壬申の乱

壬申の乱



当事者1:大友皇子(弘文天皇)
当事者2:大海人皇子(天武天皇)
当事者3:
時代:飛鳥時代
年代:672年(天武1年)6月24日〜672年(天武1年)7月23日
要約:天智天皇の息子(大友皇子)と、弟(大海人皇子)の戦い。大海人皇子が勝利し天武天皇となる

内容: 天智天皇は初め弟の大海人皇子(天武天皇)を皇位継承者として皇太弟とした。しばらくして、天智天皇は皇位を子息の大友皇子に譲りたくなった。(これに似た話はその後の歴史の中に何回もある)その布石として671年1月5日に新しいポストである太政大臣を新設し、大友皇子を任命し皇太弟である大海人皇子を政権から排除するように務める。これを知った大海人皇子は強い不満を抱いた。間もなく天智天皇は病床に伏す身となり、枕元に大海人皇子を呼び後事を託す旨を告げたが、天智天皇の真意を見抜いた大海人皇子はこれを固辞して出家し、妻(後の持統天皇)子とともに吉野に隠棲し皇位への野心のないことを公にした。
 671年12月天智天皇が没した。天智天皇没後の政情不安の672年6月24日、大海人皇子はわずかな 従者と共に急遽東国に進発。ここに壬申の乱が勃発した。昼夜兼行で伊賀を経て伊勢まで急行し 27日には美濃国不破に本営を置くに至った。
 大友が機先を制されて軍兵の動員に手間取る間に、大海人皇子は東国の大兵力を結集し7月2日に 総反撃を下命した。第二隊は大和方面に進出して大伴吹負らの軍と合流し、南大和の箸陵の戦いで 大友方を撃破した。大海人皇子の長子である 高市皇子率いる第一隊は近江に進撃し、大友軍を打ち破りながら進軍し7月22日大友軍の最後の 防衛ラインである瀬田川に至る。この日は大友皇子自ら出陣し、瀬田川を挟んで両軍最後の決戦が 始まる。瀬田川を奪取された大友軍は総崩れとなり、大友もわずかに身を持って逃れたが翌日山崎で 自害した。
 壬申の乱は大海人皇子の圧倒的勝利に終わった。大海人皇子の勝因は天智天皇の急進改革によって 特権を奪われた貴族・地方豪族の不満を上手に吸収し、それを近江朝廷にぶつけた為である。皇位継承 争いを大規模な内乱としたのが勝因である。
 壬申の乱に勝利し、実力で皇位に就いた大海人皇子(天武天皇)の権力は強大なものとなり、天皇の 神格化・律令体制の整備とが急速に進んだ。



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