安和の変

安和の変



当事者1:源高明
当事者2:藤原師尹
当事者3:
時代:平安時代
年代:969年(安和2年)3月25日〜969年(安和2年)4月
要約:冷泉天皇の皇嫡をめぐる対立。右大臣藤原師尹の従者源満仲の密告により左大臣源高明が失脚

内容: 安和2年(969)3月25日、左馬助源満仲・前武蔵藤原善時らが謀反を密告した。それによると中務少輔橘繁延・左兵衛大尉源連らが皇太子守平親王を廃して兄の為平親王を皇太子に立てようと企てているという。右大臣藤原師尹以下公卿らは直ちに宮中に参入し、諸門の出入りを禁じて警護を固める一方、密告文を太政大臣藤原実頼のもとへ届けた。また橘繁延らを捕らえて喚問したところ、逃れられずに罪に服した。さらに検非違使源満季らは一味の前相模介藤原千晴とその息子や随兵も捕らえて禁獄した。この日の宮中は承平・天慶の乱(将門・純友の乱)と同じように大混乱に陥った。
 しかしこれだけではおさまらなかった。この事件には為平親王の妃の父である左大臣源高明が荷担していたという事になった。翌26日高明は出家して京に留まることを願ったが許されず、太宰権帥におとされ、筑紫に流されることとなった。4月に入ってからも橘繁延・藤原千晴らも諸国に流され、逃亡した源連らに対しても、諸国に勅して追討を命じた。

1.事件の真相(源高明は事件に荷担したか)
源高明が配流となり事件は一応決着したが、高明はこの事件に荷担したのであろうか?この点については、古くから高明の関与を否定する向きもあり判然としない。しかし高明を取り巻く環境が彼に極めて不利な状況であった。
 村上天皇と皇后安子の間の皇子の中で、皇位継承の可能性のあったのは、憲平親王為平親王守平親王の三親王であった。このうち憲平親王は村上天皇の後、冷泉天皇となった。問題は冷泉天皇の皇太子をどうするかであった。侍臣の多くは為平親王であろうと考えたが実際は守平親王が兄為平親王をさしおいて皇太弟となっている。
 何故、為平親王は皇太弟になれなかったのか。為平親王はの妃の父は源高明である。源高明は村上天皇の后安子の妹を娶っていた事もあり、村上天皇との関係も極めてよかった。従ってもし為平親王が皇太弟となり皇位につくことになれば、高明が外戚として朝廷の実権を握ることは明かである。藤原氏としてはどうしても避けねばならない事である。右大臣藤原師尹は冷泉天皇即位と同時に、守平親王を皇太弟とし、さらに為平親王擁立の陰謀をしかけて一気に高明を葬り去ったのである。高明が頼みとしていた村上天皇・皇后安子はすでに世を去り、藤原氏を中心とする公卿達の中にあって、高明は孤立無援であった。

2.藤原師尹は首謀者か
論ずるまでもない。犯人ですね。この政変の後、藤原師尹は源高明の左遷で空席となった左大臣に就任する。

3.藤原実頼は黒幕か
この時点で藤原実頼は藤原氏の氏長者である。安和の変は藤原氏による他氏排斥事件の最後で、左大臣を追放する大きな事件であるにもかかわらず、実頼の影は薄い。
 実頼は娘、述子を村上天皇に進めたが皇子を生むことなく早世。この為、弟藤原師輔の娘安子を母とする冷泉天皇及び、その皇太弟の守平親王とは外戚関係になく、実権は外戚師輔の息子達の手にあった。
 実頼は日記「清慎公記」に師輔の長子藤原伊尹を中心とする「外戚不善の輩」が冷泉天皇の物狂いを良いことに勝手に昇進をはかっており、自分のような「揚名関白」など辞めてしまった方が良いと自嘲気味に書き付けているが、当時実頼の存在が名目に過ぎなかったのがよくわかる。


 


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