なんか

2001年8月31日

シスプリアニメ四葉。かわいい。

フルーツバスケット7-9。初めてまともに見たが、いい。 原作を読んでみて、どこまでが漫画家の力でどこからがアニメ職人 の力なのかを見てみよう。

図書館でふと福田恆存という人の本を拾い読みしてみた。 なにがどうとは言えないが、おもしろい。評論家と聞くと なにかと小難しくて必要知識がたくさんいるような文章を書く人を 思い浮かべるのだが、この人はそういうものとは全然違う。 ストレートでわかりやすく、人柄が感じられる文章だ。 そして言っていることもまともに思える。 全集で8冊しかないので、てきとうに借りておもしろそうなところを 読んでみよう。縁をつないでくれた 野嵜さんに感謝します。

「北大路眼科」で検索して来られた方がいる。 北大路魯山人がかかったのだろう。馬鹿正直に検索しているわけ ではないのだろうが、一体どういうしくみなのだろうか。

もはや物を見た感想すら書けなくなった。しゃべれないことは書けないのだ ということにようやく気づいたからであろう。

「騎士道は根にして茎。その上に咲いた花ばかり人は愛でたっとぶがな」 とか言う感じだったかヴェドゴニア。恥を知ることと 恥に弱いことが違うと言うためにどれほどの覚悟が必要か。

ロケットの打ち上げは成功したそうでなにより。あれが失敗したら パスポートブルーはおしまいだっただろう。 子供が「なんだやっぱり日本の技術ダメじゃん」 と思ってしまうとあの漫画はどうしようもなくなる。

四葉はオレを理解しないだろうがかわいい。それだけで良しとすればいいものを、 オレは四葉に理解してほしいと思うだろう。寄せては引き、引いては寄せる キャラクタ供に一体何を求めるか。とらハキャラを見て顔がニヤける一方で どこか淋しさを感じるのは、あの世界にオレが不要であることが痛いほどわかるから であり、また、痛いほどわかるということに意味を見出だすからである。

萌え関数

  別腹という言葉が便利であることに気づいた。 見ていてかわいいキャラと、隣にいて気持ちいいキャラと、どうにかしたいキャラ はみんな別腹だ。評価軸が独立だから、基本的には比べられない。 なお、萌えはこの3つの線型結合でおおまかに近似できるように思える。 萌え度関数f(x,y,z)=ax+by+cz。 a,b,cは観賞者によって異なる定数であり、これが言わば好みの違いである。 x,y,zはそれぞれにおけるキャラのクオリティであり、 xは見ていい度(観賞的良さ)、yはとなりにいて気持ちいい度 (人格的良さ)、zはどうにかしたい度(=獲得、征服欲求)である。 もちろんこれは粗い近似であって相当に無理があるが、 このように次元を複数にして考えれば 萌えの定義が人によって違うのを納得する助けにはなろう。 オレにとって四葉がいいのはaxの値が大きいからであり、 知佳がいいのはbyの値が著しく 大きいからである。オレの場合b>a>>cなのであり、 それがオレの萌えの特徴なのだと言えよう。 なお広場まひるはyの値が爆発的に高く、加えてxまで相当に高い。 記憶に新しいこともあって脳内で強い勢力を誇っている。

  なお、近似の精度を上げるためには次元を増やすなり、 パラメータが互いにより独立になるようにとりなおすなりすればいい。 たとえばこの3つでは泣きゲー萌えの人々を説明しにくいわけで、 泣きシナリオ度を足すと良いかもしれない。 また、この基底ベクトルのとり方ではおんぷ がかわいい(x的)ことと征服したい(z的)ことが 独立であるかのように扱われているが、 おそらくその2つは緊密にリンクしていることであろう。 そのリンクが最小限になるように基底ベクトルを取り直すことができれば、 それが最良の評価軸となる。実際、zはxやyの値に対してのこちらの反応 である部分が多く、「エロさ」などと単純化できるものではない。 「どうにかしたい度」は相当にパラメータとして不適当である。

  萌えという言葉にも一応ある程度共通するイメージというものがあるのだろうが、 それを前提としてどこでも話ができるほど共通性は高くない。 定まった萌えという概念などハナっからないのだと思った方がよほど安全である。 閉じた集団の内部ではある程度定義が似かよって来るだろうが それとて保証の限りではないし、 むしろそのために他の集団と著しく定義が異なってしまうこともままある。 というわけで、オレは萌えという言葉を濫用するのをやめる。 「萌え」が「好き」や「良い」よりも限定的でないならば、 わざわざ特殊な語である「萌え」を用いる必要はない。 もはや身分証明書にしかならないし、そんな身分証明書はいらない。

2001年8月30日

ここに関して。 「政治は汚水処理場みたいなものだ。ないと困るが自分で近づきたくはない」 とか言う感じで銀英伝のヤンのセリフにあった気がします。 さらに元ネタがあるのかもしれませんが。

2001年8月29日

必要な時に師は現れると言うが、その意味は 字面通りではあるまい。そのあるものに学ぶ準備ができて初めて それを師とできるという意味ではないか。 準備が整っていさえすればあらゆるものが師になるのだが、 多くの場合準備が整っていないためそれに気づかない。

2001年8月28日

シスプリ何話だかわからんがクリスマスと鈴凛。 久しぶりに12人がゾロゾロと並んでいる様を見て新鮮。 急に亞里亞むしろ水樹奈々が歌い出した時にはどうしようかと思った。 一方鈴凛の話は妙にいい話チック。四葉もけっこう活躍していい感じ。 後半猛烈に絵が崩れるところがあったが、別にいいやそんなこといまさら。

院試前日にうちに泊まるという愚行を犯すまさひろ。朝飯を用意してやろう。


A:「シスプリ好き?」
B:「どうかなあ」
A:「どっちか言って、でいいから」
B:「じゃあ好きかな」
A:「へえ。やっぱり好きなんだ」
この会話には著しい情報の欠落あるいは劣化がある。 Aは0.6の好きであったとしても1の好きに曲解し、 また同時にBの心の中では0.6の好きも1の好きに引きずられ始める。 言葉のこのような性質を指して言霊と呼んだのだろうか。

自分の言うことに関して「てめえはどうなんだ」と自問しない人間は 道徳的罪を犯している。他人の言うことに関して「てめえはどうなんだ」と問う 人間も道徳的罪を犯している。

今日の聖書

  イエズスは道徳を語るのに脅迫を用いている。 それ以外に人に言う事を聞かせる方法がないという悲しみを感じとることもできるし、 イエズスの苛烈な性格の現れと見ることもできる。 会ったことがないのでそのへんはわからないが、 なんにせよこれだけ強烈な表現をする背景にはやはり当時の状況や あのあたりの空気というものがあるだろう。 しかしやっぱり素直に読むと 「バカにまともに話してもわかんねえからいちいち例え話にしてるんだよ」とか 「それで例え話してんのに何弟子のてめえらまでまんま受けとってんだこの馬鹿野郎」 みたいな事がかなり多いので、 けっこう激しい人だったんではないかと思ったりもする。 実は水木しげるの「悪魔くん千年王国」は聖書のパロディとして ものすごく良く出来ているのではないか。

  聖書は奇跡のバーゲンセールである。どこかに行く度に人がゾロゾロついてきて、 イエズスはそれを片端から癒してやっている。 その後演説となるわけだ。言うならば奇跡は紙芝居屋のおかしのような物である、 この奇跡が本当に奇跡であったのかどうかは別にして、 なにかしら紙芝居屋のおかしの役割を果たせるくらい すごい事ができたのは間違いないだろう。 でなければ人がわざわざ話を聞くはずがない。一体何をしたのか。 ところで、たいがいの場合演説はロクに理解されず、イエズスはグチを こぼしながらまた次のところへ移動してゆくハメになっていたようである。 萩尾望都の百億のなんとかだか千億のなんとかだか言う漫画で イエズスがやけにチンケな田舎者扱いされているが、 そのあたりの人間くさいところを増幅した結果ああいうキャラになったのだろう。

  マタイ読み終わり。最後の方なんかムチャクチャおもしろかった。 まんま漫画にしても十分すぎるほどおもしろくできる。 敵対勢力の陰謀の様子とか、ユダの後悔するシーンとか、 とんでもなく想像力がかきたてられる。 聖書の二次創作が多いのも当然のことだ。

  ヨハネの黙示録は研究者の間ではその当時の苛烈な弾圧状況において 信者を励ますために書かれたものだとされているらしい。 わけのわからないものがたくさんでてくるが、 あれは当時の人で教養があればそれらが象徴する別のものに置きかえて 読むことができたはずで、硫黄と火を吐く犬とか言うのも比喩にすぎない。 実際にはちょっといろいろと修飾をこらしすぎた激励文にすぎないのだと言う。 死ぬほどうまい、というのと同じだ。 数々の幻想的な生き物や物語のネタになったという意味ではまんま素直に読むのも 悪いことではないのだが、今となってはその手のネタは陳腐化して久しかろう。 オカルトは誤解によってオカルトになるのであって、始めからオカルトなわけでは ないのではないか。

  イエズスは自分を神の子と言った。 彼は果たして誇大妄想気味であったのか。 それとも自分をそのように言うことの道徳的罪と人々の反感を買うリスクを 敢えて背負ってまで人を導こうとしたのか。 おそらくその両方であろう。自分にはできる、そのためなら死んでもいい、 という思いがあったはずでそれは一種誇大妄想的であるが、 あれだけの説教をした人間が 自分の道徳的罪に気づかぬはずはない。それに聖書によれば 彼は自分の死を予見している。

2001年8月27日

研究室からもらってきた壊れたハードディスクはやはり壊れていた。

弟からもらってきたメモリ64MBをwindows機にさそうとしたが、 スロットが壊れてるのかダメだった。やむをえずFreeBSD機にさして 128MBに。でもmozillaは重い。

どれみ4話まで。毎回ちゃんといい話。

2001年8月26日

帰ってきました。

正法眼蔵随聞記。道元の言葉をまとめたと言われている本。苛烈な教え。

「にょ」と読む漢字や「にゅう」と読む漢字はあるのに「にゅ」や「みゅう」と 読む漢字は知らない。ところで関係ないが、デジ子を英語に訳すとしたら あの口調をどんな方法で表現するのだろうか。

掃除していたら聖書が出てきた。久しぶりに少々読んでみたが、 マタイ5-21から5-48あたりがすごい。 やはり徹底している。 ちゃんと全部読みたくなった。けっこう道元のそれに通じるものがあるが、 道元は出家した人間だけに要求しているのでまだ現実的だ。 そんなことはできやしないのだ、ということをイエズスは、 あるいは道元は知っていたのだろうか。 少なくとも道元の場合は自分にもできないことであることを わかっていたように読める。

表紙をテーブルを使わないように改めた。 さらに、top.htmlを廃止した。

2001年8月24日

君が望む永遠、大空寺あゆ。遥よりおもろかった。 加えて遥より痛い。加わる人間が増えるほど事がややこしくなって 痛くなるのは考えてみたら当然だ。で、こいつが一番かわいい。 加えてこいつが一番いい奴だ。せりふも一番しめっぽくない。 声もかわいくなくかわいい。 いろいろ寒い口癖やら行動も目につくし、いくらしめっぽくないと言っても 所詮君が望む永遠である範囲なのだが、それでも良い。 ところで、このシナリオ最大のクライマックスであるはずの遥への 宣告シーンがついになかった。作者逃げやがったな。

ところで大空寺あゆの「うがぁぁぁぁ」は 月宮あゆの「うぐぅ」に対抗しているのか。 そうとしか考えられないくらい不自然に浮いている。声優さんが下手ってのも あるだろうが。

2001年8月23日

水夏をやろうと思ったが、弟(大)がもって帰ってしまったので なかった。京都に帰ってから誰かに借りよう。

弟(小)がとなりでねがぽじやってる。声だけ断片的に聞こえるが やけにおもしろそうだ。帰る前に片づけていこう。

テレビでアメリカの野球を放送している。おどろくほど会場が静かだ。 日本のあのうるさいのとどちらがいいとはいえないだろうが、 ああいう見方もあるのだということをテレビで見る機会があるのは いいことだろう。

アニメ宝島。出崎男爆発。スッキリしない話なのがかえっていい。 実に渋い。ところで原画が2人に動画が5人しかいなかったのだが、 アニメってのはそれくらいの人間で作る物なのか。

25日に東京入りし、26日に京都に帰ります。

ねがぽじコンプリート。これくらいの規模は楽でいい。 で感想だが、おもろかった。最近何見てもおもろかったしか 言ってない気がするが、おもしろいんだから仕方ない。 で、何がおもしろいかというと主人公がとんでもなく魅力的なのである。 かわいいのはもちろんのこと、とてつもなく人間ができている。 ストーリーの要請で暴走することもままあるが、 そうでないときのいい奴さは筆舌に尽くしがたい。 加えて台詞がおもしろいのがいい。 やはりいい奴さはおもしろさによって増幅されるものなのだ。 いい奴さだけをえんえん強調されてもいまひとつ効きが悪いのは 今までの例でわかっていることである。 しかし正直ストーリーに関してはあまり評価できない。 全般にお話としての出来はかなり悲惨なレベルなように思える。 香澄シナリオは途中からなにがなんだかわからん話になる上に それにひきずられて せっかくの台詞のセンスが失われるし、小鈴シナリオは早い上に中身がない。 結局美奈萌シナリオが一番おもしろかった気がする。 なにより漫才がおもしろかった。終わり方も じめじめしてないのがいい。やはり男は背中で語るものである。 どこを見てもエロゲエロゲした雰囲気を漂わせていたのでつい 後回しにしてしまったが、 実際にやってみるとシナリオはけっこう真面目な姿勢で いい意味で裏切られた。

さて、君が望む永遠はどうしたものか。なんかえらい時間かかりそうだし、 話の筋はだいたい読めてるし、そもそも弟(大)に大方聞いてしまったので メインキャラの筋だけはもうしってしまっているのである。 KANON対抗キャラと思われる大空寺あゆ のみ気になるが、あのノリでしめっぽい話にされたらと思うと 怖くて手をつけられない。あ、でもたぶん別の人か。

シスプリキャラブックの公野先生のあとがきに、 「どうしてそんなにお兄ちゃんが好きなのかもわからないけれど」 とあって、妙に感慨深かった。

キャラコレ衛を読み直して恐ろしいまでにかわいいことに気づく。 前読んだときは3冊目でまだ慣れていなかったために 気づかなかったのであろう。そこでふと思った。まさか可憐も。 そう思って読んでみたが、前以上に電波だった。 いや、花穂なら。そう思って読んでみると恐ろしい描写を発見した。

花穂は麺類があんまり得意じゃなくて――だって「いただきまーす」 ってして食べようとすると、いつも麺がなんだかいっぱい 取れすぎちゃって、 なかなか花穂の一口分にはならないから――苦手なの。

オレごときでは逆立ちしてもそんなかわいい理由は思いつかない。 そういうわけで花穂もかわいいことがわかった。 もちろん可憐もかわいいにはかわいいのだが、 少々受信がちなのが怖いだけだ。

ギャルゲー的メディアに必ずしもエロを求めない心理はすでに広く認められている。 では、ギャルゲー的メディアに必ずしも恋愛感情を求めない 心理は広く認められるものであろうか。 オレはそれを萌えと呼んでいるが、それはオレだけなのか。 少々前に七歳ほど年上の先輩と話したときに 「オレにとって萌えと恋愛感情は違うんです」と言ったら、「そんなのはわからん」 といわれた。また、別の人は「ときメモにはまっていた 時期には現実の女の子など目に入らなかった」と言っていた。 そしてWEB上にはエロがないギャルゲーなど欺瞞だと言う人を大勢見かける。

G's9月号のシスプリ扉のケルベロス(仮名)がかわいくて仕方ない。 天広先生の絵もかわったものだ。やはり真剣勝負を年単位で続けるというのは 大変なことなのだろう。ところで、このG'sという雑誌にはギャルゲー雑誌のくせに 交尾シーンどころか胸すら掲載されていない。投稿にも女性がけっこういる。

2001年8月21日

石渡治「パスポート・ブルー」10冊。科学万歳。 夢を信じてがんばる少年達。心は宇宙へ。 がんばれ宇宙飛行士。えらいぞ技術。 ダンドーといいガンバといいこれといい、 サンデーはいまどき本当に素直な少年漫画を 提供してくれる。この手の漫画には そんな都合よくいくかボケという突っ込みを いれたくなるのが常なのだが、 それはそれとしてこのまっすぐさは心地よいのである。 中でも石渡治の漫画はサンデーらしからぬ熱さがあって とてもいい。

萩尾望都「残酷な神が支配する」完結。救いといっていいのかこれは。 10冊かけてトラウマをつくり、6冊かけてそれをほじくりかえして 痛めつけ、最後の一冊で申し訳程度の救いを提供する。 恐ろしい構成であり、恐ろしい漫画だ。 漫画がうまいなどという次元をはるかに超えている。

やりたくなるスポーツ漫画はいい。ガンバしかり、拳児しかり、 パスポートブルーしかり、空手バカ一代しかり。なんでもいいが、 やりたくなるのはいいことだ。スポーツ漫画に限らず、 夢と希望とやる気をくれる漫画はいい。たとえば藤田和日郎はいい。 久しぶりにそういう素朴な漫画を読みまくってみて改めてそう思う。 思えばオレはそういう漫画で育ったのだ。

ひさしぶりにB.Bの後半を読んでいた。とまらない。 すごすぎる。ハッタリバリバリのはずなのだが、 作者もノリノリなもんだからハッタリに見えないのだ。 とにかく熱い漫画は気持ちいい。 そういえば関係ないがB.Bは最初の方だけ出崎アニメになった。 影の境界に線が引かれていて妙にかっこよかったのを覚えている。 全部アニメ化してくれなかったのが残念だ。 やっぱり石渡治はマイナーなのか。

試しに抱きつかれたことを想像してみたら、最初に相手の鼻息を感じた。

今更だがジョジョ5部。ものすごいアイディアと構成力にひれ伏す一方で、 読みにくさに閉口した。 とにかく絵がごちゃごちゃしていて状況がわかりにくいのだ。 漫画の絵を逸脱しつつあるように思える。 おもしろいしすごいのだが、 昔のジョジョのように好きにはなれそうにない。 しかし、時代とともにおもしろさの質を変えていける漫画家など そうはいないわけで、尊敬していることに変わりはない。 そろそろ全然別の漫画を描いてほしいとも思う。

2001年8月20日

シスプリ前夜祭の映像特典をまるごとwavファイル化してみた。 78分。曲ごとにバラしたいところだが あんまりにも面倒なのでもってかえってから考えることにする。

夜中にワールドゲームズのボディビルが映っていた。 オーガはウソじゃなかったのだ。鬼は哭くのである。 顔が普通の女の人なのに体がアレなので余計にすごい。

ワールドゲームズ空手。あんな速度で動くのだから大したものである。 オレもあれくらい元気にならねばな。

同じく夜中に中国拳法の型の大会が映っていた。 「武術太極拳」だそうだ。言うまでもなく太極拳は武術のはずなので 不思議な名前であるように思われる。 大会で表演される型は太極拳だけでなく 洪拳のような奴とか、少林のような奴 とかもあり、どれも飛んだり跳ねたり激しいものになっていた。 よくあれだけ体が動くものだと思う。到底オレにはできない。 ところで、なんとか武術太極拳連盟とかいうような名前がついていたが 果たして構成員は何人いるのだろうか。世界選手権と言うのには 一体何人の選手が集まるのだろう。 組み手がないので今一つ見所がないし、 型だけなのに男女を別にしているのも謎だ。 採点方法がまるっきり体操なのも気になる。

2001年8月19日

痛いもの3連発。弟二人と鍛錬。

ONEアニメ。なにがしたいのかはなんとなくわかるが、 結局なんだったのかはよくわからない。舞台を 田舎にしてみたり、思わせぶりなつくりにしてみたりと 雰囲気重視なのはうかがえるが、さてそれで表現したい 世界やら心は一体なんなのか。それっぽいだけで中身がない というオチだけはよしてほしいものだ。 それっぽい構図やらなにやらもいまひとつ見え透いていて 印象が悪い。「あ、これぶつかるよ」と言う感じで、 構図を見た瞬間に次におこることが予想できてしまうことが 何度かあった。 また、絵もしょぼい。いたる絵と違ってかわいいが、 けっこう崩れるし、動きはかなりうさんくさい。 ことに拡大縮小と平行移動のしょぼさが残念である。 しかしまんまやらないでアレンジしてやろうという心意気は 買いたい。あれをまんま普通にアニメにしたりしたら とんでもなく痛いものになってしまうだろうからだ。 ところで、茜の髪の毛は多いというよりももはや大きいと形容した方が よいレベルである。実に大きな髪の毛だ。 妙に金属光沢チックな彩色のおかげで凶器にしか見えない。

ハピレスアニメ再び。動く動く。中身はまるでないが、 とりあえず動く。やはり構成やら構図やら作画やらは悪くなかろう。 ダメアニメを一生懸命作ろうという心意気を買いたい。 本当は痛い映像特典が目当てだったのだが入ってなかった。

シスプリ前夜祭。本日のメインイベント。 基本的に声優が生身ででてくるのにオレは免疫がない。 怖い。それは弟二人も同様であり、三人でそれを克服しようという 試みであるとオレが勝手に定義した。 そしてオレと下の弟(15)は見事にこの試練を 勝ち抜いて一段強い耐性を獲得したのである。上の弟(20)は途中から の参加でもっとも辛いところは見ていないものの 残った部分には耐えたようだ。

さて、この前夜祭の中身だ。まずは桑谷夏子さん (可憐。以下敬称略)とかかずゆみ (春歌)が司会になって なぜかアニメイトととらのあなとシスプリバスを紹介する部分。 結構痛いがまだ序の口である。むしろ「ああ、普通の人だったんだ」 と安心したくらいだ。古山きみこ先生のインパクトのおかげで そんなことでも安心できる。さて次は アニメ版前半の紹介である。ここは普通。 そして最後に映像特典としてシスプリのイベントの録画が ドカンと入っていたのだが、これがまさにメインイベントである。 実に一時間以上にわたる巨大な映像特典だ。ビデオのパッケージには 50分とかいてあったのに結局全部で100分以上あるという 猛烈な不意打ちである。 で、そのイベントというのはもちろんステージに声優が出てきて 歌ったり朗読したりする奴だ。これが実につらいのである。

まず朗読はいい。大勢を前にして 微塵も芸が揺るがない声優の恐ろしさを見ることができた。 小林由美子(衛)や桑谷夏子(可憐)は微妙にボロが出ていたが、 まあよかろう。それよりも半場友恵(四葉)や千葉千恵巳(雛子)のように やりすぎな演技を変わらず披露してくれることの感動の方が大きい。 プロである。

が、問題は歌だ。歌った歌はキャラごとのイメージソングである。 CDに入っているアレでハナっからスキルには期待などしてはいないが、 恐ろしいことに全員が全員CDよりもさらに下手くそなのである。 役を保てれば多少下手でも気にならないものだが、 それすらがボロボロである。芸達者だと思っていた千葉千恵巳(雛子) や横手久美子 (白雪)すらが最初の数秒を過ぎたあたりでもろくも崩れて行く。 さらに、歌が結構うまいと思っていて安心していた堀江由衣が とんでもないオンチを発揮し強烈な不意打ちを加えてくれた。 CDのまんまだったのは水樹奈々くらいで、それすらもCDに比べれば 不安定で何度となくヒヤっとさせられた。全体を通してみれば 歌が下手と評判の川澄綾子(千影)すら かわいく見えるほどのものすごさである。 そういえばまさひろがいっていた。声優の歌の下手さはそんなに 甘いものじゃない、と。このことだったとすればまことに納得である。

というわけで12人のそれを聞き終えるころには下手くそに 対してさしたる辛さを感じないようになっていた。 考えてみればイベントで下手になるのは当然である。 まず大勢が前にいるという重圧がある。そして、舞台の上で 歌う以上なにかしら動かねばならない。体を動かすことに 意識が割かれれば自然に歌に障害が出るし、激しく動けば 息も切れる。それにCDの場合と違って一発勝負だ。 それにこれは予想だがおそらくCDの録音の時には ヘッドホンから伴奏とともにメロディラインも 流れているのではないだろうか。 もしそうであればオンチでも相当に歌いやすくなろうし、 舞台との差が出る要因にもなろう。そのへんを考えると無理もない。 小林由美子や神崎ちろは相当に激しく動いていたし、 合間に叫んだりもしていた。神懸りかと思うほどである。 それだけに相当息切れがしていた。 雛子や白雪はそもそも芸風がやりすぎなだけに それに割かれるエネルギーも大きく、歌と動きを同時にやるような エネルギーはそうそう出まい。ボロが出るのも無理はない。 芸風が普通だったり、ハナっから 役で歌うことを放棄している人々はそれだけ楽だったはずで、 実際そういう人のはさして辛くはなかった。堀江由衣のオンチっぷりが あまりに予想外でダメージを受けたが、そういうもんだと思えば 大したこともない。あの歌唱力でどうやってシスプリの主題歌 などをあれだけまともに歌えたのかは謎だが、 まさか影武者ということもなかろうし、それだけ生身というのが 大変だということだろう。またこの状況にあってまるで芸風が 変わらず、目をつむればキャラが歌ってるようにしか思えない 望月久代(花穂)と神崎ちろ(鈴凛)には敬意を表したい。 というか、それ地だろ。歌は1,2を争うほど無残なオンチっぷりだったが、 潔さのせいかさして気にならなかった。目さえつむれば「花穂や鈴凛は 歌が苦手なんだね」と言って済ませられるレベルである。

またそれ以外の印象だが、妙にゴージャスな雰囲気がどことなく 黒ミサっぽさを醸し出していた。司会の声が妙にいろっぽい兄さんの 声だったり、照明やらがなにやら凝っていたりしたせいだろう。 シスプリというものがもつ妙にケバイ雰囲気のせいもあろう。 ハートに十字をあしらったあのマークは実によくシスプリという もののもつ空気を象徴しているように思う。ほかの読者参加企画と 比べて強いのはやはりそのへんの空気というか色のせいもあるのではないか。

とにかく、いい経験になったと言っておこう。拙い芸を責める前に 声優ってのは大変なんだなと心底思えた。 ああいうイベントは芸を見せる場所というよりは 彼女等にとっての実地訓練なのではないだろうか。 ファンがそれを見守ってあげる存在なのだとすれば、 多少芸が拙くても怒るには及ぶまい。

ところで、椎名へきるの下手さはこんなものではないという 話を聞いたのだが、それは本当なのだろうか。

2001年8月18日

坂田信弘・万乗大智「DANDOH」21冊。スーパー小学生ゴルフ漫画。 悪い意味でも少年漫画だが、それ以上にいい意味で少年漫画である。 そんな都合良くいくかいと思いつつも別にいいやという気になるわけで、 結局のところおもしろいのだ。 ただ、この漫画には「ゴルフをやりたくならない」というある意味致命的な 欠点がある。どいつもこいつも並はずれた才能があって かつそれが前提になっているので、 到底「オレもやってみたいな」とはならないのである。 そのあたりにおいてはガンバfly highの方がはるかに優れている。 あれは体操がやりたくなる漫画だ。 もっともゴルフというスポーツの特性からしてすでに不利である のも事実ではある。あんな金のかかりそうなもんできるか。

BGMがシスプリ。この音波の中弟は夏休みの宿題をやっている。 さて、このシスプリ音楽はオレが持ち込んだ物ではない。 奴が自分で部活の友達から手に入れてきた物だ。 当然CDをわざわざmp3にして再生ソフトのプレイリストに入れて 再生したのもオレではなく奴である。それに先だって奴は オレが持ち込んだオリジナルストーリーズと キャラコレ12冊をすでに読み終えている。 曰く、「慣れた」。

花の慶次全巻。やはりかっこいい。隆慶一郎テイストと原哲夫の融合は すばらしいものがある。 話が微妙にバカだったり殺戮描写がやりすぎだったりもするが、 それはそれである。心情を言葉で説明しすぎる傾向があるとはいえ、 この文章は立派に演出として成り立っているし、現代人と全く違う感性の 心情を表現する以上は理を用いてその差を埋めざるをえない。

北野武のHANABIは心情をほぼ完全に空気のみで表現しようとした作品だ。 それが可能だったのはHANABIに表現されている心情が ことさらな理なしでも了解されやすいものだからだろう。 さて君が望む永遠はどうだろうか。 もちろんあれは理による心情の 説明が丁寧であることが味なのであり それがなくなったらあれではなくなってしまうのだが、 それでももう少し空気で心情を伝える術を作者がもっていたらと 思わずにはいられない。最近多くの作品にそれを感じる。

作る側の立場というものをかいま見てしまうと 自分にできぬことを他人に要求することに罪悪感や羞恥心が 伴うものだ。しかし鑑賞者というのは元来 勝手なものであり、勝手に文句をつけるからプロに緊張感 というものが生まれるのである。だから、鑑賞者は自分にできるか どうかなど考える必要はない。が、これは原則にすぎない。 プロが作品を提供し鑑賞者がこれを金で買うという 単純な関係が守られる限りにおいての話であり、同人やら アマチュアやらがからんでくるとずいぶんとややこしくなる。 また、ゲームを借りてやった奴が批評することが許されるかどうか もそう簡単な問題ではない。それに、酷評された作者がへこんで ダメになってしまうのを自業自得というのもあまりに酷かろう。

リスクのない行動はない。すなわち完全に正しい行動はない。 そしておそらく、完全に間違った行動もない。 人生の何割の時間そのことを念頭におけるかで どれだけうまく生きられるかが決まるのだろう。 失敗してひどい目に遭うだけその割合が増えていく。 だから人は罰を受けなければならない。

2001年8月17日

たきぽん氏とそのお友達のてっぺー氏とカラオケやらなにやら。 久しぶりにはじけた。

浦沢直樹「20世紀少年」。どうやったらこんなものが書けるのか まるでわからないほどすごい。出来事を組み立てる力量において この人の右に出るひとはそうそういまい。ただ、70年代の空気というもの をオレは共有していないので、そのあたりの感覚がわからないのが残念だ。

日渡早紀「未来のうてな」。前からその兆候はあったが、 やはり悪いものの影響をうけている。RPG文化。 味付けとして使われているだけならともかく、 根底にそれが流れていることがわかってしまうと さすがに引かざるをえない。5冊で保留。

君が望む永遠。いい略称がほしいが、君遠(きみえん)はどうにも しっくりこない。どこぞにあったように「きみえそ」というのが 一番いいのだろうか。さて、それはいいとして遙シナリオ終わり。 残念ながら途中で覚めた。さめないように努力はしたのだが、 力及ばなかったのである。そこら中から「不幸にするぞオーラ」 が出ており、それに作者が酔っぱらっているような印象を受けてしまうのが 辛いのだ。ノリがえんえん変わらないのが辛いと言うのもある。 前半がよくて後半が良くないと言うわけでもないが、 長い時間読んでいれば慣れてもくるし、飽きてもくる。 展開が読みやすいのもいけない。 それに進むにつれてクサさが増してくるのも痛い。 医者のおねえさんなどはどう考えてもやりすぎにくさいし、 ラストシーンの演出などはまさに「そこまでいわんでいい」のである。 終わってみた後では加奈に毛が生えた程度の評価になってしまった。 ところで、このゲームのキャラってどうなのだろう。 なぜかあまり立っているように感じない。どいつもこいつも 物が見えた思いやりのあるいい奴なのだが、どいつもこいつもそうである ことが弱さの原因であるようにも思える。みんな頭が回りすぎるのだ。 属性レベルでの個性はあるし、 遙伝説のような味付けもあるのだが、空気レベルでの独自性を感じない。 前半(茜とうち解ける前くらいまで) あんなに感情移入してたのは身に覚えがありすぎたせいで、 出来がいいからというわけでもないのだろうか。 それともオレがただ短気なだけなのか。 間違いなくこのくそ真面目さは強みだし、これだけ頭の中を言語化 できるのは大した物だと思うのだが、残念なことに何かが足りない。 もしくは強みを使いすぎた。 さしあたりしばらく保留。残りは京都に帰ってからだ。

そういえば本体の絵よりも遙伝説の絵の方がよほどうまい気がするのだが。

西条真二「大棟梁」2冊。大工漫画だが、ジャンと全く同じ。 一巻半ばでもうコンテストになってしまうあたりジャンよりも タチが悪い。しかしそれでおもしろいのだからいいじゃないか。 サンデー本誌を追われたのが残念でならない。

萩尾望都「残酷な神が支配する」。格が違う。次元が違う。 人間を洞察する方法そのものがすでに違っている。 出来事はかなりいいかげんでやけに都合良くいろいろ 起こりすぎるのだが、そんなことは些細なことだ。

2001年8月15日

「君が望む永遠」中。共感しきり。 いちいち過去の具体的な体験と重なってきわめて痛い。 なにもかも文章で描いてしまうこのスタイルは確かに野暮 なのだが、野暮だからこそ伝わることもあろう。

2001年8月14日

既知街2。わけわかんないけどおもしろい。おもしろいけどわけわかんない。 わけわかんなくすることを狙って書かれているのは確かだが、 狙ってここまでできれば大したものだ。

犬夜叉22まで。おもしろいなあ。高橋留美子くささがたまらない。 この人は長編も描けたのだ。

水夏。プロローグと第一章途中。なんかかっこいいものを書こうとしてるのは わかるが、力量が足りてなさそう。そもそもこれだけやって 何がなんだかわからんのはどういうことか。つかみがほしい。 明日エネルギーが回復してから改めてやってみる予定。 今日は最小インストールだったために画面を書き換えるごとに 数秒とか待たされてどうにも話が頭に入ってこなかったのだ。

闇のイージス。七月鏡一と藤原芳秀。ジーザスのコンビだ。 時代についていこうとして失敗したのか、どうにもださい。 でもオレは藤原芳秀が好きなので楽しんで読める。

数が多いと正しく見える。 多い方についてひどい目にあうことはめったにないからだ。

2001年8月13日

2日分まとめて。本はたいがい電車の中で読んでいる。なにせ17時間だ。 なお、更新スクリプトがないのでしばらくアンカーはないし、 ここに全部置いてしまう。

ところで仙台は涼しいです。昼間っから18度っていうのはどういうことでしょうか。 夜なんて寒いんです。

宮本常一著「忘れられた日本人」。民俗学研究者である著者が いろんな村の長老に聞いた話などをまとめた本。 今生きている日本とは全く違う世界が広がっていた。 日本ってのは元々こういうところだったのかと思う。 夜這いがあんなに一般的な風習だったなんて知らなかった。 ラジオで恋愛の概念が日本に現れたのは明治以降だと聞いたことがあるが、 これを読んではじめてなるほどと思った。 恋愛と言う言葉には必然的に苦悩が含まれているが、 古来の日本の男女関係にはそういう苦悩を良しとするような汗くさい ものはなかったらしいのである。

S.キング「シャイニング」。冬の間洋館に閉じこめられた家族が 経験する恐怖。幽霊屋敷物なのだが、怖いのはそれではなく 登場人物達の恐ろしいまでに緻密な心理描写だ。 ちょっとしたなんでもないエピソードがつもりつもって とんでもない怖さを演出するのが実にうまい。 人間の理性は本当に危ういバランスの上に立っているのだ。 自分に関しても思い当たる節がたくさんある。

川北稔著「砂糖の世界史」。商品作物として大変な影響力を持つ砂糖が どのように歴史を動かしてきたのか。たとえば茶も砂糖とれないイギリスで あんなに砂糖入りの紅茶が流行ったのはなぜなのか、と言ったことが書かれている。 いろんなものに着目して見ることは歴史のいろんな面をみせてくれるのだ。

邸永漢「食は広州に在り」。魯山人本だけだと偏るだろうということで読んでみたが、 案の定まるで違う食通のあり方が書かれている。あかさらまに魯山人に反発する ところもあるようだ。ただ、もしかしたらこの人はおいしい日本料理というものを 食べていないのではないかとも思える。しかし魯山人の方もたぶんおいしい中華料理を 食べていないように思えるのでどっちもどっちといったところか。 ところでこの本が何よりおもしろいのは中国人の物の考え方 というものがかいま見えることである。 ちゃっかりしている、と表現するのが一番 しっくりくるだろうか。日本人にはないたくましさを感じる。 飯は生きるために食うもんだという前提を置いた上で、どうせ食うならおいしい方がいい と言うような感じを受けるのである。 魯山人に言わせれば「風流がない」ということにもなるのだろうが、 この方が本来の食事に近い姿であるのかもしれない。

桜野みねね著「護って守護月天」9冊。以前1冊読んで「どーでもいーぞー」と言って 挫折した漫画であるが、実家に帰ると置いてあったので再び挑戦してみることにしたのだ。 が、やはり楽しいとは言い難い。 それでも9冊読んだのはてっきり完結していると思ったからだ。 10冊目を読もうとしたところで完結していないという事実を知って読む気が失せた。 しかしそうは言いつつも昔に比べればはるかに楽しめている。何しろ絵がかわいい。 ついでに世界がかわいい。この人も悪人とか悲惨を描けない人らしく、 妙に微笑ましいのである。 加えて熱い展開はそこそこ熱く、なんだかんだ言うても自分の欲求に正直でいるところが 感動を誘う。そういうわけで主人公は実に魅力的だ。 この作者主人公しか目に入ってないんじゃないだろうか。 ただラブひなと違ってつらいのは作者に照れが見られるところだ。コマ外につっこみも多い。 話もいい話ではあるが、妄想が足りないのか説得力がない。なにか薄い。 昔のシャオ(ヒロイン)を主人公に見せて違う世界の人間であることを実感させようという 話があるのだが、そこで現在のシャオとの違いをうまく描けていないために何の説得力もない。 結局話を作るのが下手だということだろう。 あるいはこれも主人公に愛が集中してしまった故のことなのかもしれない。

野中英次著「しゃぼてん」。いつも通り野中。

シスプリゲー咲耶。寄るな度最高潮。それはともかくとして、血縁エンドを目指すには 本当にひどい選択肢を選ばねばならず非常につらい思いをした。 なんぼなんでも哀れでならない。そのせいか最後にはけっこう愛らしく思えたりしたのだが、 まさかそれを狙ってああいう選択肢を選ばせたというわけではあるまいな。 それにしてもやはりこのゲームは人を萌えさせようとはしていない。 冗談であることを全面に押し出しすぎている。いうならば野暮である。 落語で自分が笑っては何にもならないではないか。 本気でやってこそ冗談も映えるというものであろう。 もっとも、そうすればそうするだけ冗談であるとわかってくれる人が減って 怖い事態になるのは確かなのでそれをおそれたのかもしれない。

弟とパーツ屋をてきとうに回った。言うならばリアル鈴凛ごっこ。弟なのが悔やまれる。

水木しげる著「悪魔くん千年王国」。なにやら風刺が効いた変な漫画。 アニメになった物とはまるで違っている。第九使徒「ポリ公」とか、 かなりいい加減だ。それにしてもセンス爆発ですごい。 背景の美しさと人物のいい加減さのギャップは本当に衝撃的だ。

高橋留美子著「犬夜叉」。現在8冊。なんだおもろいじゃないかこの漫画。 それにしても高橋留美子は何でこんなに線が汚いのに絵そのものが 汚く見えないのだろう。こんなにいい加減なペン入れをしている プロはそういないだろうが、それがまるで気にならないのがすごいのである。 ある意味達人なのだろう。ちなみにアニメの方も初めてみたが、 そこそこおもしろそうだった。

2001年8月10日

掃除する夢を見た後の空しさ。

シスプリアニメ白雪話。なんかふつうにおもろかった。ええ話。 それにしても最近のシスプリアニメはネタ度が低い。

今ごろ有明にたくさんの人が並んでいるのだろう。今日は企業に行って 研究の打ち合わせだ。実家帰りたいんだが。

突然ですが実家に帰ります。 大垣夜行でGO。コミケに寄ってくのもアリかななどと思ったりもしますが、 あまりお目当てのない2日目だけと言うのも寒いものがあるので素通りする気がします。

と思って京都駅まで行ったが、大垣夜行が満席だったので帰ってきた。 仕方ないので明日の始発で行く。バカみたい。

一日で帰れることが判明。以下の通り。

二度はやらないだろうが、一度はやる価値がある。 ところで、そんな時間にバスはない。歩くのか駅まで。

「シスプリはオタクに対する踏み絵」(いっぺい)

  オレはいつまでも表紙の「〜お兄ちゃん大好き♥〜」 にまずは嫌悪感を覚える人間でありたい。みなシスプリをあざとい萌え兵器で 黒い意図がバリバリなものだと思っているようだが、 まともな神経をしていたらこんな文句が書いてある本を買うことなど 到底できないのではないかと思うとあざといとはとても思えないのだ。 本気であさとく狙うならこんなあからさまなことはやるまい。 もっとうまくやりそうなものではないか。 オレは基本的にはシスプリを冗談として、あるいは挑戦状としてとらえたい。 だが、「お兄ちゃん大好き」にまるで 疑問を抱かない人がいるという現実をオレは知らなかったのだ。 そういう人がたくさんいるとしたら確かにシスプリはあざとく黒い萌え兵器 だと言うことになる。さらに進んで、 疑問を抱かない人種と疑問を抱いてなお敢えて突貫してくる 人種の両方をターゲットにしているのだと考えると合点が行くが、 そこまで人は狡猾になれるのだろうか。なんにせよ真実は永久に闇の中であり、 我々が製作者の意図など関係なくただ楽しく遊んでいれば良い。

  かつて清水が「ナディアが何をパクっていようと俺には関係ない」 というようなことを言ったことがあったが、確かにその通りである。 製作者がパロディを指向していようと見る側がそれを気にしなければ、 あるいはそれを知らなければなんら問題はないのである。 それを見る側の怠慢と言うこともできようが、楽しむことこそが至上であるのだから 知識のために楽しめないのは本末転倒であると言えよう。 知識は楽しむためにあるのであり、それが障害になるのならばその知識を 敢えて用いないという姿勢が必要である。つまりオレはシスプリを楽しんで良い。

野暮

  「結局それかい」などと言う自分ツッコミを入れるのは野暮なのだが、 これが本気だと思われても困るので上の文章に対して入れておく。 冗談で書いていることが冗談と受け取られないのはとても淋しいし、 時には実害もある。例えば「高尚なフリして所詮萌え人間じゃないかこの野郎 えらそうに理屈つけんな」と自分ですでにわかっていることを言われるなどの実害だ。 それはまったくその通りであり、つまりは鈴凛が好きなのであるが、 それはこの文章の主旨には関係がなく 「所詮萌え人間だが」などと断りを入れるのも野暮だ。 部分的に字を大きくしたり色を変えたり 擬音を入れたりすれば冗談だとわかるのだろうが、 それは著しく美学に反するし、そんな面倒くさいことやってられるか。 しかし一方で誤解されるのがどれだけダメージになるかも骨身にしみている。 一体どうすれば良いか。

  例えばフィクションにするというのはどうだろう。 虚構であれば何をやっても「所詮虚構だから」という ゆるがしがたい逃げ道が用意できる。「これは現実じゃないです」 みたいなことが今の漫画やドラマの類には必ず書いてありすでに野暮なのだが、 それくらいはやむを得ないだろうし、それで済むなら安いものだ。 しかし、この日記の一番上に「これは架空の人物の生活を描いたフィクションです」 と書いてもやっぱりダメなわけで、虚構と言い張ってもそう見えなかったら ダメなのだということにもなる。たまに「宇宙人と会話しました」 とか書いたら虚構くささが出るかもしれないが、それ以前に心配されるだろう。 オレを生身で見たことがない人はこの日記がフィクションである可能性 というのを否定できないのでそれでも問題がないはずなのだが、 本名を公開している上に今までさんざん日記として書いてきたので手遅れである。

  ところで、上の段落も冗談だ。

2001年8月9日

間違い。8日夜に帰ってきました。4日も行くわけないです。

萌えの定義は人によって違うのだが、定義がバラバラなこと自体が萌えという言葉 の特性であるようにも思われる。好ましい方向の感情、という共通点 でくくってしまうことで、どのように好きなのかをわざわざ表現しなくて済む のが便利だということなのではないか。もちろんこの言葉を使うコミュニティ の一員であるという身分証明書としての役割も大きい。

G'sを見ていると4日に書いた仮説は間違っているような気がしてくる。 どうにも負けな気分。

本誌連載時はフォントが丸いゴシックでいかにも狙っているが、 本では何の変哲もない明朝に改められている。 ことさらにフォントごときで演出するよりもこちらの方が迫力がある。

研究室マシンのハードディスク換装を行いました。掲示板に書いたものが 消えていたらそのせいです。それにしてもすでにインストールしたハードディスクを 丸ごとコピーする方法がわかって非常にうれしい。dumpとrestoreだ。

北大路魯山人著「魯山人味道」。 おそらくは美味しんぼの元ネタの一つであろう。恐しくおもしろい。 何を書いていいかわからんが、とにかく語り口が強烈である。 まさに丸元の親分だ。 せっかくなのでいくらか引用しておく。ものすごさを感じとってほしい。 ところで、元々旧字旧かなだったのに直されてしまっているのが かなり残念である。こういうドハデな文章は旧字旧かなの方がかっちょいい。

「私は戦争が好きだ」の魯山人バージョンが作れそうである。

外から見たら明らかにおかしいのだろうということを理屈ではわかっているにも かかわらず自分ではおかしいと思えない状態、 というのを実感する機会に恵まれた。人間の理性や心は極めて危ういバランス の上に成り立っているのである。

2001年8月6日

研究室の旅行行ってきます。10日まで。

2001年8月4日

ハピレスラジオ漬け。笹島かほるのノリが妙に気に入ってきた。 なんかこの人かなりかっちょいいぞ。その一方で古山きみこのノリには慣れてきた。 たまに「マジか!」という発見があって非常にいい。というか「うにゅ」を地で言うな いいけど。ところでこの二人歌下手くそすぎ。でもいいや。そんなこと。

これ脳髄やられます。こいつら笑いっぱなし。ところで古山きみこは讃えたい セリフが山とある。 近くにいることを「二回手のばせば届きそう」とか言うあたり常人の表現じゃねえ。

偏見・先入観粉砕プロジェクトの一環としてラブひなやらシスプリやらという のは言い訳にしか聞こえないが、そういう意図もないことはなかったのだ。 邪悪なものを邪悪と思わずに素直に触れようというのは素晴らしい訓練である。 きみきみは22歳ですか。思考に割りこむな。 実際その甲斐あって昔はバカにしてて到底触れることもできなかった 数々のものを愛でられるようになったのである。人は変われるのだ。 みな堕落堕落言うが、これは断じて進化なのである。 でも萌え人間になっているという事実は何も変わらない。

最終目的地は一切の分割がないにも関わらず分割を意識できる世界である。 つまり、「これはロボットアニメだ」「これはシスプリだ」「これは哲学だ」 という意識なしに作品を観賞しつつ、「これはロボットアニメである」 「これはシスプリである」「これは哲学である」ということを意識することもできる 状態である。前者が欠ければ素直に物を見られず真の姿が見えない。 後者が欠ければ製作者がいかなる状況にあったのか等々の「文脈」 を見てとれないために性格上仕方ない欠点という奴を許容できなくなったり、 作者が見てほしいところがどこであるかわからなかったりしてもったいない。

シスプリオリジナルストーリーズ。G'sの連載をまとめた奴だ。 すごすぎる。到底一度に全部読めないほどすごい。 バカにしたくなる一方で「これまさかマジで書いてるのか」 という疑問がふつふつと沸き上がってくるのがたまらないのである。 完全に狙っているとすれば大したものだし、天然だとしてもやはり大したものだ。 踊らされていたことが発覚するのは少々イヤなので できれば天然であってほしいが、別にどっちでもいいや。 どうせ真実は永久に闇の中である。

マルクス・エンゲルス「共産党宣言」。 はっきり言ってよくわからん。頭の切れる人なようだが、 極限状態にのみ成立する条件を現実に適用しようとしすぎる気がする。 わかるまで読まないで言うのもなんだが、なんか無茶だ。 なんというか頭でっかちなのである。 しかし実際それにのっとって革命をやってしまっているわけで きっと当時は十分な説得力があったのだろう。

  シスプリは作品としてとらえればアニメにせよゲームにせよカスだ。 よって、作品をこそ愛でようという立場から見れば シスプリはカスである。 だが、その見方だけではシスプリの100%を語ることはできないだろう。 残る部分を見るためには場として見る見方が必要である。 場とはつまりはコミュニティだ。人が集まるには話題あるいはテーマが必要であり、 その一つとしてシスプリがあると考えるのが場としてのとらえ方である。

  場としてメジャーな例の一つとしてガンダムがある。 作品としてのガンダムをまともに見ていない 人間でも場としてのガンダムには加わることができるのは証明するまでもない事実 であろう。 製作者と自分の関係だけでは語り切れないわけで、同じものを好きな集団 というものを考慮に入れねばならないのだ。作品は程度の差こそあれ場としての 力を持つが、シスプリは作品としての力と場としての力のバランスが 著しく後者に傾いた例であると考えれば良かろう。そもそも作品としての シスプリはほとんど実体がないのである。 ゲームやアニメといった後から展開したものをシスプリ本体とは呼べないし、 G'sの連載も作品本体と呼べるほどの規模ではない。 つまり、ハナっからシスプリは場として作られたのだ。 元々作品であったガンダムも今となっては場であり、 場を形成するそれぞれの部品として 個々のガンダムアニメやらゲームやらプラモやらが存在している。 ガンダムにおいてその核となるのは世界設定やメカであるが、 シスプリは妹12人だったというだけだ。決定的に違うのは 最初から場を指向したか否かだけであるが、元々どうだったかなど 場が成立した後では問題ではない。

  また、創造欲求 というものの存在も場を理解するのに重要である。 シスプリの場合にはキャラの骨格しか与えられていないわけで、 残りをどうにかするのはファンの役目である。属性丸出しのうすっぺらな物体も、 頭の中で妄想を働かせれば豊かな人間像に成長し得る。 できあがったキャラの出来もさることながら、そうやってキャラを形成していく 過程が楽しいのは言うまでもない。そしてそうやって形成したキャラを 二次創作として発表することは別の人の創造欲求を刺激することになり、 結果場の形成力を強化する。

  つまり、単純に言えば「人とその話をできるのが楽しい」というのと 「自分で妄想するのがたまらん」という二つのことがからみあって 作品本体だけからは出てこない楽しみが導かれているのである。 前者は作者対観賞者という単純な構図だけでは出てこないし、 後者は作品を見るだけの姿勢では出てこない。極めて同人的である。 悪意をこめて言えば仕掛け人の掌で踊る楽しみと言っても良いわけで、 反発する人が多いのも理解できよう。

  なお、この考えは「あんな属性丸出しのものにいきなりマジ萌えする奴が そういるはずがない。ファンになるとすればそれを肉付けする何者か があるなり別の楽しみがあるなりするはずで、 その正体はコミュニティの形成やら積極的な創造行為やらなのではないか」という 仮説によっている。よって、もし属性丸出しなものにいきなりマジ萌えしてしまう 人間が山ほどいてコミュニティの形成は単なる結果にすぎないという 場合にはオレの負けだ。

2001年8月3日

ゲーテ著「若きウェルテルの悩み」(岩波文庫)。 作者本人が「一生のうちでこの本が自分のために書かれたと思うことがなかったら その人は不幸だ」とまで言っているものすごい本である。 若者が、すでに婚約している一人の女に恋し、悩み、そして破局を迎えるまでが 一連の手紙という形でひたすらストレートに描かれている。 精神的苦悩に耐え切れず愚かな行動に 出てしまう事に対して「もう少し耐えれば苦しみは去ろうものを」と言う者は 多いが、それは病の発作を乗り切れず命を落とす人に 「もう少し耐えればその苦しみも去ろうものを」と言うのとそう違わないと言う。 精神のたかぶりのようなものが完全に自分でどうにかできるものだと思うのは 間違いなのではないか。なるほど、オレのために書かれた本だ。

ザブングル29-34。目が痛くて続けて見られないのが 口惜しい。これさえなければ一度に全部見てしまうというのに。

シスプリ千影。幽体離脱というのがギャルゲー的であるかどうかは別にして、普通。 まさひろも言っていたが、小説からネタを忠実にひいてきすぎる。

ベンチで隣に座っているのを想像するだけで驚くほど良い。 風。匂い。温度。日差し。これを漫画で表現したいと言う時、 この「隣にいる」という圧倒的な真実をどう伝えたら良いのだろうか。 情念を形にすることのむつかしさを改めて思う。

結局わかるようになるまでわからんのだ。言葉にはもう少しでわかりそうな時に わかるのを手助けする効果と、わかった後でわかったことを言葉の形で整理して 固定する効果(ああ、あの言葉はこういうことだったのだな現象)しかない。 この二つはとても大切な効果なので無駄だとは言わないが、 しかしやはりその二つの効果以上のものではないのである。

ハピレスラジオ。時間の何分の一かは確実に二人で笑ってる。 ひたすら笑う。企画もロクにないのにえんえんとこれだけで間が持つのは 恐しいかもしれない。

異様に目が疲れると思って眼科に行ったら、眼鏡がまるで合ってないと言われた。 どうも度が強すぎていて 近くを見る時に多大な負担がかかっていたらしい。 近くを見る時の方が多いのだからある程度矯正をゆる目にした方が いいのだそうだ。 メガネは眼科で作るもんだということがよくわかった。 実に細かく調整してくれる。関係ないが、今日行った病院の先生はイカした人だった。 やけにぶっきらぼうで一見怖いのだが、なんというかシブみがたまらない。 治療も的確っぽく、目の痛みも低周波治療で一発で直った。 それに、あの病院特有の生殺与奪を握られたような恐怖感が新鮮でいい。 久しぶりに病院にいくと実におもしろい。

うみゅう。伝染る。が、残念ながらオレが言ってもかわいくないのだ。 世界はかわいいかかわいくないかでおおまかに分割できる。

2001年8月2日

ハピレスラジオ。なんじゃあこりゃあ。古山きみこ…刻んだ。 相棒が普通なので余計に引き立つ。これ、かわいいと言っていいのか。 ともかく、これが地で芸風などというものではないのだというのは 受け入れるしかなさそうだ。ともかくかけっぱなしにしておこう。

ゲーテ著「若きウェルテルの悩み」を読もうとしたが、 後ろでさえずっている古山きみこ先生のおかげでまるで読めない。 にしても古山きみこ先生がすごいのはノリと声だけではない。 しゃべってる内容まですげえ。台本あっても無理だこんなの。 マジか。マジなのか。この人がオーディション出た時は 他の連中がさぞや絶望感に打ちひしがれたことだろう。

2001年8月1日

知らんうちにイズミヤの裏に出来ていたカナート洛北を探検。 だいたい特色をつかんだ。地下の食糧品売り場のレベルが高く好感が持てる。 それと、ユニクロはマジで安いということを知った。 古本屋、100円屋等もあり、たまに覗くのもいいだろう。

最近目が痛くて耐え難い。数日文明から離れないとダメだ。

マーク・トウェイン著「人間とは何か」(岩波文庫)

  プラトンの対話篇のようなノリで、人間に自由意志などなく ただ自らの欲望の赴くままに動く機械にすぎないことをえんえんと論証した本。 教育や訓練、あるいは良心や道徳といったものが一体何なのかを 非常に理路整然と説明してもいる。悲観的な人間観に見える一方で、 そこを出発点にするが故の救いも提示している。 実におもしろかった。普段自分が思っていることと同じことを読むのは 当然のように気持ちがいいものであろう。 ところで、この本はかなりいわくつきである。 妻に読ませたらあんまりにも衝撃を受けたので妻が生きている間は 出せず、公刊したらどんな目にあうか知れたものではないので匿名で出し、 結局ちゃんと出たのは作者が死んだ後だということだ。 キリシタンの国で、それも科学万歳だった20世紀初頭にこんなものを出す なんてのは相当にとんでもないことだっただろう。

サフィズムの舷窓ソヨンシナリオ

  おもしろかった。 以前K.Ten氏 の家で味見したブルマ2000みたいに バカテイスト責めだったら辛いなと思っていたがそうでもなく、 推理も味付けとしておもしろい。キャラのラインナップもかぶることなく、 描写も丁寧で特徴がよく出ている。 ムービーの画質が妙に悪くて気になったが、おそらく容量の問題なのだろう。 ムービーそのものは何かのパロディくさくて笑いを誘う出来である。

  プログラムの出来についてだが、 ギャルゲーとしては並だ。インストーラの画面がやる気なかったり、 インストーラにアイコンもなかったり、ファイルが山ほどインストールされて まとめろよと言いたくなったり、音声がwav丸出しだったり、 たまにキャラの名前を表示するところが変な番号に化けたり、 キャラ絵のスクロールが妙にぎこちなかったり、 セーブするところがやけに少なかったり、 ユーザインターフェイスの出来がいまひとつで 操作性が悪かったり、画面を見ながらのスキップがなかったり、 なぜか今さら6万色モードにするよう薦められたりと細かいことはいくらでもあるが、 まあ些細なことと言っていい。 動作はそう遅くはないし、やる気を消滅させるほどの欠点はない。

  次に絵について。全体に塗りが丁寧できれいだ。 キャラ絵の描き分けもしっかりしているし、 なんかおかしいぞという感じを受けることもなかった。それにこの画風は けっこう独特なので印象にも残る。ただ、オバサンやらバアサンの立ち絵だけ 別世界にショボイのがどうにも気になったりはする。 バアサンにせよオバサンにせよ何かネタくさく狙っているのだろうが、 もう少しどうにかならんのか。 それと立ち絵も一枚一枚の質はいいとしても、 セリフと表情が合ってないことが多く気になる。 枚数のせいだろう。これは全画面絵も同じで、落ちこんでてもフロに入る姿は えらく楽しそうである。枚数のせいだ。 なお、背景もきれいで良い。

  さて、評価じゃなくて感想。話は確かに良くまとまってはいるが、 それ以上の物は感じない。ネタをはさみ、いい話をはさみ、おいしいシーンをはさみ、 確かに内容は豊かではある。世界観を了解させる力となる細かい描写もそこそこ の出来で悪くない。が、どうにも破壊力が弱い。なんと言うか、 おかしくない。実に楽しく作っていそうな感じは受けるのだが、 鬼気迫るパワーとか、あからさまな偏執とか、めくるめく変態性とか、 理性のタガを超えた愛着とか、漏れ出す電波とか、そういうのをあまり感じない。 パッケージの花ゆめ度といい、ムービーのハウス名作劇場度といい、 そういう細かいネタでウケを狙うのが基本コンセプトであるようなので そういうのを求めるのも間違いなのだろうが、オレはそういう小ネタはそんなに好き ではないのである。


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