滝川一益

滝川一益



よみ:たきがわかずます
時代:戦国時代
年代:1525年〜1586年9月9日

内容: 織田信長の部将。久助、左近尉、左近将監、伊予守。剃髪号入庵。一般には近江甲賀郡の出身とされている。一益が甲賀郡出身であることは、「勢州軍記」に大原村の出とあり、また「重修譜」に父一勝は滝(油日村)城主としていることから、確かかもしれない。だが甲賀出身ということで甲賀忍者の家とする説があるがこれは飛躍であろう。幼年より鉄砲を鍛錬し、所々を遊歴して勇名を顕わしたと「重修譜」にあるが、信長に仕えたのはかなり早く、天文年間と思われる。「公記」の巻首の盆踊りの記事に早くも登場しているからである。よって近江出身とはいえ、尾張出身の譜代の臣と比べ、信長との関係の深さにおいて何ら遜色はない。なお、一益の呼称・官名については、文章では一貫して左近・左近将監の官名が用いられ他は見られない。「久助」は、「重修譜」のほか「太閤記」にもある。
 信長の臣として一益の出世は早い。尾張出身の柴田勝家や佐久間信盛らと並んで、永禄年間に一軍の将となっている。永禄10年(1567年)春、大将として北伊勢に派遣され、在地の諸士を帰服させて彼らを麾下として伊勢の押さえと置かれた(勢州軍記)。同年4月18日付けの、大福寺宛の奉行人による禁制高札が見られる(大福寺文書)。翌年2月の信長自身軍を率いての北伊勢攻めにも、当然活躍したであろう。9月、信長は義昭を擁して上洛の途につくが、一益はそのまま北伊勢に置かれて、これには従軍しなかったらしい。翌12年5月、木造具政が信長に通じると、これに乗して出陣。しかし北畠軍と戦って敗れたという(足利季世記)。続く信長の総力を挙げての北畠攻めに備え、7月には伊賀の仁木長政を味方にした(新津秀三郎文書)。8月には信長軍8万余が大河内城を囲む。一益は支城阿坂に兵を入れ、攻城戦に参加した(公記)。兵糧攻めの中で、一益は多芸谷の国司の館等を焼き払っている(公記)。10月4二日大河内は開城し、一益は津田一安とともに城を受け取った(公記)。戦後は安濃津・渋見・木造の三城を守備することを命じられた(公記)。この時、北伊勢五郡を宛行われたとする書もあるが、それは誤りであろう。
 北伊勢を担当している一益だが、元亀3年(1572年)頃からは、他の諸将と共に畿内でも活躍している。まず同年4月4日、柴田勝家らと共に河内の片岡弥太郎の出陣を督促(根岸文書)。同年9月28日、山城の革島一宣・秀存宛の安堵状に副状(革島文書)。革島の安堵に関しては、革島を与力としている細川藤孝に対して、その違乱を詰っている。天正元年(1573年)になって、信長と将軍義昭との対立の中で、信長の老臣の一人として活躍。第一次衝突の後の4月27日、28日、義昭側近と信長老臣との間で起請文が交わされるが、両方に一益は名を連ねている(和簡礼経)。義昭側近からの誓書の宛名は、塙直政・滝川一益・佐久間信盛の三人だけだが、これはこの三人が信長の老臣であるのみならず、当時畿内方面を担当していたからであろう。7月槙野島攻めの交名に、一益の名がないのは、京に留まっていたからであろうか(公記)。8月の江北出陣には参加。先手衆の中に名を連ねている。だがこの時は、他の部将とともども朝倉軍の追撃に後れをとり、信長に叱責された(公記)。朝倉滅亡後、信長は織田大明神社などの寺社の所領、安居三河守ら国衆の所領、橘屋三郎五郎の諸役免などを安堵するが、これらの実務は、明智光秀・羽柴秀吉と一益の三人が主として担当している(剣神社文書・横尾勇之助氏文書・橘文書)。
 天正元年(1573年)9月、信長は又北伊勢攻略の軍を催す。一益もこれに従軍し、勝家と共に坂井城を攻略、さらに深谷城を陥し、長島の付城矢田城に置かれた(公記)。天正2年(1574年)7月、長島攻めに参加。信雄らと共に、安宅船で海上より攻撃した(公記)。9月29日、長島は壊滅。その後北伊勢五郡を与えられ、長島城に入った(甫庵・当代記)。北伊勢五郡の士を率いる一益は、以後静謐なった北伊勢を離れて、有力な遊撃軍団の軍団長として所々に活躍する。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いに従軍。同年8月の越前一向一揆討伐戦にも参加(公記)。越前では、戦後の残党狩りにも精を出している(寸金雑録)。天正4年(1576年)4月には、安土城石垣建設に参加し、羽柴秀吉・丹羽長秀とともに一万人を指揮して、蛇石を山へ引き上げている(公記)。同年5月、信長自ら陣頭に立った大坂出陣に従う。翌天正5年(1577年)2月の雑賀攻め、8月の柴田勝家を総大将とする加賀攻めにも参加。天正6年(1578年)には、4月、信忠の下で大坂攻め、続いて、長秀・光秀とともに丹波の園部城攻め、と席の温まる閑もない(公記)。有力な遊撃軍団とはいえ、その戦場は北陸から丹波。播磨まで広がっている。また一益は伊勢を本拠地とするだけに、大船一艘を持っており、この船は、犬飼助三・渡辺佐内・伊藤孫太夫ら一益の麾下の者が操作している。この大船は、一益が播磨で働いていた6月26日、九鬼嘉隆の六艘の大船とともに淡輪海上で、本願寺方の水軍を粉砕した(公記)。そして9月30日には、堺で信長の上覧を受け、犬飼達は褒賞を与えられた(公記)。一益所有の船だが、その指揮は犬飼らに任され、一益自身はそれに携わっていない。遊撃軍団を率いて諸処に転戦している一益だが、行政面での担当地域も北伊勢に限られていない。山城西岡の革島とは、元亀年間から接触があったが、西岡の地一職が長岡(細川)藤孝に与えられた後も、一益は革島に関係している。即ち天正4年(1576年)2月10日付けで、革島秀存は「身上」の斡旋を謝して一益に三十石を贈っているし、天正5年(1577年)頃の7月28日、一益は松室某の在所の名主・百姓に対し、出奔した松室らを許容しないように命じている(革島文書)。また天正5年閏7月9日付けの、大和の沢某への安堵状に副状を発給している(沢氏古文書)。天正6年(1578年)、摂津一職支配者荒木村重が信長に背いた。今度、一益は摂津で活躍する。11月9日、信長自身摂津へ向け出陣。一益ら諸将もこれに従い、芥川・茨木あたりに陣を布いた。有岡在陣は長期に渡り、一益は、塚口、食満、古屋野と持ち場を変え、この間、一ノ谷あたりを放火するなど、攻囲軍の主力として活躍した(公記)。6月20日、長秀ら五人と共に信長より鷂(はいたか)などを賜り、在陣の労をねぎらわれた。さらに9月16日には、長秀と二人馬を賜っている。同月27日には信長直々の陣見舞いを受けた(公記)。10月一益は、有岡の将の一人中西新八郎を味方にする。中西は四人の足軽大将と語らい、常駐で謀反を起こす。一益はそれに乗じて攻め込み、遂に11月19日開城させた(公記)。その後も有岡城攻めの後始末が続き、一益は摂津に駐まる。即ち12月9日禅昌寺に寺領を安堵(諸家文書纂)。同月12日には、長秀・蜂屋頼隆とともに、荒木の重臣の妻子を磔刑を命ぜられた。一益はこれらの処分については、同日付けで、播磨に在陣している羽柴秀吉に通報している(公記・黄微古簡集)。天正8年(1580年)3月9日、北条氏との使者が安土に着き、鷹や馬を信長に贈呈した(公記)。10日にはその使者が信長に拝謁。その後勧められて京見物に出かけるが、この時の取り次ぎ、案内などは一益が受け持った。さらに同年10月末、下野んお皆川広照の使が来訪。取次は側近の堀秀政であったが、一益は無事帰国させる為の馳走を命じられている(公記)。この翌年、一益は上野厩橋に置かれ、「関東八州の御警護」として、北条氏との交渉を受け持たされるが、この伏線はいくらか前からあったのである。天正9年(1581年)信長の版図は東西に広くのびていたが伊賀は未征服の地として残っていた。天正7年(1579年)織田信雄が兵を出したが敗北しており、以後も国衆の跳梁を許していた。天正9年9月9日、信長はその伊賀に兵を出した。総帥は信雄。従う兵は主に信長の旗本・蒲生・山岡ら近江衆である。その中にあって、一益・長秀の代表的遊撃軍団と、地縁から大和の筒井順慶が参加している(公記・多聞院)。砦で囲まれた山国と言っても、これほどの大軍に攻められては一溜まりもない。旬日を出ぬうちに伊賀はおおよそ平定されていた(公記)。地侍の田屋という者が、降参の手土産として信長に山桜の壺を進上するが、一益はこれを信長より賜った(公記)。この戦いが遊撃軍としての最後の戦いである。
 天正10年(1582年)2月1日、木曽義昌が信長に通じた。信長はこれを機会にすぐに武田攻めの軍を起こした。総帥は信忠。従う兵は、河尻秀隆・森長可・毛利長秀・団忠正・水野守隆・水野忠重、即ち信忠軍団の面々である。その軍に一益も付属された。3日早くも信濃に向けて出発した(公記)。一益の出陣は12日、信忠やその軍団の河尻達と一緒の行動であった(公記)。2月15日付で信長は、進軍中の一益に書を遣わし、大将の信忠が若さからとかく決起にはやりがちなため、それを制御するように命じている(建勲神社文書)。同様の信長の命は、信忠の補弼というべき地位にある河尻秀隆にも発せられている(徳川黎明会文書)。一益・秀隆、老練なこの二人が、この武田攻めの中核と見なされていたのであろう。自軍団を率いて主将を支える一益は、この戦いの副将格と言っても良い。信長は3月5日に安土を出陣(公記・兼見)自らの軍で武田勝頼を討つつもりであったが、信忠・一益の軍が予定より遙かにスムーズに進軍。高遠城で抵抗らしい抵抗を受けただけで、勝頼を甲斐田野に追いつめた。そして、3月11日、一益は勝頼の首級をあげた(公記)。21日、上諏訪の信長本陣に、北条氏政より戦捷を賀して物が届けられた。一益は、この時も取次を務めている。
 甲斐・信濃の静謐なった3月23日、一益は信長より上野一国と信濃小県・佐久二郡を与えられる(公記)。「公記」には「関八州の御警護」および「東国儀御取次」の役を仰せつかったとある。「伊達治家記録」ではこの役を「東国奉行」、「甫庵」や「武家事紀」では「関東管領」と呼んでいる。後世「関東管領」と呼ばれているこの一益の役割は、一に上野を中心に関東の大名達を信長の下に組織すること、二に当時協力者であった北条氏との外交に務め、さらにはこれを従属させること、三に伊達氏など奥羽の大名も従わせることである。一益はこの年58歳、「年罷寄り、遠国へ遣はされ候事、痛思食され候といへども」「老後の覚に上野に在国仕り」と「公記」にある。かっての傑将も寄る年波には勝てず、この役割は重荷だったのかも知れない。平定終わった甲斐に入った信長は、その後富士遊覧がてらに帰国するという計画を立てる。4月2日、一益は信長を台ヶ原に迎え、歓待している(公記)。4月4日以前だが、一益は下野の宇都宮国綱に出兵を催促(宇都宮家文書)、又、信長から4月8日付で、常陸太田道誉父子に一益と相談して行動するようにとの要求があった(太田文書)。同日、上野真田昌幸に黒印状を発しているが、一益はこれに副状を出している(長国寺殿御事蹟稿)。関東の大名達を組織し、信長に従わせるという任務の一つは早くも着手されたのである。
 6月2日の本能寺の変の報は、6月9日に厩橋に届いたという。「北条五代記」「甫庵」等多くの書は、一益は上州衆に京都の変を明かして忠誠を求め、彼らの感動を得たとあるが、6月12日付で、小泉城将富岡六郎四郎へ発した書状によると、「無別条之由候」と言って変を秘しているので、これは誤りである(富岡文書)。北条氏政も又、6月11日付で一益に変の真否を問い、疑心無用と誓ったけれど(高橋一雄氏文書)、京都の変の確報を得て、俄に敵対行動をとるようになった。18日一益は倉賀野へ出陣、神流川にて北条氏邦の軍を敗った。しかし翌日、北条氏直と再び一戦に及んだとき、上野衆に戦意はなく、一益は旗本のみを率いて戦い大敗した(石川忠総留書・北条五代記)。敗れた一益は、箕輪から信濃小諸へ入り、ここで小諸城を蘆田信蕃に渡し、木曽経由で本領長島に戻った。6月27日には、信長の重臣達による清洲会議が催されている。「甫庵」「木曽考」には、一益の長島への帰還は7月1日とある。信用できる記載ではないが、色々な事情を考え合わせると、一益は会議に間に合わなかったものと思われる。僅かな期間とは言え、関東・奥羽方面を担当し、柴田勝家・明智光秀・羽柴秀吉と並ぶ旗頭(方面軍軍団長)の地位にいた一益である。間に合ったならば、当然会議の顔触れに連なっていたであろう。だが、会議に遅れた故に、一益は新たに決められた織田家宿老の列からも洩れてしまった。しかも会議の結果、欠国の分配に預かったのは、信長の子の他、四人の宿老と弔い合戦の参加者のみであった(浅野家文書)。「太閤記」に、一益も五万石加増とあるが、疑問である。
 その後、一益は柴田勝家に接近した。しかし天正11年(1583年)4月21日賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が敗北すると秀吉に降伏、北伊勢の所領は没収。「武家事紀」には近江南郡で五千石与えられたとあるが定かではない。翌年小牧陣が起こると、一益は秀吉に起用され、尾張に赴き、蟹江城の前田与十郎らを説いて味方とし、自分も蟹江城の守備に加わる。しかし6月家康の攻撃を受け7月3日に開城、伊勢に退いた(多聞院・池田文書)。7月12日秀吉より一益に三千石、子一時に一万二千石の地が与えられた。これは起用される際の約束であった。その後は活躍の場が無く、天正14年(1586年)9月9日、越前五分一にて没、62歳であった(寛永伝・勢州軍記)。