建武の新政と南北朝

建武の新政と南北朝



当事者1:後醍醐天皇
当事者2:足利尊氏
当事者3:北条時行
時代:南北朝時代
年代:1333年(元弘3年)10月9日〜1336年(延元元年・建武4年)12月21日
要約:後醍醐天皇は政権を掌握すると、親政に乗り出した。しかしあまりに時代にマッチしない政策により人心は離れ、南北朝時代へと時は進んで行く。

内容: 建武の新政
1333年(元弘3年)5月22日、鎌倉が陥落し北条得宗家が滅亡すると、後醍醐天皇は親政(幕府を介さず直接政治をする)する準備を着々と行った。まず手始めに護良親王征夷大将軍に任じ武家階級の象徴的首長の地位を天皇家に取り返した。
 10月9日、天皇は記録所を復興し、建武の新政をこの記録所を通じて行っている。
    建武の新政の政治機関
      中央
    1. 記録所     建武の新政の最高機関
    2. 雑訴決断所   所領紛争などの訴訟機関
    3. 恩賞方     元弘の乱の論功行賞の査定機関
    4. 武者所     京都・皇居の軍の統轄機関

      地方
    1. 国司・守護   併置
    2. 陸奥将軍府   護良親王(陸奥・出羽二国を管理)
    3. 鎌倉将軍府   成良親王(相模守足利直義が補佐、関東十カ国を管轄)

 建武の新政は、久しぶりに復活した公家(天皇)主導の政権であるので、理想や意気込みは高かったものの、時代に逆行することが多く、新たな施策を行う毎に混乱を増すばかりであった。そんな状況を巧みに批判し、諷刺して見せたのが世に有名な「二条河原の落書」である。

「此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀綸旨 召人 早馬 虚騒動 生頸 還俗 自由出家 俄大名 迷者 安堵 恩賞 虚軍 本領ハナル、訴訟人 文書入タル細葛、追従 讒人 禅律僧 下克上スル成出者・・・・」
 このあとも、延々と「此頃都ニハヤル物」を指摘した落書は、最後をこう結んでいる。
「天下一統メズラシヤ 御代ニ生テサマザマノ 事ヲミキクゾ不思議ナル 京童ノ口ズサミ十分ノ一ヲモラスナリ」

 この落書が書き示す通り、建武の新政は理想ばかりを追求し、時代に逆行する政策が多かった。恩賞も公家に厚く武家に薄いものであった為、次第に武士の反逆を招くこととなる。

 建武の新政の意義
この新政を、時代に逆行した古代権力の復活を試みた反動的なものとする見方に対し、天皇が商工業者やそれにつながる悪党、海賊を組織した点に現実に対する積極的対応を見いだす見解もある。いずれにしてもこの新政は13世紀後半から顕著になる中世社会の矛盾にもっとも専制的な姿勢で対処しようとしたものと言うことが出来る。

 中先代の乱
北条高時が鎌倉東勝寺で自刃して幕府が滅んだ時、高時の第二子北条時行はまだ幼児であったが、そのまま姿をくらまし、沓としてその行方が知れなかった。その時行が1335年(建武2年)7月信濃の一画ににその所在を明らかにし、北条氏再興の兵を挙げた。時行は幕府滅亡の折り、家臣諏訪盛高に守られて鎌倉を脱出し、それからずっと諏訪大社の神官で武将の諏訪頼重のもとに養われていたのである。
 信濃は鎌倉初期以来、北条氏が守護として支配した国であったので、時行の麾下に馳せ参じる者は多かった。諏訪氏、滋野氏らを主力として、総兵力は五万に達したとも言う。
 さて、時行の軍は諏訪を発すると、まず時の信濃守護小笠原貞宗の軍を青沼に破り、ついで武蔵国に入って女影原・小手指原・府中などに足利軍を連破し、怒濤のように鎌倉に迫った。
 当時鎌倉を守っていたのは、足利尊氏の弟の足利直義である。直義はつとに1333年(元弘3年)、後醍醐天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に赴き、関東十カ国を管轄する権限を与えられて執権と呼ばれる地位についていた。
 直義は7月22日自ら出陣し、鎌倉の北30km程の井出沢に軍を進めた。だが直義もまた、時行軍の快進撃を止めることができず、大敗して東海道を西走した。鎌倉には戻らず、捲土重来を期して三河国の矢作まで退いたのである。
 その三日後、時行軍は残敵を掃討して鎌倉に入った。この事件が中先代の乱である。中先代とは時行のことで、北条氏を先代、足利氏を後代と呼ぶと、丁度その中間になるので中先代といったのである。
 時行軍が侵攻した武蔵相模などは、尊氏が後醍醐天皇から知行国として与えられた国である。そこで、当時京都にいた尊氏は天皇に時行討伐のための東下を願い出、併せて征夷大将軍に任命されることを求めた。しかし、尊氏の盛名を喜ばない天皇は、尊氏の願いを二つとも退け、成良親王を征夷大将軍として時行討伐を命じた。
 明らかに面当てとわかる天皇のこの処置に、尊氏は内心大いに不満であった。そこで尊氏は、真に思い切った手段に打って出る。即ち、勅許を待たずに自ら征東将軍を名乗り、さっさと出陣してしまったのである。
 尊氏は矢作で直義と合流し、鎌倉へと軍を進める。そして8月18日、相模川に時行軍を撃破し、たちまち鎌倉を回復した。
 その勝報を得た天皇は、尊氏を従二位に叙してその勲功を賞し、すみやかに上洛することを促した。しかし尊氏は、その勅命に従わなかったばかりではなく、勝手に諸将への恩賞を行うなど次第に自立の姿勢を強めていった。このため、必然的に賊徒の烙印を捺させることとなる。

 南北朝の始まり
1335年(建武2年)12月に鎌倉を発した尊氏軍は、12月11日新田義貞軍を箱根に撃破し、1336年(建武3年)1月11日入京した。そこで後醍醐天皇は比叡山に身を隠した(京都戦乱の折りは、比叡山に身を隠すのが一種の慣例であった)。しかし、尊氏の天下も長くは続かなかった。1月27日新田義貞が足利尊氏を破り京都を回復したのである。その為足利軍は敗退して丹波から播磨方面へ退いた。
 しかし、尊氏もただ黙って逃げていたわけではない。逃げながら賊軍という汚名を返上するため備後国鞆で、光厳上皇院宣獲得した。
 足利軍は、源平時代の平氏軍に倣い九州まで落ち延びた。ここで兵力を立て直すためである。まず手始めに多々良浜で菊池武敏を破り、再起の足場を固めた。その勢いを借り、4月3日博多を発ち東上を開始した。尊氏の再起は本物であった。4月25日には、湊川において新田義貞・楠木正成軍を撃破した(楠木正成は戦死)。これが世に言う湊川の戦である。この敗戦により5月27日、後醍醐天皇は又も延暦寺に行幸(避難)することとなった。
 尊氏は6月14日光厳上皇を奉じて入京し東寺に陣した(以後10月まで足利軍と天皇軍は洛中で攻防を繰り返す)。このような情勢の中8月15日量仁親王が尊氏の後ろ盾により践祚し、同時に光厳上皇の院政始まった。
 1336年(建武3年)10月10日、後醍醐天皇は尊氏が密使をもって申し出た講和の提案に応じ、手輿に乗って東坂本の行在所を発した。
 京都では、尊氏の弟直義が出迎え、専ら後醍醐との折衝に当たった。入京した後醍醐はその指示によって花山院に入る。先帝として丁重な扱いを受けたが、花山院の四門は鎖され、足利方の武士が厳重な警護に当たっていたから、完全な軟禁状態と言って良い。
 次いで直義はすでに擁立していた持明院統の光明天皇への神器の授与を要求し、11月2日後醍醐はそれに従った。同じ日、後醍醐は太上天皇(上皇)の尊号を贈られ、自発的に譲位したという形式をとらされた。
 だが後醍醐はまだ諦めたわけではなく、逆に烈々たる闘志を持って回天を期していた。天皇方の軍は、依然強大なのである。奥州には北畠顕家が、北陸には新田義貞が、そして伊勢には北畠親房、河内・和泉には楠木一族がそれぞれ雌伏して時の来るのを待っている。それらと連帯を保ち、一斉に決起したなら、再び尊氏を破るのも強ち儚い夢ではなかった・・・・。
 11月22日の京都は、朝から騒々しく、武装して馳せ回る兵達の姿があちこちに見かけられた。前夜半、後醍醐が花山院から脱出したため、その行方の捜索が発令されたのである。「太平記」によれば、後醍醐は童達の踏み開けた破れ築地から女装して紛れ出、刑部大輔景繁なる者の用意した馬に乗って大和に向かったのだという。この脱出劇の背後には、北畠親房の連絡と勧めがあった。
 後醍醐は吉野山に行宮を置くことになった。そうすることに決定したのは、吉野山が自然の城塞をなす天険であり、且つ伊勢北畠親房、河内・和泉の楠木一族に近いという地理上の好条件に加え、吉野山の衆徒が吉水法印を先頭に全面協力を申し出たためである。
 後醍醐の脱出が明らかになった時、強硬派の足利直義は直ちに逮捕を命じ、後醍醐のことを
” 廃帝 ”
 と称して憚らなかった。それに対し足利尊氏は、
「天皇のことを今後どうお計らいすべきか、困っていたところなのに、いまご自身でよそへ移られたのは不幸中の幸いである。お心のままに行動されても、天下のことはいずれ落ち着くところに落ち着くであろう」
 尊氏のこの余裕は、「建武式目」の制定などにより、幕府権力がすでに確立しつつあったことへの自信のあらわれと言って良い。
 しかし、尊氏の自信にも関わらず、吉野朝は用意に屈せず、当時の高僧が、「一天両帝、南北京也」と表現した南北朝対立の異常事態はここに幕を開け、以後五十余年にわたって国内を動乱の渦に巻き込むことになる。


 


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