だだもれ

2016年07月20日

今日は墓参りに行った。正確に言うと、墓を探しに行った。

父方の祖父は13年前に亡くなった。 その墓は千葉県松戸の八柱霊園にある。 そして、この八柱霊園というのはひつじこの実家から 歩いて行けるような場所だ。 一緒に墓参りに行こう、ということになった。 しかし、場所がわからない。

法事などで行ったことはあるが、親と一緒だったので 場所を覚えようとなどしておらず、当然墓地内の アドレスも知らない。親に聞いてみても、 なんとなく感覚で行っているのでアドレスがわからない。 祖母は墓地の使用権利書みたいなものを持っているはずだが、 祖母は父のお兄さんの家に同居するようになり、 しかもボケてしまった。もはやどこにあるのかわからない。 管理事務所でアドレスを教えてくれればいいのだが、 どうもプライバシー保護のためかダメらしい。

一度一緒に行けばそこでアドレスがわかるのだが、 うちの両親は福島在住で、それほど頻繁に来るわけではない。 最近は頻繁に来ているが、 それは弟が病気になったからで、 墓参りに千葉に寄るような余裕を持てないでいる。 そんなわけで、墓参りしたくでもできない状況が続いていたわけだ。 ひつじこの家は毎月お墓参りに行くくらいちゃんとした仏教徒なので、 親戚の墓が近くにあるなら定期的にお参りをしたいと強く思ってくれている。 これに応えることができていなかったのである。

で今回はこれをどうにかすることにした。 弟が東京の病院に入院したことで、 今は家族5人が東京に集まっている。 そして今はスマホがある。 スマホで地図を見せつつ、 「なんかトイレあってそこを曲がったなあ」「道から見えるところにあるよ」 的な感じに範囲を狭めていくことができ、 実際に行かなくてもある程度の絞り込みはできた。 あとは確認だ。というわけで、会社を早めに抜けて 私一人で行ってきたわけである。

墓はあっさり見つかった。外縁部で、道沿いだったし、 手入れもされていたので字を読みにくいこともない。 同じ名字の別の墓という可能性もあったので卒塔婆を確認したが、 確かに祖父の戒名がある。名前から一字取っているので間違いない。 坊さんが言っていた戒名も音だけは何となく覚えていたし。

そういうわけで、初めて一人で墓参りをした気がする。 一つ大人になったと言えるかもしれない。 もう血縁関係のある祖父母は地上にはいない。 次の世代につなぐ立場になったのだな。

ところで、八柱霊園はデカかった。 松飛台駅に着いたの16時56分で、駅から近い南門は 17時で閉まるという。4分あれば入れると思っていたわけだが、 べらぼうに遠い。 近く見えたのは、スマホの画面で八柱霊園が入るように縮尺を合わせた からだ。八柱霊園は東西の幅が1km以上あるのである。 結局数百メートルダッシュする羽目になった。間に合ったので良かったが。

で、墓参りのあと、ひつじこ達がいるひつじこ実家に寄って場所を伝え、 少し休んで東京に帰ってきた。そして採点。 いかんもう4時だ。1/3くらいしかやってないのに。

残った時間でいろいろと伝えたいと思っていたのだが、 あんまり需要なさそうだ。 ドラッカーとかジムコリンズとかミクロ経済学とか、 やっぱりそういうのは興味ないよなあ。 それよりはアジャイルとかテスト駆動とか、 そういう方がいいんだろう。 なんというか、考え方とか指針とかじゃなくて、 「こういうやり方をする。こういう道具を使う」 という方が取り入れやすいんだろうな。 gitなしで分散管理ができるか? Cでクラスが実現できるか? みたいなことを考えると、確かに概念を道具と独立に 扱うのは困難で、道具が先にあるとみなさざるを得ないことは多い。 物の進め方に関しても、何かしらの道具が先にあって、 その背景になる思想や目的はその道具を通して 感じ取れた方がいいのかもしれない。 確かにそれも必要なことだとは思うんだが。

私は具体的な知識ほど不便だと思っている所がある。 現実は多様なので、具体的なことほど特殊な状況に特化していて、 そのままは使えないのだ。 基礎教養が大好きである。 しかし、具体的な状況に結びつかない抽象的な知識は さっぱりわからないのでやはり役に立たない。例が必要だ。 抽象的なことを具体的に語るのがいいんだろう。

CEDECどうしようかな。 9月以降もしばらくはゲーム屋ではあるだろうが、 CEDECに行く意味がある類のゲーム屋でいるかはわからない。 もし転職が1月早ければ仕事の概要がわかっていただろうから 行くかどうかも決めやすかっただろうが、 なにせ転職前なのでわからん。 ヒマなら行く、としておければ楽だが、早期割引がなくなると かなり高くなる。そこで1.5万も損したくない。

なんか面倒になってきた。夕方人に会いにだけ行くかなあ。

昨日は新橋で二郎を食べた。多かった。もう無理かもしれない。 味は満足だった。でも、しょっぱい。

「問題の複雑さを理解している人は一言でバッサリとは言わない。 問題をよくわかってない奴は一言でバッサリ言う。 人に受けるのは後者だ。辛い」 みたいなことを書いている人がいた。

簡単に言う奴は信用できない、というのはまあそうなんだが、 目的が何かしら成果を出すことなのであれば、 理解は手段でしかなく、単純化しないと仕方ないという気もする。 理解することなく問題が解決することはある。 基本、複雑なことには複数の人間が絡んでいるはずで、 細部の複雑さは人に任せるべきだ。一人で理解できるはずがない。 利害や価値判断が異なる集団がいて、どういう構成をしているかを おおまかに把握すれば、たぶんそれで足りる。 「大枠これで行こう。細かい所の妥協はよろしく」 と言える状態を作るためのコミュニケーションとリーダーシップの 問題に帰着する。

例えば、クソゲーになるという問題があるとする。仮の話な。 ゲームは複数人で作るので、 当然利害や価値判断が異なる集団だ。 必然的に複雑な問題であり、解決は容易ではない。 しかし、多少の損害を覚悟すれば、問題を理解することなく 単純に解決することもできる。 例えば「クソゲーは売らない」と経営者が決めて折れなければいい。 これだけでクソゲーが世に出ることはなくなる。 最悪会社がつぶれるが、 クソゲーを作らないように組織が軌道修正される可能性はそう低くない。 ゲームが出せないとプロデューサも困るし、下の社員も困るだろう。 クソゲーであっても期限内に出して利益が出ればとりあえず 生き延びられる、という状況ならクソゲーになるかもしれないが、 間に合わせることに意味がなくなれば行動の優先順位は変えざるを得ない。 つまり、何故クソゲーになるのかを経営者が理解せずとも、 何らかの強制や規制、あるいはインセンティブを与えることで、 組織が自律的に行動を変えることを期待することはできる。 問題を理解しなくては解決できない、というわけではないのだ。 政府とか政治家、さらに経営者はそれを仕事としているのだろう?

まあ、リーダーが細かいところを無視して大枠の話をした時に、 現場の人が反感持つのは当然だと思うけどな。 コミュニケーションが足りてないことの現れではあるが、 なんぼうまくやっても その反感をゼロにするのは無理だろう。 たぶんゼロにすべきでもない。 私はできるだけ細かい所は無視して大枠の話だけを するように心がけていた。たぶんこれからもそうするだろう。

2016年07月16日

twitterとfacebookに転職することを書いた。


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