承平の乱

承平の乱



当事者1:平将門
当事者2:平良兼
当事者3:平貞盛・藤原秀郷
時代:平安時代
年代:935年(承平5年)2月〜940年(天慶3年)2月13日
要約:平将門が所領問題から叔父の平国香を殺害。初めは同族の内紛であったが将門は新皇を名乗り国家に反逆するも、藤原秀郷らに破れる。

内容: そもそも平将門の乱は、当初は決して国家に対する叛乱を目的としたものでは無かった。常陸上総に勢力を持っていた平将門と、その一族で将門の叔父に当たる下総平良兼との間の対立、その原因は所領についての縺れとか、女性問題の不和とも言われているが、何れにしてもこのような一族の「私闘」が乱の発端であった。
 将門が起こした軍事行動で最初のものは、935年(承平5年)の前常陸大掾源護との合戦であった。護は良兼や良兼の兄の平国香の息子平貞盛と姻戚関係にあったことから、良兼と源護は合戦で国香に味方し、一族の将門を相手にすることとなった。この合戦で護は惨敗し三人の息子を失い、強力な味方であった国香も戦死したのであった。その際将門のとった二つの行動が国家への反逆を意図していないことを示す。
 まず第一に、将門が北上して良兼らの軍勢を下野国の国府に追い込んで包囲したとき、将門はわざわざ退路を開いて良兼らを逃れさせた。当時良兼は下総介という国司であったので、将門も殺害することをためらったものと見られる。第二に、この合戦に関して朝廷から召還命令が将門の元に届くと、この命令に従い上京し朝廷に対して弁明を行っている。ここまでは、将門に何ら国家に反逆の意図は伺われない。
 承平8年(938)2月武蔵権守興世王・介源経基が武蔵国足立郡の郡司武蔵武芝(むさしのたけしば)と抗争したため、将門が調停の労をとった。しかし調停工作のさなか、突如武芝の軍勢が経基の陣を包囲したため、経基は、将門と興世王が武芝と組んで自分を討とうとしたと思いこみ、翌年3月京に上って将門と興世王が謀反を起こしたと報告した。(この事件に今後の将門の行動を暗示するものが入っている。彼が地域の調停者となり調停と土豪の間に入っている。彼は朝廷の配下として行動していない)
 将門の軍事行動の性格が一変するのは、以下の事件後である。常陸国の土豪、藤原玄明(はるあき)が、国司の無道を訴えて将門に助けを求めたのが契機となった。将門は玄明をかくまい、彼の常陸国府にたいする抵抗を援助する動きを示した。天慶二年(939)11月、将門は常陸国府を襲撃して、支配の象徴の印鑰を奪い取り周辺で略奪の限りを尽くした。この勝利で大いに意気のあがった将門は、続いて下野・上野両国の国府を占領する。こうして当初の将門の意図はどうあれ、ここに彼の行動は国司の横暴に対する軍事的な抵抗として関東一円を席巻し、政治的な叛乱という性格を明確にした。
 12月15日次々と国司を追放して上野国府に入った将門は、そこで八幡大菩薩の使いと称する遊女の神託に従って「新皇」の位についた。京の朱雀天皇に対して「新しく位についた天皇」の意味であった。将門は朝廷の制度をそのまま模倣し、下総国に王城の建設を計画する一方、左右大臣・納言・参議以下文武百官を置き、太政官の官印の寸法まで定めた。こうして東国において小規模な古代国家が構想されたのである。
天慶3年(940)2月13日、将門の従兄弟平貞盛と下野国押領使藤原秀郷は四千の兵を率いて将門の虚を突いて攻勢にでた。その時将門は軍勢を帰休させており、手勢は僅か四百ほどに過ぎなかった。彼は下総の幸島郡に陣をしいて決戦を挑み善戦したが、陣頭にたっていた将門は流れ矢に当たって戦死した。将門の戦死の知らせは12月25日京にもたらされ、翌年4月25日秀郷により将門の首が進上され、京の東市にさらされた。
 将門が目指したのは中世的な新しい権力の構築ではなく、関東にミニ王国を建国することにあった。また彼は常時八千人を動員できたと言うが、それは伴類と呼ばれる農民で、緊密な主従関係に基づく武士団ではない。よって、この事件は中世を予感させるものではなく、律令国家崩壊を予感させるものである。
     



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