摂家将軍・親王将軍

摂家将軍・親王将軍



当事者1:九条頼経・九条頼嗣
当事者2:宗尊親王
当事者3:北条時頼
時代:鎌倉時代
年代:1219年(承久元年)6月3日〜1274年(文永11年)8月1日
要約:鎌倉幕府の実権を握った北条氏は、将軍を自らの傀儡とすべく、将軍を摂関家より迎える。しかし、次第に意のままにならなくなると、是に代え親王将軍を迎える。

内容:  摂家将軍
1219年(承久元年)6月3日、九条頼経が鎌倉に下向した。彼は五摂家の一つである九条家の九条道家の四男である。時に頼経は三寅丸と呼ばれる、まだ一歳半の乳児であった。
 この九条頼経に目を付けたのは北条義時であった。義時は三代将軍源実朝公暁により殺害された後、次期将軍には源氏の嫡流でなく、北条氏の傀儡となるべき適当な人物を探していた(将軍家を継ぐ者であるので都の貴種を探していたのである)。そこで白羽の矢が九条頼経に当たったのである。頼経は五摂家の一員。貴種としては文句の付けようがない。さらに五摂家はすでに政治の実権を失っていたので、傀儡とするには真に都合がよかった。
 こうして、都より頼経を貰い受け、彼の成長を待って将軍位に就けることにしたのである。
 鎌倉の源氏嫡流断絶を見て、後鳥羽上皇は、倒幕の絶好の機会であると見たようである。そこで、1221年(承久3年)5月14日承久の乱により、一気に倒幕しようと試みた。しかし、幕府の実権は既に北条義時・北条政子がしっかし握っていた為、思ったほどの動揺はなく、6月15日には幕府軍が上洛し、承久の乱はあっけなく上皇方の敗北で終わった。首謀者の後鳥羽上皇らは隠岐へ配流となった。
 承久の乱により、よりいっそう北条氏専制体制が確立した中の1225年(嘉禄2年)1月27日、九条頼経は征夷大将軍に補任された。北条氏も頼経を傀儡として扱うので一切の権限を与えないし、頼経も傀儡であることを自覚しているので、しばらくは両者に軋轢は生じなかった。しかし将軍の在位が長くなると周囲が黙っていなかった。御家人は北条氏ばかりではない。又北条氏でも嫡流ばかりではない。必ず反主流がいる。反主流派が頭目として祭あげる格好の人物は将軍である頼経が最適である。実際は頼経が彼らと結んで北条氏打倒計画を持ったかどうかは不明であるが、北条氏が頼経を危険な存在と思った事は事実である。そこで北条氏は頼経の将軍位を剥奪し、1244年(寛元2年)4月28日、頼経の子九条頼嗣を将軍とした。
 こうして北条氏は反北条謀議の芽を早めに摘んだ。しかし、事はこれで終わったわけではなかった。1246年(寛元4年)5月24日、北条光時が前将軍九条頼経と謀り、執権北条時頼の排除を計画していたのである。

 名越光時の変
かって藤原氏は、次々と他氏を排斥して朝政の実権を握ったが、こうして藤原氏の専横が確立されると、今度は一族内部の権力争いが烈しくなり、その中から藤原摂関家という系統が浮上することになった。北条氏の場合にも同様な現象が起こり、いわゆる北条得宗家というものが次第に形成されてゆく。
 得宗とは要するに北条家の嫡流の当主のことで、鎌倉時代後半には執権であることよりも得宗であることの方が権力の源泉となる。
 名越光時は、北条泰時の弟北条朝時の子供であり、得宗に対する庶流の地位にある。その光時が1246年(寛元4年)5月、時頼を執権の座から除こうとするクーデターを企てた。ということは、幕府内部の権力争いが、北条氏対他氏という段階を脱し、いよいよ一族同士がせめぎあう新たな段階を迎えた証と言える。
 光時の父朝時は、泰時が死の病の床で出家した時、それに殉じた形で自分も出家した。それに対して世人は、普段は泰時と仲が悪かったのに不思議なことだと噂したというが、おそらくそれは朝時の動向に疑惑を持たれていたからであろう。即ち朝時は出家して忠誠を示すことにより、兄から謀殺される事を未然に防いだ、と考えられる。
 朝時はこのように一歩退いて身を守ったが、若い光時はこのままずっと庶流を甘受することに我慢ならなかった。そこで光時は、北条経時から北条時頼へと執権が交替し、しかもその経時が病没した直後の混乱期に付け入って、時頼放逐のクーデターを企んだのである。その背後には全将軍頼経とその側近の御家人らの支援があった。
 だが、クーデターは結局未遂に終わり、光時は伊豆国流罪。頼経は京都送還という処分に付された。時頼の方が役者が一枚上手であった。このようにして、九条頼経は鎌倉より完全に排除された。

 親王将軍
初代将軍頼朝は、鎌倉武家政権のシンボルであると同時に、比類無き実権者でもあった。しかし北条氏の執権体制が強化されるにつれて、将軍は次第にシンボルとしての役割だけを重視されるようになっていった。将軍に実権が備わっていては、北条氏が専権をふるえないからである。
 北条氏にとっての理想的な将軍像とは、出身が貴種であり、公武関係の潤滑剤となり、且つ甘んじて北条氏の傀儡となる事を肯定する人物であった。
 かって北条氏が、摂家将軍を擁立したのは、勿論その狙いに沿っての事である。だが、摂家将軍は、その初代の九条頼経が反北条氏の御家人と結んで策謀を繰り返すなど、あまり成功したとは言えなかった。そこで北条氏が次に着眼したのは、皇族であった。
 1252年(建長4年)正月、後嵯峨上皇の皇子宗尊親王が京都で元服の式をあげた。すると幕府は待ちかねたように、親王を将軍に迎える事を朝廷に奏請するかたわら、現将軍九条頼嗣を、実家の九条家と結んで謀反を企てているという理由で辞任に追い込んだ。
 親王にとって将軍になるということは果たして幸運だったかどうか。というのは、天皇は既に式乾門院の猶子とされておびただしい荘園の次期所有者の資格を得ており、裕福でおそらくは気楽な将来を約束されていたからである。
 けれども、幕府の申請は間もなく朝廷に認められ、宗尊親王は3月19日京都を出発せざるを得なくなった。鎌倉着は4月1日、その四日後に親王を征夷大将軍に任ずる旨の宣旨が届き、ここに親王将軍が誕生する、
 親王将軍は鎌倉において、丁重に待遇された。だが、それは表面上のことで、何一つ実権のない親王は和歌の道に耽溺してゆく。その詠草には自身の置かれた空しい立場を諦めのもとに嘆じたものが多い。
 やがて、この親王将軍も鎌倉を逐われる事になる。しかし、北条氏の親王をシンボル将軍にするという政策は成功し、以後惟康親王久明親王守邦親王と親王将軍が幕末まで続くこととなる。が、守邦親王を除く親王将軍は全て、壮年に達すると疑われて京都に送還されている。このような用心が親王将軍を長く続かせた要因であろう。(守邦親王は途中で幕府が崩壊したので放逐でなく辞任)

   摂家将軍・親王将軍 略年表




 


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