文永・弘安の役

文永・弘安の役



当事者1:フビライ・ハン
当事者2:北条時宗
当事者3:
時代:鎌倉時代
年代:1268年(文永5年)1月〜1281年(弘安4年)閏7月1日
要約:元による二度の本格的侵略戦争。鎌倉幕府(北条得宗家)は運良く切り抜ける。

内容:
 元使来朝
1268年1月、蒙古使国的、高麗使潘阜が蒙古の厳命をを受け、その国書を携えて大宰府に到着。通商を求める蒙古の国書は、閏1月上旬幕府に届けられ、幕府は翌2月6日にその国書を京都に伝奏し、後嵯峨上皇の上覧に供した。
 朝廷では一応、国書受理を拒否と言うことに決した。だが朝廷には、この国難に対処すべき軍事力はない。そこで朝廷はお得意の神頼みに活路を見いだすこととなり、早くも3月5に石清水八幡宮に、次いで3月23日に東寺に敵国降伏の祈祷を修した。朝廷のこのような祈祷作戦は、文永・弘安の役を経て事態が一応沈静するまで蜿々と続けられ、洛中の動揺もひとかたならぬものであった。
 蒙古郡が侵入するとすれば、その地点は京都から遠い北九州沿岸に限定される。そしてその方面は、幕府の下知に応じた九州の御家人が陣を構え、防衛にあたっていたから、さしあたり京都は戦乱に巻き込まれる恐れはなかった。それなのに京都が、神頼みを始めとするパニック状態に陥ったのは、事件の余波を浴びて次第に食料に窮しつつあったのが、一つの原因であった。
 即ち、幕府は北九州、山陰の沿岸警備のため、鎮西九国および山陰四国に限って年貢上納の中止を令し、また国衙・荘園・本所・領家などの得分の差し押さえを発令した。むろん兵糧米の調達のためだが、その結果として本来京都に送られるべきこれらの国々の年貢米がまったく抑留されることになったからである。
 因みに、石清水八幡宮の神官の著という「八幡愚童訓」は、この間の事情を次のように伝えている。
 「蒙古乱入セズトモ、此ノ飢渇ニハ死ヌベシ」

 文永の役
1273年(文永10年)1月、元使、趙良弼が日本の国王並びに大将軍との謁見を要求し、その要求が叶えられないのなら自分の首を取れと強硬であったが、およそ一カ年の滞在の後、得るところ無く帰国。この日本の仕打ちを打ち捨てておくフビライではなかった。
 怒濤の勢いで対馬海峡を押し渡ってきた元・高麗連合軍は、文永11年10月19日博多湾の沖合いに集結を完了し、翌20日早朝を期して一斉に上陸を開始した。具体的状況ははっきりしないが、主力の元軍二万は箱崎・博多方面に、又、助攻の高麗軍は西方の佐原(麁原)にそれぞれ上陸したようである。
 それに対し、迎え撃つ日本軍は筑前守護で大将の少弐景資が本拠を箱崎に置き、そこから西方にかけて、およそ一万ほどの九州勢が陣を構え、来寇を待ちかまえた。
 両軍が接触したのは、午前十時頃のことである。当初日本軍の士気は頗る高かった。だが、博多湾岸沿いの長大な戦線の各所で喊声があがるたびに、たちまち劣勢を余儀なくされたのは、日本軍の方であった。
 元軍の兵は、相次ぐ侵略戦争に従軍して戦いに慣れていたため、幕府軍の予測を遙かに上回って精強であった。その上、戦法の違いがいっそう日本軍を混乱に陥れた。
 戦闘開始の前に鏑矢を射、名乗りをあげるという日本独特の悠長な戦法はまったく通用しない。名乗りを上げる内に、あたら討ち死にする武士が続出するありさまであった。
 武器も元軍の方が上であった。元軍の弓は短弓で一見威力がなさそうだったが、外見とは裏腹にこれが実によく飛び、しかも矢尻に毒を塗ってあるので殺傷力が強い。
 だが、何と言っても日本軍を仰天させたのは、火薬を用いた「てつほう(鉄炮)」であろう。一種の大砲だとも言われるが、まだ火薬を知らなかった日本勢は、「てつほう」が炸裂する時の轟音と閃光に度肝を抜かれ、槍を合わす前から陣中大混乱をきたす始末であった。
 かくて日本軍は敗戦に敗戦を重ね、夕方には全軍先を争って水城の城に逃げ籠もってしまった。本陣の置かれた箱崎方面は完全に敵の占領下となり、軍神を祀る箱崎八幡宮も元軍の手にかかって焼け落ちた。
 元軍がもしそのまま陸上に夜陣を敷き、明日の戦いに備えたなら、日本軍は次の日も苦戦を強いられたことだろう。だが元軍はなぜか陸上に止まらず、そろって軍船に引き上げた。そして、それが運命の岐れ道となった。
 その夜、博多湾を吹き荒れた大風により、海上の元軍は壊滅的な打撃を蒙るのであった。因みに、元軍の死者は総勢一万三千五百余人の多きにのぼったという。一夜あけて日本軍がその事実を知り、胸をなでおろした。
 しかし、神風と呼ばれる台風が元軍の敗因というより、急造の船がお粗末であった事の方がより大きな敗戦理由と思われる。

 幕府の反攻計画
文永の役から一年余りたった健治元年の末、西国の御家人達は意外な幕命を伝えられて我が目を疑った。来年の春頃、異国征伐の軍をおこすからその準備をせよ、ということである。
 その幕命をもっと詳しく説明すると、
  1. 出征要員は、御家人を主体とし、それに九州在住の非御家人武士を加える。
  2. 船舶、舵取、水手(乗組員)は九州一円から徴発し、不足の場合は山陰・山陽からも適宜補充する。
  3. 出陣の者には、博多湾岸の石塁築造の負担を免除する。
  4. 外征軍の総大将は少弐経資とする。
  5. 出陣基地は博多。
おおよそ、以上の通りであった。また異国征伐の仮想敵国は高麗だったらしい。

 豊臣秀吉の大明征伐に先行すること、三百年あまり、それにしても気宇壮大な計画ではある。しかし、幕府がなぜこの時期、このような計画を打ち上げたのか、そこのところははっきりしない。あるいは、元の再襲来近しとみて御家人間の戦意昂揚を狙ったのであろうか、又あるいは、元に追われて来朝した中国人禅僧に勧められて、本気で外征する気になってのことなのか。
 ともあれ、この計画は翌年3月頃まで推進されたが、結局いつの間にか立ち消えになった。その理由も、そうなるまでの経緯もやはりはっきりとしないが、御家人の協力を得られなかったため、と推測するのが妥当かもしれない。

 元使斬殺
元のフビライ帝は、文永の役に苦負を喫したものの、まだ外交交渉の余地ありと見て、礼部次郎(文部次官)杜世忠らを日本に派遣。1275年(文永12年)4月15日長門国室津(山口県豊浦町)に到着。
 大宰府は元使一行を止め置き、鎌倉に急を報せるとともに、幕府の指示を仰ぐ。そして、それから三ヶ月余り後、元使一行は鎌倉に護送されることとなった。
 杜世忠らは、おそらくこの時、内心喜びをかみしめていたことであろう。先に趙良弼が望んで果たせなかった将軍との対面が、いよいよ叶えられると考えたからである。
 だが、鎌倉で彼らを待ち構えていた運命は過酷であった。9月4日、執権北条時宗は杜世忠らを滝ノ口の刑場に引き出し、ことごとく首をはねたのである。元に対し、断固たる決意を示すためだった。斬首されたのは随行の高麗人を含めて計五人、その首は刑場に晒された。

 弘安の役
文永11年(1274)の思わざる敗北以来、元の世祖(フビライ・ハン)は思いを新たに再征の準備を続けていた。力のいれようは前回以上で、その端的なあらわれは制収日本行中書省(征東行省)を創設したことに見てとることができる。この征東行省とは文字通り日本を征服する事のみを目的として設けられた軍政機関である。
(それは真剣になりますね。なんせ元が征服先に負けた事は初めてだから。プライドが傷つきますよね)
 しかし世祖の狙いは、単に日本を征服するだけに留まらず、完全な属領と化することにあった。その為、世祖は軍船団に農耕用の「鋤」「鍬」「種もみ」などを積み込み、屯田兵を駐留させるために用意を怠らなかったし、又、弘安四年(1281)正月、動員令を発布するにあたり、
 「ひとの国を取っても、人民を皆殺しにしては土地が用をなさなくなる」
と、とくに出征諸兵を訓戒している。
 元の日本遠征軍は、東路軍と江南軍の二軍で編成された。東路軍はモンゴル・高麗の兵が主体で動員総数四万、江南軍は蛮子の兵およそ十万から成る。両軍合わせた総数は前回の五倍にならんとし、これを輸送する軍船は実に4,400余隻の多きに達した。
 さて、両軍は別々に進発し、6月15日に壱岐国(のち平戸に変更)で合流する予定になっていた。東路軍は予定通り進発し、高麗の合浦で高麗王の閲兵を受けた後、早くも6月始め博多湾の志賀島などに襲いかかってきた。ところが江南軍の方は、総司令官の阿刺罕が重病になった為、出発が大幅に遅れ、6月下旬にその先発隊がようやく平戸に到着するという有様であった。
 そのようなわけで、東路・江南両軍が合体できた時は、7月の下旬になっていた。両軍が集結したのは、伊万里湾口の鷹島である。そして、これからいよいよ本格的な日本攻略戦を展開しようとしていた矢先の閏7月1日の夜、前回と同様またも大風が吹き荒れたのだった。その為、元軍は戦う前の大損害を負う羽目になり、先を争って合浦に逃げ帰っていった。結局元軍はこの時の日本軍の残的掃討の犠牲になった者も含め、全軍の七〜八割を失ったと言われる。

 元寇後の国内政情
二度にわたる元寇は、日本の国内体制にも少なからぬ影響を与えた。
 先ず、第一にあげるべきは、幕府の支配権が大幅に拡大浸透したことであろう。幕府は戦争指揮の名のもとに荘園国衙領、寺社などに強権を発動してきたが、その実績を既得権としてしっかり取り込んだ。
 西国方面の外様の守護を一門の者と交代させるなどして、北条氏一門の権力基盤が極めて強化された事も注目される。

 神風
二度の元寇は、その両方とも大風によって元軍の惨敗に終わった。この国難に当たり、朝廷ではただ神社仏閣に敵国降伏の祈祷を捧げる他になかったが、それだけに二度の大風は、神仏の加護のおかげと受け止められることになり、神国意識が一時に沸騰した。
 例えば、公卿勘解由小路兼仲は、「勘仲記」において、大風は神のおこしたもうた神風だと、誇らかに書き記している。
 大風=神風説を敷衍するのに最も功があったのは、生身の菩薩と崇められた西大寺の僧叡尊だったようである。文永4年(1267)7月、叡尊は勅命を受け、京都と奈良の僧500余人とともに石清水八幡宮に籠もって怨敵退散を祈った。するとその満願の日、石清水の山が鳴動したかと思うと、雷鳴がにわかにおこって、西方に飛翔し、叡尊が常に所持する受染明王の鏑矢も又西を指して飛び去った。
 見聞の者は、その奇瑞に皆感嘆したが、半月ほどして届いた大宰府からの報告によると、大雨が吹き荒れたのは、丁度その奇瑞が生じたのと刻限だったという。
 と、いうことは、叡尊の祈りが石清水八幡の神に届き、その神慮が大風となって顕現したという事に他ならない。と当時の人々は短絡的にそう考え、神国だとか神風だとかいいはやすようになったのである。

 元寇のもう一つの意味
フビライは何故、日本に侵攻したのだろうか?。第一次遠征の文永の役は、南宋を孤立させるため、という記録がありますが、それでは南宋滅亡後になぜ再び行われたのだろうか?
  1. 日本が産金国であるから狙った。(東方見聞録にも産金国の記載)
  2. 文永の役の弔い合戦
  3. 日本の属領化
これらが、最も一般的な考え方でしょう。そこで見方を変えると、
 元は1279年に南宋を滅ぼし、実質的に中国を統一したのである。その時手に入れたものは、南宋の領土だけではなかった。南宋の軍隊十万人も手に入れたのである。これは以後の外国侵略に利用できる、重要な戦力と見る事もできる。しかし、この新たに元軍に編入された軍人が元に対し忠誠を誓うと思えるだろうか。こう考えたのは私だけでなく、フビライも考えたのでは無かろうか?。その旧南宋軍を日本侵攻軍としたのである。この軍隊を使えば勝ったらそれはそれで良、負けたら危険な旧南宋軍を処理しただけで、自らには何ら損害はない。こう考えれば「弘安の役」の元軍の目的が見えてくるのでは無いだろうか。

 第三次遠征計画
二度の失敗によっても、フビライは日本遠征を諦めず、三度戦船の建造や遠征軍の動員を命じている。戦争準備のため、江南や高麗は疲弊するのですが、モンゴル的思考に拠れば、反抗するかも知れない勢力を弱めることになり、かえって都合が良かったと思われます。
 圧政が人々の気力を弱めるとは限りません。広東や福建で反乱が起こり、鎮圧のために日本遠征に編成された軍隊が転用されました。さらに1284年占城(南ベトナム)に反乱が起こり、阿塔海が鎮圧に向かったが、これも日本遠征の軍隊であった。(この時も暴風の為に撤退している)続いて交趾(北ベトナム)も叛乱をおこし、さらにモンゴル皇室内に内訌が起こり、日本遠征どころではなくなりました。しかしフビライは死の前年まで諦めませんでした。使者を斬られた事に対して、モンゴルの復讐の掟に最後まで従おうとしたのだと思われます。
何はともあれ、日本はなんて運が良かったんだろう!
モンゴルに睨まれたら、あの無敵のイスラム諸国さえ一瞬に属国にしてしまう恐ろしき騎馬軍団。その皇帝に徹底的に睨まれながら、属国にも皆殺しにもならないなんて、これはやはり神のご加護が本当にあったのかも・・・・・・・。



 


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