大宝律令

大宝律令



当事者1:刑部親王
当事者2:藤原不比等
当事者3:
時代:飛鳥時代
年代:700年6月17日〜701年8月3日
要約:律令社会の根本法典。この法典により律令制度が完成・開幕した

内容: 701年(大宝元年)8月3日、大宝律令の選定作業を全て終え、完成した。の編纂は初めてでは無いが、律はかって存在した後が見られず、律令とも完備したのはこれが初めてであろう。律六巻、令十一巻。大部ではないが、聖徳太子が理想として大化改新で目標に掲げ邁進してきた律令社会の完成・開幕を告げるものであった。「類聚三代格」では、日本の律令編纂史を、668年近江朝廷之令(六巻)、701年大宝律令、718年養老律令(十巻)とする。藤原家伝にも鎌足が近江律令を刊定したとするが、書紀には見あたらず、かえって書紀には類聚三代格や藤原家伝には無い689年6月の飛鳥浄御原令二十二巻施行記事を載せる。現在は天智朝に単行法令を纒めることがあったとしても、近江令という整備された物でなく、また浄御原令も681年に編纂を開始しているが、制定・施行とも確認できないとしておくのが穏当であろう。大宝律令の後716年に藤原不比等が養老律令を編纂する。これは字句の差し替え程度の改訂で緊要でなかったか、修正が不徹底で躊躇したのか、757年まで施行されなかった。
 700年6月17日文武天皇は大宝律令の撰修を命じた。撰修は刑部親王を総裁として、藤原不比等ら貴族、伊余部馬養ら法学者、粟田真人ら遣唐使、ほか留学生・渡来系氏族出身者・渡来人など19人を中心とした。例えば薩弘恪は唐からの初代渡来人であり、音博士として、日本の古い読音である呉音を漢音に改める発音を教授している。発音指導と母国の律令の知識を以て全巻の相談と指導にあたったことであろう。

 施行までの経緯
律令の完成に先立ち、701年3月、官名位号を新令により改め施行を開始した。例えば法官を式部省、直広肆を従五位下とする
 4月には王臣・百官人に新令のの講義が始まる。6月には大安寺で新しい僧尼令が講義された。さらに庶務はもっぱら新令に依れと命令が出る。しかし講説は受けたが、依拠する律令の原本は手元にない。翌年7月に地方官も含めて再び令と律の講習会があって、10月に転写を終えた律令が諸国に至るまで頒布される運びとなる。ただ実状は711年に「律令を張り設くること年月巳に久し。然れども纔に十二を行いて悉く行うこと能わず」と欺かれる様であった。

 大宝律令の概要
701年(大宝元年)6月、新令によって政治を行うことを宣言し、8月に西海道を除く六道に明法博士を派遣して新令を講じさせた。律令を天下諸国に頒布して施行したのは翌702年10月であるが、大宰府管下の西海道諸国には、「大宝律令」の完成と同時に頒下して実施したのでないかと推測されており、律令政府がいかに新令の公布に積極的であったかがわかる。「大宝律令」の全文は散逸してしまって今日伝わっていないが、「養老律令」の注釈書である、「令集解」や「続日本紀」などからその条文の一部を知ることができる。律は今日の刑法に相当し、だいたい唐律に従っているが刑罰は比較的軽い。令は行政一般の法令で、唐令を模範としながらも、日本の実状に適合するように改められている。大宝律令は最も完備した国家の基本法として日本最初の物であり、大化改新以来の立法事業はここに完成した。


目次ページへ
目次ページへ