源平合戦

源平合戦



当事者1:平清盛・平宗盛・平維盛
当事者2:源頼朝・源義仲・源義経
当事者3:
時代:平安時代
年代:1180年4月9日(治承4年)〜1185年(寛治1年)3月24日
要約:平氏政権を源義仲が京から追い出す。その源義仲政権を源頼朝の代官源義経が追い出し、さらに義経は平氏の息の根を止め、源頼朝による武家政権へと時代が進む。

内容: 以仁王の令旨
1180年4月9日(治承4年)、平氏追討の令旨を発した以仁王に対し、平清盛は5月15日に追討軍を遣わした。以仁王は園城寺に逃れ、5月21日には源頼政が嫡子源仲綱以下一族の軍勢を率いて合流し、反平氏の旗色を明らかにした。
 5月26日宇治平等院の近くで以仁王と源頼政は、平知盛平重衡率いる平氏の大軍に追いつかれ、合戦となった。頼政は宇治川にかかる橋の板をはずして時を稼いだ。両軍は橋を挟んで矢を射あっていたが、頼政軍の中から残った橋桁を渡って敵陣へ進み戦うものが出てくるなど、橋を挟んでの戦いが一日続いた。後にこの戦いは”橋合戦”と呼ばれる。
 優勢を誇る平氏軍は川に飛び込んで渡り、攻め込んだ為、数の少ない頼政方は次々と討ち死にした。頼政も傷を負い平等院の内に入り自害した。以仁王も流れ矢で討ち死にしたという。
 頼政らの挙兵は準備も不十分で、軍勢を結集することもできず失敗したが、平氏追討の発火点となった意義は大きい。

 源頼朝挙兵
1180年8月17日(治承4年)伊豆三島大社祭礼の日、平家によって流されていた源頼朝は、舅の北条時政が集められるだけの兵をもって、伊豆国目代山本判官兼隆を襲撃して討ち取った。(頼朝が平氏追討に立ち上がった第一日)
 頼朝は挙兵以来そのまま順調だったわけではない。目代山本兼隆を討った勢いで、相模国を目指し進撃したところ、まだ平氏の支配を受けていた大庭景親らによって阻止された。土地の名を取って石橋山の合戦といわれる戦いがこれである。敗れた頼朝が数人の旗本と山中に逃げ、大きな木の洞に隠れていたが追ってきた梶原景時は頼朝を発見しながら、見つからないふりをして、頼朝を救った話は有名である。
 その後頼朝らは海路で安房国に逃れ、そこで上総広常千葉常胤らの豪族の援助を受け再び進撃をはじめ、10月6日には鎌倉に入って、ここを本拠地とした。

 富士川の合戦
9月5日朝廷は源頼朝追討の宣旨を発した(朝廷といっても平氏政権)。平家方は平維盛を総大将として京を出発。しかし平氏の意気は揚がらず脱走するものも現れた。10月20日夜、富士川を挟んで対峙したときには、源氏は五万余騎であるのに対し、平氏は四千騎であったという。
 明日は決戦というその夜、甲斐源氏が平家の背後に回ろうとした動きに、水鳥が驚いて一斉に飛び立った。不安な気持ちで微睡みかかっていた平氏は、源氏の夜襲かと驚き、取るものもとりあえず、我先に逃げ出した。その様は全く敗残の兵で、五騎・十騎とばらばらで京に戻ってきた。総大将の維盛が帰京したのは11月5日のことであった。

 平清盛の死
源氏が東国で跋扈し、延暦寺東大寺興福寺等の僧兵が平氏追討に立ち上がった状況下、政治的にも独裁体制が不利と見た平清盛は、1180年(治承4年)12月18日後白河法皇の幽閉を解き(1179年の清盛のクーデター以後、法皇は幽閉されていた)政務を見ることを願い出た。これらを押さえるには後白河法皇の権威が必要であった。その直後の12月28日には平重衡を大将とした平氏軍が東大寺・興福寺を攻撃して同寺を焼いた。仏教権威を敵に回しても自派の権威維持に躍起になっている状況が伺える。
 1181年(治承5年)閏2月4日平清盛は、平家の没落を予感させる事件の中没した。高熱を発し悶絶しながらの絶命だったという。巷では前年の東大寺・興福寺焼き討ちに対する仏罰であるとの噂が流布した。

 倶利伽藍峠の戦い
北陸方面に於ける源義仲(木曽義仲)の勢力は、日に日に増大していった。1183年(寿永2年)4月平氏は平維盛・平通盛を大将にして十万の軍勢を派遣した。大軍は越前国加賀国へと進み、5月11日には加賀国・越中国の国境である砥浪山付近で義仲軍と対峙した。義仲は平氏軍を狭い倶利伽藍峠に誘い込み、谷に落とす作戦をたてた。そこで昼間は矢合せなどして時間を稼ぎ、辺りが暗くなってから、四方から一挙に鬨の声を上げさせた。これを聞いた平氏の軍勢は暗さに道も解らず、我先にと谷の方に退いたため、皆谷底に落ちていった。大半の平家の軍勢が谷に重なり合って死亡した。さらに義仲は牛の角に火のついた松明をつけ、平氏軍に嗾けて一層混乱させたというのもこの時の話である。

 平家の都落ち
勢いに乗った義仲軍は7月には近江国にいたり、比叡山より京を臨んだ。彼の同盟軍の源行家も宇治から京に迫った。また摂津河内の源氏も大挙して入洛の動きを見せた。この様な情勢のもと平氏は京都に留まることに不安を感じ、安徳天皇・後白河法皇を奉じて一門をあげて都を捨てることを決心した。  後白河法皇は、平家の都落ちの気配を知り密かに比叡山に身を隠した。平家の目論見は早くも破れ、都からの脱出を急ぐあまり法皇が同行することは諦め、安徳天皇・建礼門院を奉じて、神璽・宝剣以下を具して7月25日遂に都を捨てて西走した。これをさかいに平氏は賊軍と呼ばれるようになる。8月6日後白河法皇の命により、平宗盛以下平家一門二百余人の官爵を解任した。

 源義仲の没落
平家都落ちの戦後処理として、8月18日後白河法皇は没収した平家の所領五百余ヶ所の内、百四十ヶ所を源義仲に、九十ヶ所を源行家に与えた。しかし源義仲の軍勢はこれに気をよくして京の主は自分たちであると思いこみ、乱暴狼藉を行った。是に対し法皇を初め貴族・庶民まで源頼朝の上洛を願うようになった。
 9月20日源義仲は平氏を追討するため西国に向かった。後白河法皇は源義仲が京を留守にしている間に、源頼朝に対し十月宣旨を発して東海・東山両道の荘園国衙領を元の如く領家に従わせることを源頼朝に命じた(源義仲と源頼朝を両天秤にかけているね)。
 閏10月1日一旦は九州まで落ち延びていた平重衡率いる平家軍は、備中国小島で源義仲軍を撃破した。閏10月15日中国地方の平家軍の勢力が強くなり、源義仲は敗れて京に引き返す。しかし帰って来た源義仲が京で見た政治情勢は、もはや自分が政治の主役では無いことであった。これを快く思わなかった義仲は11月19日クーデターをおこし、後白河法皇の法住寺殿を攻め、法皇を五条東院へ幽閉した。さらに自分の自由にならない摂政近衛基通以下を解任し、藤原師家を摂政に任じた。しかしこれらの行動は軍事的な裏付けが無ければとても維持できるものではない。朝廷を上手に泳ぎ回っていた平家でさえ、軍事的な裏付けが無くなれば都落ちしなければならないのだ。
 源義仲にとって破局的な時はすぐにやってきた。11月29日平教盛・平重衡の率いる平家軍が播磨国室山で源行家軍を撃破した。源義仲・源行家連合軍は完全に平家に敗れ去ったのだ。このような情勢の中12月源頼朝は、源義仲追討のため、弟の源範頼源義経を代官として上京させた。1184年1月20日、源範頼・義経軍が勢多・宇治で源義仲軍を打ち破り、源義仲は巴御前と供に奮戦したが近江粟津で敗死した。

 一ノ谷の合戦
都落ちした平氏は、一旦九州まで落ち延びたが、再び東上して1184年(寿永3年)1月にはかって平氏が遷都した摂津福原に戻り、播磨との国境に一ノ谷の城郭を構え源氏に備えた。2月に入ってからは京に攻め入る程の勢いを見せ、公家以下京都市民を恐れさせた。京都には源範頼・源義経の軍がおり、後白河法皇の平氏追討の宣旨を受けて一ノ谷攻撃に向かった。範頼・義経は二手に分かれ、範頼は小山朝政畠山重忠梶原景時らを率いて大手へ向かい、義経は安田義定土肥実平熊谷直実らを率いて搦手へ向かった。戦いは2月7日早朝より始まり、義経は鵯越え坂らか奇襲し平氏を混乱させ、範頼も攻防戦を繰り返し一ノ谷に追いつめ、四時間の激戦の末平氏を駆逐した。
 合戦で敗れた平氏は会場に浮かぶ船に逃れた。熊谷直実は美麗な鎧兜をつけ、連銭葦毛の馬に乗った武者がただ一騎海に乗り入れるのを見つけた。直実はこれを呼び戻し、相手を組みしいて、頸をかき切ろうとすると、自分の息子と同じくらいの16〜7歳の少年であった。不憫に思い名を聞くと「名のらずとも、首実検で誰々かが見ればわかる」としか言わなかった。やむなく直実は頸をかき切った。義経の前での首実検で清盛の甥の平敦盛とすぐに知れた。(直実はこの時の事で世の無情を感じ、出家したと平家物語にある)

 屋島の合戦
一ノ谷の合戦で敗れた平氏は四国讃岐の屋島に陣を取り、水軍を持たない源氏を再び脅かすようになった。1185年(元暦2年)2月18日、源義経は摂津国渡辺から暴風の中僅か百五十騎を率いて海を渡り、阿波国椿浦に上陸した(通常三日の行程を、暴風を利用して4時間で渡ったという)。上陸後は土地の武士を味方に付けながら、19日に屋島の平家を攻めた。激しい矢合戦となり奥州から義経に従ってきた佐藤嗣信が戦死したのもこの時である。
 その後、源氏には梶原景時を大将として援軍が来るというので、平家は全軍船を揃えて長門国へ向かった。

 壇ノ浦の合戦
源平最後の合戦は1185年(元暦2年)3月24日に行われた長門国壇ノ浦で行われた海戦であった。平氏五百余艘に対して、源氏は義経が味方にした伊予の河野水軍・摂津の渡辺水軍など八百余艘で立ち向かった。
 戦場となったのは海流の流れの早い関門海峡で、朝の6時頃から始まった。平家の抵抗も激しいもので、源氏の大将源義経が平家の武将平教経に追い回され、八艘飛びといわれたように、船から船へ飛び移る戦いぶりであった。午後になり潮の流れが逆になり、平家は不利となり戦死する者も多く、平知盛が安徳天皇の御座船に最期の時が来たことを伝えた。清盛の妻二位尼は、まだ8歳の天皇に、海の下にも都があると慰め、自分は宝剣を抱いて海中に没した。天皇は按察局に抱かれて入水し、局は海中に浮いて助けられたが、天皇は没したままだった。以下一門が次々入水し、平宗盛平時忠など助けられた者もいたが、ここに平家は滅亡した。

 源平の合戦に勝利した源氏は、したたかな後白河法皇と権力闘争をしながら、次第に権力を掌中に収め、鎌倉幕府を創建して行く。  


 


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