墨彩画ギャラリー          

 

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自己流で始めた墨彩画の展示室です。

 

画と思い出

 

No.1

牡丹

「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」。

いまさらという気もするが、牡丹は美女を形容する際に使われる。「ぼたん雪」「ぼた餅」「牡丹燈籠」との連想なのか、イメージの中の牡丹は、常にぽってりと赤くて妖艶である。

しかし、実際の牡丹を観察してみると、花弁は紙細工のようにはかない。手で触れれば、そのままクシャっとつぶれてしまうような危うささえ感じる。要するに、古の人は竹久夢路が描く美人画のような、華奢な女性を「牡丹のようだ」と形容したのではあるまいか。

さて、私が最初に牡丹の花を見たのは、北京だったと思う。

まだ日中国交正常化がなって5年とは経っていない頃で、「友好」を頭につけた団体旅行のみが許されていた。その随員として渡航したというわけだ。

「戒厳令」までいかないが、夜間の外出は禁止されていた。それでまあ、朝なら良いだろうと、ホテル(○○賓館と呼んでいたはずだ)の近くに散歩に出た。近くには公園があって、朝から人民服姿の人々でにぎわっていた。その傍らを、朝の教練であろう人民軍の武装兵隊が、一糸乱れぬ動作で駆け抜けて行った。さすがに少し背中に緊張感が走った。

公園の裏手には、ちょっとした花園があると聞いていたので、そちらに向かった。

そこに、一尺はあろうかという大輪の牡丹が咲いていた。

北京の朝もやの中で見る真紅の花は、圧巻だった。

当時花に無関心だった私は、「これは造花だろう」と本気で思ってしまった。しかし、わざわざ露天の花壇に、紙の花などおくはずもない。

日本の青年が珍しいのか、知らぬ間に周囲には人だかりが出来ていた。その中から一人の若い女性がはにかんだ顔で、押し出されてきた。どうやら花の説明をしてくれるようだとわかったが、悲しいかな、こちらは中国語がまるでわからない。笑顔で「謝謝」というのが精一杯だった。

それから幾星霜。

今や上海には東京を凌ぐ摩天楼が立ち並んでいる。あの頃に比べれば、日中の経済交流は天文学的に増加した。しかし、靖国問題やら海底油田問題やらで、両国間は相変わらずギクシャクしている。

しかし、中国人のすべてが強気一点張りというのではあるまい。私は、あの頃と同じような心優しいクーニャンがまだまだ健在だと信じたい。外交というのは紙細工のようなものなのかもしれない。大きな花を開かせるには、見守る姿勢が大切なのかもしれない。

 

 

No.2

アイリス・菖蒲

古来よりも美人で甲乙つけがたいときに、「いずれアヤメかカキツバタ」などという。なるほど、アヤメ・アイリスの類は実に良く似ている。私のような素人では、ほとんど区別がつかない。

加えて、どれも気候の良くなる季節に咲き、花弁の色彩は派手な原色、その上、すっくと首を伸ばして花をひらく。そんなわけで、アヤメ・菖蒲類は、どれも見栄えがする。各地に観光目的のアヤメ園や菖蒲園が出来てにぎわっているのもうなずける。

開花時期がうっとうしい梅雨時という点を考え合わせると、これも天の配剤という気がしないでもない。もっとも近頃では、園芸用には乾燥地を好む、超大型の「ジャーマンアイリス」ばかりで、いささか興ざめである。

ところで、菖蒲と聞いて思い出されるのは、「菖蒲の節句」である。5月の男の子の祝いで、現在は、「端午の節句」という呼び方のほうが一般的かもしれない。

私の実家は、25年ほど前まで、節句人形を商っていた。年末から羽子板、破魔弓を扱い、年が明けると、雛飾り、その次が武者人形というように、季節にあわせて年に4ヶ月間だけ商う。無論、それだけの商売では、暮らしを成り立たせるだけの収入があげられるはずもない。そのため父は会社勤めをし、母は内職に明け暮れていた。

使用人などおけるような儲けはなかったから、子供の頃はしばしば家業を手伝わされた。

その子供の手伝い仕事の一つに、紙でできた菖蒲の花を広げる仕事というのがあった。

当時は今のように、プラスチックや布でできた精巧な造花などなかった。いや、あったのかもしれないが、それはおそらく高価なものだった。「節季商売」のサービス品として、客に無料で手渡すのには、適当な品ではなかったのだと思う。それで、もっぱら和紙で出来た造花を使っていた。

この造花は花が開いていない。花の形に切った和紙を、心棒の針金に接着したままの姿で、問屋が束ねて納品していくのだ。これを子供の私らが、小さな手で慎重に花の形に折り曲げていく。子供というのは、けっこう派手な形が好きだから、葉っぱまでエイヤーと左右に開いてしまい、そのことで母と祖母には随分と叱られた。そうなのだ、菖蒲の葉は剣状に天を突き刺していて、けっして外には開かないのである。

うちの店に節句人形を買いに来る客のほとんどは、自転車で来ていた。まだ、マイカーで買い物に来る人など滅多にいなかった。というわけで、買い上げられた人形たちは、自転車の広い荷台にゴムバンドでしっかりと固定されることになる。それはたいてい母の仕事で、大きな風呂敷包が見る見るうちに、形良く自転車の荷台に括られていく。そしてそのてっぺんに、紙の菖蒲を粋に斜めに挿されたのを確認して、客は上がり框から、「どっこいしょ」と腰を上げるのである。

菖蒲・アヤメ類を見ると、当時の土間の匂いと、そんな光景をいつも思い出してしまう。