徳川綱吉と堀田正俊

徳川綱吉と堀田正俊



当事者1:酒井忠清
当事者2:堀田正俊
当事者3:徳川綱吉
時代:江戸時代
年代:1680年(延宝8年)5月〜1684年(貞享元年)8月28日(
要約:大老酒井忠清の専制政治を止めた堀田正俊。彼と徳川綱吉との蜜月。しかし正俊も酒井忠清と同じ運命をたどる。

内容: 綱吉の将軍就任
1680年(延宝8年)5月、将軍徳川家綱の病状は危篤になっていた。家綱には世子がなかったから至急に後継者を決定しなければならない。
 家綱に近い血筋は末弟の徳川綱吉(館林候)と綱吉の兄徳川綱重(甲府候)である。ところが5月5日大老酒井忠清有栖川幸仁親王を迎えることを主張。幕閣の多くも賛意を示した(というより、下馬将軍と言われるほどに実力者に反対できなかっただけであろうが・・・)。幕府の指導体制は強固である、
「将軍は権威付けだけで良い」
というのが酒井の考え方であった。これは鎌倉時代に盤石な政治基盤を完成した北条氏が源頼朝の血筋である将軍を三代源実朝で終わらせ、以後の将軍は摂家将軍・親王将軍にしたのと同じ考え方である(摂家将軍・親王将軍参照)。
 ところが、老中堀田正俊だけは反対した。血筋のお方がいるのに鎌倉幕府の真似をする必要があるのか、というのが彼の主張である。堀田は館林の綱吉を強力に推したのだが、酒井も譲らず散会となった。
散会以降、綱吉が世継ぎに決まるまでの経緯には色々な説がある。
  1. 直接遺言説  
       幕閣は退場したが、堀田だけは城に残り家綱の枕頭に行って何事かを談じた。しばらくすると神田の綱吉邸に堀田の奉書が届き、綱吉に登城が命じられた。夜中の登城は異例のことである。綱吉は家綱の枕元に呼ばれ、ここで綱吉の徳川相続が決定した・・・・、というのが「武野燭談」の説である。
  2. 遺言状により酒井を論破説
       5月5日の夜、綱吉を後継者とする堀田の意思を承認する旨の家綱直書が堀田に渡されており、堀田はこれを懐にして酒井忠清を論破した、という事になる。(とすれば綱吉の登城は5月6日以降の事でなければならない)
  3. 酒井忠清の横車説
       家綱の死の直前に綱吉を養子とする事が決定していたが、家綱死後に酒井が決定を変えようとした、とする説もある。
 家綱の死は5月8日と発表された。それより前に死んでいたかもしれないが、こういう順序にしなければならないのである。「無嫡にて死」を理由に多くの大名旗本を取りつぶしてきた幕府であったからである。
 これは、大老酒井忠清と老中堀田正俊の争いでもあった(それだけかも知れないが・・)。酒井は思うままに独裁権を行使したかったから宮将軍を迎えようとしていたのだ、とする説もあり、必ずしも間違いとは言えない状況は事実あった。
 酒井は幕権は強固安定だと考えている。それならば血筋より、京都から宮将軍の方がふさわしいという考えが出てきてもおかしくないと思われる(鎌倉時代の北条氏が摂家将軍を迎えた時の北条氏と、その時の酒井氏では、独裁の状況があまりにも異なっているので、酒井氏による政権簒奪とは考えにくい。酒井氏の考えた政権は一門衆を排除した譜代大名にによる連合政権→現状の政治状況のまま→とし、徳川氏を排除して酒井氏が大老として君臨しようとしたのではなかろうか)。
 しかし、酒井氏は敗れたのである。よって失脚は時間の問題である。綱吉を推した堀田正俊の時代がくる。父である堀田正盛が、「我が子のこれ以上の出世の為にも」と三代将軍家光に殉死した。それがこうして実を結んだのである。

 大老堀田正俊刺殺
 綱吉を将軍にして、功績第一を誇る堀田正俊は、1681年(天和元年)12月11日大老に昇進した。弟の堀田正英は旗本から一万五千石の大名に、家綱に殉死した兄正信の子、正休は一万石の吉井藩主となった。
 1684年(永享元年)8月28日、式日とあって諸大名が登城。将軍出座も間近い頃、若年寄稲葉正休が堀田正俊を次室に招きいきなり刺し殺した。稲葉もその場でめった斬りにされた。淀川改修工事について稲葉が意見を出しても堀田が相手にしなかった事が原因らしい。
 この稲葉正休は堀田正俊の父である正盛の従兄弟であり、正俊の引きで若年寄に出世した人物である。稲葉氏と堀田氏は、春日局を仲介として深い縁で結ばれているが、正盛・正信の殉死、稲葉正吉の衆道がらみの死など、ともに血塗られた系譜であり、それがここに衝突した。
 堀田家は古川から山形へ、さらに福島へ移封され、その度に知行が減って行くので家臣の数を減少せざるを得ない。堀田に仕えていた新井白石が二度目の浪人生活に入ったのもこのためである。
 正俊の人物評価は様々であるが、先代大老の酒井忠清を真似、綱吉を抑えて独裁権を振るいたかったのであろう。堀田批判の声は早くから起こっていたし、稲葉正休を悪く言う者は殆どいなかった。堀田の横死後、綱吉は大老を置かず、御側用人や御側衆が権力を振るうようになる。老中は諮問機関とかわらないものになってしまった。生類憐み令はこの様な状況の中で発布される。
 綱吉の親政は堀田の死によってスタートできた。これは間違いではないが、仮に堀田がこの時点で暗殺されていなかったらどうなっていたか。綱吉の親政はかなり枠をはめられ、たとえ生類憐み令が発布されるにしても、その運用は狂気じみたものにはならなかったであろう。

 


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