前九年の役

前九年の役



当事者1:安倍頼時
当事者2:源頼義
当事者3:
時代:平安時代
年代:1056年(天喜4年)8月3日〜1063年(康平6年)2月27日
要約:朝廷(源氏)と俘囚(安倍氏)の戦い。混戦の末源氏が勝利する

内容: 陸奥守として源頼義が着任 してから、俘囚安倍頼時は恭順の意を示していた。鎮守府将軍でもある源頼義は任期の最終年である1056年、交代の庶務を行うため胆沢城に赴いた。数十日間の滞在の後一行は国府への帰路についたが、阿久利川にさしかかった時、権守藤原説貞の子息の野宿が襲われ、人馬が殺傷された。藤原説貞の心当たりによれば、犯人は安倍頼時の子息安倍貞任以外に考えられないとの事であった。これを聞いた源頼義は一方的に貞任を処罰しようとした。しかし頼時は貞任を庇い、衣川関を閉ざしてしまった。この為源頼義は大いに怒り、安倍氏追討の大軍を発した。
 しかし、ちょっと考えてみて欲しい。安倍頼時は何故こんな時期に源頼義と戦をしようとしたのだろう? 武勇の誉れの高い源頼義の任期はあと少し。戦をするなら源頼義が帰任してからの方が好都合だろう。視点を少し変えて見てみれば、この戦いは源頼義が自らの貴族社会の中での地歩を固めるのに好都合な事件にしか見えない。武門の棟梁として奥州を自らの版図の中に入れれば、より地盤は固まる。対して安倍頼時がこの時点で叛意を抱く根拠は薄い。阿久利川事件は源氏の自作自演の可能性が高い。
 源頼義は安倍頼時の女婿となっていた平永衡を、安倍氏への内通の疑いで謀殺する。この事件を知った藤原経清は、自らも安倍頼時の女婿であったので、身の危険を感じ流言を放って源頼義の軍を国府に引き帰らせ、私兵八百人を率いて安倍氏側に走った。この為源頼義は安倍氏に対する先制攻撃の好機を失った。
 そのうちに源頼義の任期は終わった。後任の陸奥守藤原良綱は合戦の報を聞いて辞退した。この為1056年12月29日源頼義が再度陸奥守となる。
 源頼義は気仙郡司金為時(こんためとき)、下毛野興重(しもつけのおきしげ)らを遣わして奥地の俘囚を味方につけ、背後から安倍氏を攻撃させようとした。これに対し安倍頼時は自ら、彼らの説得に赴いたが逆に伏兵の矢に倒れ鳥海册に帰って死亡した。(天喜5年7月26日)
 しかし、貞任・宗任兄弟らを中心とした安倍氏の結束は固く徹底抗戦のかまえを崩さなかった。
 天喜5年11月、黄海で源頼義と安倍貞任が戦い、頼義は大敗を喫した。この敗戦の後頼義は安倍氏を攻める力を失い、奥州は安倍氏が自由に跳梁する場となる。こうして前九年の役は長期戦の様相を呈した。
 源頼義は、降着した戦線を打破するため出羽国の俘囚長清原氏に甘言をもって援軍を依頼した。康平5年7月ようやく頼義の求めに応じた清原武則は、一万余りの兵を率いて頼義の軍と合流した。この後戦局は大いに変化し、康平5年9月7日に安倍氏最後の砦である厨川柵が陥落し、貞任は戦死。藤原経清は捕らえられ斬首。宗任は落ち延びたが投降する。
 康平6年2月27日奥州合戦の戦功に対する除目が行われ、源頼義が正四位下伊予守、長男の源義家は従五位下出羽守、次男源義綱は左衛門尉に任官した。清原武則は従五位下鎮守府将軍となったが、在地豪族がこの官に任ぜられるのは破格のことであった。
 尚、前九年の役の呼称であるが、どのように計算すれば九年になるか様々な説が出されたが、乱の名称から戦闘の期間を導き出すことは適切な方法とは言い難い。ということで決着している。


 


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