菅ノ沢遺跡
太田市大字太田字今泉口
金山丘陵北東端、北東に張り出した支丘の南向斜面にある生産遺跡である。昭和43年から昭和52年迄11次にわたって駒沢大学考古学研究会が発掘調査を実施しており、須恵器窯跡13基、鉄製炉(タタラ)3基とそれに関連する炭窯や工房跡、および、7世紀中頃の古墳3基が見つかっている。
窯跡は、地山を掘り込んで造った無断階の窖窯で、長さは約7mほどである。
製鉄炉は、半地下式であり、煙突状の形をしている。3号炉は、高さ1.3m、炉床の幅72〜75cm、炉頂部幅44cmである。須恵器が生産されていた時期は、7世紀末頃、製鉄は9世紀後半から10世紀初めと考えられている。
84.JPG 菅ノ沢遺跡
−−金山丘陵の窯跡
太田地方、とりわけ金山山麓は古墳時代から平安時代にかけての、全国的にも有数の窯業地帯として
知られている。
金山の東麓から北麓にかけての各谷には多数の須恵器窯跡が存在する。主なものとして東麓では亀山
・入宿・狸ケ入・菅ノ沢遺跡、北麓では諏訪ケ入・八ケ入遺跡、西麓では山去・高太郎T遺跡などがあげら
れる。窯跡から出土した須恵器の形式の変遷から、生産拠点が時期をおって南の谷から北の谷へ移動し
ていることがわかっている。須恵器を生産する窯は窖窯という形式で、全長10m余りもある巨大なものであ
る。須恵器生産が行なわれていたのは6世紀から9世紀にかけてと推定される。
古墳に樹立する埴輪を生産していた窯として東金井の松風峠登り口付近の金井口埴輪窯跡がある。生
産されていた時期は、古墳時代後期の6世紀中頃と考えられる。窯の形は須恵器と同様な窖窯である。
特殊な窯として、鉄を生産していたタタラが菅ノ沢遺跡と長手の高太郎T・U遺跡で発見されている。製鉄
が行われていたのは、平安時代中期の10世紀頃と推定される。
古代太田は無数の煙の立ち昇る一大工業地帯であった。


堂原遺跡
太田市大字脇屋字堂原ほか
東武伊勢崎線太田駅から北北西約4kmに位置する。由良台地と呼ばれる洪積台地の北端部の蛇川上流右岸に位置し、扇端低地に面して立地する。
新野・脇屋の2地区にまたがり、南西部には古墳群も存在する広範囲な遺跡である。これまでの数次の発掘調査により、住居、土壙、方形周溝墓、溝など縄文・古墳・奈良・平安時代にわたる複合遺跡であることが判明している。
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堂原遺跡


間之原遺跡
太田市大字龍舞字高原
太田市大字龍舞字高原から邑楽郡大泉町の北部にわたり広がっている遺跡である。縄文時代前期・中期・後期、古墳時代前期・後期、平安時代の各時代の住居跡や近世の土壙墓など遺構が確認された。とくに縄文前期の馬蹄形にならんだ27軒の住居跡が発見されて、大集落が形成されていたことがわかった。
遺跡周辺では、近年進められている区画整理事業等により、住宅の建設が増加して、遺跡地の現況は、住宅地内に点在する畑地となっている。
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間之原遺跡出土の縄文土器


台源氏館跡
太田市大字由良字北之庄
昭和13年に福井県出身の山田秋甫らによって、新田義貞・脇屋義助生誕地とされている「台源氏館(台源の館)」をこの地に比定したもの。「新田義貞公誕生地」の石碑が建てられている。円福寺所蔵の「円福寺一山絵図」では「出丸要害之地」と描かれており、新田氏・岩松氏・横瀬(由良)氏のいずれかにかかわる城館の遺構と考えられる。
なお、従来から地元で義貞生誕地として伝承されてきた「大原」はこの場所の東1km付近であり、城館跡とみられる遺構が存在した。
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台源氏館跡に建った石碑

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