和同開珎
当事者1:藤原不比等
当事者2:
当事者3:
時代:奈良時代
年代:708年(和銅1年)1月11日〜708年(和銅1年)8月
要約:日本初の和銅が発見され、和同開珎を鋳造する。
内容: 708年1月11日、武蔵国秩父郡から「自然作成和銅」が献上された。
この熟銅の採鉱をきっかけに鋳銭計画が進み、2月に催鋳銭司がおかれ、8月に銅銭が発行され、流通させられることとなった。これが和同開珎である。
銀銭は翌年8月に通用禁止となるが、銅銭は958年の乾元大宝まで皇朝十二銭と呼ばれる銭貨が発行された。
和銅銭は唐の開元通宝を模倣し、円形で中央に方孔、周囲に和同開珎の四字がある。直径24mm、重さ3.75g、銅分84%で皇朝十二銭中では、直径・重量・銅分比率とも最も優秀である。
現在、鋳銭地は山背・大和・河内・近江・播磨・周防・長門・大宰府等が知られている。
この和銅の鋳銭は、商業活動の発展・流通の全国化など活発な経済活動をもとに必要とみなされたから行われた。というのでは無かった。唐に倣った小帝国の自負に基づき、唐にあるものなら日本にも、との意識で採用された。従って銭貨の通用には無理が伴った。
そこで通用に当たって、- 銭貨による売買取引の基準を定めた。銀銭一文を銅銭四文と等価とし、穀六升を銅銭一文に充てた。
- 貴族の禄物、雇庸人の功賃に銭貨を使用して民間に流布させ、他方で庸調物等を銭貨で納めさせた。
- 711年の布一常=銭五文とすれば調銭十文、庸銭五文となる。
- 行旅人に銭貨の軽便さを教え、同時に田の売買に銭を用いなければ田と物を両方没収すると通用を強いた。
- 蓄銭叙位の法を発し、蓄銭による叙位をした。
以上の如く、その流通には色々努力したが、稲米・絹布が長く貨幣の働きをしており、金属貨幣が普及したのは東西市を中心とする畿内及び周辺の地域にとどまったようである。
貨幣は自然発生的に現れねば、普及の可能性は低い。商業が未発達の奈良時代では唐のまねをして貨幣を使用する事はどだい無理である。貨幣は商業と密接に結びつく物だが、農業国日本には貨幣など必要なかった。
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