緑風百景 緑風百景
Side Story
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【凪】
 
【凪】 「痕」梓SS  [1][2][3]
Scene3 (Rrv.1)

 水門は、いつものように変わりなくあたし達を迎え
てくれた。『遊泳禁止』と本当は書かかれていたんだ
ろうが、今じゃ錆びてボロボロに朽ち果てた看板の横
を通り過ぎ、敷地内に2人で足を入れる。目の前にあ
る深い緑色をした湖によって急に視界が広がる。今日
は放水をしていないのか、滝のように流れる水の音も
なく、辺りはとても静かだ。

「はぁ…着いた着いた。楓、大丈夫?」

「うん、平気」

 ちらりと横目で見る。
 …うん、顔色もいつもの通りだし、本当に大丈夫な
ようだな。

「ほら、これを敷いて座りな」

 首に巻いていたスポーツタオルを取り楓に渡す。

「あ、ありがとう」

 そう言って楓は受け取り、タオルを奇麗に折り畳み
始めた。

 足元にバッグを置き、う〜んとのびをして大きく深
呼吸する。森の澄んだ空気で肺がいっぱいに満たされ
ていくのが分かる。
 そして顔を上げ、おもむろに目を閉じて感覚を研ぎ
澄ませる。草木の薫り、静かに風で揺れる木々の葉の
音、遠くで鳴いている蝉の声…視覚を塞いでいるので
それらが一層はっきりと感じられる。自分自身、田舎
に住んでいるという自覚はあるが、こういう時はやは
り田舎に住んでいてよかったなぁと再確認する。

 ふと、遠くの方で低い音が鳴っているのに気付く。
それも一定のリズムを伴って…これは…太鼓?

「太鼓?
あっそうだ! そろそろ夏祭りだったんだ」

「姉さんも聞いてたの?」

 既に座っていた楓から返事があった。彼女も同じこ
とをしていたようだ。

「うん、聞こえてきた。…そっか…もうすぐお盆だよ
なぁ…。まったく、全然気にしてなかったよ」

 そうだよな、もうすぐ8月も半ばなんだし、毎年楽
しみにして待っているのになぁ…。まだまだ日常感覚
を取り戻していない……か。

「『今日から神社の境内で祭囃子の練習が始まるよ』
って白蓮おばさんから聞いて…それで『ここうるさく
なっちゃうから、もう帰った方が落ち着くよ』って私
のこと心配して言ってくれたから、それで今日帰るこ
とにしたの」

 楓はそう言ってフフッと笑顔を見せた。今は日陰の
中にいるので、麦わら帽子は外してひざの上に置いて
いる。

「なるほどなぁ。そりゃ、ここででも聞こえるくらい
なんだから、間近でやられちゃぁなぁ…休めるわけな
いよな」

 うんうんと納得する。ちなみに「白蓮(はくれん)
おばさん」て人は秋月神社の巫女さん…だけど、この
神社の本当の主でもある。とても優しくて、そして不
思議なおばさんだ。
 そんなことを話しながら、しばらく遠くで聞こえて
くる祭囃子に耳を傾けていた。




「…今日は走らないの?」

 ふいに楓がたずねてきた。

「今日は…いいや…。朝、クラブで結構走ってきたか
らさぁ…」

 そう答えながら、目の前にある水門の橋を見る。

「……でも…ちょっと寄ってくるわ」

 あたしはそう言って立ち上がり、誘われるように橋
へと歩き始めた。
 最後に来たのは2ヶ月くらい前かな? ふと、橋の
向こうに賢治おじさんがいつものようにいるような既
視感にとらわれてしまう。
 橋に辿り着く。地面の柔らかさと分厚い鉄の板の硬
質な感触のコントラストが、スニーカーを通して感じ
られる。真っ直ぐと向こう側へと続く道を歩く。コツ
コツという足音が自分の心に響いてくる。

 静かだ……そういえば、さっきまで聞こえていた祭
囃子も、もう聞こえてこない。外にいるのに、何も外
からの情報が入ってこない。頭の中に浮かびあがるの
は過去の映像。賢治おじさんの、いつも一緒だった煙
草臭いブルーグレーのシャツと黄色いタオル、そして
暖かくて大きな手。目の前の風景が色褪せ、そこにい
ないはずの幻影が鮮やかに彩られて……。

『いけない!』

 はっと我に返る。立ち止まると、丁度橋の中ほどに
いた。左手を欄干にかけてもたれかかり、大きく深呼
吸する。橋の向こうには………誰もいない。

『あたりまえだ…あたし何やってるんだ!』

 くるりと左を向く。視界が湖の落ちついた深い緑で
いっぱいになる。そしてもう一度深呼吸。
 ……思ったよりダメージがまだ残ってるもんだな。
『こんなのじゃだめだ』ってずっと思っているはずな
のに。落ち着こう、想い出は想い出として心の中で整
理しなきゃ。慣れないなんて言ってられない。
 目の前の湖の景色を、ぼんやりと眺める。少しは落
ち着いただろうか。

 そうだ、あれから1年経ったんだな…あたしが『鬼
の力』を手に入れてから……。




 あたしは、小さい頃から体を動かすのが大好きだっ
た。四姉妹の中では、運動が好きなのはあたしくらい
だったので、一人で野山を駆け回ったり、小山を探検
して秘密基地なんか作ったりして、親を困らせること
をするのが一番多かったような気もする。

 中学に入ると速攻で陸上部に入った。他のクラブの
ことも一応考えては見たんだが、あたしにはやっぱり
純粋に『走る』にこだわれる陸上部が一番向いてるん
じゃないかなって結論を出した。実際、クラブ活動は
すごく楽しかった。部内の順位としては中の上あたり
をうろうろするくらいだったが、自分自身が楽しめて
るんだから、そういうことは全然関係なかった。

 高校に上がってからも、それが当たり前であるかの
ように陸上は続けた。1年の秋を終えようとする頃か
ら、徐々にあたし短距離走の記録が良くなってきた。
そのこと自体は純粋に嬉しかっけど、2年になり部内
でも上位に名前が書かれるようになってきた頃から、
イヤな予感を感じるようになってきた。
 そして、一学期を終える頃のとある日、クラブ活動
をいつものように過ごし、校内に誰もいなくなるのを
待って、日が傾きかけた茜色に染まる運動場で、あた
しは独りで100mを全力で走った。そのタイムを見
て、あたしは気付いた…気付いてしまった…知ってし
まった…。

『あぁ、これは……鬼の力なんだな……』

 それから、その夏休みの間は腑抜けも同然だった。
クラブの方は、初日に『転んで足をひどく捻挫して、
歩くだけでも痛いので休みます』という具合に伝えて
おいて、一度も行かなかった。もう家で家事だけはし
て、後はゴロゴロ暇つぶしをしているだけの、自分に
とっては非常につまらなくってしょうがない日々を過
ごしていた。姉や妹達には、詳しい事情は話していな
かったが、感情をごまかすのが苦手なあたしだったか
ら、たぶんすぐに分かっただろうと思う。初音なんか
は、こちらからは何もまだ言ってないのに「わたし、
梓お姉ちゃんが元気になるまでは、お買い物はわたし
が行くね」なんか言ってくれていたし…。

 姉妹みんなの気遣いはとても嬉しかったし、すまな
いと思った。それに、千鶴姉ぇや楓はもう既に鬼の力
と戦っているのに、あたしだけ『自分だけは』なんて
いうのは考えたくなかった。でも、だからといってす
ぐにこの立場を受け入れることもできず、うだうだと
不満たらたらな顔を家族に見せたままだった。
 でも……せめて、このことでみんなの前で泣いたり
怒ったりはしないでおこう。これだけは心の中で誓っ
ていた。

 8月を少し過ぎた頃、縁側でぼぉ〜っとひなたぼっ
こをしていたあたしに、遠く玄関側から声がかかって
きた。年配の男の声…当然ながら賢治おじさんだ。

「水門に釣りにでも行こうか?」

 縁側にいるあたしを見つけたおじさんは、そう話を
切り出してきた。おじさんの方を見たら、もう準備万
端な出で立ちだった。家でいつも着ている、使い古し
のブルーグレーのシャツと、おなじくよれよれの灰色
のズボン。右手には釣り竿、左手には魚籠(びく)と
吊り道具一式の入った袋。首には他の地味な服装から
浮いてしまうくらい明るい、黄色のスポーツタオル。
それはもう断る隙を入れられないような雰囲気があっ
た。そして、おじさんが誘ってくれた本当のわけをす
ぐに感じたあたしは、二つ返事で「うん、行く行く」
と答えた。
 『とうとう来たな……』と心の中で呟きながら。

 水門に着いて、橋の中ほどで二人して釣りを始めた
はいいが、お互い相手のことを気にしていて、全然成
果は上がらない。しかも、そのことについてさえも話
しかけられないでいた。
 蝉もひとしきり鳴いて、辺りも静かになったかなと
思っていたら、賢治おじさんが話しかけてきた。

「梓……ちょっといいかな?」

 釣り竿は持ったままで、横目でちらっとあたしを見
ている。その表情は、いつもとかわらない優しい顔を
していた。

「う、うん。いいよ」

 答えるあたしは、少し声がうわずってしまった。

「そろそろ、お前に話しておかなくちゃならないこと
があるんだ」

 そう言いながら、おじさんはゆっくりと釣り竿を脇
に置いた。そして小さくため息。その姿を見て、あた
しはひどく悪いことをしてしまったような気がした。
……どうすればいいかは分かってるのに。
……あたしのばか。

「わかってる、わかってるよ」

 おじさんの声を塞ぐように、ことさら大きく明るく
喋ろうとした。

「鬼の力のことでしょ? うん、この間からだんだん
と気持ちも整理できてきたから…。みんなに心配させ
てゴメン。力のことは、前から千鶴姉ぇに大体のこと
教えてもらってるから大丈夫。力を他のみんなに見せ
るようなことは絶対にしないし、力に負けないよう精
一杯頑張るから……平気だから……」

 だめだ、言葉が詰まってしまう。

 ポンッ、うつむいたあたしの頭をおじさんが軽く叩
いた。「へっ?」と変な声で返事して顔を上げると、
いつのまにか賢治おじさんは、真っ直ぐこっちを向い
ていた。少しドキリとしてしまう。

「お前達は……本当に…」

 そういう賢治おじさんの顔は、優しそうなそれでい
て淋しそうなそんな表情をしていた。

「おれにそんなに気を使わなくていいんだよ。これは
おれの償いなんだから……」

「『償い』って…」

 それは予想外の言葉だった。一体どういうこと?

「なんで『償い』なの? あたし分からない」

「そうか…。兄貴はお前達に、昔のことは何も言って
なかったんだな。
 梓、おれがどうしてこの隆山から離れて暮らしてい
たのか分かるかい?」

 さっきと同じく想像もしていなかった質問だ。ただ
でさえ頭の中がいっぱいなのに、考える余裕なんて全
然ない。

「おれはね、家出をしていたんだ」

「えっ? えぇっ?」

 言葉が出てこない。いままで頭の中で考えていたこ
とが全て真っ白になってしまうような、そんな賢治お
じさんの台詞だった。

「おれがまだ若かった時は、この町の人の柏木家を見
る目は、今よりももっともっとイヤなものだった。そ
の重っ苦しい空気が堪えられなくって、おれは何度も
親父に『卒業したらこの町を出て独りで生きていく』
って言ってたんだ。もちろん、親父も兄貴も賛成はし
てくれなかったんで、よく喧嘩もしてお互い仲が悪く
なっていったな。…いや、今思うとそれは自分だけの
ことなのかもしれんが。
 それで、ある晩おれはこっそりと家を抜けだした。
『自由になりたい』とか、そういう理由は一応考えて
はいたんだけど…ようは家出…逃げたかったんだ。柏
木家のことを忘れようとして。
 しばらくは、あちこち点々と暮らしていた。あいつ
と結婚して耕一が生まれてからは、前に住んでいた場
所でこれからもずっと一緒にいようとか考えていた。
……それでいいと思っていた。
 それから10年くらい経って、突然家に兄貴からの
速達が来たんだ。『親父が死んだから葬式に来て欲し
い』っていう内容だった。居場所がばれてるってのに
も驚いたが、仕方がないので行った葬式の日、兄貴と
お前達4人を見て……おれはとんでもないことをして
いたのにやっと気がついた。おれは、自分のことしか
考えていない大莫迦だったよ。
 梓、これはおれの…おれなりのお前達や兄貴、親父
への償いなんだ。兄貴…お前達の父さんの代わりはで
きないと思う。ただ、年上だからその分少しは伝えら
れること…出来ることがあると思ってるんだ。
 だから、おれに遠慮しなくていい…いや、遠慮しな
いで欲しいんだ……」

 真っ直ぐな瞳であたしを見ながら、ゆっくりとそう
語った。

「一度にこんなに言われたって…あたし分からない」

 今の私にはこう答えるのが精一杯だった。すると、
さっきと同じように、またおじさんの大きな手が頭の
上に乗ってきた。でも今度は叩くのではなく、優しく
子供をあやすように撫でてくれた。なんとなく、あた
しもつられて背中が丸くなってしまう。

「ごめん、ごめんな…梓。ちょっと一人で喋りすぎた
ようだ…。言いたかったことは、おれは柏木家の人間
として、これからはずっとお前達を見守っていきたい
……そういうことだ」

「うん…うん……」

 本当に子供にかえったような、そんな不思議な気分
で返事をする。

「話を、最初に戻そうかな。
 梓、おまえは鬼の力が目覚めつつあるんだね?」

「うん…」

「……言い方は悪いかもしれんが、手に入れたものを
返すことができないなら、受け入れて一緒に過ごすし
か道はない。柏木家は、今までも…たぶんこれからも
そうやって生きていくしかないんだ」

「うん…分かってる………つもりだよ」

「それから、この力は他の人には見せてはだめだ。人
として暮らして行きたいなら当然の事だな。
……って、言おうと思ってたのにおまえ先に言ってし
まうんだもんなぁ」

 突然話し方が変わったので、とまどってあたしは顔
を上げる。すると、それを狙っていたかのように、い
ままで撫でていた手がコツンと頭を叩く。

「まぁそれはそれとして…。
 力は他の人には見せてはいけない。でも、おれには
見せてくれないかな?」

「ど、どういうこと?」

 驚いているあたしの両肩に、今度はポンッと手を置
かれた。少し緊張して肩が踊る。

「この水門の橋は、丁度100mくらい長さがあって
な。真っ直ぐだし走るのには都合がいいと思うんだが
……どうかな? おれに梓の本気の走りってのを見せ
てくれないかな?」

「えっ、そんな……いきなり言われたって…」

 どうしよう…ここにきてから色々考えることがあっ
て全然頭の中が整理できていない。でも…

「……わかった。やってみる…走ってみるよ」

 一度無心に走る事で、自分自身が落ち着くかもしれ
ない。…そう思った。 

「じゃぁ、おれは向こうでいるからな。梓は反対側に
行って、準備が出来たら手でも振って合図をしてくれ
な。…じゃぁ、がんばれよ!」

 賢治おじさんは、なんだかとても嬉しそうな顔をし
て、もう一度あたしの両肩を軽く叩いた。そして、ま
わりの釣り道具を片付けると、さっさと向こう側へ歩
いていった。
 
『あっ、あたしも行かなきゃ』

 自分の事なんだから…。

 賢治おじさんと反対側に着いた後で、少しだけスト
レッチをして体をほぐした。それとともに、なんとな
く少しだけ気分も落ち着いてきたような気がする。ほ
ぼ半月くらい家でじっとしていたから…。単純かもし
れないが、やっぱりあたしは体を動かしているのが性
に合ってるみたいだ。

 再び橋の前に戻ってきた。真っ直ぐと延びる道。そ
の向こうに賢治おじさんがいる。こちらを見て立って
いるので、首に巻いたタオルの黄色がやけに目立つ。
その姿を見て、さっきのまでのことを思い出し、また
動揺してしまう。

『落ち着け…自分をしっかりと持て! 今、走ること
ができなければ、これからもずっとずっと止まったま
んまだぞ!』

 両頬を叩き自分に喝を入れる。ゆっくりと目を閉じ
深く大きく深呼吸する。そして、手を胸の前に当てて
いつものおまじないを唱える。

 …よし!

 目を開けて橋の向こうを見据える。目を閉じる前と
同じように、おじさんはまだ待ってくれている。遠い
からよく分からないけど、たぶんずっとあたしを見て
いてくれている。

 ふと、これから自分がすることの意味が、おぼろげ
ながら分かってきたような気がする。

『これは……儀式なんだ……』

 覚悟を決めて一歩前に出る。そして、賢治おじさん
に向かって大きく手を振る。早速向こうもタオルを振
り回して合図している。

『今日あったことを、ずっと忘れないための儀式…』

 しゃがんでスタートの準備をする。おじさんの持っ
ている黄色いタオルがゆっくりと上げられ、そして振
り下ろされた。そして、あたしは走り出す! 土でも
コンクリートでもない鉄板の反動が、靴底に違和感を
感じさせる。

『今走るのは、鬼の力に負けないあたしになるため。
だから、さっきまでのことを心から追い出さないで、
ずっと抱いたまま走りきらなきゃ…。
 スタートを切るまでのあたしは、いままでの普通の
人間だったあたし。そして、ゴールに着いた後のあた
しは、鬼の力を知っているあたし。本当はもうそこに
いなければいけなかったのに…。
 でも、いまから走るから…追いつくから』

 細くて真っ直ぐ続く道を、全力で走ろうとする。し
かし、心の中に抱え込んだ感情が、力を出そうにも押
え込んでしまう。

『負けちゃだめだ…負けたくない!』

 半分は走りきった、もうすぐゴールだ。賢治おじさ
んが待ってくれている。でも、その姿がだんだんとに
じんでくる。もう無我夢中で、ブルーグレーのにじみ
めがけて走っていった。

 ボスッ!

 あたしは、賢治おじさんにタックルを掛けたような
感じで飛び込んでいったようだ。おじさんは、そのま
まあたしを抱きかかえてくれた。

「よし…。 梓、よく頑張ったな。やっぱり梓は足が
早いなぁ」

 頭の上で、そんな声が聞こえてくる。でも、あたし
は答えることも顔を上げることもできない。

「ん…どうした? まだまだお前の力は、こんなもん
じゃないってか?」

「当たり前だっ!」

 走った後の乾ききった喉を気にせずに、あたしは大
声で叫んだ。

「当たり前だ! ……こんなの…こんなのちっとも本
気じゃない!」

 あたしは我慢するのをやめた。賢治おじさんの胸に
顔を埋めて大声で泣いた。おじさんは、その間ずっと
あたしを優しく抱きしめていてくれた……。


 それからは、月に1回のペースで賢治おじさんと水
門に走りに行くことになった。最初は恥ずかしいから
姉妹には内緒にするつもりだったんだが、3回めの時
にカンのいい初音に気付かれて、結局その後は家族全
員で行くという、なんだかピクニックみたいな様相に
なってしまった。でも、そのほうが楽しい一時を過ご
していたことに変わりない。




 目の前の湖の景色が、わずかに暗くなったような気
がする。あたしにしては、信じられないくらい長い間
考え事をしていたようだ。おかげで、少しは心の中整
理できたかな?

 賢治おじさんのことは、想い出にして忘れたいわけ
じゃない。過去だけを見つめて空回するようなことを
したくないだけ。

 わかってくれるよね、賢治おじさん……。


「梓姉さん…」

 楓の声がする。いつの間にか、あたしのそばに来て
いたようだ。顔を上げると、心配そうに見つめている
瞳と目が合う。

「姉さん、そろそろ帰らないと…」

「あっ、そうだな…悪ぃ悪ぃ。晩飯の準備しないとい
けないな…」

 返事をしながらそそくさと立ち上がる。声がしどろ
もどろになってしまって、少し焦る。一気に現実の風
が吹いてきたような気がする。

「…そ、そうだね…帰らなきゃね。ハハハ…」

 妹相手に愛想笑いもナンだが、とっさに対処するに
は、あたしにはこれしかできない。

「姉さん…もしかして…」

 楓の次の言葉が簡単に想像できる。あたしがここに
時間潰しに来た本当の理由……。

「耕一さんのこと……まだ恐いの?」

 その言葉とともにあたしは思い出してしまう。あの
時の涙で濡れた目を、糾弾するかの表情を、声に出さ
なくても聞こえてくる叫びを。…そして、それが恐く
て俯いたままだったあたしを……。

「…………うん」

 あたしはか細い声でそう答えるしか出来なかった。

 …あたしは、まだ過去に囚われている。

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