遊園地には、メリーゴーランドやコーヒーカップをはじめとして、そんなアトラクションが多かった。もっとも嫌だったのは、メリーゴーランド形状で乗り物がボートになっている遊具で、これはぐるぐる回る上に、一応水の上に浮いているため上下動が加わるのがまことによくなかった。
三つ子の魂百までとはよく言ったもので、長じてからも船は得意ではないし、エスカレーターもあまり気分良く乗れない。あの床面から次々にステップが出てくるのを見ていると、眼が回るのである。
そんなわけで回転ドアというものも、ずっと敬遠してきた。最初に回転ドアなるものが世の中にあると知ったのは、おそらくテレビ映画で、記憶が正しければ「スーパーマン」ではなかったか。むろんそれを見ていた当時、私の住む町には、回転ドアのついたビルなど一棟もなかった。だいたい出入り口にどうしてあんな形状のものをしつらえなければならないのか。その理由がいまだにわからない。
出入り口というのは古来より押すか引くか、さもなくば横にずらすかだったはずで、その動きで必要十分である。そこに「回転」という動きを加えた理由はなんなのか。それは多分に「見栄え」とか「おしゃれ感」といった機能とは別のことだったように思われる。
たしかに、スーパーマンのクラークケントが、ガラガラと引き戸を開けて出てきては格好が悪いのかもしれない。しかし、彼もそのほうが登場しやすかったに違いない。
さて、春休みに入ったとたん、東京の最新ビルの回転ドアに男の子が頭を挟まれて死亡するという痛ましい事故が起こった。
ビルの管理者は以前からドアの危険性を認識していて、注意のステッカーを貼ったり、「柵」を設けたりしていたそうだが、はしゃいでいる子供の眼にそんな貼り紙など入るはずがない。「柵」は飛び越えるものと思えただろう。最新のセンサーをいっぱい設置していたそうだが、機械装置というものには死角がつき物だ。過信すれば足元をすくわれる。
とどのつまり、回転ドアにする必然性があったのかどうか。「見栄え」や「おしゃれ感」を優先して建物が設計されていたのではあるまいか。商業施設であるから、そういうもので人を惹きつける必要があったのかもしれない。しかし、商業施設の建物や設備は美術品ではない。機能が劣っていては本末転倒だ。三半規管の弱い人間でも気軽に出かけられる都会というのをキーワードに都市を再構築してはどうだろう。
★閑話休題☆ 頭を下げる改革 2004.03
先日、書き上がった確定申告書を近所の郵便局の夜間窓口に出してきた。
新聞等で推奨しているので、数年前からは郵送申告と決めている。一つは狭い駐車場が空くのを待つのが辛いのと、その上長蛇の列の尻につくのが体力的に大変だからだ。
今年は税務署から送られてきた書類の中に、組立式(!)の返信用封筒が入っていた。この手の工作は好きなので、早速それを使わせてもらった。例年それ用に大きな封筒を買い、なおかつ無理やりに折りたたんでいたので、随分と重宝した。
私は試してみなかったが、インターネットからも申告書が取り出せるようになり、電子申請も一部の地域では可能になったと聞く。一部の署で土日でも申告を受け付けるようになるなど、近頃、税務署は納税者の利便性を本気で考え始めたようだ。
同じようなことは郵便局についても言え、私が郵便を出したのは日曜日である。土日の昼間にも夜間窓口はしっかりと開いていて、通常料金で郵便や小荷物を預かってくれる。配達指定日時を細かく尋ねてくれるのもありがたい。
「そんなことは、宅配業者ではすでに当たり前、公社になってもその程度だ」と切り捨てる方もいよう。私も「公社化」とか「民営化」という言葉には眉唾の口だ。だからこの変化を、職員の方々が利用者の側に立って物事を進めるようになった現れと思いたい。
夜間窓口の横にはキャッシュコーナーがあり、これまた時間外、土日祭日の別なく、手数料なしで払出しや入金が出来る。この部分ではあきらかに銀行よりもお得で、利便性が高い。事実、夜には外国人労働者が列を作っている。
銀行側はそれこそ「官業圧迫」、と目くじらを立てているが、彼らの主張には「預金者の利便」という視点がまるでない。
同様のことは、昨今喧しい年金改革談義にも言えていて、厚生労働省の示す「改革」の中に、老後の暮らしに満足する「受給者」の姿はない。どちらも、何はともあれ「わが組織」「わが制度」が大事と、内を向いてばかりだ。
さて、日産自動車のCMに「物より心」というのがある。車というモノを売るメーカーとしては甚だ奇妙な宣伝だが、大切なのは心が豊かになることで、モノは手段に過ぎないと主張している。むろん、それだけモノの出来映えに自信があるのだろう。なるほど日産は、死に物狂いで立ち直った。
こんなところでいきなり「滅私奉公」などという言葉を持ち出せば、封建時代の徳目だと眉を顰める方が多いと思う。しかし、メーカーでもサービス業でも公務員でも、それぞれにユーザーはいる。その相手に対して、身をすり減らして満足してもらおうという気概は尊いと思う。
昔から「捨ててこそ浮かぶ瀬あれ」というではないか。自らの権利だけを主張していては、泥沼に沈んでいくだけだ。本当の「改革」は拳を上げることではなく、「ありがとうございます」「いらっしゃいませ」と頭を下げることから始まると思う。このことを自らも肝に銘じておきたい。
☆閑話休題★ 共食いの因果 2004.02
BSE(いわゆる狂牛病)の次が鯉ヘルペス、それを追い立てるように今度は鳥インフルエンザである。我々の食を支えてきた動物たちが、次々と御難にあっている。素人の憶測に過ぎないのだが、昨今のイワシの不漁も同根ではあるまいか。
最初のうちこそ、国は「狂牛病の牛を食べても、人間の脳がスポンジ状になることはありえない」と断言していた。が、いつのまにか「まれには発症する」に変わり、今では疑わしいものは完全に抹殺して市場に出さないという対応になっている。その管理のほどが不十分だと、昨今は米国がたたかれている。
鯉ヘルペスにしても鳥インフルエンザにしても同様で、「人間に害は及ばない」といいつつ、大量廃棄という道筋がついてしまった。しかし、この手の方法は100%完璧というわけにはいかない。不安はどうしても残る。
さて、私は畜産や養魚の専門家ではないし、病理学を修めたわけでもない。ただし、報道を聞いている限りでは、要するに「共食い」した物に因果が巡ってきているように思える。
牛の飼料に混ぜられていたのは、牛の肉骨粉だったし、鯉のえさにもすり身が入っていたらしい。鶏のえさに卵の殻や骨を混ぜるのは、昔からの常識である。
栄養バランスという点からは、それで問題はないのかもしれないが、わが身に置き換えてみると、他人の肉体をむさぼり食っているようなものだから、あまり愉快ではない。
そういえば先の戦争では、ジャングルに進軍したいくつかの連隊は、飢餓のために倒れた仲間の肉を食らって行軍を続けたという。軍隊でなくても、雪山で遭難した者や、漂流の末に無人島に漂着した者が、仲間の死肉を食ってしまうという例は数多い。
食人経験者は、命は永らえても、その後ずっと良心の呵責に苛まれることになるという。
相手を物とみなさなければ、仲間を屠ってしまうことはできない。神ではない人間が、動物にそれを強要して良いものかどうか。しかし、そんな感傷に浸っていては、日々の生活がままならない。何も知らぬ家畜たちは、今日も黙々と共食いをしているわけだが、たくみに料理されてしまえば、人間だって出された物を食ってしまうと思う。
さて、話は変わるが、わが国の自衛隊がいよいよイラクの地を踏んだ。「人道支援」という大義名分を掲げても、迷彩服を着て機関銃で武装した装甲車で他国の道を行くのは進軍である。
米国はイラクを侵略した気などまったくないのだろうが、実態として進駐軍がいて、一部のイラク国民と敵対している。わが国はその進駐軍側について、かの国の行政に外から手を突っ込むことになる。むろん「支援の手」なのだが、引いて考えてみれば、これは「人類の共食い」に加担したことになるような気がする。
確かに我々の眼から見ると、イラクの混迷は目を被うばかりで、不条理にも見え、非効率な点も多い。だが、米国型の効率を追求した大量消費社会が、唯一の理想世界ではないという気もしてくる。地球上のすべての国が米国型の社会になってしまえば、この星の破滅は確実に早まるに違いない。
牛や鯉や鶏が、身をもって「共食いは大量死を招くよ」と教えてくれたことを、我々は真剣に受け止めなくてはいけない時期に来ていると思う。
☆閑話休題★ タガをはめよう 2004.01
足利銀行が、地銀としてはじめて「破綻」という結末を迎えてしまった。
私は、ほぼ地元と言っても良い土地に住んでいるのだが、それほど深刻な話を聞かないのは不思議である。いや、むしろ3,4年前のほうが大変だった。
わが町は人口わずか4万人の小さな地方都市で、そのささやかなメインストリートに、足銀をはじめとする地方銀行数行の支店がある。
「とうとう公的資金の申請をするようだ」との噂がたった当時、その窓口に解約希望の客が詰めかけ、騒然となった。挙句の果てに、銀行側は入り口に貼り紙をして、ドアを閉ざしてしまった。が、今回はその類のパニックは耳にしていない。
結局、件の銀行は、その時注入された公的資金を返すことなく、倒れてしまったわけで、これは考えられる最悪のシナリオに近い。にもかかわらず、トラブルが回避されているのは、「国有化で全額預金は保護される」との竹中平蔵氏の言を誰もが信用したからだろう。これを機に、自分の口座が「あしぎん」よりも、もっと安心できるビッグネームの銀行の通帳にかわれば、「めっけもの」という打算も多少はあるらしい。
「寄らば大樹の陰」というわけだが、その大本である「親方日の丸」は、このところかなり危うい航海を続けている。
いつの間にか構造改革の象徴となってしまった年金問題は、何の解決もないまま、しまいには「民営化」という声まで聞かれる始末だ。
しかし、民間に任せればすべてうまくいくというのは幻想である。JRはここにきて不始末が目立つし、NTTのサービスはお世辞にもすばらしいとは言い難い。といって、国が威信を掛けたH2Aロケットが失速しているのを見れば、国もあてにならない。
要は、日本の多くの組織が「タガが緩んだ状態」に陥ってしまっているのではないか。
組織を大きな樽と考えてみれば、その所有者が国であろうが民間であろうが、タガの緩みとは関係ない。メンテナンスの手間を惜しめば、樽の老朽化は急速に進む。ゆるみがちなタガは、こまめに締め上げなければならないのである。
さて、総理はいよいよ自衛隊のイラク「派兵」を決めた。その決断に「緩み」はないと信じたいが、土壇場でフセイン元大統領が捕まったことで、緩みが生じないとも限らない。
そもそも、なぜ米国が他国であるイラクに進駐しているのか、そのあたりに論理の緩みがあるような気もする。
ともかく、申年の今年は、孫悟空を見習って、ふやけた自らの頭にタガをはめて、世の中を見ていきたい。「親方日の丸」と思って振っていた小旗が、いつの間にか日本軍の「日章旗」に変わっていたということがないよう、一年を送りたい。
「年金のゆくえ」がこれほど話題になった年は珍しいと思う。過去を振 り返れば、「基礎年金制度」が持ち込まれた昭和61年にも、おおいに話題になった。この制度を入れることにより、 国民が初めて平等になると説明され、「本当かなあ」と眉につばをつけていたことを思い出したが、とどのつまり名称が変わるだけとわかり、国民は納得したの
だった。
それが今度は「将来年金がもらえなくなるかも」というとんでもない話 である。
衆院選では与野党ともに、安心できる年金制度を作ると公約していた。 最近は、世の中を良くするという約束のことを「マニュフェスト」と呼ぶらしいが、すべての政党が年金問題を挙げていたということは、現状がそれほど壊滅的
ということかもしれない。
与野党で手法の違いはあっても、政治家も役人も揃って「改革には金が 入る」という。生きとし生ける者、齢をとるのは致し方ない。その生活を支える年金だから、必要な金ならば多少無理してでもだそうではないか。そう考えてい
る国民が゛多いのではないか。
しかし、年金制度が破れた皮袋であったらどうしよう。そもそも、これ まで公的年金はいくら保険料を集め、どれだけの税金をつぎ込み、どれだけの年金を支払ったのか。その程度のバランスがとれない官僚など日本にはいまい。と
いうことは、本来使うべきではないところに支出してしまった可能性が高い。
今更そんなことを暴かれたところで返せるものではないと開き直られて も困るが、過去の過ちを他山の石にすることは出来る。その部分に蓋をして、「基礎年金分は税金を投入」などと決めてしまっては先が思いやられる。ギャラの
高い女優を使い、「年金は安全」などというCMを流せば、国民が納得するという発想からして馬鹿にしている。
「♪金だ、金だよ、金、金、金だ。なにがなくともこの世は金だ♪」
先日、テレビをつけると、突然こんな歌が流れてきた。歌っていたのは、小沢昭一氏である。曲調は植木等の スーダラ節に似ていて、タイトルは「金金節」とかいうらしい。初めて耳にしたのだが、なにやら懐かしいリズムである。いつ頃の歌かは聞きそびれたが、老母 に問うと、戦時中に聞いたことがあるとのこと。おそらく戦前の歌であろう。
突然、こんな話から始めたのは、近頃これと良く似た歌をCMで耳に するからである。
「♪よーく考えよう。お金は大事だよお♪」
まるで、時代が逆戻りしてしまったようで、なんとなく不気味だ。
そんなことを考えながら新聞に目をやれば、やはり大時代的な話題にことかかない。
大名行列や流鏑馬というのは、ちょっとした祭りでは必ずといって良いほど行われるようになったし、七五三の 写真は甲冑姿に十二単というのが流行らしい。
前々から結婚式の新郎新婦は「着せ替え人形」だと揶揄されていたが、最近は成人式に噺家のような出で立ちで 出席する男性も目立つ。「そこまでするかなあ」という気がしないでもないが、茶化し半分でも日本文化に目がむけられるのは悪いことではない。
ただし、外見は権威と結びつきやすい。このことを肝に銘じておくべきだ。
最前世の中を騒がせた「有栖川宮」詐欺がよい例である。新聞で見たところ、彼らの結婚披露の写真は七五三の 写真を大きく引き伸ばした程度のものである。そのブリキの勲章で彼らは世間をたばかった。「権威」は「金」を呼び込むと彼らは皮算用したわけだが、時代の 「気分」が後押ししたのは間違いあるまい。
懐古趣味を批判するつもりはない。が、かつてこのような世相の次に「軍国主義」がやって きたのだという歴史を忘れてはなるまい。
☆閑話休題★ 工 場災害と心の緩み 2003.10
大規模な工場災害が頻発している。
識者は「リストラでベテラン社員の首を切った」ために、 作業の安全にまで気を配れなくなったとか、「徹底的なコスト削減が原因」で、安全対策を棚上げしてきたツケだとか、さまざまな説を展開している。確かに、 どの説ももっともらしく説得力はある。事件・事故の背景には、そういう流れがあったに違いない。
しかし、いまやリストラをしていない企業を探すほうが難 しい時代だ。生産設備ですら、耐用年数を過ぎたものを使っている企業がほとんどだろう。しっかりメンテナンスをした機械は、耐用年数の2倍くらい平気で使 えるものだ。いやむしろ現場の人間にとっては、長年使い慣れた機械の方が能率も上がるし、精度も出る。
そんな企業では不思議と事故は発生しないものである。こ のあたりは、「識者」の理路整然とした推論では割り切れない。
ところで大規模工場災害が頻発していたちょうど同じこ ろ、一本のテレビ映画が撮影取りやめになった。ニュースでも大きく取り上げられたので記憶されている方も多いだろうが、石原プロモーションの「西部警察」 である。
シリーズ物でやっていた頃から、「火薬を使いすぎる」 「むやみにライフルを撃つのは教育上好ましくない」などと問題視されていた番組である。今回は派手なカーチェイスが売り物だったが、まさにその目玉の車が 大破してしまった。
代表である渡哲也は、この事故に関して「慣れによる心の 緩みのようなものがあったのかもしれない」と神妙に謝罪した。
石原プロモーションといえば、映画界においては誰が見て も一流である。その一流会社の代表が、こう発言した意味は大きい。
不況だから「気の緩み」などあるはずがないと思うのは、 部外者の勝手な推測である。組織というのは、表面には決して出ず、マンネリと戦いながら毎日同じことを繰り返している人々によって支えられている側面が多 い。そこには慣れによる油断も生じやすいし、時には手抜きをしてしまうことだってある。大企業のほうが作業が細分化しているわけで、仕事は面白みに欠ける というのが現実であろう。
日々工夫する余地があれば、仕事はおのずと面白くなるの ではあるまいか。そのあたりは、過大な設備投資をしなくてもできるはずだ。
大企業はもう一度、かつての「カイゼン活動」に立ち返る必要がある。
毎年この時期に、定年退職前研修の講師を務めている。
社会保険各制度の説明と手続きのポイントについて、具体的に話す。サラリーマンにとっては、すべて初めてのことであり、参加者は皆真剣である。それで も、数年前までは、研修後に表情を緩める人がほとんどだった。こつこつと一つの会社で定年まで勤め上げた人は、もらえる年金の額も相当なものだったから、
とりあえず安堵していたのだと思う。
それがこのところの「痛みを伴う改革」で、そういうわけにもいかなくなった。
生年月日によって、満額年金の支給年齢は後ろにずらされ、その金額もデフレを理由に機械的に減らされた。
少し前までは、それでも「失業手当が300日もありますから」と慰めることが出来た。が、今はそれも出来なくなった。退職予定者の眉間の皺は深くなるば
かりである。
その一方で、当地にある旧雇用促進事業団の施設も、10,500円という信じられない価格で売りに出された。元はといえば、この建設費も、雇用保険の保
険料から出たはずだ。
考えるに、「失業保険」が「雇用保険」という名称に変えられたときに、我々は気が付くべきだったのかもしれない。「失業保険」は文字通り「失業者」を支
えるための保険だが、「雇用保険」は政府施設に「雇用される」者を支えるための保険なのだ。要するに、保険料を支払っている労働者は、負担者であっても 「受給者」にはなりえないらしい。
それにしても厚生年金の「厚生」を辞書で引くと、「くらしを豊かにすること」とある。
まだあまりマスコミは騒いでいないが、年金の保険料も随分とむだな公共投資に使われてきた。それでくらしが豊かになった人はたしかにいたと思う。が、長年
保険料を負担してきた国民に不安を押しつけるというのは、本末転倒である。
昨年までは、6月の声を聞けば、自称識者がマスコミに登場し、「日本の気候もいよいよ熱帯なみになってしまった」などとまことしやかに叫んでい た。それもこれも、排ガスによる地球温暖化が原因であり、だから自動車もクリーンな三つ☆にしなさいという言葉に多くの国民が納得していた。我が家も口車
に乗せられて、エコカーに乗り換えた。
まっ、空気がそれによって幾分なりとも綺麗になるのだから、それは許してもよい。
しかし、今年のこの「冷たい夏」を、環境汚染の見地から上手に説明している人をまだ見たことがない。こんな調子では、例の環境汚染に関する京都議定書に
米国が参加しない云々の問題も、吹き飛んでしまいそうだ。
まずは自分の家から出される可燃ゴミの袋の大きさを思い浮かべて欲しい。三十年も遡れば、どこの家もあんなにゴミは出していなかった。もちろん今だっ て、ゴミの減量化を心掛けている人はいる。ささやかながら、私も協力しているつもりだが、何しろ、豚肉1パック買っただけでトレイとラップが付いてきて、
おまけに値札のシールがべっとりとついている。これでは努力するにも限界がある。
それはさておき、今年の夏は昨年までの酷暑・猛暑とは別の意味で、厳しい。
宮沢賢治が今の時代に生きていれば、やはり「おろおろ歩く」に違いない。
自然の力はあくまでも大きく、侮ることは出来ない。いよいよ農作物に病気が出ているという話が出始めた。それだけでなく、例年のように暑い夏が来ると想
定して、生産計画を立てた企業の多くが、青息吐息になっている。
どうにか危機を脱したと見えた日本経済だが、この冷たい夏のために再び水面下に沈んでしまうかもしれない。秋口に「おろおろ歩く」失業者がどっと増えて
いなければ良いのだが……。真夏に背筋がぞっとするような話である。
☆閑話休題★ 7月号(2003.07.01) 痛みの押しつけ
春からこっち、国民への「痛みの押し付け」が目立ってきた。
総報酬制という煙幕をはられたおかげで、社会保険料は一月あたりの金額では値下げされたと錯覚している方が多いかもしれない。しかし、介護保険料率の値
上げもあって、年間の負担額は確実に増えたのである。
かたや厚生年金と国民年金の受給額は、6月度の支給分から減らされた。月額にして2,500円程度が上限というが、年金を唯一の収入源にしている人達に
とっては結構きつい。
「デフレでモノの値段が下がっているのだから仕方ないだろう」というのが、国の言い分らしい。年金受給者の非課税限度枠も縮小される予定で、高齢者には
踏んだり蹴ったりの時代がやってきた。厚生労働省は、本音では老人は不要と考えているのではあるまいか。
一方、雇用保険はというと、2年連続で支給日数を減らしている。幸運にも失業した経験のない方は、想像がつかないだろうが、給料だけを収入源に生活設計
しているサラリーマンが失業すれば、大抵の場合、一月足らずで生活に無理が生じ始める。
サラリーマンでなくなっても、日本国民であることに変わりはない。
国には国民の生活を守る義務がある。「次の仕事が見つかるまでの生活費は、国が胴元の失業保険から出しますから心配しないで」というのが、雇用保険の本
来の主旨だ。
それが、失業者が増えたので、支払う期間を縮めますというのでは、本末転倒である。
こうした改悪を見ていると、どうやら日本は、弱肉強食の社会へと突き進んでいるらしい。リストラ競争を勝ち抜いたサラリーマンだけが人間で、それ以外の
者は人間という権利を放棄せざるを得ないようだ。
竹中平蔵大臣を初めとする首相ブレーンは市場原理信奉者で、自由競争を勝ち抜いた者が莫大な富を築ける国家こそ、理想社会だと公言している。一握りの富
豪が周りに、富をこぼしてくれると言うのだ。しかし、本当にそれが望ましい社会なのか。
昔の人は、世の中の有為転変をさして、「禍福はあざなえる縄のごとし」などといった。ほんの十五年ほど前までは、手痛い失敗をしても、気長に待てばそれ
なりの運が向いてきたものだ。ところが、これからはそんな悠長な事は言っていられない。
マラソン競争を思い浮かべて欲しい。「マラソンは人生の縮図だ」などという人がいるが、それは社会の縮図でもある。マラソン競技においては、何人選手が
参加しようが、「勝つ」のは、たった一人である。後の選手はすべて負けである。
トップになれなかった人間だって、相当に努力してきたはずなのに、負けてしまえばただの人である。
実社会では負ければ即、釜の蓋があかなくなる。それが自由競争の実態なのだ。
我々はこんな社会を実現するために、「痛みに耐え」続けなければならないのだろうか。
「パナウェーブ研究所」と名乗る白装束の集団が、世間を騒がせている。
ひとたび仮住まいの場所と決めると、あたり構わず白い布で覆うというのだから、始末におえない。彼らの移動手段であるワゴン車には、窓という窓に自前の
ステッカーがペタペタと貼ってあり、それが道路交通法に違反するとのことで、警察も重い腰を上げた。
この集団がいわゆるカルト教団なのかどうか。こちらは新聞記事を読むだけだから、判断がつかない。ただし、国際的な組織ではなさそうな気がする。あの 「貼り紙」発想は、どう見ても日本的である。
真っ先に連想したのは、「牡丹灯篭」である。
夜な夜な牡丹灯篭を下げて通ってくる幽霊との密会を楽しんでいた若い男の生気が抜かれていくという、ご存知の話である。(残念ながら近頃物忘れがひど く、主人公の名前は失念してしまったのであしからず)
幽霊の進入を防ぐために、使用人夫婦は家の戸口から窓にまで魔除けの札を貼り、このあたりから、話は佳境に入る。怪談話の典型のようなストーリーで、似
たような話は他にもある。耳なし芳一では、亡霊に連れて行かれないように、全身にお経を書き込んだ。
だが、この手の事はいずれも成功しない。画龍点睛を欠くということなのだろうが、そもそもどの程度の細かさで、それを貼ったり、書いたりすれば良いのか
その「基準」がはっきりしない。ISOなどというものが出来る、はるか以前の話である。
要するに人のやることは、一見完璧に見えても、どこかに盲点が生ずるものだという戒めなのだろう。敵はそこをついてくるわけで、人の浅知恵はもろくも崩
れるということになる。
「パナ研」の人たちにとって、白布の外は悪霊が跋扈する魔界と見えるのかも知れない。
銀行への再度の資本注入に、有事関連法案の成立、個人情報保護法案もいつの間にか成立してしまい、それにこの度地震が加わった。たしかに今の日本の有様
は、地獄絵図そのままというのは、ある程度理解できる。
だが、「パナ研」の守り札であるステッカーをはがせと命じた警察は赤鬼で、マスコミは青鬼というわけではあるまい。
彼らが完璧主義の集団だとしても、どこかに必ず貼り忘れはある。そこから外界の空気は確実に進入して行く。外に住んでいるのは、悪魔でも妖怪でもなく、
我々普通の人である。
と、ここまで考えて考えてきて、朝鮮半島に同じような国があるじゃないかと気がついた。
好むと好まざるとにかかわらず、同じ星に生れてしまった以上、、他人を無視して暮らしていくことは出来ない。虫酸の走る人と一緒の空気を吸っていること
自体、耐えられないという人もいるとは思う。といって、新型肺炎のように大きなマスクをかけて一生生きていけるはずもない。
過去と他人は変えられない。変えられるのは、自分と未来だけなのだから、白い布で目隠ししている場合ではないのだ。目を離していれば、日本はもっと暮ら
しにくい国になっていってしまう。「パナ研」の人達だけではなく、国民一人一人が、白い布を剥ぎ取って真実を見るようにしなければいけない。
イラク戦争の真っ只中に、日本では統一地方選の前半戦が行われた。マスコミは、知事については世代交代が目立ったと総括していた。たしかに、年齢 を平均すると若返ったのは事実のようだ。
が、当選者の顔ぶれを見ると、若手の過半数は官僚出身者である。
頭脳明晰のサラブレッドを、中央政界が一本釣りし、大物政治家を応援に送り込めば、地元の知名度などなくても大丈夫らしい。弱体化したといっても、巨大
政党の組織力は侮りがたい。
それでも、業者との癒着が取りざたされなかった分だけ良かった、とも言える。が、今後は地方の政治家を目指すにも、東大を出て、キャリア試験を通らなけ
ればいけない時代になりそうだ。
もっとも、統一地方選挙後半の地方議会に立候補する候補者となると、こちらは多士済々である。ただし、どぶ板選挙に徹する人は少なくなった。
効率的な選挙戦を行っているのは、いわゆる企業内候補者である。大手企業の労組が候補者を選び出し、会社側もそれに乗るといった構図だ。支持基盤として
これほど強固なものはない。
従業員には、候補者が打ち出した政策など吟味するヒマはない。ひたすら票の掘り起こしを強要される。何しろ不況だから、「整理」という言葉が頭をかす め、どうしても票を入れざるをえなくなる。結果、組織内議員はどこでも大勝している。
さて、民主主義の根幹に多数決が埋め込まれているのは、周知の事実だ。少数意見も大切にとはいうけれど、得票数の多いものから「当選」が決っていくので
ある。
労組の幹部に問えば、「自社利益のためだけに、議員を出しているのではない」と弁明するだろうが、議員にふさわしい人が、必ず組合員であるとは限るま い。担ぎ出された候補者は、選挙活動の資金を会社と組合で賄ってもらい。悠々と当選してしまう。
同じ選挙区に、もっと議員にふさわしい新人がいたとしても、よほど潤沢な自己資金でも持っていないかぎり、陽の目を見ることはない。
結局、新人は看板のある二世議員か、組合の担いだサラリーマン議員だけということになってしまう。そうした議員が、天下り知事と共に、「地方自治」を牛
耳っているというのが、現実なのだ。
これが民主主義の限界と悟り、あきらめるというならそれでよい。不勉強のそしりをまぬがれないが、それで良いのか私にはわからない。
民主主義の帝国である米国が、国連の決議なしに横暴としか見えない手法で、イラク戦争に向かっていったことを考えると、民主主義=理想主義と捉えてはい
けない時期に、到達したような気がする。
怖いのは、喉元過ぎればすべてを忘れてしまう、サガのような気がしてならない。
ソンシと聞くと、今頃オウム真理教の話かと早合点されるかもしれない。残念ながら今回取り上げたいのは、「孫子」という中国の兵法書のことであ る。
「孫子」の著者については様々な説がある。もっとも古いのは、孔子とほぼ同時代の孫武で、この人は兵法指南として呉王に仕え、西の強国楚を破り、北の斉
や晋を脅かした。有力な説は、孫武から約百年後の兵法家、孫ぴん(漢字だと月ヘンに賓と書く)ということになっているが、いずれにせよ、二千数百年前に書 かれた本ということになる。
兵法書はこんなふうに始まる。
兵者国之大事、死生之道。不可不察也。
「戦争は国家の重大事で、国民の生死、国家の存亡がかかっている。したがって慎重な検討を加える必要がある」というのだ。
ここだけ読んでも、今の時代にぴったりの本だということがわかる。
孫子は「道、天、地、将、法」の5つの検討をしろと続けている。
道者令民与上同意也。故可与之死、可与之生、而不畏危也。
「道とは民と為政者の意志とを一致させるものである。それでこそ、民はいかなる危険も恐れず、君主と生死を共にするのだ」
さて、現在我々が直面しているのはイラク問題である。
米国にしても英国にしても、為政者と民との意見が一致していないのが心配の種だ。孫子によれば、こういう状態で戦争を始めてはいけないということにな る。必ず負けるからだ。
兵法書から「非戦」を導き出すというのも大いなる皮肉だが、民主主義という考え方がない時代に、こういうことを教えていた先人がいたのである。
自らの政治体制や宗教・思想を理想的だと信じて、それにこだわれば、どうしてもいさかいが起こる。民と意志を合わせることに腐心する政治家が、この日本
にも早く現れて欲しい。
「知識は貯えるもの」、「知恵はひねり出すもの」と物の本にある。いわば貯蓄と出費の関係で、ベクトルの方向は正反対となる。
入学試験というのは、貯えられた知識の正確さと量とを調べるものといって良いだろう。近頃では、知恵の出し具合も見ようと、さまざまな試行錯誤が繰り返
されているが、うまくいっているというケースは少ないのではないか。
しかるに知識豊富な若者がハイレベルの学校に進学を果たし、公務員試験に見事及第して官僚になったり、一流銀行に就職したりしている。
さて、知識とは先人が築いた歴史に他ならない。一冊の百科事典を丸暗記できたとしても、それを現実問題に応用適用させる知恵がなければ、宝の持ち腐れと
なる。知恵を出せない者は、博学ではあっても、過去の事例に惑わされて右往左往するばかりだ。これを「前例主義の悪弊」と呼ぶことにする。
一方、前例のないことを実行するには、相当のリスクを覚悟しなければならない。金銭的な損失も馬鹿にならないし、築き上げてきた地位や名声を失うこと だってある。
なまじ浅知恵などを出したがゆえに、こういうひどい目にあうわけで、「選良」と呼ばれる利口な人たちが知恵を出したがらないのは、ある意味で当然かもし
れない。
以上書いたことは、単なる屁理屈である。風が吹けば桶屋がもうかる的に、筆者がつれづれに考えをつないだだけのものだが、昨今の社会の昏迷は、案外こん
なところに端を発しているのではなかろうか。
政府が発行した個人向け国債は、クローズド期間明けに解約を申し込むと、その時点からさかのぼって過去2回の金利を「手数料」として、国に召し上げられ
るらしい。また、某銀行は両替する客からも、手数料をとることにしたという。
国や銀行の担当者は、みずからの収益を確保するのに躍起で、こうした妙案に酔いしれているようだが、こういう知恵で満足されたのではたまらない。
ことによると知恵というのは、文科系統の頭脳には、もともと備わっていないのではあるまいか。NHK「プロジェクトX」を見るまでもなく、日本の理系・ 技術・技能系の人たちの知恵の出し方は、なかなかのものなのだ。
いっそのこと官僚や銀行幹部の半数を技術・技能系の人に入れ替えたらどうだろう。
これは文科系出身者である私の半生を振り返った本音でもある。
約束を破った、破らないで、世界が揺れている。
イラクと北朝鮮の査察問題である。イラクの場合、提出された資料の信憑性がないと米国が拳を振り上げ、北朝鮮のほうは米国のほうこそ約束を破ったのだ と、NPT(核拡散防止条約)から離脱してしまった。
個人の場合でも、約束を破れば争いとなる。昨今の不良債権問題も、返済の約束を守らない(守れない)ことが基になっている。もちろん約束は守るべきで、
守れない約束は結ぶべきではない。けれども、そう杓子定規にいかないのも世の中というものだ。
江戸時代後期、諸大名、旗本、御家人は、おしなべて借金苦に襲われていた。幕府が彼らを米本位制度の下に縛り付けていたからなのだが、名家になればなる
ほど体面を繕うために、札差しから借金をした。その金額は藩の財政の数十年分というところまで出てきた。
こんなものは返せるはずがない。そのため、幕府は何度か徳政令をだしている。「武士の借金は棒引きにせよ」というもので、今風に言えば、金融機関に債権
放棄をしろと命じたことになる。だが、約束破りのツケは大きく、幕藩体制の崩壊もこのあたりに端を発するという見方も出来る。
作家の童門冬二氏は、江戸時代の藩を現代の会社に置き換えて、様々な提言をしているが、巨大赤字をこしらえた大企業はかつての藩そっくりで、銀行に債権
放棄を迫るのは、まさに徳政令の強要である。歴史を正確になぞれば、貧富の広がりで国が崩壊というシナリオになる。
戦争・戦乱の根っこには、かならずと言って良いほど、容認できないほどの貧富の差が横たわっている。国際問題も国内問題も、そのあたりから考え直したほ
うが良い。経済は運任せ、風任せで上下しているわけではない。不完全ながらも舵取りしてきたのは政治である。
約束を破った破らないということばかりに目がいっていると、世界は不況を強制的にリセットするため、世界戦争に突き進んでしまうおそれがある。
このところ様々な格安店が現れて、びっくりしている。つい先日ごく近くにオープンした床屋は、なんと1000円ポッキリが売りである。日頃から髪 の量が違っても同一料金ということに疑問を抱いていたので、さっそく行ってみた。
さすがに店はプレハブの安普請である。しかし意外にも店員(理容業では技術者というらしい)は、4人もいる。日本において、もっとも高いコストは人件費
のはずで、これで経営は大丈夫なのかと気になったが、その疑問はすぐに氷解した。
何しろ、一人10分で調髪が終わってしまう。顔剃りもなければ、洗髪もしない。カットが終わると、掃除機の親玉のようなもので、切り散らかした毛を吸い
取ってくれる。なにか床か家具にでもされたようで閉口するが、出来映えは普通の散髪屋となんら変わらない。要するに1000円床屋は、かつて日本の製造業 が得意だった「合理化による大量生産方式」で成り立っているわけだ。
さて、2003年の春闘が暮れからずっと話題になっている。経済団体のトップが「賃下げの水準闘争」とまで断言しているのだから、隔世の感が強い。企業
側の論理は、「猛追してくる中国やアジア諸国」並に人件費を下げなければ競争に勝てないということになる。
ここで思い返して欲しい。ちょっと前までは、21世紀は「高付加価値の時代」と言っていた。日本人は大量生産の安物などには満足しなくなり、付加価値さ
えつければ、高くてもどんどん売れるというようなことを専門家は声高に主張していた。ところが、蓋を開けてみれば、まったくの世迷い言だった。経営トップ がもう一度低価格路線で、中国などと一戦交えると宣言しているのだから、これは間違いない。
賃金を下げられた労働者は、そのまま消費者でもある。消費者の財布の紐を締めさせて、なおかつ買いたいと思わせるには、相当な企業努力が必要である。こ
のあたりは「卵が先が鶏が先か」と似たようなもので、永遠の課題というしかない。
それにつけても、物価が下がったのだから年金の支給額も引き下げましょうと、あっさり国会が認めてしまったのには腹が立つ。1000円の床屋が出来て も、今まで通りの店も存在している。平均すれば下がっているのだからと年金額を下げてしまっては、高齢者の消費意欲はますます冷えてしまうだろう。本来は
厚生労働省が年金を引き下げなくても良いように「経営努力」をしなければならないように思うのだが、どうだろう。
自治体による無料紹介事業が解禁になる見通しである。とうとう政府も不況は深刻なのだと認めた模様で、「雇用のセーフティネット」構築のために は、「地域の実情に詳しい自治体への分権が適当」と判断したのだという。
だが、いかにももっともらしい理由でごまかされてはならない。これまで国は「二重行政は無駄だ」といって、職業紹介事業を職安(ハローワーク)に独占さ
せて来たのだ。その結果、全国を専用回線で結ぶという、膨大な投資を行ってきた。IT機器の大量購入は当然のこととして、全国の職安が軒並み建て替えられ ている。
今回の方針転換でそれがすべてどぶに捨てられるということではないが、金をかけたわりには、成果があがらなかったというのは事実だ。間違っても、「職安
を新しくすることで、景気を多少は上向かせた」などとは言わないで欲しい。総括はしっかりとして貰わねば困る。
ひと昔の職安は、国家の出先機関であるが、「地方事務官」という形で都道府県知事の指揮下に入っていた。それを廃止したのは99年のことで、いまや「地
方事務官」という名称すらない。これをまた元に戻そうというのだから、朝令暮改の誹りをまぬかれまい。
さて話はがらりと変わるが、日本のアシナガバチは漆を舐めに来るという。それは大きな巣を軒先などにぶら下げるための接着剤として、是非とも必要だから
だそうで、小さな昆虫の知恵には驚かされる。
漆があるから日本の蜂たちは巨大な巣を作れ、集団生活が営めるらしい。その証拠にアフリカなどには漆が自生していないため、巣は小さな房状のものしかな
い。要するに共同体の形成がきわめて難しくなる。その漆は東アジアの湿潤な風土によって、はぐくまれる。
別に蜂を見習えというつもりはないが、雇用形態も地域の特徴に合わせるというのが自然であろう。「日本的経営」という言葉が一時もてはやされたが、群馬
的経営もあれば、北海道的経営だってあっていい。全国一律を金科玉条とする官僚的な発想は、地方を鋳型にはめるだけだ。それとも、彼らは天下り先の確保の ためだけに、職安の独占を標榜してきたのだろうか。このままでは、住まいも失った失業者が、立派な職安の廊下で生活するようになってしまう。
脳萎縮の若年化が問題になっているという。一般に脳が萎縮する原因は加齢に伴うものとされていて、頭蓋骨と脳味噌の間にすき間が出来てしまうと、 ボケ症状が現れると言われている。そんな症状が二十代の女性に多く見られるようになったというのだから恐ろしい。といっても、狂牛病のように感染うんぬん
の話ではない。
原因はどうやら過度のダイエットらしい。脳だって体の一部だから、体が痩せればそれ相当に痩せるのである。説明されれば、なーんだということになる。
当人が希望した部位だけがどんどん細くなっていくというようなことは、現実には起こらない。理想的な体型を夢見て、彼女らは頭の働きを弱くしてしまって
いるのだ。
さて、生身の人間を無理矢理にスリムにすることをダイエットと呼ぶが、法人の場合はこれを「リストラ」と通称する。今は、どこの企業も生き残りをかけ て、文字通り血の滲むようなリストラを行っている。企業を存続させるためには、削れる物は何でも削れというのが、トップの心境であろう。余剰経費などは、
とうの昔に削ぎ落とされているから、どうしても矛先は人減らしに向かう。職種などにもタブーはなくなったようだ。
このところ職業安定所にいってみると、研究開発部門の仕事を捜している人が目に付くようになった。企業の中で、特殊な研究に携わっていた専門家にとっ て、再就職の道は険しい。ノーベル賞をいただいた御仁だって、一つ間違えればリストラされていたかもしれない。会社をクビになれば、結局これまでの知識や
経験はすべて無駄になる。これはもとより当人にとっては残念なかぎりだが、よくよく考えてみると、一番損をしたのは、彼らを辞めさせた企業の方ではあるま いか。
リストラのしすぎで、多くの企業が「脳萎縮」を起こしている。この現実に日本全体が気づくのは、はたしていつのことだろう。
「○○大学出身の者ですが、先生はご在宅でしょうか」
こんな出だしで始まる電話が増えている。内容は各種の先物取引の勧誘だったり、賃貸マンションへの投資話だったり、外国債券を買いませんかとの誘いだっ
たりと色々である。ただし、どれも一千万円近い金が必要で、どだい筆者のところに電話をかけてくること自体、ピンボケなのだが、相手もなりふり構わぬ状況 に立ち至っているのかもしれない。
それにしても、昨年はあれほどかかってきた「エアコンクリーニングをしませんか」とか「屋根のふき替えがわずかな料金で」といった電話セールスはめっき
り減った。長引く不況で、手間稼ぎの小商いではやっていけなくなったということだろうか。
巷間言われていることだが、詐欺というのは荒唐無稽で途方もない話ほどダマしやすいという。最近も映画スター気取りの大神某という男がそれを証明してみ
せ、石原慎太郎の親族を名乗る女性が多額の金を集めたりした。それもこれも、背景には昨今の異常低金利と社会保険料をはじめとする各種自己負担増がある。 資産の目減りを自己防衛するために、「高額配当」の甘い言葉に誘われてしまうわけだ。そういう意味では、国家は一連の詐欺事件に多少なりとも加担して来た
と言えなくもない。
ところであなたが、銀行や証券会社に勧められるままに、投資信託とか変額生命保険などを購入したとしよう。この手の販売は国が許可していて、もちろん合
法なのだが、元本は保証されていない。会社というのは、窓口では「お客様のため」と笑みを浮かべても、まずは「自社の利益を最優先」しているわけで、売っ て損をするような商品は、市場には存在しない。経済が停滞している時期は、金融商品の多くは目減りしていくわけで、買った人が馬鹿を見る確率は高い。
要するに、売った方が利益を得て、買った方が損をする。この構図は「国の認可をしているのだから大丈夫」といった幻想のもとに行われている。これも一種
の「詐欺」という気がしないでもない。
9月17日の日朝会談を例に引くまでもないが、国家というのは根元的に自国民に夢を見続けさせていかねば成り立たない。それがつつがなく全う出来ている
うちは良いのだが、実際には難しいことのほうが多い。日本も米国もバラ色の夢が語られなくなって久しい。国内に夢がなくなれば、目は自然に外に向けられ る。少なくとも米国はそうしている。歴史は繰り返すと言うが、生きにくい時代になったものである。
子供の頃から演芸好きで、若い頃は落語や漫才などが地方興行にやって来ると、かなり熱心に出かけていた。昨今はめっきり出無精になり、演芸鑑賞は もっぱら放送番組にたよっている。が、それでも寄席の雰囲気はそれなりに味わっている。
寄席興行の彩りに欠かせないものといえば、漫才と声帯模写(ものまね)となるが、太神楽を含めた奇術というのも、なかなか捨てがたい。昨今は奇術・手妻
(てづま)などという呼び方はせず、マジシャン・超魔術師などと銘打っている人も多いが、高座の手品というのは、とぼけた味のほうが好ましい。そうした キャラクターを引継ぎ、いまだに人気がある芸人といえば、マギー司郎さんあたりではあるまいか。その師の芸を久しぶりにテレビで観た。
師の得意ネタの一つに、縦縞のハンカチをアッという間に横縞のハンカチに変えるというのがある。ハンカチの角を持って、90度回すだけの芸なのだが、木
訥とした話芸で充分に会場を沸かせる。マジックというのは、すべて仕込んだタネ頼みで、本当にものが変わったり消えたりすることはないのだが、この芸には ネタがない。それでも支持されているのは、師のしゃべくりによるところが大きい。
と、そこである人の行動が、マギー師に極似していることに気が付いた。ある人とは小泉純一郎氏である。氏は、我が国の首相になったときに「構造改革なく
して景気回復なし」と言い切った。我々はその言を信じたのである。しかし、どうにも手際が悪い。最近は国民の多くが、「景気回復なくして構造改革なし」と いう事だったのじゃないのと眉に唾をつけている。どうもこっちのほうが真実であるようだ。
結局「景気回復」とは逆行する年金額の引き下げや健保の自己負担増など国民に痛みを押しつける改革ばかりが先行して、構造改革は一向に進まない。同じよ
うにネタがバレバレでもマギー司郎氏の手際は良いのだが、小泉氏のほうはどうもいただけない。これでは、高支持率を維持し続けるのは不可能であろう。
国民が中央の政治や行政官庁に求めているのは、住みやすい社会のネタづくりである。ネタのない手品を、これ見よがしに繰り返しやられたのでは、誰も相手
にしなくなる。
「朱に交われば赤くなる」という諺がある。例えば東京生まれで標準語を日常語としていた人が、転勤などで東北に長年住んでいると、自然と東北弁に 染まってしまったりする。要するに周囲の環境に同化しようと、方言を無理に使っているうちに、それが習慣化して身に付いてしまうということだろう。筆者な
どは、子供の頃、山下清画伯の映画を見て、その独特の吃音のある話し方を真似て、母親に大層叱られた思い出がある。しかし、これはなにも言葉遣いだけに 限った事ではない。
近頃はあまり耳にしなくなったが、少し前までは「○○時間」という表現があった。会議などのために集合をかけても、メンバー全員が顔を揃えるのは五分過
ぎ、一〇分過ぎというのが普通で、これを称して「○○時間」などと言っていた。多分に自嘲が混ざっていたが、これも上記の例と同根のものであろう。日頃は 時間に几帳面な人でも、会社の中ではこの時間にあわせてしまうわけだ。そうしないと、鼻持ちならない人間と見られかねない。
聖徳太子の言葉をわざわざ持ち出すこともないのだが、日本は「和」を持って尊しという国である。人との調和を乱す者は悪人とされる。実際、雪印の牛肉偽
装事件にしても、最初は「あの人が個人の判断でやった」と、一人だけが悪者にされた。「悪いこと」をしたというのは、「調和を乱した」ことにほかならない から、「和」から追放されたのである。
その後で世間を騒がせた自衛隊の情報公開問題も、「あの幹部が個人的に作っていたリストが誤って漏れたもの」などと説明されていた。
朱に交われば、構成員全員は同色のはずなのだが、「その色はおかしい」と外から指摘されると、慌ててあいつのせいだということになる。名指しされた人達
は、完全には朱に染まっていなかったということかもしれない。
どうやら日本社会にはこの手の内向きの組織ばかりが、ぬか漬けのようにぎっしりと詰まっているようだ。これが色に染まり損ねた人間のひがみであるのなら
良いのだが……。
6月はFIFAワールドカップの話題で、日本中が持ちきりだった。決勝トーナメントに駒を進めたというのは、客観的に見て、大金星といえよう。
さて、ワールドカップサッカーは、4年に一回開催されているわけだが、我が国での関心が高まってきたのは、前回の大会くらいからではあるまいか。それ以
前はマニアの間では話題になっていたのだろうが、オリンピックのほうがメジャーだった。主催国ということもあるが、少なくとも今年のように、報道各社あげ ての、盆と正月が一緒に来たようなお祭り騒ぎにはならなかった。
それにしても、対戦カードは週末だけに組まれているわけではないから、スタジアムに直接足を運ぶというのは、実際難しかった。加えて今回の場合は、 「?」が三つも四つもつく、チケット・空席問題があった。というわけで、各地のお祭り騒ぎの発信元はもっぱらテレビということになった。
もちろんラジオも中継していたのだが、にわかサッカーファンが、早口の専門用語で語られる放送で、「戦況」を理解するのは到底不可能であろう。
例によって、ここで話をがらりと変える。
生来へそ曲がりな私は、このテレビによる「戦況」報道に一喜一憂する姿というのが、時として本物の戦争のリハーサルのように思えて、薄ら寒い気がした。
ニュース画面の中では、各国の国民が自国の旗を振り回し、顔にまで国旗をペイントして、自国の戦勝を喜んでいる。勢い余った人々が、警官隊と衝突すると
いう姿も、いつのまにかありふれた映像になってしまった。これは、実際の戦争でも充分にありうる映像だった。
「祭り」は、もともと人々の心を開放するためのものだから、羽目を外す行為もある程度は許されようが、それが国粋主義の方向に収斂されていくとすれば、
恐怖である。
今国会での有事法案はどうやら廃案になりそうだが、イスラエル・パレスチナ、印・パの不穏な動きは今も続いている。
本物の戦争はスポーツゲームとは違う。それをサッカーと同列の「戦況」報道のように誤解させてしまうところに、テレビ時代の恐怖がある。画面に映し出さ
れる映像には、硝煙のにおいはない。
ワールドカップだって実際にプレーしていた選手たちは、汗くさく時には血なまぐさいにおいを嗅いでいたはずだ。画像の熱気だけに浮かされて、世界の平和
を「あとの祭り」にしてはいけないと思う。
☆閑話休題★ 次は攻撃的でないリーダーを 2002.06月号
改善提案、小集団活動、KYT(危険予知)、QC、TQC、PDCAサイクル、TPMにISO、それに目標管理に能力主義人事。ちょっと思い浮か べただけでも、企業経営というのは、実に様々な「活動」を信奉してきた。
それぞれの運動は、無論なるほどと納得せざるをえない背景・理論を背負っている。これらを最初に導入した会社は、確かに先見の明があったといえよう。
成功の噂というのは、どうしたって波及力が強い。またたくまにブームを引き起こし、競合会社に遅れをとってはならじという心理が働き、世を挙げての○○
運動の推進ということになる。
最後は、昨今のISOのように、「この認証を受けていない会社とは今後取り引きは致しません」と恫喝まがいに使われる始末。その功罪は別として、そう やって今の日本の産業界は作られてきた。
しかし、企業活動が集団同士の闘争である以上、効率の良い管理ノウハウが相手に伝播してしまえば、また別の「活動」に手を染めざるをえなくなる。という
わけで、現在の日本においては、貪欲に情報を取り入れる、気が短くて攻撃的な人格でなければ、集団のトップはつとまらないということになっている。
言うまでもないことだが、攻撃的な人間には唯我独尊の傾向がある。要するに、こういう人間は周りの忠告などほとんど耳を貸さない。その上、一旦気に入っ
てしまうと、「信仰」に近いレベルにまでのめり込んでいく。まさに「亭主の好きな赤烏帽子」である。そんなのめり込みが、バブル経済を生みだし、現在の惨 状を作りだした。
さて、経営手法というのは、一つ一つを手にとってみてみれば、実に立派なものである。しかし、それが一旦競争の道具として用いられれば、高邁な理想は忘
れ去られる。日本人はこのあたりで、「攻撃的でない」リーダーを選ぶ英断をしなければ、本当の豊かさには到達できそうもない。
社内規程の添削を頼まれると、時として「『てにをは』のまずいところは無視して下さい」などと付け加えられることがある。「て・に・を・は」と は、言うまでもなく、「○○を××する」などと言う場合の助詞である。要するに依頼主は、「乱筆乱文はご容赦下さい」といったニュアンスでこう言っている
らしい。
規程の表現は無味無臭なものが多いので、現実の作業では『てにをは』はそれほど問題にされないことが多い。『てにをは』の違いが、大きく作用するのは、
物事を決定する際ではなかろうか。
「○○をしたい」と「××もしたい」とを比べてみると、優先順位は○○の方が高いのである。
物事に迷ったときにこれを応用してみると、案外素直に自分の本心をとらえ直すことが出来る。迷っている事柄の下に、「を」を付けるか「も」を付けるか で、軽重を見分けることが可能だからである。
ところで、4月1日から「ペイオフ」が導入された。政府関係者は銀行の健全化「を」したいと切望していたわけで、その過程の中でペイオフ「も」実施する
と言っていたはずだ。それがいつの間にか、ペイオフだけがクローズアップされてしまい、優先順位が変わってしまった。これで、すべてが丸く収まったのなら 何も言うことはない。しかし「みずほ銀行」などは、合併をすればサービスも自動的に向上すると考えていたらしい。日本一の銀行という看板も、なにやら羊頭
狗肉の感さえある。
初春から今の時期まで、国会で議員同士のスキャンダルあばきが続いている間に、我々の生活はどんどん劣化してしまった。全ての物事に、きちんと句読点を
打たなければいけない時代を迎えているのに嘆かわしいことである。
3月のマスコミは「ムネオ問題」に乗っ取られたといっても良い状態だった。
そのあとに、加藤元幹事長問題や、辻元清美議員の問題が浮上した。だが、やはりインパクトとしては、ムネオ問題が一番だったと思う。
なにしろ外国の要人までが、マスコミの騒ぎ方を見て、「日本には悪魔よりも嫌われているムネオという人がいる」とまで言い出す始末である。渦中の辻元氏
に「疑惑の百貨店」などと評されたくらいだから、報道する側も力が入ったのだろう。
鈴木氏はことあるごとに、「私の(政治)手法が誤解を招いたのかもしれない」という表現で自分を正当化してきた。しかしその言葉の裏には、「熱意は認め
るべきだろう」という押しつけがましさが残った。問題にされた「手法」というのは、頭ごなしの暴言と暴力的な態度である。この手法で、官僚の多くがねじ伏 せられてきたという。
最近では、「ムネオを切っても、ムネオ的なものは残る」という見方が台頭してきている。しかし、次々にムネオ的な人を血祭りに上げていけば、問題は解決
するのだろうか。
これは子供のイジメ問題と似てはいまいか。
鈴木氏をいじめっ子とすれば、官僚は良い子である。校長にあたる事務次官は、当然のごとくイジメがあった事実を認めようとはしない。とどのつまり問題児
は腐ったミカンで、それをまず排除し、虐められたほうも悪いところがあったということで、喧嘩両成敗ということにしようとする。政治も学校も構図は同じ だ。
ところで、昨今の報道機関の論調をみると、「政府の経済政策が失敗して不況になった」とか「農水省の無策のつけでBSEが拡がった」といった「他者悪人
説」が目に付く。このようにひどい状況に至ったのは、あいつがいたからだという論法で、これは「腐ったミカン」と発想は同じである。そう単純に割り切って 良いものかどうか。
周りを見回せば、政治家でなくとも「ムネオ」的な生き方をしている一般人は結構いるし、胸に手をあてれば、誰でも少しはそんな面を持っているはずだ。そ
れでも社会の秩序がどうやら守られてきたのは、一人一人が心の中に「自省」の念を持っていたからだろう。「反省」は物事が済んでしまってから、後悔ととも に行うものだ。
生意気なことを言うようだが、最大の敵は自分の中にいると思う。我々は「ムネオ問題」をきっかけにして、矛先を自分の内面に向けてみる癖をつけるべきか
もしれない。無宗教な日本だからこそ、内省する気持を忘れてはならないと思う。
酒をやめてからはもっぱらアイスクリームを嗜好品としているのだが、アイスの安売り店に行く途中に、水車のある家がある。こう書くと、なんと長閑 なところに住んでいるのだろうと思われるかもしれないが、水車があるのは交通量の激しい県道沿いで、なおかつ歩道に面している。とくに小川などのせせらぎ
があるわけではなく、どうやら趣味で直径2bはあろうかという水車を拵えたらしい。ご当主が器用な人だということは、歩道からかいま見える庭の懲りように もうかがえる。何しろ、シシオドシがあるのだ。
さて、近頃シシオドシが動いているところを見たのはいつだったろう。たしか、数年前に新田の某料亭でメシを食った時に見た。ご存じの通りシシオドシは、
斜めに切り落とした竹筒に水を溜めていき、その重さが一定以上になると、シーソーの原理でざっと水を流し、それが戻るときに、筒の尻が土台石に当たって、 コーンと音を奏でるというシロモノだ。シシオドシというのだから、昔は猪を追っ払うという、はっきりとした目的があったのだろう。
この竹筒の動きを見ていて、柄にもなく哲学的なことを考えた。チョロチョロとした水の流れは、我々の日々の暮らしそのものではないか。それがあるところ
まで行くと、バシャっと反転する。これを企業活動に置き換えてみると、チョロチョロは日々の作業の「改善」ということになろう。改善は究極まですすめる と、発想から変えなくてはいけない壁にぶつかる。これが「改革」で、まさにバシャっとそれまでに積み上げていたものがひっくり返される。政治の世界の「改
革」もそう言うことだろうから、痛みを伴うわけだ。これも時の流れだと思えば致し方ない。しかし、バシャで止まればよいが、「転覆して」グシャという危険 はないのか。昨年から随分と多くの企業が、グシャっと潰れている。
シシオドシのバシャは、再び水を溜めるための動きである。しかし、グシャっと倒れてしまった竹筒は二度と水を溜められない。企業も国も、いよいよ「改 革」の正念場を迎えている。今年中に良い音は聞こえるのだろうか。
ご多分に漏れず筆者も成人病である。そのため月に一度の通院は欠かせない。そこで気付いたのだが、このところ医療機関の窓口での被保険者証の確認 が厳しくなっている。以前ならば、うっかり忘れてしまっても「次ぎに来るときには必ず持ってきて下さい」で放免された。が昨今は、結構きつい指導を受け
る。叱責されているのは、どうしても高齢者が多い。
70歳以上の親などと同居している方ならご存じだろうが、老人保健該当者の場合、医者にかかるには、被保険者証は「母体の保険証」と「老人保険証」の二
枚が必要となる。実はこれ以外に介護保険の被保険者証というのもある。これらはすべてほとんど同じデザインだから、患者にしてみればどちらか一方だけを 持っていれば良いだろうと思ってしまう。家族の誰かが、本体の保険証を持ち出している場合もある。それで「指導を受ける」はめになる。
健康保険の被保険者証をプラスチック製のクレジットカードのような形にして、一人一枚ずつ発行すると当局が発表してから、もうだいぶたつ。愛知県豊田市
では、いよいよ1月下旬からICカード化した健康保険被保険者証の利用実験が始まったと聞くが、私の住む町の周辺ではそんな話はまったく聞かない。
プラスチックカードの受注先をどこにするかで、斡旋収賄が行われてしまっては本末転倒なので、すぐに高機能カードにして欲しいなどとは言わない。せめて
老人保健の被保険者証ぐらいは、単体で利用できるように工夫できないものか。今のペーパー方式でも、余白に母体の被保険者番号を打ち出せば、それで済む。 なぜ、この程度の労力を惜しんで、金の掛かる「改革」を行うのか。
話は変わるが、間もなく確定申告の季節を迎える。パート勤めをしている奥さんなどの場合、扶養条件を睨みながら出勤日を調整するというのが、いまや常識
になっている。ところが税金の扶養条件と健康保険の扶養条件とでは、収入の上限額が微妙に違っている。こうなると主婦は低い基準にあわせるしかない。専業 主婦の厚生年金問題(第3号)ばかりがクローズアップされているが、まずはこうした微妙な不一致から揃えていってはどうだろう。
2002年度の医療制度改革大綱が大詰めに入ったとき、小泉首相の口から「三方一両損」で検討してくれ、という言葉が漏れた。大岡裁きで有名な古 典落語の出し物の題名が意外なところで使われた。これを耳で聞いただけで、「関係する三者が少しずつ痛みを分け合うことだ」と解釈している人が多いよう
だ。総理もそんなニュアンスで用いたらしい。しかし、この用法は厳密には正しくない。
どのマスコミもこの点について触れないので、落語ファンの一人としてあえて触れたい。この話は、大工の熊五郎が財布を落としたことに端を発し、正直者同
士の意地の張り合いが底流にある。不粋極まりないが、事実関係を正確にとらえるため、以下、落語「三方一両損」の奉行の口演から引用する。
「さて、両人の者にたずねるが、両人の正直により、あらためて二両ずつ褒美としてつかわそう。 どうじゃ、うけとれるか?」
―――ここで町役が間に入って、熊と金太それぞれに二両をいただくことを承知させる。
「これ、両人に褒美をつかわせ。さあ。両人とも受け取れ。よいか、このたびの調べは三方一両損と申すぞ。なに?わからん?わからんければ、越前言って聞か
せる。こりゃ、熊五郎、そのほう、金太郎がとどけし折り、そのままうけとりおかば三両ある。金太郎も、その折り、もらいおかば三両ある。越前もそのまま預 かりおかば三両ある。しかるに、これに一両足し、双方に二両ずつの褒美をつかわしたによって、いずれも一両ずつの損と相成った。これすなわち三方一両損
じゃ」
というわけで、もともと三両しか金はなかったわけで、それにお上が一両補助して、二両ずつ下げ渡して丸く収めたという話である。お上(国)は、取り分を
要求していないので、三者の痛みが等しかったわけではない。それで二人は納得したのだ。
医療制度改革を無理矢理、熊=医療機関、金太=国民、奉行=保険者(国)とあてはめてみれば、医療機関と国民とが、一両ずつの損で納得するためには、保
険者が内部合理化して一両捻出しなければならないのだ。今度の大綱では、見事にその点が抜け落ちている。医療制度改革に必要なのは、痛みの押しつけではな く、行政改革を断行しようというのメスである。
せめて正月くらいは、落語でも聞いて、呑気に暮らしたいが、どうやら2002年は落語でさえメモをとって聞かなければならぬ年になりそうである。
夜中に小用をもよおし、話題の獅子座流星群を見ることが出来た。横着をしてサッシも開けずに覗いただけだが、とりどりに落ちていく5つの光芒に出 会えた。冬場になると、空気中の水蒸気濃度が薄くなり、星の瞬きが増す。
それにしても、米国超高層ビル爆破テロ以来、我々の目は空にばかり向けられている。イスラム暦のラマダンは、新月直後のわずかな月光から始まると聞け ば、どうしても空を見上げて、彼の国の人達の苦難に思いをはせてしまう。米国は報復と称して、アフガニスタンの国土に流星ならぬ流弾を、雨や霰のようにま
き散らした。だが、「ホシ」であるウサマ・ビンラディン氏の所在は、杳としてわからない。天空の星は身を隠さずに輝き続けているが、地に落ちた星は、砂塵 の下で不気味になりを潜めている。
ところで我が国で地上の「星とり」と言えば、昔から相撲のことと相場が決まっている。勝てば「白星」、負ければ「黒星」、白星をとり続ければ地位が上が
る。この仕組みはなんのことはない、軍隊の仕組みとそっくりだ。白星は倒した敵の数ということになろう。ゆえに幹部達の責任の重さは、恨まれる量に比例し ていると言える。政治家の生き様を見ていると、そのあたりは頷ける。
その一方で、「星の数ほど男(女)がいても〜」といった言い方もある。選択肢が多すぎると目移りがして、物事は決まらないものだ。ほんの一時でも、「彼
(彼女)は、私にとって太陽でした」と思えた相手なら、良しとすべきか。しかし、相手が人間でなくて会社の場合はどうなる。私の太陽と思って就職した会社 から、寒風の中に放り出される人が増えた。とにもかくにも、初冬の空を見上げて、星に願いを託さなければならないことは多い。
米国の同時多発テロを気に、世界は一気に戦時色が濃くなっている。軍隊(自衛隊)を動かせば、どう言いくるめても、国際的には参戦したことにな る。こうなったら、一日でも早く戦争が終結することを祈るだけだ。そのためには「戦局」の分析が重要である。これは企業間の競争(経済戦争)でも基本的に
は変わらない。さて、日本の外務省の情報収集力は大丈夫なのだろうか?我々が顔を覚えたヒゲの外務官僚殿などは氷山の一角であろうから、実際には心配は杞 憂だと思う。いやそうあって欲しい。
ここで話は突然飛ぶが、我が国には戦国以来の「らっぱ」の伝統がある。「らっぱ」とは、ひらたく言えば「忍者」のことである。忍者は現代風に言えば「ス
パイ」ということになる。彼らの情報収集力なくして、秀吉も家康も天下取りはできなかった。
昔の映画や芝居の中では、忍者と言えば巻物を口にくわえて、ドロンドロンと煙をわきたたせて消えたりする者とされているが、実際にはそんな超魔術はな かったらしい。「水蜘蛛」といって、ハスの葉のようなものを履いて水面を歩くといった道具が実在したらしいが、実際にはほとんど使われなかったようだ。水
面歩行は無理だとしても、日々の鍛錬により、ある程度は不可能と思えることを可能にしていたのだろう。
そう言われてみると、つい最近、ベルリンマラソンの高橋尚子選手の走りでそれを実感させられた。彼女いわく「毎日毎日練習していれば、大会当日になって
同じように出来ないということは滅多にありません」とのこと。「練習の賜物」という通俗的な言い方では済まされない日々の積み重ねがあったのだと思う。さ て、我々はどれほどの覚悟をもって、毎日を生きているだろう。スポーツの秋も深まった。国の情報収集力不足を嘆く前に、自らの体を鍛え直したい。
☆閑話休題★ 燈台下暗し 2001.10月号
医療保険の改訂(改悪)が盛んに議論されている。いずれも「国民医療費の伸び」を押さえるため、というのが大義名分らしい。いわく、老人保健適用の75
歳繰下げ、健康保険の自己負担率は2割から3割へといったものである。負担を大きくすれば、たまらず病院に行く回数が減るだろうという貧しい発想が、かい ま見える。
もうだいぶ前から厚生労働省(当時は厚生省)は、「超高齢化」が進んで、年金はもたなくなると煙幕を張り続けてきた。まるで、老人が増えるのが罪悪のよ
うな口振りである。歳をとったら病気がちになるのは当然だ。その時に、気軽に病院にいけるという「安心」を保証するのが、政治と行政の役目であろう。それ がどうしてこういう政策を打ち出すのか。
そもそも医療費が増大しているのは、ほとんど診察らしい診察もせず、ポリ袋がいっぱいになるほどの薬を出している医療機関を、野放しにしているからだろ
う。患者1人の一日1剤分の薬剤費が205円以下なら、医療機関がレセプトの薬剤名や投薬量の記載を省略して請求できる「205円ルール」というのがあ る。医療機関が院内で外来患者に出した薬剤だけでも、年間約3兆4000億円。そのほぼ半分がこのルールに沿っていると聞く。これらの薬が本当に患者のた
めだけに出されているとは思えない。
介護保険が始まる際に、「看護」と「介護」とは全く別ものだと言いくるめられ、国民は「そうかもしれない」と信じてしまった。しかし、少し前まで介護は
看護婦が病院でやっていたではないか。その方法が良くなかったのなら、介護保険ではない解決策もあったはずだ。少なくとも当時は、今よりも安い健康保険料 で採算があっていた。それが保険が出来て、年金から天引きできない老人に、介護保険料を窓口に来て支払えと強制している。
保険料を取っていて「介護産業」がみな赤字で撤退を余儀なくされているとは、どういうからくりなのか。まさかとは思うが、外務省と同様、省内に伏魔殿が
出来てしまっているのでは?厚労省傘下の公益法人は多い。幹部が判で押したように高級車を乗り回しているというのはとても気になる。
☆閑話休題★ 曲解 2001.9月号(2)
他人(ひと)に物を伝えるというのは簡単なようでいて難しい。例えば、新入社員が作業手順通りに仕事をしていないのを見てしまったとしよう。あなたはど
ういう態度をとるか。
「おい、何してるんだ」では、高圧的過ぎる。喧嘩をふっかけているようだ。きょうびの新卒なら、翌日には止めてしまう。女性であれば、セクハラだと訴え
られる。といって、無視するわけにも行くまい。上下関係があったりすれば、監督責任を問われる。
物の本には、そんなときには「丁寧に注意すべし」とある。だが、「きみきみ、これは今のやり方では、こういうよう問題がおこるから、マニュアルのどこそ
こに書いてあるやり方に従って下さい」などと説明してはいられない場面だってある。勢い、発する言葉は短くならざるを得ない。「ダメ!」「右先!」「上下 逆!」間違いようのない指示が飛ぶことになるが、それは言葉を発する側の思いこみである。聞いているほうは、さっぱりわからないということが案外多い。
突然だが「犬も歩けば棒に当たる」という有名な格言(かるた)がある。誰でも知っている文言だが、解釈は人それぞれに違う。ある人は「意味がないようで
も毎日歩いていれば、良いことにぶつかる場合もある」と受取り、別の人は「意味もなくほっつき歩けば、棒で殴られるようなひどい目に遭う」と解釈する。か くのごとく、簡潔に物事を伝えるというのは難しい。
どん底の不況でリストラ解雇のトラブルがあとを絶たない。それぞれ活計(たつき)がかかった深刻な問題である。使用者も雇用者も互いに言葉を尽くして話
し合うことが必要である。虚心坦懐、リストラ=解雇という思いこみを捨てれば、本当の「再構築」が出来る目もあるのではないか。日本では大量解雇を行っ て、業容を回復した企業はない。
扶桑社の「新しい歴史教科書」が各所で波紋を呼んでいる。端的なところでは、韓国・中国など近隣諸国からの批判である。これに対して、「内政干渉 だ」「腰抜け外交でどうする」という声が上がっている。そこに普通の国になるには「相応の軍事力が必要」などと主張する人達があらわれ、よけいややこし
い。
たかだか一つの民間出版社が出した「本」に、これだけ関心が集まるというのは異例だ。まるで国を挙げて出版したような印象である。確かに教科書検定とい
うものを通ってはいる。が、文部科学省の検閲はそれほど厳しいのだろうか?であれば、検閲ということになる。
さて、話は変わるが、「コシャマイン戦争(1457年)」「シャクシャイン戦争(1669年)」「クナシリ・メナシ戦争(1789年)」という三つの戦
争をご存じだろうか。言葉の顔つきで何となくわかるかも知れないが、いずれも和人とアイヌとの戦争で、北海道が戦場になっている。そして、三つの戦争と も、和人は騙し討ちのような方法で、アイヌを制圧している。似たような例は、太平洋戦争時の真珠湾でも展開された。和人の末裔として、この事実は慚愧に耐
えない。
「新しい歴史教科書」は、子供達に愛国心を持たせたいという願望から作られたと聞く。それは多いに結構だが、和人というものの歴史を見ると、どうもだま
し討ちばかりが目立つ。それから目をそらせて美談ばかりの歴史を語って果たして良いのかどうか。外務省の幹部などは、つい最近まで騙しあいをしていた。
将来の歴史教科書には、「我が国は深い反省ののち、再生して行った」と書き込めるようにしたい。
★閑話休題☆ 改革不況 2001.8月号
必要があって、このところ江戸時代の政治手法などを調べている。江戸時代の改革と言えば、享保の改革・寛政の改革・天保の改革の三大改革がつとに有名で
ある。それぞれその直前にあった元禄時代・明和・安永時代・文化文政時代の「乱れた世相」を立てなおうために断行された。乱れたとは、要するに賄賂が横行 し、借金してまでの分不相応の奢侈がはびこったということらしい。現代に直せば、「バブル経済」ということになろうか。ご多分に漏れず、景気に限定すれば
甚だ良かった。
悪名高い老中田沼意次には、生き人形と称して、美しい京美人が箱に入れられて送られたという逸話もある。なにやら、少し前に話題になった政府高官のノー
パンシャブシャブを連想させる話だ。これではあまりにひどいという事で、改革が始まった。
改革は三つともに庶民の圧倒的支持で始まるのだが、結果は大不況にみまわれる。そして庶民の指示を失い、改革はあえなく挫折へ。封建時代といえども民衆
の声は侮れない。
さて、平成の大改革はこれからが正念場である。景気の変動はしばしば波にたとえられる。それをまことしやかに読み解くのは相場師で、いまではそれを 「ファンドマネージャー」などと呼び変えている。なにやら優秀そうだが、所詮彼らはただの予報官である。当たるも八卦当たらぬも八卦。「絶対お得」などと
いうのはあるはずがない。
歴史を見ていればこれだけは言える。改革が始まれば景気は冷える。そして冷え切ったあとに、必ず好景気がやってくる。トンネルの先に光明があることを信
じ、不景気の時代を耐えるしかない。
★閑話休題☆ ライオンハート 2001.7月号
内閣支持率が80%近い。東京都議選も自民党に追い風が吹いた。
5月末頃には、「痛みを伴った改革」を旗印にした政権がこれだけ支持されるのはおかしいという声が、マスコミ各社から上がっていたはずだが、これはどう
したことか。やっかみ半分という言い方は少し品がないが、絶好調人間を見ると、足を引っ張りたくなる人はどこにでもいる。マスコミはそうした人達の集団 だったということだろうか。
勿論、大衆に迎合するばかりが報道機関ではないと、筋を通している会社があると信じたいが、今や「ライオンハート」を賞賛する声ばかり。国民挙げての万
歳三唱である。
はっきり言って、大勢の賛成の前で反対意見を述べるのは辛い。不特定多数を相手に商売しているマスコミ業界ではなおさらだ。大衆を敵に回せば、糧道が断
たれる。
ところで、55年体制が続いていた頃の野党は、巨象に吠え立てる犬や猫といった風情があり、それなりに健気だった。それで物堅い支援者に支えられてい た。
ところが今は、権力を握った側が既製勢力に噛みついている。既製勢力とは官僚のことである。これが国民の目には小気味良く映り、支持率を支えているよう
だ。かつての社会党は反対していた時は威勢がよかったが、総理大臣を出してみると結局何もしなかった。権力は麻薬に似ている。日本の場合、頭は変わっても 臣下の顔ぶれはほとんど変わらない。だから、既存勢力に飲み込まれる。それはだれがトップに立っても同じということだから、小さな勢力が権力を握る側を監
視し、批判するという図式でバランスをとってきた。
トップに座れば(外国を相手に事を構えるというなら別だが)噛みつく相手はいないはずで、本来は批判を受け止めるのが仕事である。ところが「ライオン ハート」である。要するに、政権与党よりも大きな権力がこの国を牛耳っていたということになる。
ただし、官僚も家に帰れば、一般国民のはずだ。トップの叱責は、間を置かず、一般社員である国民にまで届く。
小泉首相は、大相撲5月場所の表彰式で、貴乃花に対し「痛みに耐えて、よく頑張った、感動した」という名ぜりふを残した。これこそが、国民に対しての メッセージだったのだと思う。支持するということは、痛みに耐えることだと肝に銘じておきたい。
☆閑話 休題★ 似て非なる 2001.6月号
テレビのクイズ番組を見ていて、「花しょうぶ」としょうぶ湯の「しょうぶ」とは、まったくの別物であるということを初めて知った。この手の事をこの歳ま
で知らなかったというのが恥ずかしい。もっとも私の場合、これに類することは無数にある。衣食足りて礼節を知るをもじって、知識なくして礼節を知らずとい う感じだ。
さて、多くの大手企業が、ようやく業績を回復させたようだ。実際、発表された三月期決算を見ると、ゴーン氏の日産自動車をはじめとして、赤字から黒字に
転換したところがたくさんある。森前政権はこれを先取りして、「景気は着実に回復しつつある」とうそぶいていた。いかんせん経済が再建される前に、政権が 吹っ飛んでしまった。
ゴールデンウィークに誕生した小泉新政権は、新緑・花の季節にあわせたのか、百花繚乱で新種も多く含まれているという。華やかを善しとし、国民の多くは
今のところこれを支持している。
しかし、野党や識者は、「自民党政権」である以上、看板の掛け替えに過ぎないと警戒を緩めていない。同じ穴のムジナというわけだ。しかし、「花しょう ぶ」と「しょうぶ」との例もある。てっきり同じものだと思っていたら、種からしてまったく違っていたということもありうる。今後の政策は注目に値する。
日本の軍部は、かつて軍靴の高まりと共に、マスコミを操作して「世論」を作った。「昨日と同じ政策だ」と声高に叫ぶ人がいるときが案外怪しいらしい。が
むしゃらな反対は、あとになってみると、賛成の後押しになっている場合も多い。昨日の敵が今日の敵とは限らない。虚々実々、21世紀は戦国時代らしい。ま ず自分の中に尺度を持つことに心がけたい。
この4月から、NHK人間講座で寄生虫の話が始まっている。生来、手足のないイモ虫形状のものは好みではないが、興味深い内容なので、見続けてい る。
寄生虫というと、小学生の頃に「虫下し」を飲まされ、一日中風景が黄ばんで見えた(?)という記憶がある。本当にそう見えていたのかと記憶をたどると甚
だあやしいのだが、当時標的にされたのはサナダ虫だった。ご存じの方も多いだろうが、ゴム紐のようにむやみに長い生物である。命名はおそらく真田紐からき たのだろう。
寄生虫というのは、それぞれ特定の宿主(しゅくしゅ)にあわせて、画期的な進化をとげたものだという。サナダ虫や回虫は人間に腸に寄生するためだけに進
化し、驚いたことに消化管すらない。クジラやイルカの腹の中には、専門の寄生虫が100%宿っているという。彼らは食物連鎖を使って、それぞれの宿主の腹 の中に到達するらしい。この連鎖を断ち切ってしまったのは、人間だけだという。それでいて悪食だから、別の動物の寄生虫(アニサキスなど)を腹に入れて苦
しがったりする。
俗に、「寄生虫のような奴」と言えば、相手を罵倒したことになる。しかし宿主が死んでしまっては、寄生虫は生きられないから、彼らは「共生」を心がける
のだという。なにやら、江戸時代の武士と庶民との関係を思わせる。いや、今でもこうした関係はしばしば目にする。
江戸の奉行所は裁判所になり、藩の役所は県庁になった。藩士の多くは国家公務員や県職員である。もちろん現在の話ではない。明治初期の話である。ところ
が、我々の頭の中は今でも「おかみ」意識が強い。それに今も昔も行政には、「生かさず殺さず」という政策が多すぎる。庶民のなけなしのゼニを税金や保険料 で吸いあげ、それは再分配のためというが、実際にはどうなのか。天下りという「寄生虫」を増やすためにかなり使われているような気がする。
現代のように寄生虫が少なくなったのは不自然だという。少しはいたほうがアレルギーなどが緩和されて良いらしい。しかし、寄生虫で腹がいっぱいでは、本
末転倒だ。組織のスリム化は焦眉の急。さて、頭の黒い虫に効く下し薬はまだ発明されないのだろうか。
もう何年も前のことになるが、「空から魔王が降ってくる」という奇々怪々なノストラダムスの預言(予言というべきか?)なるものが流行ったこ とがあった。 「魔王」ではないが、つい先だって、宇宙ステーション・ミールが落ちてきた。日本を始めとする先進諸国は「ロシアの技術なんてあてにならん ので心配だ」と随分と気をもんだ。結果はほぼ計画通り、案ずるより生むが易しというのはこのことだろう。斜陽の国ロシア(旧ソ連)といっても、技術の裾野 はやはり広かった。
ところで、2001年の今現在、「宇宙の旅」とまではいかないが、衛星軌道上に本格的な国際宇宙ステーションの建設が進められている。このプロジェクト によって、米国のスペースシャトルは、今やこの建設現場への宅配便となった感がつよい。
さて、この新ステーションの建設には、米国NASAの技術だけでは限界があり、ミールの技術が随分と参考になっているということは案外知られていない。
ISOの導入企業は先刻承知だろうが、欧米の技術者は、一つ一つの作業(タスク)を事細かにマニュアル化することに腐心する。それは安全管理とか品質保 証という面において、「力を発揮する」と言われているが、はたしてどうか。昨今問題になったクレーム隠しのカーメーカーや、昨年食中毒でさんざんな目に あった乳業メーカー、それにあの臨界事故をおこした会社も、みなタスクマニュアルは完璧に出来上がっていた。
ここで話はミールに戻る。ロシアの技術者が大切にするのは、基本的な考え方(スキル)だけで、それを徹底的に訓練する。個別の作業は、その応用で現場 で臨機応変になんとか出来るだろうという発想だ。ゆえにマニュアルは薄くなる。マニュアルよりも基本動作の習得が大事ということらしい。
ISOを導入したものの、広辞苑よりも厚くなってしまったマニュアルは不磨の大典に似て、メンテナンス不可能と感じている企業も多いと聞く。そんな企業 は発想を柔軟にして、ロシア流のスキルアップ作戦で乗り切ってはどうだろう。
いまさらあんな国のやり方を見習うのはなあなどと言うなかれ。
なぜか日本国内では報道されていないが、日本が打ち上げたロケットは、所管の科学技術庁のうかがい知らぬところで、何度もアフリカ大陸に落下しているら しい。落ちてきた破片に日の丸マークが付いていたよと聞き、はじめて陳謝したというのだから、おそまつである。マニュアルばかりに目がいっていると、技術 大国日本の看板も怪しくなる。
ある寄り合いでひょんなことから、もしも電気が止まったらという談義になった。今年の冬は例年になく寒さが厳しく、年初に降った雪が二週間以 上路肩に固まっていた。そんな最中の話である。家の中をぐるっと見回すと、エアコン、ファンヒーターはいうに及ばず、風呂だって電気がなければ沸かないシ ステムになっている家が多い。はてさて、停電になったら、この寒空の下でどうするというわけだ。
ある人は、不慮の事態にも対応できるよう、電気を使わずに使える石油ストーブ(?)を最近になって購入し、物置に入れたという。転ばぬ先の杖とはいって も、なにもそこまでとその場では笑い飛ばした。しかし、現実というのは恐ろしい。1月15日から米国カリフォルニア州ではじまった電力危機により、かの地 では大停電が断続的に続いたらしい。原因は電力自由化による混乱だという。
厳格な規制に守られて寡占状態を続けてきた産業は、どうしても価格(料金)が高止まりになっている。これはかつての国鉄や電電公社を思い浮かべれば、す ぐに納得できる。いわゆる公共料金と呼ばれるものである。これは消費者のためにはならないというわけで、「自由化」をはかろうというのが現代の風潮であ る。
ふむふむ、発想は良い。しかし、米国ではそれがうまく動いていない。「市場(電力取引所PX)」に供給される量よりも、需要量の絶対数が多いためらし い。需要が多ければ価格がつり上がり、それによって利にさとい連中がどっと供給するはずというのが、アダムスミス以来の論理だが、ことはそう単純ではな い。州は「公共料金」であるという理由で一般家庭用の電気料金を低く固定し、またPXの取引方法にもいろいろと制限を加えた。その一方で発電所反対運動が 延々と続き、供給量は増えようがなかった。ない袖は振れず、カリフォルニア州は真冬に真っ暗になってしまったのである。
これは笑い事ではない。近頃国は省庁再編で喧しい。役所のスリム化は民営化であって、自由化である。しかし、このところやたらと○○省系財団というのが 増えた。彼らは民間人になったのだと思ったら、そうではないらしい。行政指導をどんどん自由化している。こんなことをしていて、ある日突然、「残念なが ら、国の機能が停止してしまいました」とならなければ良いのだが。この前に、総理が機能停止しているか。
このところ「レスポンスの悪さ」にぶつかることが多くなった。
電話のやりとりは、とかく聞き違いや勘違いを起こしやすいので、かなり前から、込み入った注文やお願いは、可能な限りFAXや電子メールを使うことにし ている。ところが、このところ哀しいかな、これでも満足に用が足りることが少なくなった。
書き方が悪かったのでは?と言われてしまえば返す言葉もないが、曲がりなりにもこちらは文章を書くのを業としている。それにどれもこれも相当に丁寧な文 章を綴ったつもりだ。実際、一昨年あたりまでは(※当時は手紙のやりとりも多かった)、「ご丁寧なご依頼を受けて……」と、早速折り返しの電話がかかった ものだった。
ところがここ一年ばかりは、相当な大企業でもいや一部の役所においても、待てど暮らせど返答が戻ってくることはない。
いくら技術が進んでも、そこは機械ものであるから、万が一着いていない可能性がある。それで二度手間になっても、電話をするしかないということになる。 相手を電話口に呼びだして見ると、なんということはない、相手には確かに依頼事項が伝わっている。しかし、全くといっていいほど処理をしていない。一週間 以上経っても、場合によっては一月以上経っても、メールやFAXはデスクの上に積まれたままだ。苦情の電話を受けて、「そら来たぞ」という感じで手をつけ ているらしい。IT化によって情報量は爆発的に増えているが、社員・職員のほうは、リストラばやりで乾いた雑巾よろしくしぼりにしぼられている。さばけな い仕事が多くなったということか。
いや、そうとも言い切れないようだ。
実際その手の会社や役所は福利厚生制度などは充実していて、有給休暇の消化率は高いし、残業など滅多にしない。「残業までしてお客様に奉仕しろ」と門外 漢の私がいう権利などないが、「怒って来た客を先にすれば良い」という優先順位の付け方はいかがなものか。21世紀は満足するサービスを受けるためには、 店舗に出向き、面と向かって頭から湯気のひとつも出さなくてはいけないのだろうか。それが出来なければ、電話口でカッカする。これしかないようだ。結局行 儀の良い「きちんとした」お客様は、後回しというのが半ば常識化してしまったらしい。
しかし、これで本当に良いのか。どこかおかしくはないか。「上得意」というのは、「きちんとした」固定客のことを指していたのではないのか?「上得意」 が下品に怒るまでほったらかしにするというのは本末転倒である。こうした企業モラルが治らない限り、日本の経済は一流とは言われまい。IT革命とやらも 「苦情メール」の氾濫だけで終わってしまうだろう。この国の民度の低さは、もう挽回すらできないところまで落ちてしまったのか。
年末に「一般的」とはどういうことを指すのでしょう、という質問を受けた。
経営者が自社の給与水準などを部下に問うとき、しばしば「その程度が一般的なのかね」とか「一般的に言ってそりゃないだろう」というアレである。質問者 は経営者の真意がわからないというのだ。
そもそも、「一般」とか「常識」という言葉は、実体が見えにくい。まだしも「平均は」と問われたほうが、説明しやすい。もっとも、賃金や福利厚生資料の 統計資料などでは、「このレベルではなあ」と感じている企業は、アンケートを出さないだろうから、「平均」を「一般」と読み替えるのは苦しい。
さて、今の世の中に、不変不朽の「絶対基準」などというものはあるのだろうか。絶対に良い制度と思われてきた民主選挙が、本家本元のアメリカで崩れはじ めている。絶対に正しいと思っていた機械が、それほどでもなかったからだ。世の中はいよいよ「相対」の時代に入ったらしい。
相対の世界では、価値観は日々変動する。「一般」や「常識」は、個別の問題ごとに、決めていかなければならない。煩わしいことこの上ない。しかし、為替 相場は20世紀の後半から、ずっと変動相場である。企業活動も政治も我々の生活も、すべて変動相場思考でいかなければいけないのかも……。
そうそう、昨今のオートクチュールでは、2000円以下の値段の「無印良品」と「ユニクロ」の服が大もてだという。あのあたりを「一般だ」と定めてくれ ると、世の中も随分と暮らしよくなるのだが、どうだろう。
宝塚でも歌舞伎でも、幕引きをするため前にすべての出演者が、も一度ステージに登場して挨拶を行うというセレモニーがある。しゃれた言い方で は、カーテンコールというらしい。
いよいよ20世紀の幕引きという段階まで漕ぎ着けて、このところ、あっ、そうそうあの頃にはあの人が活躍していたんだ、と思わず漏らしてしまう人が、 ニュースをにぎわしている。
人間機関車ザトペック氏は亡くなり、ペルーのフジモリ大統領は逃亡でマスコミに載った。ともに一時代を作った人物である。
事の善悪を別にすれば、日本赤軍最高幹部の重信房子もそのひとりだろう。日本赤軍は、あさま山荘の連合赤軍やよど号グループと兄弟関係にある。彼ら赤軍 派はいまさら言うまでもないが、「共産主義革命」を主張した。
そうそう、20世紀を代表する思想は?と問われれば、「マルクス主義」に代表される社会主義思考を忘れてはならない。わずかに30年ほどさかのぼれば、 日本の大学の多くは、マルクス主義思想が主流であった。いや日本だけではない、アメリカですら共産主義思想が結構メジャーだった。少なくとも知識人と称す る人達は、ソビエトに親近感を感じていたはずだ。そういう学校を優秀な成績で卒業した人達が、現在社会の中核をになっている。かれらが強固な官僚機構を構 成したがるのは、その辺に源があるのではなかろうか。
あまり出来の良いドラマではなかったが、重信容疑者の逮捕で科学的社会主義思想にもピリオドが打たれることになった。
来るべき21世紀には、はたしてどんな価値観が主流になるのか?その萌芽はまだ見えていない気がする。
いよいよ、20世紀も余すところあと一月となった。
世紀末だけに、この世紀を一言で言い表すと、という特集をしばしば目にする。
「戦争の世紀」「科学の世紀」「富と貧困の世紀」「自由と平等の世紀」「人権の世紀」。立場によって、いろいろに規定できるだろう。しかし、いずれの社 会現象も100年の間に、予告もなくぽっと現れたわけではない。タネはあったはずで、歴史は連綿と続いているのだ。
そうした歴史の根幹を土中から掘り出そうという学問が、考古学である。証拠に基づき、もの申すという点では、経済学などよりずっと信頼性が高いと信じら れてきた。また、実験偏重主義の自然科学に比べても、現物を突きつけることが出来るので迫力がある。考古学者というと孤高の人というイメージが強いのは、 忘れ去られた歴史ロマンの案内人という面があるからであろう。
しかし、世紀末にこの世界の神話も崩れた。東北旧石器文化研究所のF副理事長の一件である。「神の手」とまで呼ばれた彼が、発掘現場で旧石器を埋め、大 発見だと騒いでいた事がわかった。文字通り、お手盛りの発掘である。
氏は「皆からの期待がプレッシャーになった」と弁明した。アマチュア研究家も、耳目を集める大発見をすれば、有名になれる。それも自由主義の原則であろ う。彼はそのチャンスに恵まれたのだ。そして次々に仕事が与えられた。名が売れれば収入は増加する。これも20世紀の原則である。日本に限って言えば、こ の100年は「カネの世紀」だったと言いきって良いだろう。モラルもマナーもカネの前には白旗を揚げてしまった。これが時代劇なら、終盤の45分で主人公 が「カネの亡者」たちを一喝し、溜飲を下げるところだが、さて、現実はどうなるのか。
ところで話は変わるが、東京の上野動物園で今年7月にニシローランドゴリラに子どもが生まれた。ゴリラは案外デリケートな生き物で、人間の手で飼育され ている個体が、元気な子どもを生むケースは少ない。今回はそのまれなケースだった。園では、赤ちゃんの名前を公募していた。それが、去る11月1日に決定 した。「モモタロウ」という。赤ちゃんは雄なので、定番というか極めて日本的命名ではある。
お話の桃太郎は、お腰につけたキビダンゴで、サル、キジ、イヌを子分にする。ゴリラはサルより毛が2本ぐらい多そうだから、モモタロウという名も納得で きる。しかし、そういうことではないようだ。母親の名が「モモ」、それで「モモから生まれたモモタロウ」ではないかと動物園の人は推測している。元祖桃太 郎侍の高橋英樹さんもびっくりである。それにしても、世直しヒーローの名を、こんな小さな小猿につけたくなるほど、国民は閉塞感を抱いている。20世紀の 年の瀬は切ない。
「月日は百代の過客にして、行き交う人もまた旅人 なり」
季節の力というのだろうか、秋になると芭蕉でなく とも世の中に寂寥感を覚える。ましてや世紀末である。少し前のこととなって恐縮だが、10月11日の毎日新聞一面の記事を拾う。
ヘッドラインは「白川英樹氏のノーベル化学賞受 賞」だ。その横に大きな写真があり、二人の老人が頭を下げている。ダイエーの社長引退劇だ。紙面下の「余禄」では、先日四日前に亡くなられた反原子力科学 者高木仁三郎氏を悼んでいる。上から順に見ると、「栄光」「挫折」「死」となる。中程に「千代田生命破たん」とか「選挙の当選記事」などが挟まっている が、それらは人生のあだ花に思えてくる。
実はこの春、高木仁三郎氏の講演を拝聴した。氏は 5年前ぐらいから、常に死を念頭において生活していらしたらしい。講演の後ではベッドに横になるとおっしゃっていらした。
といって、自暴自棄になっていた気配はまったくな い。終始一貫して、精力的に仕事をこなされていた。「明日への希望を語りたい」というのが、氏の口癖だった。
一時、生命保険の生前支払いというのが流行り、死 病にむしばまれた場合には、生きている本人に保険金が支払われるという契約がもてはやされたことがあった。しかし、あの保険金を実際に受け取り、ランチキ 騒ぎをした人は果たしていたのだろうか。覚悟を決めた人間というのは、そんなことはしないものである。
所詮人間は例外なく死んでいく。宇宙物理学の時間 で見れば、生は一瞬の閃光でしかない。日頃から、生きた証をどのように残すかということに腐心していないと、いざというときに間に合わない。「栄光」の光 の中で生を全うできる人は実際には少ない。そごうの副社長たちのように、「挫折」の中で自死を選ぶ人さえ多い。20世紀最後の秋、我々一人人に「生の証」 が問われているような気がする。
周回遅れの話をしたいと思う。オリンピックのこと?いや、米国3位の銀行持ち株会社チェース・マンハッタンが、同5位の投資銀行JPモルガン を買収するという話だ。買収額は332億ドル(日本円で3兆5400億円)である。平均的な国家規模の予算をはるかに超えている。欧米の銀行筋では、21 世紀に生き残れるのは世界で5〜7行と言われている。残念ながらその中に日本の銀行は入っていない。完全に周回遅れである。
同様の再編は自動車業界が先行した。今年の前半で、民族資本の会社はなんと2社(トヨタと本田)に激減してしまった。スバルもミツビシもマツダも実態は ブランド名のみとなった。いや、ミツビシなどはブランド名も危うい。ただ幸いなことに、こちらのほうは日本企業がトップに食らいついている。
こうした世界寡占状態は、競争社会の世紀末的現象と考えるがいかがなものか。いうまでもなく、世紀末はもう3ヶ月足らずで終わる。 国をチームになぞらえるならば、企業は選手となる。強い選手はことごとく外国チームに引き抜かれ、弱い選手だけを国が一生懸命支援している。その応援の ツケは観客に来る。国民というシートに座っているのだから席代を支払うのはやぶさかでないが、残っている選手は地道なトレーニングを怠ってきた肥満体ばか りだから、ラストスパートはきくまい。国は周回遅れの選手だけを応援するのはそろそろやめにしたほうがよい。あと3ヶ月で時間切れである。
この夏は、雪印牛乳中毒事件を皮切りに食品への異物混入事件が多かった。今年になって突如生産管理が弛んだと思えないから、残念だがこれが日 本の製造現場の実態だと思うほかない。企業の経営責任云々は、すでに語り尽くされているので、ここでは触れない。あえて「企業責任」の裏に隠れがちな官庁 の責任について、少し触れてみたい。
雪印中毒報道後、最初に記者会見を行ったのは、大阪府の保健衛生部だった。患者確認から製品回収決定まで、かなりの時間を要したことを指摘され、担当官 は「毒物が特定できない段階では不可能」「闇雲に製品回収するより、因果関係の究明が先」と繰り返した。同じ銘柄の乳製品を飲用して大量の中毒患者が出て も、「毒物が特定できな」ければ、そのまま売っても良いということらしい。
この会見を眺めながら、薬害エイズ、ソリブジン、ポリオワクチンと続いている最近の薬害事件を思い出さずにはいられなかった。キャリア官僚というのは、 庶民のことなど虫けら同然にしか思っていないと感じていたが、地方公務員も同じらしい。加えて今回の場合、原因不明の段階で、雪印の幹部は「日本人は牛乳 が体質に合わない人が多い」と嘯いていた。大量の腹痛患者は、牛乳の「副作用」に過ぎないいう口ぶりである。これも「薬害」の初期に共通する製薬会社の弁 明とまったく同じである。どうやら「薬害の構図」は、日本中に拡がってしまっているらしい。
ちなみに「クロイツフェルト・ヤコブ病」という痴呆状態で死に至る病気が、流行の兆しを見せている。いわゆるスローウィルスと呼ばれるもので、感染から 発症まで約10年かかる。感染原因は、ドイツB・ブラウン社のライオデュラという硬膜である。アメリカで輸入を止められてから10年間 (1997.3.28まで)、日本は輸入を続けていた。その間、ライオデュラの販売量の35%を日本が買い取っている。これが様々な治療に使われた。他に も新たな「薬害」が静かに出番を待っている。我々は、いつになったらこんな構図から抜け出せるのだろう。
「辮髪(べんぱつ)」という髪型ご存じだろうか。かつての中国清国の人達がしていたヘアースタイルである。前頭部の髪をそり落とし伸ばした後 頭部の髪を一本に結う。映画好きの方なら、ラストエンペラーや西太后という映画でお馴染みのはずである。
清の崩壊とともに中国は洋務化され、辮髪は文字通り切り落とされた。当時の中国人は一様に、「我が身を切られる思いだった」と言ったらしい。感覚として は、関取の断髪式と似たようなものかもしれない。
この髪型、もともとは満州族モンゴルの習俗で、明を倒した満州族が漢民族に強制したものである。その意味では屈辱の象徴だった。「弁髪の断髪」は、長年 の抑圧から解放されたということなのだが、過去はどうあれ、慣れというものは恐ろしい。屈辱の象徴に愛着を持ってしまうのである。「臥薪嘗胆、昔を忘れる な」と肝に銘じていても、現実にはなかなか難しいようだ。
老舗の雪印ブランドが失墜した。マスコミ各社は、こぞって先のJCO事故を引き合いに出し、「危機管理意識の欠如だ」「現場との意思疎通が欠けている」 と責め立てた。なるほどごもっともである。雪印のトップは、前日までの対応には「驕りがあった」と辞任した。マスコミ各社とすればしてやったりだろう。し かし、新聞社やテレビ局の社長が、最前線の記者やディレクターの仕事をすべて把握しているとはとても思えない。現に報道されない不祥事が最も多いのは、マ スコミ各社だと言われている。
そもそも、日本の新聞は「エリートが作ってヤクザが売る」と言われて来た。各社ともこの話題に触れられると、途端に木で鼻をくくったような態度になる。 新聞勧誘員問題は、アンタッチャブルのようだ。
近頃、歳のせいか、一つの仕事に精通するためには、同じ量の情報を捨てなければならないのではないかと思うようになった。自分の器を自覚して、欲張りは やめようということである。
雪印を弁護するつもりはないが、いつまでもバルブの洗浄時期を忘れないような社長では、経営判断は出来ない気もする。記憶力自慢の人が、始終監視してい なくては良い品物ができないというのなら、現場労働は奴隷労働と同じである。
働く人それぞれが、自分の作業フィールドにせめて「辮髪」ほどの愛着を感じてくれれば、事件は起こらなかったのではないか。たとえ強制されたマニュアル でも、やりようによっては「身に付く」はずである。
今や、大人も子供も政治家も、すべて自らの権利だけを大声で主張すれば良いものだとはき違えている。責任を棚上げして、権利の主張だけをしていたせい か、国民は国に愛着のカケラさえ感じなくなってしまった。日本人は国を捨てる気なのだろうか。憂いは深まる。
選挙という方法が、本当に「民意」を反映するものなのか?
終わったばかりの衆院選別で、応援していた候補が落選したというわけではない。今回の選挙で、小選挙区というのは常に勝つのは一人だけで、落選候補を支 援した民意は捨て去られるということを思い知ったという話だ。最近の選挙戦は、おしなべて相手政党の批判ばかりで、当選者が「少数意見にも配慮して」対立 候補の意見を取り入れることはまず考えられない。よって、世の中は一層殺伐としてくる。「17歳の暴走」の遠因がこのあたりにあると思うのは、筆者だけ か。
例によって話は飛ぶ。
選挙が終わって目に付くのは、道端に放置された政党の板看板である。公に認められたポスターではないから、選挙委員会は片付けない。といって、政党も候 補者の後援会も一向に撤去しない。兵どもが夢の跡。あとは野となれ山となれである。
今回の選挙で、候補者は「任せて下さい・必ずやります」型と「止めさせます・反対します」型に分かれた。結果は見ての通りである。しかし、どちらも日本 中にゴミを置き去りにした。その観点からすると、彼らの言を心底から信じることができない。
へそ曲がりな筆者は思う。多数決でしか物事が決しない民主議会で、「必ずやります」と言い切るのは無茶である。論理が破綻している。本当に強引にやると いうなら、独裁者を目指すしかない。逆に「止めさせます」と主張して、仮にそれが達成された後に、どうするつもりなのか。「それはその時に」ではいただけ ない。
「物言わぬ独裁者」と言われてきた金正日総書記は、テレビ画像で見る限り意外に愛想が良く、気配りのできる多弁な人であった。「あれは演技だ」という声 もあるので、日本の政治家に金書記を見習えとは言わないが、彼の国は、ゴミ一つない綺麗な国家だと聞く、廃棄物問題は「今世紀最大の政治課題」ではなかっ たのか?政治家はこの国をどこへ持っていこうというのだろう。
選挙の足音がひたひたと聞こえている。21世紀を踏まえてということなのか、今度の選挙では世代交代が一気に進みそうである。こうした場合、 必ず二世三世議員が俎上に上る。「親の七光り」と思うと、庶民感覚ではなんとなくズルイなという気がしてくる。しかし、こうした「権威付」は今に始まった ことではない。豊臣秀吉が信長の遺児三法師を使って天下取りの大義名分を作ったというのは、あまりに有名な話だ。
例によって話は変わるが、「系図書き」という職業(?)をご存じだろうか。明治の初期までは比較的知られた仕事だった。落ちぶれた浪人などを仕官させる ために、もっともらしい「家系図」を偽造する仕事である。薫製によって紙を古く見せたりするのは序の口で、鼠の小便に浸したり、虫食いをつけたりとテレビ 局の美術さん以上の腕が要求された。
そんな「偽系図」の中でもっとも大がかりだったのが、徳川家康の系図である。家康は永禄9年に松平から徳川に姓を変え、足利氏から清和源氏嫡流の系図を 譲り受けている。新田氏の嫡流、世良田義季が「得川」と名乗ったことがあったとし、強引に自分の先祖にしてしまった。現在、尾島町の世良田には東照宮が 建っていて、「徳川氏のふるさと」として村おこしに一役買っているが、出来た当初は作り物めいたアトラクションだったのかもしれない。
そもそも家康は揚げ物が大好物で、「みゃー、みゃー」と三河訛が強かったそうだから、上州人であると信じていた人は、当時から少なかったに違いない。そ れでも庶民は彼の政治に素直に従った。氏より育ち。偽系図がなくても実力があったのだろう。
大義名分と嘘とは紙一重である。果たして、21世紀の政治家は我々に何を公約するのか?大義名分と嘘とを見分けるのは、有権者一人一人である。
作家の出久根達郎氏は、大の夏目漱石ファンで知られている。氏のライフワークである「漱石先生の手紙」は実に面白い。大文豪はロンドンに留学 しても、故国に残してきた愛妻(鏡子さん)の頭髪が薄いことと、歯が悪いことをとても気にしていた。
髪の毛が痛むので「丸髷はいけない」とか、胃のために「入れ歯を入れるべきだ」とか、実に念が入っている。
ちなみに、漱石先生がロンドン留学していたのは、今から丁度百年前で、赴任途中で立ち寄ったパリでは万国博覧会が開催されていた。エッフェル塔が作られ たのもこの万博である。この博覧会に日本も五重塔を出品(?)している。当時万博は、フランスのお家芸のようなところがあり、国の威信をかけて世界各国の 珍品を集め、有力国の元首を自国に呼び寄せていた。今の感覚で言うと、「サミット」を開催し続けていたというようなところだろうか。
さて、現代に目を戻そう。悲願の「沖縄サミット」を前にして、小渕首相が倒れてしまった。お札まで出すという入れ込みようだったので、サミットだけは是 非成功させて上げたかったという声が多い。気を使う人の常で、小渕氏も結構とぼけた発言と駄洒落で周囲の記者たちを湧かせていた。このあたりは漱石先生と 似ている。
二人の違いはどこかと考えてみると、「権力」との距離であることに思い当たった。権力の中枢に座りながら、人間味を出していくというのは至難の業だ。あ の田中角栄氏を襲った病気も脳卒中だった。とかく、この世は生きにくい。
☆閑話休題★4月号
「気配り」で知られていた小渕首相が倒れた。本人の意識は戻らないまま、わずか三日間で周囲の状況は一変した。一刻の総理の場合「周囲」と は、国の指揮命令権者の交替を意味する。スポーツの世界なら、交代劇の中で名前が挙がるのは、小渕氏と総裁戦で競い合った方々の名前であるはずだ。ところ が最後まで挙がらずじまいだった。
筆者は政治記者ではないから、いまさら「密室」うんぬんの話をしようというつもりははない。
「そりゃ実力は認めるが、ライバルを押すわけにはいかないね」
そんな配慮が働いたに違いない。もはや、派閥は政党と同義となったらしい。
ところで、そんな人間たちの営みをあざ笑うかのように、有珠山が噴火を続けている。被災地に赴くことは、総選挙の恰好のPR材料となるらしく、大物政治 家がこぞって、ぴんと糊づけされた真新しい作業服をまとって押し掛けている。彼ら(彼女ら)は、猛禽類のような眼で、疲れ切ったお年寄りを見つけては、強 引に握手をし、秘書に写真を撮らせている。
有珠山周辺の地域では、やむを得ず介護保険は棚上げになっている。難しい基準で縛られない分だけ、ホームヘルパーたちは従来通り思いっきり活動でき、こ れが避難している人達にとって心の支えになっていると聞く。火山活動が落ち着くと同時に、介護保険が強制され、お年寄りたちにとって辛い現実が突きつけら れるのは目に見えている。
そこで提案したい。総選挙後に「政治家」にダマされたと言われぬよう、この際有珠山訪問の時に袖を通した作業服のまま、選挙戦を戦ったらいかがだろう。 その程度の「気配り」で国民の気持ちを吸い上げられれば安い物だろう。
☆閑話休題★3月号
日本の女子マラソンが強いのは、陸連の決定が不可解で、常に虐げら れた環境にあるからだという説(?)がある。言わずと知れたオリンピック選考レースの話である。
今はあまり流行らなくなったが、自動車のターボチャー ジャー。あれなどは排気管をわざと狭くして、風量をあげタービンと呼ぶ羽根車を回していた。まさに過酷な環境が作り出したパワーである。
話変わって、お隣中国には清の時代まで、「科挙」という 官吏登用のための難解極まる試験があった。科挙=「登竜門」、村で初めて試験に合格者がでることを「破天荒」といった。成績優秀者は皇帝と同等の口がきけ たという。位人臣を極めるとは、こういうことを指すのだろう。もっとも、50歳を過ぎてやっと予備試験を通るなどというのもざらだったようだ。この門もか なり狭い。
戦前までの我が国の官吏登用試験は、すべてこの「科挙」 を手本にしていた。それが今は「キャリア試験」に脈付いている。なるほど、難しさは、今でもかなりのものである。とても歯が立たない。しかし、それを通っ た者がはたして「竜」になっているだろうか。ニュースを聞く限りでは、「竜」ならぬ「虎」となって「トラ箱」に収監されている。
折角難しい試験を通ったのだから、その後も研鑽に励んで 欲しい。女子マラソンの選手達は、門からはじき飛ばされても、黙々とトレーニングを続けている。これからは、「登竜門」頼みの一発勝負ではなく、不屈の精 神で何度もチャレンジするほうが珍重されなければならない。これを「捲土重来」という。要は打たれ強くならなければやっていけないということ。厳しい世相 ではある。
☆閑話休題★2月号
「日本の技術は世界一だから」という言い方が、つい最近まで当た り前のように言われてきた。ところが今、胸を張ってそう言える企業はいくつあるだろう。堺屋太一氏によると、「知価革命」(氏のお得意の言葉)が進むと、 物作りの現場作業は「カッコワルイ」と敬遠されるらしい。そういえば随分前に「空洞化」という言葉が流行った。
従事する人が減れば、技術も失われていく。YS11の老 朽化と共に国産ロケットが相次いで落ちている。今のロケットを支えているのは、航空機の組立技術ではなくて自動車会社の技術だが、日産自動車はとうとうロ ケット部門を売りに出した。
工作機械を使う機械加工の分野では、技能オリンピックの メダリストはもう随分前からすべて東南アジアの技能者である。あとは「インターネット関連事業」にかけるしか、という声がかまびすしいが、ソフトバンク一 社に日本の将来を託して良いのだろうか。自分の手元にある技術を磨き上げておけば、絶対になんとかなる。せめてそう思いたい。