| 1.太田市の歴史 |
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| −市域における人類のあけぼのは、今のところ、旧石器時代後期(約15,000年前)まで溯ることができる。群馬県内では、この時期に人口の増加があるようであり、遺跡の分布も広がりを見せるようになるが、太田市もその中に含まれてくる。遺跡は、丘陵部とその裾部周辺域のみでなく、沖積低地に面した低台地縁辺部にも立地するようになった。焼山遺跡・金井口遺跡・戸井口遺跡・東別所遺跡などが知られる。焼山丘陵の南に営まれた戸井口遺跡では、ナイフ形石器・尖頭器・石刃・剥片など1,200点を超える石器類が出土しており、現在のところ東毛地域最大の旧石器遺跡である。 |
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−縄文時代全体を通じ、太田市で発見された遺跡は少なく、規模も小さい。縄文時代最大の人口増が見られた中期においても、南関東に見られるような大規模集落は見つかっていない。 −草創期の遺跡立地は、旧石器時代と大きく変わることなく、また、早期になっても目立った遺跡数の増加は見られない。その中でも、金山の東側にある下宿遺跡においては、土壙墓・住居址と推定されている。特に、出土した爪形文土器は、残存部分が多く、日本最古期の土器文化を知る上で貴重な資料である。 −早期後半の縄文海進が終わり、海退期へと移行する頃から縄文前期となる。前期前葉には、東毛地域で、中小河川に面する台地上などに集落が形成されるようになった。拠点的な大集落も出現するようになり、間之原遺跡では、26軒の居住址が、大地上に馬蹄形の分布を成して発見されている。しかし、次期への継続性と発展性は認められず終息してしまっている。 −前期中葉になると、再び東毛平野部の遺跡数は減少する。赤城南麓や西毛において、諸磯C期の遺跡が急増する傾向を示すのと対照的である。 −中期後葉になると、遺跡数は増加する。しかし、関東地方全体の傾向からすると、分布密度は低く、集落規模も小さい。中期末から後期初頭にかけては、集落が継続的に営まれる傾向にある。太田市ではこの時期が、縄文時代全般を通しても最も遺跡数が多くなる。この時期の遺跡として、間之原遺跡・堂原遺跡などがあげられる。 −後期後葉から遺跡数は再び減少する。調査例では、間之原遺跡があげられる。晩期では、大道東遺跡が知られるが、実態は明らかでない。 |
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−太田市域では中期中葉から後期になって、沖積低地の徴高地上に、集落が進出するようになった。これは、小谷地形を水稲耕作地として利用したことによるものと考えられる。このような場所に立地する遺跡として、駒形北遺跡、磯之宮遺跡などが知られるが、遺跡数は極めて少なく、また継続性もない。太田市域では、広大な低湿地が広がり、当時の土木技術では充分な水田開発が進まなかったものと推定される。典型的な弥生時代の集落遺跡は認められていない。 −一方では、丘陵部にも集落が形成されている。後期には、平野部の遺跡より、むしろこのような立地の遺跡が優勢であり、小河川を有する丘陵下の谷地形を利用した水稲耕作が行われていたようである。太田市北部の八王子丘陵では、古墳時代後期までこのような遺跡立地がみられる。 |
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−古墳時代が始まろうとする4世紀頃の太田市域では、伊勢湾を中心とした東海地域にある土器とよく似た石田川式土器(北関東北部の標識土器)を使用する「むら」が急速に形成されるようになった。遺跡としては石田川遺跡・五反田遺跡などが知られ、その立地する地形は、太田市南西部などの扇状地扇端に広がる、水田耕作に適した肥沃な沖積地内の微高地が選ばれた。そして遺跡数も、弥生時代以前に比較すると極端に増加するようになった。富沢古墳群では、この時代の住居とともに、方形・円形周溝墓と方墳が発見され、この時期の「むら」の形態が明らかになっている。 −こうした「むら」は、強大な力を持った首長により次第に統合されるようになり、大きな権力の象徴として前方後円墳などが築造された。古墳は、眺望がよく、しかも肥沃な沖積地を臨む丘陵・山頂・台地縁辺に築造されるものが多い。前方後方墳の寺山古墳・矢場薬師塚古墳、前方後円墳の八幡山古墳・朝子塚古墳などがあげられる。 −5世紀代に入ると、円墳の上小林稲荷山古墳、前方後円墳の円福寺(別所)茶臼山古墳・鶴山古墳などに続き、帆立貝形古墳(造り出し付き円墳)の女体山古墳や東日本最大の規模をもった大前方後円墳天神山古墳が出現し、太田市域の大形前方後円墳の築造は頂点に達した。このことは、墳形規模に誇示された政治・経済・軍事力を持つ首長が、太田市域に生まれたことを物語るものであり、古墳の被葬者は「畿内大和政権」と結び付きを持った、「毛野国」を統括する豪族であったと考えられている。 −成塚住宅団地内遺跡は、縄文時代から平安時代前期にわたる大規模な複合遺跡であるが、ここからは5世紀代の居館址が発見されており、今後、市内でも天神山古墳の被葬者を始めとした豪族の居館址が発見される可能性がある。 −古墳時代後半を迎えると、天神山古墳に代表されるような巨大な首長墓は築造されなくなり、上毛野国内に占める太田市域の勢力は後退傾向を示している。太田市の南部では帆立貝形古墳7基を中心とする高林古墳群や前方後円墳4基を中心とする東矢島古墳群(後円部のみを残す御嶽山古墳を除き消滅)が築造され、北西部では周堀内に一対の中島を持つとみられる前方後円墳の鳥崇神社古墳、北東部では大日山古墳などが築造されている。この頃、横穴式石室をもった小規模な円墳などが、平地をはじめとし、丘陵や山麓にまでも、群として造られるようになった。市場稲荷山古墳や八王子丘陵南端に分布する御嶽山古墳群・大鷲梅穴古墳群、金山丘陵の寺ケ入古墳群・内並木古墳群・西山古墳群・東山古墳群、市域南部の台地上に位置する富沢古墳群・高林古墳群などが、その代表である。 −集落遺跡は市内の台地のどの地域でも確認され、舞台遺跡・楽前遺跡などが調査されている。 −市域の中には、飯塚・成塚・塚廻り・塚井などの「塚」の付く地名が数多くあり、ここには必ず古墳が存在している。昭和10年、群馬県下で古墳の調査が行われたが、それによると県下で8,423基の古墳が確認されている。そのうち太田市域(旧矢場川村を含む)では、810基の古墳が認められている。 −太田市域の古墳からは、全国の中でもすぐれた表現技法をもった形象埴輪が数多く出土している。中でも塚廻り古墳群第4号古墳から出土した埴輪群は、「埴輪祭式」の様子をよく表している。また、埴輪として全国で唯一国宝に指定された挂甲武人埴輪(飯塚古墳群出土)が知られる。 −金山丘陵東麓から北麓にかけての亀山窯跡・辻小屋窯跡・狸ケ入窯跡・菅ノ沢窯跡・八ケ入窯跡・諏訪ケ入窯跡及び長手谷の山去窯跡などは須恵器が生産されていた。金山丘陵東麓の入宿埴輪窯跡近くの亀山京塚古墳からは、同窯跡で作られたと見られる円筒埴輪棺が発見され、八王子丘陵南麓の駒形神社埴輪窯跡では、登り窯とともに埴輪の集積場が発見されている。これら古窯跡群は、全体で20カ所以上に及び、古墳時代においては、関東以北で最大級の規模を持つ一大窯業地帯を形成していた。古墳時代終末期の古墳としては、横穴式の巨大石室が開口する方墳の巖穴山古墳があり、これ以降太田市域では古墳は築造されていない。 |
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−飛鳥時代には、古墳はまだ造られていたが、豪族たちは仏教の影響を受け古墳のかわりに寺院を建立するようになった。太田市域では、7世紀末頃に建立された寺井廃寺が知られる。 −律令制度が施行されると、群制が整えられるようになり、太田市域でほぼ金山を境に西半分が新田郡、東半分が山田郡に属し、また東南部が邑楽(オハラキ)郡に含まれていた。その後、奈良時代には律令制度のもとで設けられた東山道が、七堂遺跡や寺井廃寺の南方を東西に横断していた。なお、新田駅・新田郡衙は七堂遺跡西方の新田町村田の入谷遺跡と推定されており、ここから分岐する東山道武蔵路は、古代瓦を出土する釣堂遺跡や東矢島遺跡付近を通って武蔵国府へ延びていた。 −この頃は産業も発展し、新田郡の特産物として「 」を調として朝廷へ差出すことが正倉院に残る資料により知られている。八王子丘陵南東麓の萩原窯跡では、須恵器がこの時代から10世紀初頭まで生産され、一方萩原瓦窯跡では上野国分寺(群馬町)や上植木廃寺(伊勢崎市)などの瓦が焼成されていた。また、土地制度として行われた条里制水田が古氷や飯塚・東矢島などの水田地帯に残されている。−かつて金山は、「新田山(ニイタヤマ)」と呼ばれたらしく、それはこの頃に歌われた万葉集東歌によって知ることができる。 |
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