豊臣秀吉
よみ:とよとみひでよし
時代:戦国時代
年代:1537年〜1598年8月18日
内容:
戦国時代の武将。木下籐吉郎、羽柴籐吉郎を経て、羽柴筑前守、参議、権大納言、内大臣、太政大臣、関白、太閤。姓は後に豊臣。
「太閤素性記」によると、尾州中村の出。生年月日については次の三説がある。
- 天文5年(1536)1月1日説(太閤素行記)
- 天文5年(1536)6月15日説(祖父物語)
- 天文6年(1537)2月6日説(天正記・当代記)
公卿補任に載った年齢から生年を数えると、天文5年の生まれ、没年63歳となる。しかしその他の史料の性質から見ると、3.の説が最も有力であると判断せざるを得ない。
父は木下弥右衛門、母は「なか」という。父弥右衛門の身分については、名主クラスの百姓とも、一介の土民とも言われるが、織田信秀の鉄砲足軽(鑓か弓足軽であったと思われる)であったと「太閤素性記」にあるので、ある程度安定した身分の百姓であったのであろう。だが「木下」姓は、弥右衛門の代から名乗っていたかは不明である。一説によると、結婚後妻「おね」の実家の姓を借りたとも言われる。だが「おね」の実家の姓は元来「杉原」であるし、秀吉が信長に仕えて数年後まで姓がなかったというのも疑問である。経緯については明かではないが、結婚以前に「木下」を持っていたと思われる。
秀吉の幼名を「日吉丸」というのは、母が日輪が懐中に入った夢を見て秀吉を身籠もったという「太閤記」の作者小瀬甫庵の捏造である。「太閤素性記」には、幼名が「猿」とある。しかし同書には、秀吉の容貌が猿に似ていた事を盛んに強調しており、あだ名は「猿」だったかもしれないが、正式な幼名ではないようである。さて、天文12年(1543)1月2日、秀吉が七歳の時、父の弥右衛門が没した(木下家系図)。母のなかは、信秀の同朋州だった竹阿弥と再婚する。秀吉は八歳の時に寺に小僧として入れられたが、又家に戻り、天文20年(1551年)、実父弥右衛門の遺した永楽銭一貫文を持って家を出、針売り、草履売りをしながら放浪したという(太閤記・太閤素性記)。「太閤素姓記」には、秀吉は放浪の末、遠江の曳馬で今川氏の臣松下加兵衛(之綱というがその父か)に出会って、これに仕えたという。初め草履取りから次第に引き上げられて納戸役にまで成ったが、先輩達の妬みを買い、十八歳の時にそこを去ったという。松下のもとを去った秀吉は、一旦故郷に帰り、知人で信長の小人頭をしていた一若という者の紹介で、信長の草履取りに雇われたという(太閤素姓記)。秀吉がどのような形で信長に仕えたか、という事に関しては確かな文献はないが、この「太閤素姓記」の説の方が、信長に直訴して仕えたなどという「太閤記」の説よりも説得力がある。また「太閤記」にある永禄元年(1558年)に信長に仕えるというのも、やや遅すぎる感がある。
永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いには、おそらく足軽組頭程度の地位で参陣していたのであろうが、史料には見えない。翌年8月、浅野長勝の養女になっていたおね(高台院。杉原氏娘)と結婚した。秀吉は25歳、おねは14歳であった(桑田氏前掲書)。
信長の下で出世して行く過程での秀吉の活躍振りについては、「太閤記」に詳しい。清洲城の塀の修理の奉行に始まって、薪奉行としても才能を発揮。また、合戦の練習の時、信長にその将器を認められたことなど、色々載っている。こうした逸話の真偽は確かめようがないが、小者の地位より精勤し、次第に信長に認められて出世していった事は間違いないであろう。文書に於ける秀吉の所見は、永禄8年(1565年)11月2日付で、坪内定利に宛てに、信長の宛行状の副状を発給したものである(坪内文書)。その他、年代不明だが、同11年の上洛以前であることは確かな6月10日付の、丹羽長秀。島田秀順・村井貞勝・明院良政と連名で。佐々平太・兼松正吉に三十貫の地の給与を奉じた文書がある(兼松文書)。出世を重ねた秀吉が、信長上洛以前にして、すでに秀長ら宿老クラスの家臣と肩を並べていることが注目される。秀吉が信長の将として確固たる地位を築く契機となったのは、墨俣築城の手柄だと言われる。尾張の土豪の蜂須賀正勝らを動員した秀吉が、木曽川の対岸の墨俣の地に砦を築いたということは、「太閤記」「武功夜話」に詳しく語られている(墨俣一夜城跡は、岐阜県本巣郡墨俣町の長良川左岸にあるけど、木曽川なんてそこから車で30分もかかる。秀吉はいったい何処に城を築いたの?)。武功夜話と共に発見された本「前野家文書」の中に、その時の秀吉らの活躍を記した「永禄州俣記」というものもある。そして、これらの書は、この出来事を永禄9年9月とする事で一致している。だが「公記」によれば、同4年5月の時点で、信長が墨俣城を対美濃の前線基地としており、疑問が残る。秀吉が行ったのは、単に墨俣城砦のの修理だったのであろうか。いずれにしても、前出の坪内定利宛の副状や、「太閤記」「武功夜話」に載った、鵜沼(宇留摩)の大沢次郎左衛門誘降の件に現れているように、秀吉が信長の美濃攻略に大きな役割を果たしたことは、信じても良いであろう。
永禄11年(1568年)9月、信長の上洛のため出陣する。この頃の秀吉は、既に一部隊指揮官になっている。9月12日、秀吉は佐久間信盛・丹羽長秀と共に六角氏の箕作城を攻め、即日これを落とした(公記)。今日に入った秀吉は、10月18日、信長の命を奉じ、明院良政とともに妙心寺大心院領を安堵している(妙心寺大心院文書)。26日には信長は帰陣したが、秀吉は、佐久間・村井・丹羽・明院とともに京都に残された(多聞院)。
以後、秀吉は、七ヶ月余り京都近辺に駐まって、京畿の政務に携わる。その活躍振りは、
- 永禄11年(1568年)12月16日、松永久秀に宛てて、今井宗及と武野新五郎(宗瓦)との訴訟が全面的に宗及の勝訴となったことを伝える(中川重政・坂井一用・和田惟政と)(坪井鈴雄氏文書)
- 永禄12年(1569年)4月12日、立入宗継に、禁裏御料所丹波山国荘の直務の相違なき旨を伝える(丹羽長秀・中川重政・明智光秀と)(立入家所持記)、永禄12年4月18日、丹波宇津頼重に山国荘の違乱を止めるよう命じる(丹羽・中川・明智と)立入文書)
- 永禄12年4月14日、加茂荘中に、年四百石の運上と百人宛ての軍役を課す(明智と)(加茂郷文書)
- 永禄12年5月17日、広隆寺に太秦の寺領の相違なき旨伝える(単独)(広隆寺文書)。
この後の秀吉は、5月下旬頃、一旦尾張に戻った様子である(耶蘇通信)。