子どもの頃から盆と祭りが好きで、盆踊りの音頭を口説いたり、祭りの屋台の太鼓をたたいたりすることに
あこがれていました。
祭りでは拍子木方をしています。
盆は尺八と音頭の口説きをしています。
生野踊りの鳴り物や但馬踊りの音頭の練習をしませんか。
三味線、尺八、太鼓、口説きのけいこをしています。
指導者は、嵯峨山氏や私です。
今年もビギナーやニューカマーを交えて練習にはいりました。
生野町の盆踊りでは、生野踊りと但馬踊りが踊られます。
生野踊りは、京都の流れをくんだ優雅な踊りで、三味線や尺八、太鼓の囃子で音頭を口説きます。
生野よいとこ 白銀(しろがね)黄金(こがね) 国の宝の出るところ
菊のご紋の あとさえのこす 昔天領の 生野町
など
一方、但馬踊りは、生野町と朝来町で踊られる盆踊りで、軽快な太鼓のリズムにのせて、浄瑠璃くずしの文句を口説きます。
太閤記六段目 織田信長が本能寺で明智光秀の謀反にあう場面
忠臣蔵五段目 娘を売った金を与一兵衛は定九郎に殺されとられる。その定九郎を猪と間違えて打った
早野勘平(与一兵衛の娘婿)が知らずに金をくすねる。 というくだりです。
荘の社 宮大工の元平さんに庄屋の娘お初が惚れたというお話。
安珍清姫 ご存じ娘道成寺 許嫁のおだまき姫の病気全快の願掛けにまわり、帰る途中の宿で清姫がひとめぼれする。
その場をだまして立ち去るが清姫が追いかけて来る、日高川で大蛇に化身した清姫が、道成寺の釣り鐘の
中にかくまった安珍を焼き殺すという話。
次郎平くずし 幼き頃に父親を殺した敵のことを娘になってから聞き、その敵を討つという話
日本一 歴史上の人物を数え歌式に読んだ物語。楠木正成正行親子、蘇我の兄弟、曲垣平九郎、大岡越前の守、
藪井玄庵、石川五右衛門、那須の与一、桃太郎、幡随院長兵衛、乃木希典が出てくる。
などのほかたくさんの題を入れごとを交えて語ります。
地域固有の文化を伝承しようという人は、誰でも歓迎します。また、後継者ができることを望んでいます。
一区屋台狭間
一区の屋台は、60年以上前に播州の海岸地方から買い入れたものです。平成の大改修をしましたが、狭間は非常に価値が
高いものと評価され、一区屋台独特のスマートな形をそこなわないように、棟、四本柱、太鼓等はそのまま修理して使っています。
また、露盤が木彫り(たいていは金具)であることも特徴のひとつです。
狭間(一区では昔から欄間と呼んでいた)は川原啓秀の大正8年から昭和19年の神戸在住のときの作といわれています。
屋台蔵ができるまでは、毎回祭り前に棟、泥台、大棒、脇棒を組み立て、祭りが終わるとばらして片づけていました。狭間は
はずして新聞紙でていねいにつつみ、ライオン歯磨きの木箱に入れて保管していました。

新田定義 稲村ヶ崎 太刀流し
鎌倉幕府の重税に見切りをつけ、後醍醐天皇についた新田義貞は兵を三手に分け、極楽寺坂、巨福呂坂、化粧坂から鎌倉へ
攻入った。義貞は中軍を指揮して化粧坂から進軍したが極楽寺坂等で多くの犠牲者を出した。
新田軍はなかなか突破できなかったが、夜半引き潮を利用して稲村ヶ崎の遠干潟を渡って奇襲を加えることに成功。
稲村ヶ崎に太刀を投げ入れ海神に祈ったら海水が引いて道が出来たという。このあと北条高時一族は東勝寺にて自害し、150年
に渡る鎌倉幕府は滅亡する。 木彫りの海(波)の表現がおもしろい。

源頼朝 鶴岡八幡宮放生会
仏教の殺生戒の思想に基づき文治三年に頼朝公によって執行された。鶴岡八幡宮から千羽の鶴が放されたという。
かごは鶴を入れていたもの。馬に乗っているのが頼朝公。その上を鶴が飛んでいる。

楠 正成 正行 桜井駅の別れ
律令制度の当時山陽道は今で言う高速道路であった。20kmごとにサービスエリアとして厩があり桜井駅とはそのひとつ。
楠正成は、足利大群と湊川にて戦うため京都を発つがこの場所で嫡男楠正行を河内国に帰らせた。よって「楠公父子決別之所」
と伝えられている。正成正行父子は、但馬音頭で忠義中では日本一と謡われている。

赤穂浪士、吉良邸討ち入り
これはみなさんもご存じの赤穂浪士。
川原啓秀:明治25年(1892年)富山県井波町にて生まれる。大正8年(1919年)から昭和19年(1944年)まで神戸に住む。
この間に神戸、大阪地区の地車彫刻を手がける。神河町柏尾の屋台(播州の浜手から買ったもの)を始め、多くの屋台の彫り物が
師の手による。