キリスト教伝来

キリスト教伝来



当事者1:島津貴久
当事者2:フランシスコ・ザビエル
当事者3:
時代:戦国時代
年代:1549年(天文18年)7月3日?〜
要約:日本にキリスト教の布教に来た、イエズス会のフランシスコ・ザビエル。しかし日本は戦国時代。打算が渦巻いていた。

内容: ザビエル上陸
天文18年(1549年)、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが日本布教の為、薩摩に上陸した。そして領主島津貴久の許可を得て、初めてキリスト教を伝えた。
 十六世紀、ドイツの神学校の教授マルチン・ルーテルが唱えた新教(プロテスタント)を契機として、宗教改革運動が北部欧州に起こった。南部欧州ではその反動として旧教(カトリック)保護運動が起こったのである。
 イスパニアの貴族イグナティウス・デ・ロヨラは、同志と共に、1534年(天文3年)結成し、1540年(天文9年)ローマ法王の許可を得てイエズス会を興した。その信条は「貞潔・清貧・エルサレム巡礼」で、法王の命令に従い、キリスト教の敵と戦うことである。そこでイエズス会の宣教師たちは、失われた北部欧州に代わるべき旧教流布の世界を、全世界の新天地に求めようとしたのである。
ここにフランシスコ・ザビエルがインドに派遣された。彼はマラッカ地方で布教に従事していたが、アンジロー(安次郎?)という薩摩出身の青年と出会い、彼の道案内で鹿児島にやってきたのである。

 日本布教
そのころキリスト教は、切支丹、天主教、耶蘇教、南蛮宗などと呼ばれ、宣教師の事を伴天連と言っていた。その教えは異国の教えとして、当時の人々から珍しがられ歓迎されたのである。当時の仏教が世俗化し堕落したせいでもあった。
 しかし、島津氏はその後ポルトガル船が鹿児島にこなくなったのを。切支丹の責任として布教を中止させた(南蛮貿易とキリスト教は相互補完関係であり切り離して考えられない。事実イエズス会員で貿易に直接関わった者もいる。よって島津氏の考え方が間違っているわけでは無い。ただ港としての機能や経済性が鹿児島より、平戸や長崎の方が高かっただけである)。そこでザビエルは、肥前の平戸、周防の山口を経て、天文19年(1550年)京都に上ったが、戦乱で荒れ果てていたため、山口に戻り、領主大内義隆に、ゴア総督の国書を献じ、布教の許可を得て山口に教会を建てた。しかし陶晴賢の謀反で大内氏が滅ぶと、大友宗麟を頼った(陶晴賢は、謀反の事を大友氏に知らせ、ザビエルを大友に預けた節が見られる)。ザビエルは日本布教が困難であることを知ると、日本文明の原点とも言える中国を布教をし、その後に日本をキリスト教化する事に政策を変換し日本滞在二年二ヶ月で日本を去った。ザビエルは去ったが、その後も布教活動は廃れることなく続いて行く。

 ザビエルの見た日本  しかし、戦国時代の日本人と生活してこの様に感じたのならば、日本人は非常に善い人であったのであろう。もし違っていたのならばザビエルの日本への思い入れは尋常では無いということか・・・。

 ザビエル後のキリスト教
ザビエルの後を継いだ宣教長コメス・ド・トレスは、南部の島々でしばらく宣教した後、永禄3年(1560年)に京都入りを許されるが、迫害を受けてしばしば堺に避難した。トレスは永禄5年(1562年)末、改宗する大名の多い九州に支持者を求め、キリシタン大名大村純忠のもとへ向かった。純忠はポルトガルとの貿易のために宣教師の協力を確保する必要を感じ、彼らに横瀬浦の港を提供する。そしてそこに住むのをキリスト教徒に限りポルトガル船に対しては10年間入港税の免除とする。さらにイエズス会会員には住居の寄贈を約束している。純忠は元亀元年(1570年)長崎を開港し、1580年〜1587年それらの地をイエズス会に教会領として贈与し、それらの都市はキリスト教の中心地となってゆく。
 この間に信長が京都で実権を握り、トレスに代わってフランシスコ・カブラルが宣教にやってきた。この新しい日本宣教長は信長から評価され宣教師の上洛が許された。天正5年(1577年)にはグネッキ・ソルディ・オルガンティノが京都と安土に教会を建てるに至る。
 しかし二年後、宣教状況の視察に訪れたヴァリアーノ管区長は、カブラルが日本文化の独自性を尊重せず、宣教方針に柔軟性を欠くと判断した。彼は学校と助手の養成所設立を決め、天正10年(1582年)天正遣欧使節とともに長崎を去った。
 この後キリスト教は、スペインとポルトガルの争い、イエズス会とフランシスコ会との争いなど、経済や政治など俗世の欲に押し流され、江戸初期にキリスト教禁令に至りザビエルの願いも空しく、イエズス会の日本への再上陸は1908年まで待たねばならなかった。

 


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