応仁の乱

応仁の乱



当事者1:足利義政・足利義視・細川勝元
当事者2:日野富子・足利義尚・山名宗全
当事者3:
時代:室町時代
年代:1467年(文正2年)1月18日〜1478年(文明10年)月10日頃
要約:足利将軍家の相続問題に、北畠・斯波氏の相続問題が絡み、山名宗全・細川勝元を巻き込み、全国的な大乱となる。

内容: 大乱前夜
足利義視は、足利義政の妾腹の弟で、早くから天台宗の浄土寺に出家しており、将軍になる気など毛頭なかったという。しかし、1464年(寛正5年)11月26日、義政から猛烈に口説かれて遂にその気になった。義政は、
 「今後自分に男子が生まれても赤ん坊のうちに僧籍に入れて、そなたの妨げにならないようにする」
とまで、約束したのである。義視もそれならという事で義政の猶子となり、12月2日還俗し、僧名である義尋を捨て義視と名乗った。
 ところが、その一年後の1465年(寛正6年)11月日、日野富子が男子(足利義尚)を産んだ為、とたんに雲行きがおかしくなった。我が子を可愛く思わない親はいない。当然、義政の気持ちはぐらつき始める。それにも増して富子が義尚可愛さに必死となり、義視を排斥しようとする。その為幕府内部は義尚派と義視派とに分かれ、自ずと対立抗争をするようになっていった。
 その矢先の1466年(文正元年)9月6日、細川勝元をはじめ諸将が伊勢貞親への誅罰を要請し、貞親は近江に出奔する。続いて相国寺季瓊真蘂もその後を追い姿を眩ますという事件が起きた。季瓊は禅僧ながら、一部に黒衣の宰相と呼ばれた、やはり幕政の実力者である。
 事件の背景ははっきりしないが、諸説を統合すると真相は以下の通りと思われる。
 伊勢貞親は義尚の養い親だから、従来から明らかな義尚派であった。季瓊の方もまた義尚派に与していたらしい。そこで両人は義視の排斥を種々に画策し、義政に義視の事を讒言した。義政も義尚を将軍にしたくてたまらなかったから、それではいっそのこと義視を殺してしまおうという事となった。
 ところが、この謀りごとは義視に洩れ、驚いた義視は山名宗全を、次いで細川勝元を頼った。宗全らは日頃から貞親らとあまりそりが良くなかったので、義視の話を聞いてその陰険さに、いよいよ立腹して討伐の兵を起こそうとした。貞親・季瓊はその勢いに恐れをなし、そこで近江に遁走した・・・という事らしい。

 応仁の乱
足利義政は、位人臣を極め、その私生活は豪奢の限りを尽くした。しかし権臣らが互いに勢力を争い、政治が意のままにならぬ為、四十歳にもならぬうちに、隠退の志を抱いた。が、実子がいないので弟の義尋を還俗させ自分の猶子とした。義尋は義視と名乗り義政の後継者となり、既に管領を辞職していた細川勝元が執事となり義視を補佐した。ところがその翌年に義政の実子義尚が生まれたのである。
 義政の妻、日野富子は、我が腹を痛めた義尚を将軍職に就かせたい一心で、義尚の補佐役を山名持豊(宗全)に依頼し、義視の補佐役である細川勝元の勢力と対抗させようとした。それに、管領の斯波・畠山両氏の家督相続争いも、この両勢力の対立に絡んできた。その頃斯波家では、養子斯波義敏斯波義廉、畠山家でも養子畠山政長と実子畠山義就との間に家督相続をめぐって争いが続けられていた。そこで細川勝元・畠山政長・斯波義敏との間に攻守同盟が結ばれ、これに対し山名宗全・畠山義就・斯波義廉との連盟が形成された。その為諸国の守護大名や豪族達も又、自分の地位を安全に保つために、そのどちらかと結託して立ち上がる事になった。
 かくて1467年(文正2年)正月18日、山名宗全・畠山義就らが、管領畠山政長を罷免させ、自派の斯波義廉を新管領とするや、両派の関係は一段と悪化し、細川勝元と山名宗全は互いに一味同心の諸将を動員し、京都を舞台に東西に別れて退陣した。
 勝元方は十六万一千余人、宗全方は十一万六千余人である。両軍がいよいよ戦闘の火蓋を切ったのは5月26日の事である。
 こうなると流石の将軍義政も無関心ではいられない。かねてから山名宗全の横暴を憎んでいた義政は、細川勝元を支持し、弟の義視に対して、宗全追討の命令を下しさえした。しかし京都の室町第には、義政・義尚父子を始め、日野富子や義視まで起居をともにしていたのである。身の危険を覚えた義視は、間もなく逃亡してしまった。
 応仁の大乱は、以後実に十一年の長期に渡り、花の都を焦土と化せしめたばかりか、日本全国を動乱の淵に投げ込んだと言って良い。そのうちに山名宗全と細川勝元の病死によって京都の戦闘はひとまず終わりに近づいたものの、両軍の将士達は、その領国に帰ってからも、なお戦い続けた。
 しかし1478年(文明10年)7月10日、義政と義視とが和解したため、戦乱はどうやら治まった。義政は幕府の将軍でありながら、政治的にも軍事的にも無能であり、この戦乱に対して、殆ど傍観的態度を持し、連歌茶の湯などに打ち興じていたのである。芸術趣味に生きた隠者将軍であった。

 下克上の始まり
応仁の乱の初戦より西軍に属していた朝倉孝景の戦績は、実にめざましかった。自派の畠山義就が仕掛けた御霊社の合戦から、わずか三日後に東軍の将斯波持種の宿所を急襲した。6月8日には京極持清を破り、11日には細川成之と戦い、さらに14日には武田信賢の兵を二条に破って劣勢にあった西軍の意地を見せた。彼は越前の坂井郡黒丸を本拠とした国人で、守護斯波氏の被官である。それが主家の義廉と義敏の相続争いに義廉をたてたのが縁で、是に従い西軍に属したのであった。
 京都における孝景の活躍はたちまち評判になった。ところが彼が在京していた間に、東軍に属した義敏が越前に攻め入った。在地の国人衆にはこれになびく者が続出したので、孝景は腹背に敵の攻撃を受けることになり、遂に1468年(応仁2年)閏10月、領国を心配する義廉の下向命令もあって急遽帰国した。 だが、越前国情はすっかり変わっていた。義敏の勢力が予想以上に伸びていたのである。
 危機に立った孝景は改めて守護家の威力を痛感させられたのだが、こうした矢先、東軍の総帥細川勝元が越前一国の守護を餌に、東軍への寝返りを勧めてきた。先頃守護代となったばかりで、元々一介の国人に過ぎなかった孝景には、常識では願っても叶えられない高嶺の花であったから、忽ちこれに傾いた。遂に1471年(文明3年)2月、将軍に直接奉公するという名分で、正式に東軍に寝返ったのである。
 1471年(文明3年)5月21、将軍義政の名で孝景宛の守護補任条が出された。勝元の尽力に拠るが、現実に守護に成り上がった孝景は威厳を繕うため、早速居城を一乗ヶ谷に移し、立烏帽子狩衣のいでたちでこれにおさまった。
 実力で主家の斯波氏から守護職を奪い取った孝景は、都の貴人達に、天下の悪事、つまり下克上の張本と陰口された。  



 


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