天文法華の乱
当事者1:一向宗門徒
当事者2:法華宗門徒
当事者3:延暦寺
時代:戦国時代
年代:1536年(天文5年)3月24日〜3月28日
要約:細川晴元は一向宗を利用し政敵を打倒する。しかし一向宗が独自の動きを始めると法華宗徒を使い一向宗を牽制。すると力を持った法華を快く思わない延暦寺が法華を攻撃・・・。泥沼の宗教戦争。
内容: 一向宗の宗勢拡大と法華宗の京都進出
時の権力者、細川晴元の依頼を受けた本願寺光教は、1522年(大永2年)6月15日、木沢長政の居城河内飯盛を包囲していた河内国の畠山義宣を攻め自刃させた。次いで6月20日には長政らとともに晴元と義絶していた三好元長を和泉の堺南荘に攻め、元長をも自刃させた。
この様に証如は細川晴元の手先となり、晴元の政敵駆除に明け暮れ、自らの政治基盤を盤石なものにしようとしていた。しかし、自らの力を自覚した一向宗門徒は、摂津・河内・和泉・大和などの畿内各地で蜂起し、在地権力をも掌握する勢いにあった。そこで細川晴元は、この一向宗の門徒一揆を打倒するため、1532年(天文元年)8月の山科本願寺攻撃、翌年3月29日の救援にあたり法華宗信徒の力を借りた。本願寺攻めの時は、当時京都の町衆を中心に3〜4千人、と言われた法華衆を六角定頼の指導で大動員し、伊丹では、木沢政長指導で洛中二十一ヶ寺の法華宗信徒を動員し、いずれも勝利した。
ところが、こうして晴元と一向一揆に参加し、一向宗門徒を破った法華宗信徒は、京都に一段と勢力を伸ばし、上京や下京の信徒に至っては、六条の本圀寺などを中心に自治的権利を握り、町地子を納めず、町政を左右する程に発展した。
旧寺院勢力の反撃
しかし、こうした法華宗信徒の独立的傾向は、領主や他宗との対立を生んだ。1536年(天文5年)3月、京都一条烏丸の観音堂で説法を行っていた叡山の西塔、北尾の僧侶花王房が、上総国藻原の妙国寺の檀那で、松本久吉という法華宗信徒と法論の末敗れるという事件が起こった。このため三好氏の繁栄にともない、その檀那寺として法華宗が栄えていることに反感を持っていた叡山は、十五ヶ条の決議をし、法華宗信徒攻撃に立ち上がった。すでに法華宗信徒の実力を恐れ、その団結を妨げようとしていた晴元や木沢長政・六角定頼らを味方にし、三井寺や興福寺、さらに本願寺など他宗の協力を求めた。
万全の包囲網を形成した延暦寺方は7月23日に京都への侵入を開始した。これに対し法華宗信徒は、5月下旬以降、あらかじめ京都の町内に要害の溝を掘り、戦いに備えていた。
法華宗の敗北
戦いは7月23日、定頼らの兵を加えた叡山などの旧寺院勢力が京都に侵入したことから本格化した。27日にいたるまで、連日に渡って小競り合いが行われた。この間近江の六角勢が下京で放火したため、下京の全域と上京の三分の一程が消失した。法華宗信徒は、二十一ヵ寺を焼かれた上に、討ち死にした者が三千人とも一万人とも言われ、完全に敗北した。28日には、最後まで戦った本圀寺が陥落し、生存者の多くは京都を追われ、堺の末寺に逃亡した。十一年後の1547年(天文16年)、法華宗信徒は定頼の斡旋で京都還住を許されたが、兵火を免れた妙伝寺の破却、山門に対する銭一万疋の上納、毎年3月における日吉神社祭礼料足の追納など、三カ条の履行を約束させられた。
この戦いの結果、法華宗信徒は京都での勢力の殆どを失った。以後、町衆や農民・土豪層との共同闘争は不可能となったのである。
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