藤原仲麻呂の台頭と挫折
当事者1:橘奈良麻呂
当事者2:藤原仲麻呂(光明皇后)
当事者3:道鏡(孝謙太上天皇)
時代:奈良時代
年代:749年9月7日〜764年9月18日
要約:藤原仲麻呂は光明皇后の庇護のもとに朝政の全権を掌握するが、女帝(孝謙天皇)が道鏡を寵愛すると失脚。時代に翻弄された寵児であった。
内容:藤原仲麻呂の台頭は光明皇后によって実現する。その過程で橘奈良麻呂を排除しその地位を絶対のものとする。しかし皇后没後、孝謙天皇は仲麻呂ではなく道鏡を愛し、彼は朝堂から去らねばならなかった。
藤原仲麻呂の台頭
749年9月7日、藤原仲麻呂は紫微中台の長官(紫微令)に、任命された。ここが仲麻呂の朝政を牛耳る第一歩である。紫微中台は皇后宮職を改めたものであると説明されているが、単なる名称変更ではない。「律令」には、皇后や婦人など後宮全体の付属官庁として中宮職が置かれる事が定められているが、この皇后宮職は光明皇后のために独立して設けられたものである。東大寺の大仏造営や写経事業を行い、太政官の中務省と対等に扱われる程であった。つまりこれは聖武天皇亡き後の政治を光明皇后と藤原仲麻呂の二人が掌握するための機関であった。当時太政官は左大臣橘諸兄、右大臣藤原豊成らで構成されていたが、彼らを凌いで実質的な国政は仲麻呂らが担当する体制となった。それは又、孝謙天皇を抑えて母の光明皇后が政治を行うことを意味した。
橘奈良麻呂の乱
757年(天平勝宝9年)7月2日、中衛府の舎人上道斐太都が、田村宮にいる藤原仲麻呂に密告した。橘奈良麻呂・大伴古麻呂らが田村宮を包囲するという計画があるという。仲麻呂打倒のクーデター計画であった。この計画についてはいくつかの前兆があった。
大炊王立太子の後、仲麻呂独裁体制が着々と押し進められてゆく中で、6月9日諸氏が集まったり、兵器を集めたりすることを禁ずる五箇条の禁制が出された。一週間後、橘奈良麻呂は兵部卿から右大弁に移され(左遷ではないが、軍事権を持たぬ職へ移された。右大弁は兵部省を統括する要職であるので、出世に見えなくもない。仲麻呂は上手な左遷を考えたものだ)、大伴古麻呂は陸奥按察使兼鎮守府将軍に任命された(軍事権を持つが東北地方の地方官なので政争には関与できない)。どちらの人事も反仲麻呂派の力をそぐための措置と思われる。
6月28日、山背王が孝謙天皇と仲麻呂に「橘奈良麻呂が兵器を準備し、田村宮を包囲しようと計画しており、大伴古麻呂も荷担している」と密告した。
7月2日、孝謙天皇の宣命が読み上げられた。「謀反の噂があるが、国法に背くことはならぬ」というものである。右大臣藤原豊成以下上級官人は、光明皇后に呼ばれ「藤原、橘は私の甥であり、大伴、佐伯の一族は昔より天皇に近侍してきた者である。皆、明い心で天皇にお仕えするように」と諭した。斐太都の密告はその夜のことである。
7月3日、塩焼王・安宿王・黄文王・橘奈良麻呂・大伴古麻呂の五人を前に孝謙天皇は「おまえ達が謀反を企てているという報告が入っているが、私は信じない」と言い、五人はそのまま退出した。
しかし翌日、謀反に荷担した大野東人は拷問によりクーデターの計画を自白した。仲麻呂を殺して皇太子を退け、皇太后の宮を包囲して駅鈴と天皇御璽を取り、右大臣藤原豊成を中心に天下に号令し、女帝を廃し、塩焼、道祖、安宿、黄文の四王の中から天皇を選ぶという計画であった。直ちに奈良麻呂らに逮捕の兵が送られた。
逮捕された奈良麻呂ら首謀者には過酷な拷問が行われたらしい。「続日本紀」には「杖下に死す」と記されている。杖で打ち続けられ絶命したのであろう。また、他の440人が流罪となっている。
なぜ橘奈良麻呂らはこのようなクーデターを起こしたのであろうか。訊問の際、奈良麻呂は「東大寺など造寺造仏が人民を苦しめ、仲麻呂の政治が無道であるため」と答えている。このような政治批判はかねてよりあったらしい。745年(天平17年)聖武天皇の遷都が続いていた頃より、阿倍内親王が皇太子であるにも係わらず、「後継者はまだ決まっていない」として政変を企てていたという。相次ぐ遷都と大仏造営などの影響により国力が疲弊し政治不安の結果起こったクーデターであった。
恵美押勝を拝名と新政策
758年(天平宝字2年)8月1日、孝謙天皇は皇太子大炊王をたてて淳仁天皇とした。即位の日、藤原仲麻呂は臣下を代表して孝謙天皇に「宝宇称徳孝謙皇帝」、光明皇后には「天平応真仁正皇太后」と漢風の尊号を、故聖武天皇には「勝宝感神聖武皇帝」の号を贈った。
その月末になると仲麻呂は淳仁天皇より「恵美押勝」の名を与えられた。祖先の鎌足以来国家の大臣として代々「汎く恵むの美、これより美なるものはなし」の「恵美」、と、橘奈良麻呂の乱に際して「暴を禁じ強に勝って」武力に依らず乱を鎮圧したことを称えて「押勝」の名を組み合わせたものであった。又、他には私的に行うことを禁じている鋳銭と出挙の権限をと、功封3000戸、功田100町を賜っている。
同日、役所の名称が一斉に改められた。太政官は乾政官(けんせいかん)、紫微中台は坤宮官(こんぐうかん)、太政大臣は太保太帥である。藤原仲麻呂の唐風被れによるものであろう。
奈良麻呂の乱後、仲麻呂は次々と新しい政策を実行してゆく。乱の直後、8月には蚕が縁起の良い文字を糸で書いた事を理由に年号を天平宝字と改め、雑徭を半減し、出挙の利稲とその年の田租の半分を免除した。九州の防人を東国から徴発するのは、旅の途中が苦労だと西海道七国から召集することとし、学問や武芸を奨励するために大学寮などに経費として公廨田を置いた。これら一連の政策は中国の古典の素養が深かった仲麻呂の発案であろう。758年には全国に問民苦使を派遣して民政を巡察させ、7月にはその報告を基に老丁を60歳以上とし、人頭税の軽減をはかっている。また米価調整の為に常平倉を設置したり、国司の任期を四年から六年にした。
恵美押勝の乱
760年(天平宝字4年)正月4日、藤原仲麻呂は太師(太政大臣)となった。三人の息子を次々と参議とし、その権勢は前代未聞のことであった。
しかしその年の6月7日、終始仲麻呂の庇護者であった光明皇后の逝去を境として、仲麻呂の権勢もかげりを見せてゆく。仲麻呂との協力関係の仲だちをしていた光明皇后の死以後、孝徳女帝は看護禅師として近づいてきた道鏡と親しくなってゆく。女帝の病気を道鏡が宿曜(すくよう)という秘法によって治療したのが発端であったが、二人の間が特殊なものであったかどうかは不明である。(私のような凡人には、特殊な関係であったと考えた方が自然な様な気がする)
仲麻呂はこの道鏡の件を淳仁天皇を通じて批判した。女帝は怒って一旦法華寺に入り、その後五位以上の官人全員を朝堂院に集めて自分は出家するといい、762年(天平宝字6年)6月3日次のように宣言した。「ただし、政事は、常の祀、小さきことは今の帝(淳仁)おこないたまえ。国家の大事・賞罰二つの柄は、朕おこなわん」 つまり重要な政治は自分が行う、という一方的な宣言である。仲麻呂にとっては青天の霹靂であった。
女帝と淳仁天皇・藤原仲麻呂らが不和となってからも、仲麻呂は手抜かり無く自分の周囲を固めていった。六男の薩雄を右兵衛卿として兵衛府の兵を掌握し、又七男辛加知を越前守、八男執棹を美濃守に任じて、それぞれ要害である愛発関・不破関を手にした。
764年9月2日、淳仁天皇は仲麻呂を都督四畿内、三関、近江、丹波、播磨国兵事使に任命した。以上の十カ国の兵士を国毎に20人づつ集めて訓練するのが仕事であった。仲麻呂は一国あたり600人の兵士の動員令を書かせた。役職に事寄せてクーデターを起こすつもりであったと思われる。
しかし、9月11日密告によって計画は女帝の知るところとなる。直ちに女帝は駅鈴と天皇御璽を回収しようと山村王を中宮院に派遣した。仲麻呂はこれを聞いて三男の訓儒麻呂らに山村王を襲わせた、が、失敗。一方、仲麻呂の邸へは勅使紀船守が仲麻呂父子を逆賊とし、官位・俸給を剥奪し、藤原姓をも名乗らせぬとの宣言がもたらされた。
その晩、仲麻呂は一家眷属を率いて邸を脱出し、自分の勢力のある近江へと急いだ。勢多の長橋に着いた仲麻呂は、すでに官軍の手により橋が焼かれて東山道へ脱出できぬと見て、琵琶湖の西岸を北進し、息子の辛加知のいる越前へ向かった。しかし官軍の手により辛加知は斬られ、行く手を失った仲麻呂は三尾で最後の戦いを挑んだが、ついに官軍に敗れた。覇者の最後であった。近江に脱出して9日目、6月19日であった。
淳仁天皇の廃位
恵美押勝の敗死後一ヶ月、10月9日淳仁天皇は母の当麻山背とともに淡路国へ流された。身分は親王に落とされていた。淡路国の一院に幽閉され、淡路廃帝と呼ばれていたが、10月23日垣を越えて脱出しようとして追われ、翌日亡くなった。何者かに殺されたとも思われるが、真偽の程は不明である。淳仁の諡は明治になってからのことである。
藤原仲麻呂は、ビジョンを持った政治家であったが出世しすぎて人の妬みを浴びすぎた。また、仲麻呂は道鏡と孝謙女帝の仲を問題にせず、彼女らを祭り上げておけばこのような結末にならずにすんだものを、惜しいことをしたものだ。
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