日本国王出現

日本国王出現



当事者1:足利義満
当事者2:
当事者3:
時代:室町時代
年代:1402年(応永9年)9月5日〜1408年(応永15年)5月6日
要約:強大な守護大名を制圧し、足利氏による独裁体制を確立した足利義満は、次第に皇位を望むようになり・・・。

内容: 当時の時代背景
1368年(応安1年)12月30日、足利義満は室町幕府三代将軍に就任した。当時すでに南朝が落ち目であったが、南北朝合体はなっておらず、有力守護大名が跋扈し、関東では鎌倉公方足利氏満は自らが将軍位に就任することを目標としていた。
 このような情勢の中、足利義満は次第に地歩を固め、幕府内での権力を強固にしていった。その集大成が花の御所{室町第}の造営である。その後、南北朝合一という足利尊氏よりの懸案事項を解決し、足利将軍家の家名を大いに上げた。
 しかし、義満にも未だ大きな課題が残っていた。日本六十ヶ国の六分の一である十ヶ国守護を独占し、「六分の一衆」と呼ばれた山名一族である。室町幕府は守護による連合政権であるので、この様な強大な守護がいては、盟主である足利氏が霞んでしまう。そう危惧した足利義満は、山名時義の死去後に起こった「お家騒動」に介入して山名氏解体を策した。義満の挑発に乗せられた山名氏は、「明徳の乱」を起こし、京都に攻め入ってきた。しかし義満は背水の陣でこれを切り抜け、山名氏は没落。乱後山名氏が保持できたのは三ヶ国守護だけであった。
 この後、九州探題今川貞世を更迭、土岐氏を誅し、応永の乱で大内氏を誅した足利義満は、ここに覇権を確立するのである。

 日本国王
明は建国当初から鎖国政策をとり、朝貢貿易しか認めていなかった。従って我が国とも長い間正式に国交が開かれなかったが、私的な通商関係は保たれており、対明貿易が莫大な利益を生むことは知られていた。
 対明貿易については、義満も早くから関心を抱いていたようである。だが本腰を入れて対明貿易を考えるようになったのは、九州の商人肥富により様々な知識を教えられていたからである。そこで義満は1401年(応永8年)5月13日、肥富と僧祖阿を明に派遣し、国交を開きたいことを申し送った。明の使者は翌1402年(応永9年)8月3日に来朝し、義満の申請を聞き届ける旨の国書を手交し、ここに公的な対明貿易が開始されることになった。いわゆる勘合貿易である。
 ところで、明の使者が携えてきた国書には、次の一文があった。
「爾日本国王源道義」
即ち、日本を明の属国とし、義満をその国王として認めてやる。という事である。
 それに対して義満は、属国視を立腹するどころか、逆に易々諾々と受け入れ、明皇帝への国書でも、
「日本国王臣源表す」
と記すありさまであった。明皇帝の臣である日本国王源(義満)が申し上げます、という意味である。
 では義満はなぜ、明らかに明の属国視される事に甘んじたのであろうか。
 それに対する解釈の一つは、明が朝貢貿易しか認めなかった事を主な理由としてあげる。つまり対明貿易を継続する上で、属国視を黙認するのは、どうしても必要不可欠であった。というわけである。
 だが義満の狙いはそれだけでは無かったようである。当時の義満は上皇になることを望んでいたので、明皇帝から日本国王と認められることで、その野望の達成をスムーズにするという思惑も秘められていたようである。

 義満の尊号騒動
日本の統一的支配者の座を獲得した義満は、その晩年、もっぱら上皇になる事に意をそそいだかに見える。
 1406年(応永13年)12月27日、夫人の日野康子後小松天皇の准母としたのは、その明かな証左である。夫人が准母であれば、夫の義満は自動的に天皇の准父である。その地位は事実上、上皇と変わらなくなる。
 だが義満はこれだけでは満足せず、最愛の次男足利義嗣を天皇の位に就け、名実ともに備わった上皇の座につこうとした。その為義満は、1408年(応永15年)3月、天皇の北山第行幸の折り、まだ元服前の義嗣を廷臣中の最上位に据えて親王並に遇するなど、しきりに義嗣の尊貴化につとめた。
 その義嗣は、北山第行幸の翌月25日、内裏の清涼殿において、天皇の面前で元服の式をあげた。その儀式は全て親王に准じられ、一説によると、天皇は義嗣を養子に迎えたいという。因みに、当時の公卿山科教言の日記を見ると、義嗣は「若宮」と記されている。従って事態がこのまま進行すれば、義嗣が即位する可能性は決してないではなかった。
 しかし、その直後に一大異変が生じた。野望達成を目前に控えながら、当の義満が流行病にかかり、あっけなく急死してしまったのである。
 それでも朝廷は、生前の義満の意を汲み、且つ幕府の権勢を慮って、義満に上皇の尊称を贈ろうとした。その宣下が実際に行われたかどうかは明かでは無いが、臨川寺の義満の位牌に「鹿苑院太上法皇」、相国寺の過去帳に「鹿苑院太上天皇」とあり、少なくともその直前まで行ったことは間違いない。
 しかし朝廷の申し出は、以外にも幕府によって拝辞された。将軍足利義持が尊号を賜るのは過分の名誉だが、臣下の分にもとるとしてそう決断したのである。かくて、義満の野望は、その死によって潰え、朝廷公卿は安堵した。


 


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