私の子供たちへ
| 私たちの子孫には、手つかずの自然が残されるでしょうか。 護岸工事のない、たくさんの生き物が棲む川が残るでしょうか。 これから先に生まれてくる人類に、動物に、植物に、ありとあらゆる生き物に、手つかずの自然を引き継ぐ権利があると思うのですが・・・ |
鮎も釣れん、じゃこもおらん。天然のヒラベも激減。なんとかしてくれ。
魚釣りから見た川
40年前(昭和32年〜昭和42年)
小学校1年生のころ、父や近所のお兄ちゃんたちに「ごとんぼ(アブラハヤ)つり」につれていってもらってから、私の川釣りは始まった。
(川釣りの遍歴については、趣味のページにゆずって、ここでは主に川の変化に焦点をあてたいと思う。)
よくかよった場所は、市川のつづら橋、小野の大橋、川尻の発電所の取水口、円山川の倭文(しどり)神社の下だった。
市川のつづら橋は、ごとんぼ釣りのメッカで、休みの日は、必ずといってよいほど人が来ていた。生野鉱山の坑内排水は流されていたが、選鉱の廃水が流される場所より少し上流で、たくさんのごとんぼが棲んでおり、本当によく釣れた。
小野の大橋は、ごとんぼに加えて、もつ(カワムツ)も釣れた。
川尻では、もっぱらごとんぼが釣れました。一流し一尾いわゆる入れ食いだった。
倭文神社では、小さい私には「ごとんぼ」が、6年生のお兄ちゃんには「きんもつ」や「あかもつ」(カワムツの婚姻色がでたもの)が釣れた。
小学校5年生ぐらいから、はいじゃこ(オイカワ)釣りにはまる。はいじゃこ釣りでは、毎週のように自転車で、円山川の竹田に出かけた。 今は親水工事とかいって川をめちゃくちゃにさわっている。はいじゃこは激減したということだ。
このころの川は、ごみといっても木ぎれや竹ぐらいで、人工の物は一切ありませんでした。
生野町の魚ヶ滝は、私にとっては秘境。自転車にのってクルミを採りに行ったり、バイクで父と堤先生と私と3人乗りして、鮎採りに行ったりした。どんこつ(ギギ)やにこんじょ(アカニコ)もいたし、シマドジョウもたくさんいた。
今は湖底の上生野小学校(奥銀谷小学校の分校)の前には、スナホリもいた。
30年前(昭和43年〜昭和53年)
小学校5年のとき、母が勤務していた神子畑小学校の前でひらべ(ヤマメ)を釣って以来、その魅力にとりつかれていたのだが、交通手段が徒歩か自転車の間は、せいぜい菖蒲沢に行くぐらいだった。
バイクの免許をとってから生野町の谷という谷は、すべて糸をたれてみた。さらにとなりの神崎町の越知川も源流まできわめた。
越知川の源流には、木馬道(木材を橇で出すための木で組んだレールのような道)が残っていて、ところどころその上を歩いて釣り上がった。谷が開けて草原のような感じの30cmぐらいの幅の小川で25cmアップのひらべが釣れた。木の枝のように分かれたどの小川にもいた。
菖蒲沢も沢登りで釣り上がっていたので、源流まで釣るのに3日かよった。一日目は、バイクを置いたところから釣り上がる。2日目はまず30分歩いてから釣り上がる。3日目は1時間歩いてから釣り上がる。源流はやはり谷が開け草原のような感じだった。
上生野にダムが造られた。大鮎の住処や八幡さんのキャンプ場、ひょうたん淵は銀山湖に沈んだ。
20年前(昭和54年〜昭和64年)
昭和45年頃から始めた鮎釣りとルアーやフライ釣りで遊んでいるうちに結婚し、2人の子持ちになった。2人とも娘ですが、小学生になったので魚釣りをさせようと、かつてごとんぼ釣りをしていたところへつれていったものの、魚影はなし。でもためしにと釣ってみたが、釣れず。水量は少ないし、透明度がない。今のようにビニールの買い物袋こそなかったが、水田の水止め用の塩ビのシートやビニールパイプ、ナイロンのひもがやたら目についた。落ち込みには泡がたっているし、その泡もうす茶色だった。川独特の丸みのある石より、割れて角のある石が多くあった。
いったい何が起きたのか。
10年前(平成元年〜平成10年)
勤務場所の関係もあって、越知川で遊ぶことが多くなる。久しぶりに源流にも行ってみた。林道はよく整備され、橋もコンクリートになり、川側の路肩も石積みやコンクリートの擁壁で、安全な物になっていた。でも、魚がいない。どこまで遡ってもいない。あるのは山盛りにたまった杉の小枝。川の石はどろをかぶり、水生昆虫も棲めない。こんなところにもいたのかとおどろかせる、ごとんぼも全くいない。それに川の水量が少なく、草原のようなところに枝分かれしていた小川もありません。
下水道が普及し、水は一時よりきれいになった。しかし、私たちのくらしのシステム全体の変化で、昔の川の姿は、なくなってしまった。菖蒲沢の造林小屋は朽ち果て、黒川の谷には、関電の鉄塔を建設した跡地が荒れ地として、広がっていた。
経済の発展でたくさんの物を手に入れた代わりに私たちの失った物が多すぎるのではないだろうか。
水のきれいなところにも魚がいない
源流にひらべ(あまご)がいなくなった原因を私は次のように考えている。
経済優先で、広葉樹を伐採し杉や檜の植林をした。
針葉樹は、下草が生えないため、土(腐葉土)の流れ出しが起きる。
一時にどんどんやったものだから、木の値打ちも山の値打ちも下がり、手入れしなくなった。
地球全体の問題になっているにもかかわらず、日本が熱帯降雨林を買いまくった。
この安い輸入材のせいで国内の木材の値打ちの下落がさらに進み、山は荒れ放題である。
かろうじて手入れをしたものの、打った枝はそのまま、間伐材さえも倒したきりである。
以上の原因で川が荒れ、水生昆虫が減る。針葉樹林には、虫がいない。
というぐあいに川は荒れるし餌はなしで、ひらべはいなくなった。
私の調べたひらべの食性では、水生昆虫がベースですが、暖かい季節に、たくさんの陸生昆虫を食べている。胃袋をさいてみるとかなりの量の甲虫類を食べていたり、アリを食べていたりした。
魚が育つのにいかに山が大切かということだ。ひらべにとって問題は、30年前から起きていた。
人間にとって水がきれいというのは、必ずしも生き物にとって住みやすい環境とはいえない。
ためしにあなたが飲む水で生き物が飼えますか。鮎やヒラベのみならず、金魚も飼えない。
見た目にきれいな川の水は、果たして生き物にとってもきれいな(棲みやすい)水なのか。
最近親水工事なんて、わけのわからん工事をしています。
神崎町在住の前川穂積さんの詩集『川育ち』より、詩を3編紹介します。
前川さんは川遊びが大好きで、子どもの頃から現在(たぶん30過ぎ)まで越知川で遊び続けている。
香具師(やし)が悪いのか、マチのあほうどもが悪いのか・・・ いずれにしても手持ちの品は、もういくらもない。
男の仕事だと言ってた時代もあった。今は、なぜかとっても淋しい気持ちで・・・ 私も25年前そんな仕事をしてました。

ヒヨンドとは、かじかのこと。神様の分、川の分、子どもの分、孫の分、そのまた子どもの分・・・ 7代あとの分まで残す。