 遺髪塚
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−高山彦九郎は、延享4年(1747)5月8日細谷村の郷士格の農民高山彦八正教の次男として生れ、名を正之といった。江戸時代末期の尊王運動の先駆者で、林子平・蒲生君平と共に寛政の三奇人と言われる。
−18歳の時置き手紙を残し京都にのぼり、以後その生涯のほとんどを遊歴のうちに過ごした。反幕府的な思想を持ち、尊王を高唱し、全国の学者、諸藩士等と交わり遊説を重ねたが、幕府の追及により寛政5年(1793)福岡県久留米で自刃した。
−著書はないが、彦九郎の思想と旅の記録は克明な日記に残されており、公家・学者・大商人・武士・農民・博徒等ありとあらゆる社会階層の人々の交遊から、高い教養と暖かく情熱的な人間性を窺い知ることができる。また日記は当時の社会・民俗などにかかわる地方史解明の貴重な資料となっている。
−生家跡は現在畑となっており井戸・生垣・堀跡等におもかげを残しているのみである。遺髪塚は本家である蓮沼家宅地をへだてた西側墓地内にある。
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