北野大茶の湯

北野大茶の湯



当事者1:千利休
当事者2:豊臣秀吉
当事者3:
時代:桃山時代
年代:1587年(天正15年)10月10日
要約:豊臣秀吉の文化事業の集大成。千利休の侘びと豊臣秀吉の黄金趣味。戦国を乗り切った覇者の文化政策なのか、政治的ショーなのか。

内容: 黄金の茶会
1586年(天正14年)正月20日。秀吉禁裏の小御所で黄金の茶会を開いた。大阪城内にあった黄金の座敷を解体して禁中に持ち込んだのである。次いで誠仁親王・邦房親王・近衛前久菊亭晴季の列席のもと、天皇にお茶を献上した。
 茶会が終わってから女官や公家衆に茶席を公開したが、座敷は黄金の三畳敷きで、茶の湯道具も黄金。畳は猩猩緋、縁は黒地の金襴であったという。翌日には、紫野において京中の男女に見物させる予定であったと言うから、持ち運びや組み立てが自由にできていたのであろう。
 この黄金の座敷というのは、大阪城の天守閣に設けられた移動組み立て式の黄金製座敷のことである。大友宗麟の実況報告によると、三畳敷きで天井や壁・その他全てが黄金で造られ。明かり取りの障子の骨までもが黄金で、紙の代わりに赤紗が貼ってあったという。
 茶道具もおおかた黄金製で、茶釜と風炉は黄金の切り合わせであり、水指は飯桶だが、土目の閉じ蓋が黄金である。柑子口の柄杓立や合子の水翻、棗の形の茶入れなど何れも黄金。大振りな深茶碗が二つあるが、これもともに黄金。四方盆や茶杓も黄金。釜の蓋置きも黄金もまばゆいばかりであったという。

 北野大茶の湯
九州征伐から大阪に帰城した秀吉は、北野の森の大茶会を計画し、天正15年(1587年)7月・8月次のような七箇条の沙汰書を発令した。
  1. 北野の森において向こう十日間、天気次第で大茶の湯を催し、御名物どもを残らず揃えて数寄執心の者に見せる。
  2. 茶の湯執心とあらば若党・町人・百姓以下によらず、釜一つ、つるべ一つ、呑物一つでもよい。茶のない者はこがしでも差し支えないので持参すること。
  3. 茶の湯の座敷は北野の松原であるから、畳二畳敷きで事が済む。ただし、侘び者は、地べたでも筵でも良い。着座の順序など自由。
  4. 日本のことは申すに及ばず、数奇の心がけのある者は、唐国の者までも罷り出よ。
  5. (略)
  6. このように仰せ出されたのは、侘び者を不憫に思し召されてのことであるから、今度罷り出ぬ者は、今後こがしをたてることも無用である。罷り出ぬ者の所へ参ることも同様に無用と心得よ。
  7. 特に侘び者とあらば、誰々遠国の者にかかわらず、秀吉公の御手前で御茶を下される筈である。
 当地の北野社は、秀吉が崇拝する社で、この度も神前祈願のうえ茶の湯屋敷の縄打を行っているから、神前奉納の意味も兼ねていた。中世以来一般の信仰を集め、その境内は庶民、群集の場となっていたから、遊楽の場としては最適であった。
 9月25日頃には準備もかなりととのい、茶の湯座敷の増築も始まった。茶亭の数は八百余におよび、北野の経堂から松柏院まで、一軒の空き所もないという。公家・武士・僧侶らがその趣向を凝らして松原に座敷を張り、諸種の茶道具を飾り立て、これに百姓・庶民も混った盛況は、実に壮観であったという。
 10月10日の当日、秀吉の茶亭には千利休を初め、歴々の茶頭が従っていた。参加者は肩衣・袴の出で立ちで八人が一番から順に座敷に入り、秀吉の面前で一番から四番まで籤を取り、四組二人ずつに分かれる。一番籤が秀吉、二番が利休、三番が津田宗及、四番が今井宗久の手前で茶をいただき、次の列と交代する。のちには、五人組の四つの座敷に変え、多勢をさばいた。こうした順で茶を拝服した者が、この日一日で八百三人にのぼったという。
 この大茶会は、佐々成政の領国肥後で一揆が発生したため、わずか一日で中止され、翌日には茶亭も取り壊された。しかし、この前代未聞の行事は、関白秀吉の権力を内外に誇示する一方、桃山文化の粋を尽くした点で、文化史を画する一大事件であった。その趣向は側近利休の指図によるとされる。以後、隆盛を極める庶民芸術の基調となった。

 


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