平忠常の乱

平忠常の乱



当事者1:平忠常
当事者2:源頼信
当事者3:
時代:平安時代
年代:1028年(万寿5年)6月21日〜1031年(長元4年)4月28日
要約:在地領主たる平忠常は自らの権益を確立する為国司と対立。国司軍よりは強力であったが、朝廷軍には衆寡敵せず敗れた。

内容: 1028年(万寿5年)6月21日の朝議で、平忠常追討の追討使の人選が行われ、始め前伊勢守源頼信の名が上がったが、結局検非違使右衛門尉平直方と、同じく中原成道が任命された。下総権介(前上総介とも)平忠常が安房国衙(こくが:国司の政庁)を襲い、安房守平惟忠を焼殺したのである。忠常の祖父平良文平将門の伯父で、将門はほぼ九十年前同じ地で叛乱を起こし誅されている。忠常は上総辺りで勢力を張り、国司の官物を涼め取っていたが、安房守を殺すという大きな事件となった。
 是年、乱は鎮定せず、翌1029年(長元2年)2月、東海・東山・北陸の諸国にも忠常追討の官符を下し、追討軍の援軍とした。この年も戦果はあがらず、あせった朝廷は戦況報告が無いとの理由で12月8日、追討使副官中原成道を解任する。さらに翌1030年(長元3年)3月27日、安房守藤原光業が国務を放棄し京に逃げ帰るという事件が発生した。忠常の叛乱は三年目、房総三ヶ国に拡大し、忠常の勢力は強大になった。
 安房守の後任に平正輔が選ばれたが、正輔は伊勢国で平致経と父以来の死闘を繰り返しおり、とても戦乱の地に赴任できる状態では無かった。9月追討使平直方を京に召し返し、新しく甲斐守源頼信に追討使を命じた。頼信は源満仲の子息で、藤原道長に近侍していた。源頼信は忠常の乱より20年も前であるが、上総・常陸介であり地理に明るく人情の機微にも通じているという点では抜群であった。忠常討伐者の第一候補に挙がっていながら、三年回り道したことになる。頼信は直ちに発信せず、叛乱者忠常の子の一法師を連れて甲斐に赴き、そこから準備を整えて出発することにした。
 1031年(長元4年)4月28日、源頼信が甲斐から板東に発信する矢先、忠常は出家して常安と名乗り、子二人、郎党三人を連れて投降したのである。しかも忠常は頼信に従って上洛の途中の5月28日病にかかり、6月6日美濃国野上で死去した。頼信は美濃国司の検死を受け、忠常の頸だけを持って帰京した。
 6月16日、忠常はさらし首にされたが、忠常の子平常将・平常近は赦免された。乱平定者の頼信は1032年(長元5年)5月28日になってようやくその功が賞され、美濃守となった。

 忠常の乱後
長い年月にわたった兵乱で房総三ヶ国の荒廃は著しく、中でも主戦場の上総国の損亡が甚だしかった。元二万二千九百八十町あった作田が、僅か十八町余となるという惨状であった。おそまきながら1034年(長元7年)10月24日、上総国四カ年の官物免除が定められた。
 何故、忠常が頼信と一戦も交えず投降したかは明かでは無い。頼信の調略が功を奏したのか、房総の疲弊が忠常の戦意を失わせたのかのではないかと思われる。

 もう一つの忠常の乱
史実では、頼信と忠常の軍は衝突しなかった。しかし両軍は衣河の河口で対陣したと伝える話しが「今昔物語集」にある。
 常陸介源頼信の兵二千は、平惟基三千の援軍をうけて、鹿島神社の前に布陣した。対岸では渡河用の船を全て隠し、雲のような平忠恒(原著の通り)の大軍がひしめいていた。戦はあるまいと油断していた忠恒に、浅瀬を渡って頼信が急襲し、忠恒が降伏したというのである。  



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