大坂城

大坂城



よみ:おおさかじょう
時代:戦国時代


内容: 大阪府大阪市東区にあった城。豊臣秀吉築城の大阪城は、石山本願寺の曲輪をそのまま使用して、本丸・二の丸・三の丸を造った。その石垣の総延長は約12Kmに及んだ総曲輪であった。四天王寺に通じる入口には、空堀による総構え堀が掘られ、南東入口に真田丸の出城を構えていた。しかし慶長19年の大阪冬の陣で外郭すべてが破却され、翌年の夏の陣で本丸が崩壊した。徳川家康は豊臣大阪城を埋めて築城。本丸以下全ての曲輪の配置を替え、石垣の高さも豊臣時代の倍にした。三の丸と総構え再築されなかったが、二の丸と大和川の北の守備として御蔵曲輪を新たに用いた。天守閣も石蔵の地下を含め五層六階の総塗籠の白亜のもので、これも豊臣のものより一回り大きかった。  明応5年(1496年)本願寺八世法主蓮如が隠居所と別院として築いた石山本願寺は、のち「石山本願寺城」とか「大坂之御城」と呼ばれ要害化した。織田信長の当地築城の願望は絶えず、天正8年(1580年)遂に十一世顕如は、信長と和睦し石山本願寺を明け渡した。しかし信長は本願寺に倒れたので、天正11年豊臣秀吉が築城を果たした。  豊臣氏滅亡後は、徳川家康が長期に渡って大坂城を築いた。その大坂城は落雷が多かった。万治3年(1660年)青屋口の火薬庫、寛文(1665年)には天守閣に、天明3年(1783年)には、大手門多聞櫓に落雷した記録がある。明治元年(1868年)正月の戊辰戦争により大坂城は炎上。廃城となる。現在の天守閣は昭和6年(1931年)徳川大坂城天守台に豊臣大坂城天守閣を模して(最近の研究では大坂城は黒塗りの別の姿であった可能性が高い)鉄筋コンクリートで復元されたものである。