姉川の戦い

姉川の戦い



当事者1:浅井長政
当事者2:朝倉義景
当事者3:織田信長
時代:戦国時代
年代:1570年(元亀元年)4月20日〜1570年(元亀元年)6月28日
要約:浅井氏が織田氏よりも朝倉氏を選択したことによって起こった戦い。この戦いで信長包囲網の一角を粉砕し、以後の将軍義昭との戦いを有利に展開して行く。

内容: 金ヶ崎の退き口
1570年(元亀元年)4月20日、織田信長は三万の軍勢を率いて越前朝倉氏の攻略に出陣した。ルートは「22日若州熊河。23日佐柿」と信長公記にある。これは若狭経由で越前に至る道である。度々の信長の上洛要請を無視していた朝倉氏にとって、遅かれ早かれ信長の攻撃があることは充分予想できたことである。北近江から直接越前を衝くルートは朝倉氏の警戒下にあったと見るのは妥当であろう。そこで信長は若狭ルートで越前に向かった・・・・。敵の予想防御戦を迂回するのは戦略の鉄則である。
 佐柿を進発した信長は、25日「手筒山へ御取り懸け」、「頸数千百七十討ち捕り」、翌26日には金ヶ崎城、引壇(現疋田)城も開城し、27日には木目峠を越え、朝倉氏の本城一乗谷を指呼の間に捕らえている。
 しかし、同28日、信長の全く予測しえなかった事態が起きた。「江北浅井備前、手の反履の由」がそれである。同盟関係にあった北近江浅井長政が裏切ったのである。長政は織田信長の妹お市の方の婿であり、信長にとってこの事件は青天の霹靂であった。「虚説あるべし」の信長の言葉がそのとまどいを示している。浅井側にも理はある。同盟を結ぶ時、信長に朝倉氏に対して軍事行動を起こす時は、事前に浅井氏に了解を取るという一札を取っていたのに。それをせずに攻め込んだのは明らかに非理であるというわけである。
 信長のとった行動を非とするか、それとも浅井の判断を凡庸とするかは意見の分かれるところである。ただ、戦国の世を舞台に、天下一統の為には、モラルよりも目的が優先すると考える信長と、結果的にモラルを優先した浅井長政を比べると、信長の方が近代的合理主義に目覚めていた事は否めないだろう。ともあれ、長政が裏切ったという情報が入ってからの信長の行動は迅速であった。直ちに兵をまとめ、京への道をひた走った。殿を受け持った木下籐吉郎秀吉の奮戦に助けられ、同日中には朽木越を通って京に戻っている。しかしまだ安心できない。ここぞとばかりに近江の一揆は蜂起し、六角氏も動き始める。浅井長政も信長を取り逃がすまいとして全力をあげる。
 5月9日、京を発した信長は要地に諸将を配しながら、一路岐阜へと遁走した。5月19日には千草にて鉄砲による狙撃を受けたが、追っ手を出すこともなく道を急いでいる。その時点での信長の最重要事項は岐阜に無事到着することである。第一目標を定めたときの信長の集中力はここでもいかんなく発揮されたのである。5月21日、岐阜に到着した信長は兵を整え、再び近江平定に乗り出した。6月4日六角義賢を討ち南近江平定。19日一時帰陣していた岐阜を再出発し、途中、長比、刈安両砦を落としながら、21日には浅井氏の本城小谷城へと押し寄せた。この頃には軍勢は二万五千人を数えるまでになった。

 姉川の戦い
この浅井攻めにはポイントが二つある。
  1. 小谷城が299mの高さを誇る難攻不落の城郭であること。
  2. 信長の方が兵力が勝っていること。
城攻めには、常識では十倍の兵力が必要といわれている。数で勝るとはいえ、信長の兵力はそこまではない。そこで信長のたてた作戦は、如何に浅井軍を野戦に引きずり出すかというものであった。
 6月21日、この作戦を元に、信長は小谷城目前で一旦兵を引く。そして突如竜ヶ鼻に陣を移し、小谷城の支城である横山城を包囲した。この時点で徳川家康の援軍六千も到着し、織田・徳川連合軍は三万四千人に膨れ上がっていた。一方、浅井勢にも朝倉景健の援軍一万が到着し、浅井勢八千と合わせて一万八千を数えるようになった。浅井・朝倉側にも慎重論はあり、野戦を否とする意見もあったが、横山城は近江から越前に通じる要路にある、むやみに見捨てるわけにはいかなかった。陽動作戦で危機感を敵に植え付け、自分の思うところで勝負をかけようとした信長の戦略通りに敵が動いたのである。
 浅井・朝倉連合軍は、夜陰に紛れて6月28日未明大依山から野田・三田村へ移動した。しかしこの動きは、
「敵陣に終夜火を焼けるは、明日合戦に懸り来るべきに究めたるらん。是れ好む所の幸じかし」
 と、信長に言わしめたように、見事に読み切られていたのである。
 6月28日午前4時、姉川の南の分流を挟んで北に、浅井・朝倉連合軍、南に織田・徳川連合軍が対峙した。合戦は徳川軍の酒井忠次、小笠原長忠の隊が朝倉軍に突入し、戦いの火蓋が切られた。初戦は朝倉方の攻撃で進んだ。一方、織田、浅井戦線においても又、浅井軍の先方磯野員昌の猛攻が凄まじく、織田の第一陣坂井政尚はたちまち蹴散らされてしまう。
「火花を散らし戦ひければ、敵味方の分野は、伊勢をの海士の潜きして息つぎあへぬ風情なり」 という、息もつけないほどの大乱戦であった。
 平野での合戦は、もみ合いで腰の浮いた方が総崩れとなる危険性を生む。織田軍は正にそのような状態に陥っていたのである。浅井軍の背水の陣が功を奏し、信長の必勝作戦は崩れ去るかに見えた。一方、徳川、朝倉戦線の方では状況が変わりつつあった。何故か戦線に朝倉義景が総大将として出陣しなかったせいもあるだろうか、大将徳川家康と一体化した三河武士団が本領を発揮し出すと、朝倉軍は次第に押され始めた。崩れかかった朝倉軍を見て取った家康はすかさず榊原康政に側面攻撃を命じ、遂に朝倉軍は総崩れに陥った。この左翼戦線での好転が、十三段中、十一段まで破られていた織田軍に光明をもたらした。徳川軍に援軍として赴いていた稲葉一鉄が左方から浅井軍攻撃に回る、さらに横山城攻囲隊の氏家卜全、安藤守就が右方からつく。鋭利な刃物ように直線的に織田軍に突っ込んでいた浅井軍は側面攻撃に対応する余力はなく、瞬く間に崩れ去り、散乱潰走した。
 小谷城目指して敗走する浅井・朝倉連合軍に対して、勝ち誇る織田の追討軍は、大依山、虎御前山まで追いすがる。しかし「深入りをばしすな、小谷の近辺皆節所ぞかし、引き返せ」とあるように、信長の判断で引き返した。この辺りの出処進退の巧みさは名将に恥じないものである。

 勝因
それでは、姉川の戦いで信長が勝利したのは、どのような要素によってであろうか。
  1. 姉川の戦いで、信長はいくつかの重要な戦いを見せている。まず裏切りによって生じた緒戦での困難な局面で見せたスピード。桶狭間の時もそうであったが、ここぞという時に見せる信長のスピードは、他の戦国大名に無いものである。この金ヶ崎の退口で逃げ切ったことが、姉川への勝利の半分を占めたといっても過言ではない。
  2. 自分に有利な局面で戦うべくの周到な準備。小谷城攻めが不利だと見れば、野戦に引きずり込むべく、横山城を攻めている。しかし白兵戦になったら、必ず兵数が多い方が有利ということを考慮した上での姉川の場所設定。
  3. 数を利しての十三段もの構え。現実に半ば以上破られたが、信長本陣まで突破されるには至らなかった。同時に圧倒的な数は最後の最後で余力となり、浅井・朝倉軍の息の根を止めている。
 心理戦で揺さぶり、相手をおびき出し、好地勢で殲滅する。この姉川の戦いで見せた戦略は後の長篠の戦いでより徹底的なものとして展開されて行く。

 姉川の戦い以後
この姉川の戦いは、将軍足利義昭にとっても驚天動地の出来事であった。反信長を画策し、浅井・朝倉連合軍に期待をかけること大であったからである。慌てた義昭は、さらに反信長包囲網の輪を強めるべく、各地に書をつかわす。間もなく、石山本願寺が兵を挙げ、ついで再び浅井・朝倉が近江に進出する。伊勢長島の一向一揆も頑張っている。
 だが姉川の戦いで得た信長の自信は大きかった。一つ一つ叩きつぶして行けばそれ程怖くはない。現実に、以後、天正元年(1573年)に浅井、朝倉、三好。天正2年(1574年)に伊勢長島一向一揆と、信長の敵対勢力は各個撃破されて行く。

 


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