| はじめまして。 アスレティック・トレーナーの中村千秋です。 これから私の経歴や現在の仕事等について書いてみます。 現在トレーナーとしてご活躍の方や、これからトレーナーになろうかな氈Aとお考えの方に、中村千秋 の人物像やそれを通してのトレーナー像が浮かんでくるようであれば幸いです。 中村千秋は1957年に山と川と海の美しい(美しかった)広島県広島市で生まれ、高校を卒業し浪人生活を修了するまで両親と妹と幸せに暮らしました。この間の現在の職業に関係するような出来事として、陸上競技、中学校の臨海学校のインストラクター、米軍海兵隊岩国基地内でのアメリカンフットボール、ボディビルセンター通い、があげられます。 授業料の安さと医学部併設の理由で選んだ順天堂大学体育学部健康学科を1981年に卒業し、直ちに同大学大学院体育学研究科体力学專修に入学、1983年に修了しました。大学入学当初より大学院に進むことを決めていましたが、どの分野で修士号をとるかは決めかねていました。結局、所属したラグビー部(当時は同好会)の先輩の強い勧めで運動生理学を選び、研究室へは一年生から顔を出していました。 学部時代は運動生理の研究室生活を厳しいながら楽しみましたし、ラグビーを熱心に練習したり、医学部のヨット部に入って女子大生とコンパなんかやりました。ラグビー部のコンパよりよかったです。ハッハ。 大学院時代は研究に人生を割きました。体が壊れたのにはびっくりしました。修士論文は、呼吸筋(横隔膜と肋間筋)の筋線維タイプ別に生じるグリコーゲンの枯渇パターン、で書きました。筋肉の組織化学的研究ですが、当時は筋バイオプシーが世界で大流行しており、私も時流に乗ったわけです。私の両方の大腿部には今でも筋バイオプシーの痕が5箇所残っています。私の実験ではラットを用いました。 順天堂大学時代に遭遇したトレーナー的経験といえば、生協前のホールでJ & Jのテーピング講習会が開かれ、参加したかった私はとうとう参加できなかったことくらいです。ひょっとしたらあの時は鹿倉二郎ATCさんが講師としていらしてたのかもしれません。 大学生活でバーンアウトした私は就職もせず故郷の広島へ帰り、毎日、読書と、ボディビルジム通いと、ご存知流れ川にあるダックというスナックに顔を出して店のユカリちゃんと看板までデュエットすることを文字どおり365日続けました。春の平和公園の桜は本当に美しかったなあ。この様な呆けた生活を許してくれた、広島大学教授でいらした故菊地邦雄先生(当時私は広島大学の研究生だった)と両親に心より感謝いたします。 とはいっても、この間、市のスポーツセンターでバイトをしたり(飲み代欲しさ)、冬の国体の広島代表の監督???で釧路へ行ったり、いくつかの研究発表もしました。 そんな私に順天堂大学から召集令状が届き、26歳で再び習志野(順天堂)に戻ってスポーツ医学教室の助手になったのですが、そこで私を待ち受けていたのが当時大学院の2年生だった、現国際武道大学助教授の山本利春先生です。はっきり言って、順天堂に戻って山本利春先生に会ったことが私の人生の大きな岐路でした。 順天堂の助手とはいっても私の職場は大学内ではなく、実は成田空港内にある日本航空株式会社のオペレーションセンターでした。そこで私は主に客室乗務員(スチュワーデスとも言う)の体力管理、健康管理にたずさわっていましたが、終業後は、修士論文をひかえている山本利春(先生)に知ったか振りの先輩風を吹かせようと習志野まで車を走らせました。が、このもくろみは簡単に打ち破られました。何しろ彼がとりかかっていた研究は私にはチンプンカンプンで、反対に山本利春先生から随分とたくさんのことを教わることになったのです。 日本航空のラグビー部でブリブリ走っていた(つもりの)私に、クラブは別の役割を与えました。すなわちトレーナーです。フィールド上で発生するいかなる事に対してもうまく対処できなかった私は、山本利春先生に教えを頂いたり、ソニーのテーピング講習会に参加して何とかラグビー部に貢献しようと努めました。そうする中で、選手にいろいろサービスすることで選手のパフォーマンスが維持できたり、選手から喜んでもらえることがすなわち自分自身の喜びだったりする体験が重なったわけです。 山本先生に相談するとアメリカのNATAの存在を説明してくれました。また、順天堂の先輩の吉田陽一氏がすでにATCであることを知り、吉田さんにアクセスしたりしながら、NATAの情報を集めたわけです。もっとも、集まった情報は、TOEFL500点は必要で、あとは金と運と根性だな、程度でした。今考えたら恐ろしいです。 31歳になる年の1988年にアメリカへ向け片道切符で飛行機に乗り、ツーソン、アリゾナへ降り立った私はいきなり熱風にあおられ、一瞬ひるんだのですが、デビルと呼ばれるあの太陽と雲ひとつ無い紺碧の空を見上げて、一言、ヤッタゼとつぶやき、すでに渡米の成功を確信していました。さらに、大学院のプログラムをねらっていたアリゾナ大学のキャンパスを見たとたん、ほとんど恍惚状態に陥っていました。不思議なほどノーテンキですね、まだ入学できるとも決まっていなかったのに。 アメリカ留学中から現在に関しては、続編ということでお待ち下さいませ。 私はこれから飛行機でアリゾナへ向かいます。本当に。乗り遅れてはいけないのでこのへんで。 (July 10,1999) |