藤原道長の政権

藤原道長の政権



当事者1:藤原道長
当事者2:三条天皇
当事者3:藤原伊周
時代:平安時代
年代:987年(永延元年)9月20日〜1027年(万寿4年)12月4日
要約:摂関政治の絶頂を具象化した藤原道長の台頭。

内容:
 藤原道長の政権掌握
長徳元年4月10日藤原道隆は没した。彼の摂関時代は僅かに六年で、彼が没してからこの家は一気に没落に向かった。
 関白道隆の病のため長子藤原伊周内覧となって政務を補佐したので、道隆の死により伊周は当然自分が関白になるものと考えていた。
 しかし道隆の後は伊周の叔父(道隆の弟)右大臣藤原道兼であった。花山天皇を無理矢理退位させるため、元慶寺へ誘った張本人である。ところがこの道兼は4月27日関白の宣旨を受けた時既に猛威を振るっていた疫病にかかっており、病を押して5月2日、お礼言上に参内し、その七日後死去する。その為世にこれを七日関白という。
 道兼の死で、今度こそ自分の番であると思った伊周に意外な対立候補があらわれた。位官は下位の権大納言であるが、内大臣伊周の叔父である藤原道長である。これを一条天皇を中心とする血縁関係で見ると、伊周は天皇の従兄、道長は天皇の叔父で、道長がやや血縁が濃い。しかし伊周には妹定子が天皇寵愛の中宮であり、両者の優劣は俄には決しがたかった。ところが道長の姉で天皇の生母東三条院詮子が道長を強力に支援したので、遂に道長に内覧の宣旨が下り、やがて位も右大臣となり伊周を超えた。伊周はこれが不満で、両者間の不仲は公然となり、7月24日満座での口論、その3日後道長の従者と伊周の弟藤原隆家の従者の争い、伊周外祖父の高階成忠の道長呪詛など、不穏な事件が続いた。
 ところが伊周側は、道長の関与しない所で大きな失策を犯した。故太政大臣藤原為光の三の君に通う伊周が、四の君に通う花山法王を恋敵と誤認したことから、長徳2年1月15日、隆家が法王を弓矢で威嚇したのである。法王の従者2人が殺されたとか噂が広まり、さらに3月27日詮子の病が伊周側の呪詛によること、4月1日には天子しか行えない秘伝太元帥法を伊周が密かに行ったことなどが告発された。こうして同月24日、
  1. 花山法王を射たこと
  2. 東三条院呪詛
  3. 太元帥法を行ったこと
の3点で伊周・隆家らは流罪と定められた。伊周は重病を理由に配所に赴けない旨を申し出て、居所を二条邸に閉じ籠もった。5月1日、遂に強制捜査の命が下り、出産を控えて内裏から退出していた中宮定子の面前で伊周の捜索が強行され、悲嘆の余り定子が出家する事態となった。逃げ回っていた伊周も5月4日には命に服した。
 伊周らは翌3年赦されたが、政治的には無力となり、一条天皇・東宮居貞親王らの外祖父は共に無く、道長の異母兄藤原道綱も道長と争う覇気はなかった。こうして道長は堂上第一の地位に昇ったが、唯一の弱点は、天皇に配する娘が若年であったことである。

 道長の婚姻政策と一帝二后
三条天皇の実現により、二人の皇后問題が注目され始めた。一人は故大納言藤原済時の娘(せい)子で、正暦2年(991)に入内し、敦明親王以下六人の皇子、皇女をもうけている。もう一人は権力者道長の二女(けん)子で、寛弘7年の入内である。実績の(せい)子か有力後見者の(けん)子かである。(けん)子が長和元年中宮となり、取り残された(せい)子について、天皇の意中を察した道長が立后の事を取りはからったと伝えられる。
 4月27日(せい)子が皇后となり、一条天皇の代の定子と彰子の場合のように、一帝二后が再び出現したのである。道長の同意がなければ(せい)子の立后はなかったであろうが、実際には立后の宣命を何度も書き直させたり、立后の当日に合わせて、わざと中宮(けん)子の参内を行い、有力公卿や役人を(けん)子の側に集めたのは道長であった。(せい)子の側には大納言藤原実資ほか僅かな公卿しか集まらなかった。
 三条天皇は冷泉天皇の皇子で、母は道長の姉超子である。三条天皇にとって道長は外叔父であるが、年齢が離れている上に、超子が早く死んだので、両者の間は血縁的な意識が薄かった。(当時は母系社会であるので、本来なら三条天皇の幼少時は道長と同じ邸で過ごすので、血縁意識があるが、超子が早世したので、同居しなかった為)、加えて長い東宮時代を通じて道長への批判を培ってきた。一方道長は、東宮敦成親王の一日も早い帝位実現を願っていた。長和3年(1014)1月27日、天空に彗星が現れ、人々が異変の兆しと恐れていたところに、2月9日内裏が焼失し、さらに天皇自身、左の目がかすみ、耳も聞こえなくなり、一向に回復しなかった。
 道長がいつ頃から三条天皇に退位を迫ったかは明かでは無いが、長和4年(1015)4月末頃から次第に顕著となる。天皇の病は治癒することなく、しかも新造内裏が僅か二ヶ月後の11月に再び焼失する有様で、災害は天皇の不徳とする考え方からすれば、退位は決定的となった。天皇は次の東宮に第一皇子の敦明親王を立てることを条件に長和5年(1016)1月29日、敦成親王に譲位する。こうして道長待望の外孫が帝位についた。この時後一条天皇は僅かに9歳。道長は摂政となる。
 道長は東宮に新帝の弟敦良親王を擁したが、三条天皇の意志にやむなく譲歩したのであった。不本意な道長は、新帝がかって所持していた壺切の剣を敦明親王に渡さなかった。新東宮の母は、道長の嫌がらせを受けて立后した、(せい)子で、後見役の父藤原済時はすでに亡く、東宮妃延子の父藤原顕光は位こそ左大臣であったが、無能な人物で敦明親王の後援には何の役にも立たなかった 。 唯一の守り手の三条天皇が寛仁元年(1017)5月9日崩御された後、東宮は孤立無援となり、8月9日自ら位を辞した。道長は直ちに外孫敦良親王を東宮とした。道長はこうして後一条天皇、東宮敦良親王の外祖父として、しかも天皇の正妃に三女威子を配した。この時有名な望月の歌
「この世をば わが世とぞ思う望月の 欠けたることも なしと思えば」
を詠み我が世の春を謳歌した。東宮妃に四女嬉子の用意もある。寛仁2年(1018)道長は摂関政治の頂点に立った。

 藤原道長の死
1027年(万寿4年)12月4日、午前4時頃、入道前摂政太政大臣従一位藤原道長は没した。享年六十二歳。
 臨終を迎えた道長は、自ら建てた法成寺阿弥陀堂の本尊の前に、病床を設け、九体の阿弥陀如来の手から五色の糸を自分の手に結び、北枕で西向きに臥した。妻倫子や関白頼通以下公卿殿上人から、国々の有力国司が病床を囲み、天台座主院源を導師として念仏読経。息を引き取ったのは前日の3日であったが、夜の入っても口が僅かに動き、恰も念仏を唱えている様であった。そして4日の朝に死が確認されてからも、道長の遺体からは上半身の温かみが消えず、夜半まで残ったという。7日鳥辺野で火葬、8日宇治木幡の藤原氏の墓所に埋葬された。
 道長の臨終は、伝え聞く極楽往生の様子を地で行った、まさに大往生といえそうである。しかしその実際は大いに異なり、晩年、胸病(心臓神経症)、糖尿病、眼病(白内障)等に悩んだ上、死去の年の春から急速に病が重くなっていた。6月に入り飲食を受け付けず、10月5日には死亡説が流れた。10月28日頃から痢病にかかり、11月に入ってからは失禁状態となり、衣服を汚した。11月21日から再び飲食をとれず、下痢も続き、衰弱が激しくさらに背中に癰{皮膚や皮下に生ずる、急性で激痛のある化膿(かのう)性炎症。疔(ちょう)が多く集まってできたもの}ができた。24日には意識が薄れ、背中の腫れは乳房ほどの大きさとなった。危篤状態の続く中で、12月2日、医師丹波忠明が癰に針をさしたが、血膿が少し出ただけであった。
 「当時の太閤、徳は帝王の如く、世の興亡は唯わが心にある」とかって評された道長も、その臨終時にはやせ衰え、目はかすみ、胸痛に加えて腫れ物の激痛にも襲われていたのである。果たしてその苦しみを九体の阿弥陀像や念仏が救うことができたであろうか。死の際に現世の栄華が何になろうか・・・。・・・諸行無常・・・・。南無阿弥陀仏。



 


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