大光院本堂・方丈・庫裏・水屋
太田市金山町37−8
「子育て呑龍様」の名称で親しまれている大光院は、金山の南麓にある。正式には「義重山新田寺大光院」といい、慶長18年(1613)に徳川家康が先祖である新田義重の追善のため、呑龍上人を招いて開山した。寺名は、新田義重の法名「大光院殿義重方山西公大禅定門」から名付けられた。
市重文の吉祥門を入って左手の開山堂は昭和9年の築造であるが、正面の本堂、本堂右手の大方丈・小方丈・庫裏、本堂手前左にある水屋など創建以来と伝えられる建物が残る。
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大光院本堂・庫裏


名号角塔婆
太田市大字矢田堀字本郷(勘兵衛屋敷)ほか
角塔婆は中世に浄土信仰者によって造立された角形の供養塔で、太田市北部から桐生市南部にかけての地域に分布している。凝灰岩製の角柱の四面に「南無阿弥陀佛」の名号とその下部に蓮華座を陰刻するところから名号塔婆と呼ぶ。
矢田堀勘兵衛屋敷には5基あり、そのうち1基には、「正応2年(1289)」の銘がある。
市内には、すでに市重文に指定されている3基を含めて合計17基の名号角塔婆が確認されている。
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名号角塔婆


市場の層塔
太田市大字市場字稲荷前487−1
市場稲荷山古墳の南隣接地にあり、周辺には、五輪塔や宝篋印塔など多数の石造物が存在する。
凝灰岩でできており塔身部に阿弥陀如来像が厚肉彫されている。現在は、他の塔と乱雑に積み重ねられており、8層を確認できるのみであるが、9層であったと考えられる。
8層を合わせた高さ289cm、軸部高さ42cm、幅36cmである。造立年代は、様式から鎌倉時代中期と考えられ、薗田氏との関連も考えられる。
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市場の層塔


観音免遺跡出土層塔
太田市大字脇屋字スワノ下甲562(正法寺)
太田市西部、大字脇屋の脇屋館跡の北側隣接地は観音免と称され、正法寺の旧地といわれる。開墾のため削平された際に、凝灰岩製の層塔・五輪塔、正安2年(1300)銘の板碑、骨蔵器、宋銭が出土した。
層塔は現在正法寺本堂の左手奥に移設されている。現存部高さ97cm、軸部高さ48cm、幅43cmである。軸部の四面に金剛界四仏の種子を刻す。現在確認できるのは2層のみであるが、もとは5重か7重の堂々たる塔であったと推定される。造立は鎌倉時代と考えられる。
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観音免層塔


小暮照房石碑(生田萬揮亳)
太田市新井町522−1(小暮氏)
国学者、勤王思想家の生田萬が太田に在住、私塾厚載館を開いて付近の門下生の指導にあたったのは、天保2年(1831)から7年にかけての5年間である。太田市新井の小暮勗氏の先祖小暮照房は萬の理解者・後援者であり、萬に傾倒の余り後にはその師平田篤胤の門人となった人物で、国学歌道をよくした。照房は生前自撰の長歌を刻んだ墓碑を庭内に建てたが、これには親交のあった生田萬が風雅な筆をふるっている。墓碑は天保5年(1834)3月の建立である。 67b.JPG
小暮照房石碑


長運寺の庚申塔
太田市大字東長岡字星の宮1402(長運寺)
庚申信仰は、六十日に一度めぐってくる庚申の日に、おこもりをすることによって長命を願う信仰である。そのはじまりは、中国の古い民間信仰から起こった道教の教えによるといわれている。
東長岡長運寺にある庚申塔は、文字庚申の中では特徴的な例で、三層庚申といわれ、この種の塔としては市内最古唯一のものであり、日月、二鳥、二猿を配した船型石塔形式の塔である。
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長運寺の庚申塔

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