坂井政尚

坂井政尚



よみ:さかいまさひさ
時代:戦国時代
年代:????年〜1570年11月26日

内容: 織田信長の部将。右近尉、右近将監。諱は「政重」ともある。「張州府志」「尾張志」などに丹羽郡楽田村の人とあるが、「御湯殿」元亀元年(1570年)1月3日条には「みののさかいうこん」と載っている。美濃出身で初め斎藤氏に仕えるが、信長に召し出されてこれに転仕するという、「武家事紀」や「太閤記」の説が正しいようである。だが信長入京時には既に有力部将の一人となっているから、信長の臣となったのは、かなり早い時期であろう。永禄11年(1568年)9月、信長の入京に従軍。入京後の26日、柴田勝家・蜂屋頼隆・森可成とともに勝竜寺城に石成友通を攻める(甫庵・公記)。この四人の部将はその後チームを組んで、京畿の政務を担当する。四人に佐久間信盛が加わったチームの活躍も多数見られる。同時期、やはり京畿の政務にあたっているもう一つのチームがある。丹羽長秀・木下秀吉・中川重政・明智光秀の顔触れである。二つのチームの九人と当時伊勢方面で働いていたであろう滝川一益を加えたあたりが、この頃の信長軍の代表的部将であろう。
 政尚のその後の戦歴は、永禄12年(1569年)8月、伊勢大河内城攻めに従軍(公記)。元亀元年(1570年)の越前攻めにも従軍したが、この時幕府奉公衆一色藤長より丹後衆の出陣について連絡を受けている。6月小谷城攻めに参加。雲雀山に登り、町を焼き払っている(公記)。6月28日の姉川の戦いでは織田軍の先鋒を務め、勝利に大きく貢献した(南部文書・甫庵)。元亀元年(1570年)11月25日、近江堅田へ遣わされ、猪飼野昇貞、馬場孫次郎、居初又次郎ら堅田衆を味方につけ、越前へ通じる通路を固めた(公記)。しかし翌26日、朝倉・浅井軍が堅田に攻めかかる。政尚も奮戦したが、遂に討死した。千人ほどが一緒に戦死したという(公記)。長男久蔵は姉川の戦いで討死しているので、次男の越中守が坂井家を継いだ。「池田本」巻五(元亀3年)に載った交野城後巻きの人数の中に、「坂井右近子」というのが見えるが、これは少年時代の越中守であろう。