江戸豆知識

文政年間の江戸の物価

日光例幣使道について

上州諸氏の動向と寺

尾州宗春公書 関係資料

天保の改革のポイント

評定所を 構成する三奉行

年貢を取る方法

二十四節気

江戸の刑罰

手 附と手代

 

文政年間の江戸の物価   「落語犯科帳」 石井明氏著 兜ラ誠社 発行 より

 

(前略)  以上が『文政年間漫録』の記載でありますが、この頃の庶民の経済生活の実態を知るために、主要な物価を次に掲げますと、

 

米一升 一五〇文

酒一升 二〇〇文

醤油一升 一五〇文

かけ蕎麦 一六文

蕎麦たね物 二四文

てんぷら蕎麦 三二文

銭湯料金   八文

床屋料金   三二文

家賃(裏長屋) 六〇〇文

 

と、いうようなものです。これでみますと米・酒などの物価は現在より高く、床屋のように人件費によるものははるかに安いということです。また、油は当時は貴重品でしたから、かけ蕎麦に対しててんぷら蕎麦は二倍になつています。

なお、江戸の通貨が現代の円のいくらに相当するかについては、比較をする対象のものによって様々ですが、一両が約八万円といつたところでしょうか。これを元にして換算しますと次のようになります。

 

金一両 = 八万円

 一分 = 二万円

 一朱 = 五千円

銀一匁 =千二百円

銭一文 = 十二円

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日光例幣使道について(上野国領分を中心に)    毎日新聞2002.3.31広告から抜粋・編集

 例幣使とは、京都の朝廷から神への供え物を届ける使いのことで、昔は伊勢神宮だけだったのを、徳川幕府の意向により、正保四年(1647)から徳 川家康をまつる日光東照宮にも派遣されることになった。京都から中山道を下り倉賀野から分かれて、玉村・五料・柴・境・木崎・太田の各宿を経て、野州の八 木宿から日光の道順で、慶応三年まで、実に221年間続いた。

倉賀野宿(高崎市)

 中山道の新町宿から烏川の渡しを越えると、岩鼻を経て倉賀野。岩鼻は中山道と日光例幣使道に近かったことから、寛政五年(1793)幕府の代 官所が置かれ、上野国を中心とした幕府領を直接支配していた。

 倉賀野東、下の木戸より、中山道と日光例幣使道が分かれた。その角には閻魔堂と道しるべの常夜灯が今も残っている。 これは文化十一年 (1814)街道筋の本陣・旅籠屋、歌舞伎の市川団十郎、相撲の雷電為右衛門などの寄進によって建立されたと伝えられている。

 高崎は五万石の城下町として、また北は越後や三国街道、伊香保、草津方面の要として、また商業の中心として「お江戸見たけりゃ高崎田町」とう たわれ、大いに繁盛した。

玉村宿(玉村町)

 玉村宿は、徳川幕府により開発が計画され、代官伊奈備前守忠次とその子半十郎忠治によって開発が進められた。前橋総社地区の「天狗岩用水」よ り引水して、新田開発が行われ、玉村の発展の基を作った。

 日光例幣使道十三宿中では、最も規模が大きく、繁盛した宿場である。精神的なよりどころとして、古くからこの地方で崇敬厚い角渕八幡宮を移し た玉村八幡宮は、国の重要文化財である。

五料関所(玉村町)

 五料の地は古くから、烏川と利根川の合流地点で、ここを上り下りする船便の取締としての関があった。その後、元和二年(1616)幕府によっ て、例幣使道唯一の関所として認められた。その後二百二十余年もの間、宿場としてその役目を果たした。

 旅人や幣使の人達は、五料関で渡船し、柴宿へと歩く。五料関所は、明け六に開き、暮六つに閉めた。関所番は前橋藩士が交替で詰め、詰番は二名 だった。忙しい時には臨時に増員した。

柴宿(伊勢崎市)

 五料の渡しを越えるとすぐ、道の両側に町並みが整然と並ぶ。立派な門構えの本陣と大きな松は、代々関根家が守ってきた。柴宿の朱印地は「泉龍 寺」。境内には、那波十四騎の子孫が先祖の武勇を後世に伝えるために刻んだ墓碑銘がある。この寺には、古くから伝わる祭り「稲含祭」が五月に行われ、近郷 の農蚕業の安全と繁盛を願っての祭りである。

 また、馬見塚の「延命寺」は地元の文教の中心となり、江戸期の寺子屋から明治の小学校「一ツ松学校」へと続く。伊勢崎佐波三十四ケ所観音霊場 の一番札所である。

 この地を納めた那波氏の那波城本丸跡近くにあるのは、「昌雲寺」である。

境宿(境町)

 日光例幣使道の間(あい)の宿である。室町時代には広瀬川の渡船場近くに舟を納める仮小屋があり、何軒かの家もあったという。戦国時代になっ て、那波、新田の境目にあることから「境」と呼ぶようになったという。

 毎月市が開かれ、「絹市や糸市」として発展し活気をおびていった。また利根川舟運の集散拠点にも近く、特に足尾銅山から運ばれる銅の船出しの 基地として、平塚河岸が繁栄した。

 上州長脇差の中心だった境宿は間の宿なので宿泊するものは少なかった。のちに「飯島」「織間」両本陣が取り立てられたが、現在は碑のみが残さ れている。天保五年の春、侠客島村伊三郎と三ツ木文蔵との争い、そして国定忠治と文蔵で、伊三郎の闇討ち事件があった。

木崎宿(新田町)

 江戸末期より栄えた木崎宿の本陣は、諸経費など負担が大きく、栄枯盛衰が激しかった。江戸中期以降は茂木本陣である。宿の旅籠の数は、文化元 年には二十七軒とある。宿内医王寺薬師如来開帳始末留に出てくる屋号は六十三軒にもなっている。

 「木崎木の中、山の中、八木と梁田を向こうにまわし、音に聞こえし女郎屋宿」という唄が残っているように、例幣使道中木崎宿ほど繁栄した宿場 はない。

 木崎宿の中央の四辻を、北に行けば大通寺大門に出る。この寺の境内に、文化四年(1807)の石灯籠がある。その台石に右大門、左大ばら、大 間々道とある。

 長命寺前、茅葺きのお堂の中には地蔵が安置され、これは木崎色地蔵と呼ばれ、宿に売られてきた「飯盛女」たちの信仰を受けていた。

太田宿(太田市)

 兼山城の城下町として集落が出来、徳川家康が徳川氏の始祖といわれる新田義重をまつる寺として、「大光寺」を建立し、「呑竜様」として今も知 られている。例幣使道の制定により、太田宿の基が出来、本陣は橋本家が代々つとめていた。関東では珍しい「金山産松茸」の将軍家への献上も橋本家で、この 松茸は十万石の大名並の扱いで、江戸まで運ばれていたという。

 太田宿では文化十年(1813)開業の旅館「古久三」が現在も営業を続けている。

八木宿(足利市)

 江戸時代は館林藩領の時代もあった。その後、天領となり代官が統治した。有名な民謡「八木節」ゆかりの地である。八木の隣村である堀込村(現 在足利市堀込)の馬方堀込源太が越後の盆踊り唄を改作したもの。

 この地区の総鎮守として崇敬されている「母衣輪(ほろわ)神社」は、倭建命が東征の折、武具(母衣)を奉納したと伝えられる神社である。

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NHK「利家とまつ」その時代(1537− 1630年)上州諸氏の動向と寺       毎日新聞1月3日より

真田氏

 信州小県郡に本拠を置いた真田氏は、武田信玄配下に属し、吾妻に進出。羽尾氏を支援した東吾妻の斎藤越前守(吾妻氏)の居城岩櫃城を攻め、これを 落城させた。この一連の真田氏との攻防に加担した武将は多い。
 「林昌寺」(中之条町伊勢町)の開基となった矢沢頼綱も真田幸隆の弟で、文禄三年真田昌幸より永楽貫三百文を受けている。「清見寺」(中之条町中之条) の開基は、中之条の豪族、鹿野(狩野)和泉守と伝えられ、真田氏の命を受けて吾妻地方の戦乱で活躍した。
 天正八年(1580)真田昌幸が信濃より沼田城を攻略、北条氏との攻防7年、徳川家康の関東入国に伴い、真田昌幸の子、信之が沼田城に入り、二万七千石 を領した。真田氏は城と城下町の整備を進め、現在の街並みの基礎が出来た。

 真田氏五代信直の時に、拡大検地により領民を苦しめた。信直の政所村名主市兵衛が「越訴」したが取り上げられず、その後、茂左衛門の「越訴」が取 り上げられ、沼田藩は改易となる。市兵衛は処刑、茂左衛門は磔の刑になり、今では、二人の徳を伝え、茂左衛門地蔵として祭られ、知られている。

 

伊勢崎と佐位

 上杉・北条・武田と三つ巴の戦乱の中、信長の本能寺の変を経て、秀吉は天下統一に向かい、徳川家康の関東入封、関ヶ原の戦いでの論功行賞により、 それまで勢多郡新川などで三千石を領有していた稲垣長茂が佐位郡内の内、一万石に加増されて、伊勢崎を居所と定め、伊勢崎藩の成立。初代藩主の墓所は、天 増寺に。のち代々の墓所となる。

 

赤石から伊勢崎

 上杉謙信の関東への出陣そして、次々と支配下に納める中、那波氏は北条の力を背景に、堀口・今村・赤石城を拠点として抵抗したが、上杉軍が今村や 赤石城を落城させ、那波氏は子の顕宗を人質に出し降伏した。永禄3年(1560)のことである。

 

五代将軍と館林藩

 家康の関東入部、初代藩主榊原康政。寛文元年(1661)には、館林藩主として、徳川綱吉が二十五万石で藩主となる。そして、延宝八年には綱吉の 時代に、城下町の拡張や整備が進み、十家二十三代の城下町として栄えた。

 

徳川関東入部と前橋

 天正十八年(1590)徳川家康の関東入部、そして関ヶ原の戦いを経て家康の天下となった。慶長八年(1601)川越より酒井重忠が入封して前橋 藩が成立。酒井氏は九代、約百五十年在府した。酒井重忠候の菩提寺「源英寺」は酒井忠世が創建した寺という。
 重忠候は城下の安全を願い「大連寺」へ弁財天を祭った。この弁天さまから、今の弁天通りと名付けられた。「妙安寺」は家康の崇敬する本願寺の教如上人と の交流があり、妙安寺には家康より貴重な品々が寄上された。また、総社城主秋元越中守長朝が父景朝の菩提のため「元景寺」を創建したと伝えられる。

 

松平(戸田)氏

 高崎城主松平(戸田)康長の娘で露姫の墓が日蓮宗「実相寺」にある。また、戸田康長は、父忠重の功労により家康より松平の称号を許された。

 

箕輪城と長野氏

 長野郷の豪族として浜川在住した時代の菩提寺が「来迎寺」である。長野憲業の代に西上州を代表する戦国大名となる。永禄三年(1560)上杉氏の 関東出陣、長野業政を中心とした武士団も上杉方となった。翌年、業政が病没、その子業盛が城主となり武田信玄の攻撃を受け、ついには箕輪城は落城、今業盛 は、群馬町の「大円寺」に静かに菩提を弔われている。家康の関東入部、井伊直政が箕輪城主として入封、次男の直孝(幼名弁之助)は安中の「北野寺」へ預け られ秀算和尚について学んだ、後の彦根城主となる。

 

上野国へ進出の利家

 関東の平定は、秀吉にとって天下統一の総仕上げ、秀吉への屈伏を拒む北条氏を潰すため、利家も小田原へと出陣した。天正十八年碓氷峠より利家、松 井田城を攻めこれを落城させる。この地を支配した大導寺政繁の菩提寺「補陀寺」は徳川家光より朱印状が寄進された。同じく、将軍家光より朱印八十九石六斗 余拝領した。「不動寺」は寛文年間に慈猛上人により開創された。

 

国峰城と小幡氏

 天文年間、国峰城を築いた小幡氏は、鎌倉時代から甘楽地方の豪族で「風林火山」の旗印のもと武田軍団で活躍したが、信長との戦いに敗れた。小幡信 秀の開基と伝えられる「宗泉寺」に信秀は眠っている。

 

七日市藩と前田氏

 前田利家の五男利孝が、甘楽郡内一万石の領地を与えられた七日市村に陣やを置き、七日市藩が成立した。寛永十七年、二代利意が領内総検地を行う。 十代利和は、子供育成に力をいれ「生育講」の良政をした。十二代利昭までの250年余り前田氏が在府。「永心寺」は前田家の寄進によって、現在の本堂が出 来た。

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尾州宗春公書 関係資料          広辞苑第四版か ら抜粋

【始皇帝】しこうてい
秦の第一世皇帝。名は政。荘襄王の子。一説に実父は呂不韋。第三一代秦王。列国を滅ぼして、前二二一年中国史上最初の統一国家を築き、自ら始皇帝と称し た。法治主義をとり諸制を一新、郡県制度を施行、匈奴を討って黄河以北に逐い、万里の長城を増築し、焚書坑儒を行い、阿房宮や驪山(リザン)の陵を築 造。(在位 前247〜前221・前221〜前210)または(前259〜前210)

【武帝】ぶてい
前漢の第七代の皇帝。劉徹。内政を確立し匈奴(キヨウド)を漠北に追い、西域・安南・朝鮮半島を経略。儒教を政治教化の基とした。(在位 前141〜前87)または(前156〜前87)

【玄宗】げんそう
唐の第六代の皇帝。睿宗(エイソウ)の第三子。諱は隆基。初めは開元の治と呼ばれたが、晩年楊貴妃を寵愛するに及び、安史の乱が起り、蜀に逃れた。乱後、 長安に帰って没。明皇帝と諡(オクリナ)。明皇。(在位 712〜756)または(685〜762)

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天保の改革のポイント   「江戸時代の徳政秘史」中瀬勝太郎著 築地書館株式会社 一九九一年三月一日 初版発行より

@贅沢の大弾圧
 極端な消極的政策を微細に定める。
 「
身のほとを白猿ゆへの御咎を 手にしつかりと市川海老錠
         (「天言筆記」巻三)※白猿とは海老蔵の俳名

A自由競争の奨励
 物価の下落を誘導するために、十組問屋を廃止し、誰でも組合に加入することなく、自由に開業できることにし、自由競争の道を開いた。(こ れにより、毎年一万二百両宛の冥加金は幕府に入らなくなった)
 「城下衰態を極め、今日の家職難相立、商人共離散仕候共聊不頓着」という主義

B無利息永年賦令の発布
 「見渡せば米も俵もなかりけり 蔵の戸前を明る夕暮
 「
米のなき身にあわれを知られけり 麦焚く江戸の秋の夕暮
 「
酒は猶諸色も高く成にけり なき出す町のあわれ夕暮」 (「天言筆記」巻一)

    天保十三年八月四日の御布令
一 御蔵米取の者、数代の大借にて致難儀候ものも有之由に付、寛政度の振合を以て札差共より貸金の儀、棄捐にも可被仰付候処、右にては札 差共之内、身上難取続もの可有之、是迄も度々差出金致し、此度御改革の趣をも相弁へ利下も致候に付、棄捐之沙汰は無之、御蔵米取の者、永続為御手当、猿屋 町会所に於て、利安御貸付金被仰出候間、大借の者は右を以て札差共よりの借財致返済、二十五カ年目に棄捐に相所候筈に付、札差共儀も御仁恵の程厚く相弁 へ、年来表向に相成分候は、無利息永年賦に致し、其外総て御旗本御家人一同取続方無差支様可致云々

C町人の贅沢衣裳禁止
 旗本御家人らは相変わらず窮乏のどん底にあったが、町人たちの贅沢は限りがなく、その悪影響は武士に及ぼすものが多かった。そこで天保十 三年十一月九日に御布令を発した。

一 町人男女衣服の儀、前々相触候通り、絹紬、木綿麻布の外一切着用致間敷候、仮令絹紬に候共、羽二重、龍門に紛敷品、並に浮織等に似寄 候類総て手数相懸候、織方の品、可為無用候、御用達町人共の儀は、御目通へ罷出候節ばかり、羽二重、龍門の衣服着用する共、平日は御法度の衣類一切着用致 間敷候、若於相背候、吟味の上厳重の咎可申付候

 この御布令に一番に引っかかったのは、江戸新川の酒問屋、伊丹屋新兵衛の細君であった。彼女はある日、通旅籠町に堂々たる角店を開いている大丸呉服店か ら、小豆色の絹紬に、御法度の紅色本絹二反を買って、表へ出たところ、通りかかった町廻りの同心三人連れに呼び止められた。
 細君は年の頃なら二十七、八、色が白くて丸髷が粋な年増である。服装は地味な古渡り唐桟に、黒繻子の半襟のかかった袷に、黒繻子の幅の狭い帯を結んで両 端を長く垂れた流行の着こなしで、長い裾は素足の下駄に絡んでいた。
 同心らは彼女の抱える風呂敷包みをちょっと見せてくれと言いだした。細君は一旦は拒んだものの、それ以上はどうすることもできない。
 しかるに、開いた包みの中からは、先の本絹の紅裏二反が転がりだした。
 ついで同心達は、彼女の帯に目をつけた。これは正しくは本繻子で、当然禁制品である。手ついでにその帯も解いて、着物の裏や襦袢まで検査しろということ になり、泣き叫び嫌がる細君は、白昼大道の真ん中で、裸体にされてしまった。
 ところがあにはからんや、彼女の着ていた着物は、表こそ唐桟織であったが、裏は紅色本絹通し、しかも目の覚めるような緋縮緬の長襦袢は、いずれも上を恐 れざる禁制品のみであった。
 かくして、町同心らの傍若無人な取り調べが以降恒常化していく。
 しかし、こうまで町人を圧迫しても、「今日に当て天下の貨財は七分は富家に併呑せられたり、大国を持たる諸侯といへども、平生取扱ふ所の金銀は大抵富家 より借りたる金銀のみ」(佐藤信淵著「物価余論」)というのが現実だった。

D半額棒引令の発布
  天保十四年四月十六日に発せられた棒引令
一 諸大名御旗本の面々近来別て困窮候趣、達御聴此度以思召、馬喰町御用屋敷御取扱御代官御貸付、去る寅年を(昨年の事)限り、半高を棄 捐し、残金半高無利足、年割可為上納候旨、被仰出候事、但拝借後利納五カ年に不至ものは、五カ年納済之上、可為本文の通事
一 滞利金之儀は元金に準じ可有上納事

                                                (徳川十五代史)

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評定所を構成する三奉行など

 出所・「将軍と側用人の政治」大石慎三郎著  講談社新書
 

寺社奉行

ポストの格

万石以上の譜代大名がつく 。奏者番の中で有能な者が兼務するのが普通だったので、年齢も若く、さらに有能な者はここから大坂城代・京都所司代や老中に上がっていく。そのため、幕政 の見習いポスト的な意味合いもあった。

 

定員

4名

 

職務

寺社の支配、幕府内の連歌師、楽人、陰陽師、古筆見、碁、将棋といった職務者の支配。

 

 

 

 

 

 

町奉行

ポストの格

三千石級の旗本がつく。京都、大坂、奈良、山田(伊 勢)、長崎、駿府などにも置かれていて、大坂町奉行というように当該する所在地の名前を冠して呼ばれていた。
 所在地を冠さずに、単に「町奉行」と呼ばれたのは、江戸だけ。

 

定員

2名(一時3名のこともあった)

 

職務

江戸の行政、司法、警察などを担当。町民の安定のために、民事裁判も管轄する。
北町奉行と南町奉行とが交替で月番となり、非番の者は町奉行所の門を閉めて、前月に 受け付けた訴訟の処理などを行う。南北で行政区画の受け持ちが分割されていたわけではない。

 

 

 

 

 

 

勘定奉行

ポストの格

三千石級の旗本がつく

 

定員

4名

 

職務

郡代・代官を指揮して400万ないし450万石もある天領(幕府直轄地)の民政を行う。
年貢の収納事務をとる役職で、中央では幕府の財政事務を処理した。実質上の職務は三奉行の中で、もっとも重要であった。
 そのため、5代将軍綱吉のもとでは、家柄にとらわれず能力の有無で勘定奉行を任命するという制度改革が行われている。
 また、8代将軍吉宗の時代に、勘定所を公事方(司法担当)と勝手方(民政・財政担当)に分離させている。

 

 

 

 

 

 

大目付(大名目付・惣目付)

ポストの格

三千石級の旗本がつく(ただし、大名並の待遇)

 

職務

大名の生活や領地での政治の善し悪しを監察するとともに、幕府政庁の勤怠そのものを監察する。組織上は 老中の下だが、将軍に直訴する権限があり、老中も一目置く存在。

 

 

 

 

 

 

   付

ポストの格

千石相当の旗本がつく

 

職務

旗本・御家人を監察する。若年寄に属する。

 

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年貢を取る方法

 出所・「将軍と側用人の政治」大石慎三郎著  講談社新書

  
  検見取法(けみとりほう)

 その年々の米の出来具合を実際に細かく検査して、豊作・凶作に合わせて年貢の取り高を変
える方法。
 理論的には理想的な年貢の取り方である。
 【欠点】
 領主側にしてみると……毎年多くの労力を割いて検査しなければならず手間がかかる。
                代官が収賄によって手心を加えるので非効率。
 農民側にしてみると……毎秋に代官が行う村での実地検査は気苦労が多い。
                賄賂の出し方によって査定が変わるので納得できない。
 

定免法(じょうめんほう)

 その年に納める年貢量をあらかじめ決めておく。
 ※これに切り替えたのは、徳川吉宗とされている。
 【欠点】
 農民側にしてみると……大型の凶作があって収穫量が減ったような場合、年貢量が固定されて
いるために、農民にしわ寄せがいく。
 
 

破免法(はめんほう)

 基本は定免法だが、収穫量が30パーセント以上減るほどの凶作の場合、定免法を適用しない
というもの。この場合、定免法の代わりに検見取を適用する場合もある。
 ※吉宗が定免法の欠点を補うべく、ベテランの代官たちにモデル村落を作らせ、収穫量、生産
費、年貢量などを細かく計算させ、この誤差を少なくしようと研究したもの。
 これ以降、江戸時代が終わるまで、この方法が幕府の基本方針となる。


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二十四節気(神宮館瑞運暦より編集)

 古代中国でつくられた季節区分法です。
 太陽が春分点を出て再び春分点に達するまでを黄経360度とします。(これを周天360度と言います)これを24等分した位置にそれぞれの節気を配し て、一年の気候の推移を知るようにしたものです。各節気の1期間は約15日間です。
 この二十四節気が一ヶ月に二節ずつ配されて正節(せいせつ)※と中気(ちゅうき)に分けられています。そして正節を基準として節入りと称します。
 え・ふるでは出来る限り二十四節気に併せて、画面を更新しています。

立春(りっしゅん)
 太陽の黄経315度にあたり、旧暦正月寅の月の正節で、新暦では二月四日頃で節分の翌日になる。この日が旧冬と新春との境目。この日から春。

雨水(うすい)
 旧暦正月寅の月の中気で、新暦二月一八日から一九日頃。雨水ぬるみ、草木が発芽し始める。

啓蟄(けいちつ)
 旧暦二月卯の月の正節で、新暦三月六日頃。冬眠していた地中の虫が穴を啓いて這い出す頃。

春分(しゅんぶん)
 太陽の中心が春分点(天球上の赤道を太陽が南から北へ横切る瞬間の交点)に達し、太陽黄経0度になり、全地球上の昼と夜の長さがほぼ等しくなる。旧暦で は二月卯の中気で、新暦では三月二一日頃。一般には彼岸の中日。

清明(せいめい)
 旧暦三月辰の月の正節で、新暦四月四日〜五日頃。桜花爛漫、天地万物清新の気が満ちあふれる。

穀雨(こくう)
 旧暦三月辰の月の中気で、新暦四月二〇日頃。春雨は田畑を潤し、穀物の成長を助ける。

立夏(りっか)
 太陽黄経四五度のときにあたり、旧暦四月巳の月の正節で新暦五月六日頃。春色あせて、爽快な夏の気が立ち始める。

小満(しょうまん)
 旧暦四月巳の月の中気で、新暦五月二一日頃。陽気高調して、万物ほぼ満足する候。

芒種(ぼうしゅ)
 旧暦五月午の月の正節で、新暦六月五日〜六日頃。芒(のぎ)のある穀物を稼種(かしゅ)する季節。

夏至(げし)
 太陽が黄経九〇度のもっとも高い夏至点に達するときで、この日、北半球では昼が最も長くなり、夜が最も短くなる。旧暦午の中気で、新暦六月二一日頃。暑 さはまだ本格的でなく、梅雨しきり。

小暑(しょうしょ)
 旧暦六月未の月の正節で、新暦七月七日頃。この日から暑気に入り、日脚は徐々につまります。

大暑(たいしょ)
 旧暦六月未の月の中気で、新暦七月二三日頃。このころ暑さは絶頂に達し、夏の土用もこのころ。

立秋(りっしゅう)
 太陽黄経一三五度の時にあたり、旧暦七月申の月の正節で、新暦八月八日頃。暦の上ではこの日から秋になる。実際には真夏。

処暑(しょしょ)
 旧暦七月申の月の中気で、新暦八月二三日頃。暑さもようやくおさまり、朝夕は初秋の気配漂う。

白露(はくろ)
 旧暦八月酉の月の正節で、新暦九月八日頃。いよいよ秋も本格的となり、野草に白露が宿る。

秋分(しゅうぶん)
 太陽が秋分点(天球上で黄道と天の赤道との交点のうち太陽が赤道の北側から南側に移る点)に達した時で、赤道・黄経ともに一八〇度にあたる。旧暦八月酉 の中気で、新暦九月二三日〜四日頃。この日を秋の彼岸の中日と称し、昔から祖先を敬い、亡くなった人の御霊をしのぶ日となっている。春分と同じく夜・昼の 長さが等しく、これより徐々に昼が短く、夜が長くなってくる。

寒露(かんろ)
 旧暦九月戌の月の正節で、新暦十月九日頃。朝露を踏むと一段と冷たく、そぞろ秋の深まり行く候。

霜降(そうこう)
 旧暦九月戌の月の中気で、新暦十月二四日頃。秋気ようやく去り、各地で朝露を見る。

立冬(りっとう)
 これより冬に入るはじめの節。太陽黄経二二五度の時。旧暦十月亥の月の正節で、新暦十一月八日頃。日脚も目立って短くなる。

小雪(しょうせつ)
 旧暦十月亥の月の中気で、新暦十一月二二日〜三日頃。冬もやや進んで、北国から初雪の便りが聞かれる候。

大雪(たいせつ)
 旧暦一一月子の月の正節で、新暦一二月七日頃。北風が日増しに強くなり、しばしば降雪を見る。

冬至(とうじ)
 旧暦一一月子の月の中気で、新暦一二月二二日〜三日頃。北半球では太陽の高さが一年中で最も低くなり、昼が一番短く夜が一番長い。この日を境に、一陽来 復、日脚は徐々に伸びる。

小寒(しょうかん)
 旧暦一二月丑の月の正節で、新暦一月六日頃。寒気日増しに加わり、降雪をしばしば見る。

大寒(だいかん)
 旧暦一二月丑の月の中気で、新暦一月二一日頃。極寒に見舞われるが春遠からじ。

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江戸の刑罰

大泉古文書の会 南部 光氏編著 公裁御定書参考資料「江戸時代の刑罰の概要」より
幕府直轄地の一般庶民に適用された刑を中心に掲載しています。

死刑

身体

追放

拘束

財産

名誉刑/身分刑

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死刑

鋸挽(のこぎりびき)
 公開処刑。地中に埋めた箱(3尺×7尺)に罪人を入れ首かせをつける。罪状札(捨札)を立て、竹鋸を置き誰にでも首を挽かせた。三日後に磔。
磔(はりつけ)
 公開処刑。角材に縛り付け槍で突く。田畑、家屋敷、家財は闕所
獄門(ごくもん)
 牢内で首を切り、その首を二日三夜公衆にさらす。田畑、家屋敷、家財は闕所。
火罪(かざい)
 公開処刑。引き廻しの上火あぶり。田畑、家屋敷、家財は闕所。
死罪(しざい)
 牢内で首を切る。様(ためし=土壇場に立たされて刀の試斬りにされる)が付加。田畑、家屋敷、家財は闕所。
下手人・解死人(げしゅにん・げしにん)
 牢内で首を切る。闕所、様斬り、引廻しが付加されることはない。(現代でいう「傷害致死」のようなケースの場合に、この刑が科される)

※引廻しには「江戸中引廻し」(牢から出て牢へ戻る)と「五カ所引廻し」(牢を出て公開の刑場へ行く)の二種があり。


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身体刑

入墨(いれずみ)
 左上膊部に「腕廻し幅三分づつ二筋に入墨」。場合により、「敲」が付加される。
敲(たたき)
 牢屋敷門前で笞で罪人の背を叩く。重敲(じゅうたたき)一〇〇回、軽敲(けいたたき)五〇回。


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追放刑  (場合により、「敲」または「入墨の上、敲」が付加されることもある)

遠島(えんとう)
 江戸の場合、伊豆七島(大島、八丈島、三宅島、新島、神津島、御蔵島、利島)へ送る。のちに八丈、三宅、新島の三島に限定。京、大坂、西国、中国の場 合、薩摩、五島列島、隠岐、壱岐、天草郡へ送る。田畑、家屋敷、家財は闕所。
重追放(じゅうついほう)
 武蔵、相模、上野、下野、安房、上総、下総、常陸(ここまでで関八州)、山城、大和、摂津、和泉、肥前、東海道筋、木曽路筋、甲斐、駿河及び現住国と犯 罪地から追放。京都で執行される場合は上記の他に河内、近江、丹波が加わる。田畑、家屋敷、家財は闕 所
中追放(ちゅうついほう)
 武蔵、山城、大和、摂津、和泉、肥前、東海道筋、木曽路筋、下野、日光道中、甲斐、駿河および現住国と犯罪地から追放。田畑、家屋敷が闕所。
軽追放(けいついほう)
 江戸十里四方、京、大坂、東海道筋、日光、日光道中および現住国と犯罪地から追放。田畑が闕所。
江戸十里四方追放(えどじゅうりしほうついほう)
 日本橋から四方五里以内立入禁止。在方の者は居住地の村も立入禁止。
江戸払い(えどばらい)
 品川、板橋、千住、四ッ谷大木戸の内より追放。
所払(ところばらい)
 在方の者はその居村、江戸および市街地の者は、その居町から追放。
門前払(もんぜんばらい)
 奉行所の門前から追い放つ。

以下、四項目は僧侶に対する刑罰。
一宗構
 所属している宗旨から追放。宗旨替えはしてもよい。
一派構
 宗旨の内の所属している一派から追放。別派へは移れる。
追院
 奉行所で言い渡しを受けて、その場から放逐。寺へ帰ることを許さない。
退院
 言い渡しののち、いったん寺へ帰ってから放逐される。


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拘束刑

閉門(へいもん)
 武士および僧侶に対する罰。門を閉めて窓をふさぐ。
逼塞(ひっそく)
 武士および僧侶に対する罰。夜は潜り門より出入りしても良い。
遠慮(えんりょ)
 武士および僧侶に対する罰。門を閉め潜り門を引き寄せておく。夜は目立たないように出入りしても良い。
押込(おしこめ)
 武士と庶民に対する罰。戸を閉めておき他出を許さない。
戸〆(とじめ)
 庶民に対する罰。戸を釘付けにする。二〇日、三〇日、五〇日、七〇日、一〇〇日。
預(あずけ)
 未決囚に対する拘束または刑罰としての拘束。大名預(五百石以上の武士)、町預、村預、親類預、宿預など。場合により「手鎖の上、預」となる。
手鎖(てじょう・てぐさり)
 吟味中手鎖および過怠手鎖(三〇日、五〇日、一〇〇日)
牢(ろう)
 牢は原則として未決囚を収容したが、「過怠牢」とか「永牢」(終身刑)という禁固刑が科されることもあった。
人足寄場(にんそくよせば)
 無宿人対策として、当初は佐渡の金山へ送り、水替人足としたが、のち人足寄場が設けられ、無宿者を収容して労役を課した。


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財産刑

闕所(けっしょ)
 死罪など重罪の本刑に付加して科される財産の没収刑。磔、火罪、獄門、死罪、重追放に対して田畑、家屋敷、家財が闕所。中追放は田畑、家屋敷が、軽追放 は田畑がそれぞれ闕所になった。利欲にかかる犯罪では江戸十里四方追放や所払でも田畑、家屋敷が闕所。
過料(かりょう)
 
軽過料 銭三貫文/五貫文
 
重過料 銭一〇貫文以上、金二〇両/三〇両
 
応分過料 身分に従い料する。
 
小間過料 家の間口の大きさに応じて科する。
 
村過料 村高に応じて科する。高一〇〇石につき銭二貫文程度。過料が納められない者には手 鎖で代えることもある。


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名誉刑/身分刑

晒(さらし)
 日本橋で三日間公衆の面前に晒す。
奴(やっこ)
 女性のみに科される。
非人手下(ひにんてか)
 非人頭へ引き渡し非人とする。
役儀取上(やくぎとりあげ)
 名主、組頭等の免職。
叱(しかり)
 お上からの叱責。
急度叱(きっとしかり)
 叱の重いもの。叱、急度叱とも保証人連署の請状を提出

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身近な役人、手附と手代

出所・「菜の花の沖(四)」 司馬遼太郎著  文藝春秋 発行 より 抜粋

 郡代・代官は、直轄領の長官であるため、幕府の中央から赴任し、数年で転任する。たいてい、後代の大蔵省にあたる勘定所の役人が任命された。民心 を得るように、行政能力のほか、人格の審査が厳しく、徳のある心やさしい者が選ばれることが多かった。
 郡代・代官の役所には、実務の責任者として「手附」という者がいる。身分は上級職で、幕臣から選ばれる。もっとも、旗本よりも御家人であることが多い。 明治憲法下の官制でいえば書記官であろう。
 
「手附」までが「官」であった。その下に、
 
「手代」という「吏」がいる。これが、地役人である。手附までの給与は幕府から出るが、手 代の給与は、郡代・代官の経費内で賄われる。つまりは「御雇」である。雇員である以上、幕府の職制に氏名が登録されることは、決してない。
 
吏員である手代は、現地現地の農民身分の中から、学識・処理能力の卓越した者を選抜して採用されるのであ る。
  (中略)
 
手附のような幕臣は、「譜代席」という。これに対し、手代のような一代抱の地役人は「抱席(かかえせ き)」と呼ばれた。
  (中略)
 郡代・代官所の行政事務をとる「手附・手代」は、職務内容は変わりがないのである。むしろ手代はその個人的能力によって抜擢された者だけに、幕臣である 手附よりも事務に長じ、土地の事情にあかるい。
 手代は農民あがりながら、大小を帯び、侍の姿をとる(もっとも、江戸幕府の初期は、手代は大小を帯びなかった。野差(のざし)と呼ばれる長脇差を一本だ け帯びていたが、やがてけじめがみだれ、いつのほどか両刀を帯び、武士と寸分変わらぬ姿をするようになった)。
 ただし、手代は、郡代・代官あるいは奉行という高官の前に出るときは、役所の玄関に両刀を置き、丸腰で出た。これに対し幕臣である手附は、小刀を帯び、 大刀は右に置いて儀礼をしたり、御用をうけたまわった。
 (中略)
 諸藩の藩士という者も、なにかの公務のために幕臣の前に出るときは、いかに家老身分であっても、丸腰になった。大名と旗本だけが、将軍の直々の臣なので ある。大名の家来は、大名がいわば勝手に−私的に−召し抱えている者であるために、将軍という頂点からみれば、
「陪臣(ばいしん)(又者(またもの))」
 になる。本来、身分価値を数式的に捨象してゆけば、将軍の座という絶対値から見ると、陪臣は百姓と変わらないのである。

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