延暦寺と高利貸

延暦寺と高利貸



よみ:えんりゃくじとこうりかし
時代:鎌倉時代〜室町時代


内容: 鎌倉時代、高利貸業は貸上、土倉と呼ばれており、末期には土倉の称が一般的であった。1315年(正和4年)、日吉社神輿造替の為、京都の土倉に課税したところ、「神人沙汰」として、一ヶ所宛七百五十疋で計二十一万疋、「庁沙汰」とし一ヶ所千疋で五万五千疋が計上された。
 これを計算すると当時京都には335軒もの土倉があったことになる。さらに驚くべき事に、この内八割近くが延暦寺系の土倉で占められている事である。即ち「神人沙汰」の土倉がそれで、二十一万疋をを七百五十で割ると、二百八十軒という数字が出てくる。
 この二百八十軒の内には、初めから延暦寺系だったものと、営業に延暦寺の威を借りる為に新たに加入したものもある。延暦寺の僧徒はこのように京都の金融界にしっかり根を張っていたのである。
 この様な状況の中に、法華宗が侵入し延暦寺の経済基盤を奪ったら、延暦寺が捨て置く筈はない。信心はともかく経済基盤を奪われることに延暦寺は激怒したようである。