嘉吉の乱

嘉吉の乱



当事者1:足利義教
当事者2:赤松満祐
当事者3:
時代:室町時代
年代:1428年(応永35年)1月18日〜1441年(嘉吉元年)6月24日
要約:くじ引きにより決定した将軍足利義教。彼の恐怖政治により幕府が衰退して行く。

内容: 籤引将軍
1428年(応永35年)1月、足利義持は死病の床につき、日に日に衰退する一方であった。そこで近侍した三宝院満済が後継者の事を相談すると、義持は力無く嘆く。
「自分が次の将軍を指名したところで、皆々がそれを守らなければ仕方がない」
 将軍権力の低下を窺わせる端的なエピソードである。このため、満済らは籤引によって次の将軍を決めることになる。
 候補者は義持の弟で何れも僧籍に入っていた青蓮院義円大覚寺義昭、相国寺永隆、梶井義承の四人。
 籤は満済が作り、山名時煕が封をし、それを管領畠山満家が源氏の氏神である石清水八幡宮の社前で引いた。当たったのは青蓮院義円である。義円は早々に還俗して1428年(応永35年)3月12日義宣と名を改め、翌1429年(正長2年)3月15日に名を義教と改め、正式に第六代将軍の座に就いた。籤引き将軍の誕生である。

 恐怖政治
六代将軍足利義教は専制将軍を志向したが、父足利義満のように天皇家を侵そうとする気持ちは少しもなかった。その点ではむしろ尊皇家といってもよく1433年(永享5年)6月天皇から初めて勅書をもらった時などは、さっそく御所に駆けつけてお礼を言上した程であった。
 しかし、その反面朝廷公卿に対して極めて厳しく、朝廷の綱紀改革に努めた。
 例えば、公家がその権勢におもねて幕府にばかり出入りし、内裏が火の消えたように寂しい状況を憂いて、公家の幕府参賀を年末・年始と節日だけに制限。内裏への出仕の規定を厳重にしたのは、その端的な例である。義教は又、朝廷内の風紀紊乱を防止するため男女別室の制を設け、場所柄もわきまえずに情事に耽る者への厳罰を定めた。
 楊梅少将兼重はさっそくその槍玉にあげられた哀れな人物である。愛人の{あちゃ}という女官が禁中で出産した為情事が露顕し、即座に{あちゃ}は追放、兼重は所領没収の上遠流という重罪に処せられた。
 又、東坊城益長のケースもある。1430年(永享2年)11月、義教の直衣初めの儀が行われた時、益長はふっと笑い声を漏らした。別に他意はなかったが、義教は耳ざとくそれを聞き咎め、益長の弁明も聞かばこそ、早々に所領二箇所の没収と籠居を命じたのであった。
 これに類する出来事は枚挙に遑がない程起こったようである。公家中山定親の日記「薩戒記」によれば、義教によって所領没収、遠流、死罪に処せられた公家・神官・僧・女房などの総数は、1434年(永享6年)6月迄で八十名にのぼったという。義教のこうした峻厳さは又、守護大名に対しても遠慮会釈無く発揮された。その為世の人々は、義教の治世を、
「刃わたる時節」「万人恐怖」
の世などと表現し、戦々恐々として義教の機嫌を損なわぬように努めたという。

 嘉吉の乱
御座の正面に坐り、大盃を口に運んでいる将軍足利義教は、いつになく上機嫌であった。その日(1441年(嘉吉元年)6月24日)義教は、播磨美作備前三ヶ国守護赤松満祐に招かれてその邸に遊び、今酒宴たけなわというところである。
 折しも、庭先の能舞台では、義教が贔屓にしている音阿弥が「鵜飼」を演じ始めた。既に大盃は五度座敷内をめぐり、かなり酩酊した義教は、膝を乗り出すようにして舞台に見入っていた。と、その時である。邸の外でただならぬ物音が轟いた。実はこれこそ、将軍弑逆を狙う赤松勢決起の合図であったのだが、そうとは知らぬ義教は、雷鳴の音であろうと気にもとめず、舞台上の音阿弥に視線を固定したまま、ゆっくり大盃を口に運ぼうとした。
 だが、義教はついにその大盃の酒を味わうことは出来なかった。次の一刹那、御座の間に血しぶきが噴き上げ、義教の上体が倒れ込む。その頸には、いつ現れたのか、赤松家中きっての勇者安積監物行秀の豪刀が食い込んでいた。(まるで見てきたような描写でしょう)
 では、満祐はいったい何故、将軍殺しという兇行を演じたのであろうか。
 巷説では、義教は背が低く容姿の醜い満祐を馬鹿にして。”三尺入道”と呼び猿や犬を度々けしかけたので、遂にその侮辱に耐えきれなくなったため、という。
 しかし、満祐叛逆の真の原因は、所領問題を巡る疑心暗鬼にあったようである。当時、義教は赤松氏庶流赤松貞村男色関係にあり、その為世間では、いずれ義教は満祐から三ヶ国守護を取り上げ貞村に与えるつもりだそうな、とういう噂がもっぱらであった。
 赤松満祐は、将軍義持の代に、義持の命によりその寵童赤松持貞(貞村の叔父)にあやうく所領を奪われかけた苦い経験があった。そうすると、今度の噂もいつまた現実のものになるかもしれない。相手が専制将軍だけにその不安は一層強く、そこで満祐は思い詰めた末、今度の兇行に及んだのではないかと考えられる。
 満祐は播磨に逃げ戻った所を幕府軍に攻め滅ぼされたが、義教の突然の死はその施政が過酷であっただけに、世間一般にある種の開放感をもって受け止められたようである。 「看聞御記」は、
「此ノ如キ犬死、古来其ノ例ヲ聞ザル事ナリ」
と記し、街角には次の落書が出た。

   いなかにも京にも御所の絶えはてて
       公方にことを嘉吉元年

 先年鎌倉公方足利持氏が殺されたかと思ったら、今年は京の公方が非業の死を遂げた。まさに年号通り、公方にことを嘉吉(欠きつ)元年であるなあ。という意味である。


 


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