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のんちゃん 便り

第51号 2000年 4月     文:向井 裕子

舞台デビュー(劇団態変)

3月18日から20日までの3日間、望は、第2回大阪演劇祭連携企画、劇団態変公演「壺中一萬年祭」に出演しました。連日、百人を超える観客の見守る中、ショッキングピンクのレオタード姿で登場しました。

「態変」は、大阪を本拠地とする身体障害者だけの劇団で、障害者の存在を芸術にまで昇華させようという集団です。1983年(S58年)、私が社会人になった年に旗揚げされています。私が「態変」の事を知ったのは、「寝たきり少女の喘鳴(こえ)が聞こえる」(山口ヒロミ著、自然食通信社)の本でした。その後、写真集を見る機会があり、色とりどりのレオタードを着た役者たちの写真を驚きをもって見ました。そこには、私の中のステレオタイプの価値観を打ち崩してしまう、まさに異文化がありました。写真の中に両手のない役者がいて、とても美しいと思いました。「態変」の舞台を観てみたい、主宰者の金満里さんに会ってみたいと思いました。

1997年5月。金満里さんの講演会が豊中の福祉センターでありました。講演の中で、「私は、介護されるプロだ」とおっしゃった言葉が心に強く残りました。それは、望を育てていく上で、私に大きな影響を与えました。「生きることのはじまり」(金満里著、筑摩書房)の本を読み、それから、何度か「態変」の公演を観に行きました。

大阪演劇祭は、大阪市が主催して、1999年から2001年まで行う21世紀を迎えるお祭りです。この祭りに出演要請をされた「態変」は、昨年、この祭りの公演「壺中一萬年祭」に一般公募のエキストラを大勢出演させました。エキストラ出演者募集のチラシを見ながら、ミ−ハーな私は、応募しようと思ったのですが、所用のためできませんでした。公演を観に行きましたが、連日満員で当日券がなく観ることができませんでした。そして、第2回大阪演劇祭が近づいてきました。

今年はエキストラ応募するぞと思いましたが、応募用紙を前にして、私は、はたと止まってしまいました。望は、まだ6歳で、その上に知的な遅れもあります。目の前にあるものには「YES」「NO」が言えても、舞台に出ることを自分で決める事はできそうにありません。手足のない望を、私の意志で舞台に出すことは、昔、「見世物小屋に障害者を売った悪い親類」がした事とどう違うのだろうと考え込んでしまったのです。友人は、考えすぎと笑いました。ただ、私は、かつて身体障害者が見世物小屋に出ていたことについて、人権という観点から見ると大きな問題がありますが、働いて収入を得たり自立するという点では意味のあったことではないかと思います。

私は「態変」の身体表現の舞台は芸術だと思っていますし、身体障害者の身体の線や動きが宇宙につながるような美しさを持っている事にも頷けます。また、私は「障害をもつ子を産むということ 19人の体験」(中央法規出版)に載せた文章の最初に「丸くて歪んだ胴は、白く滑らかで、何ともいえぬ曲線を描き、時々、美しいと感じる」と書いているように誰にも真似できぬ望の美しさを知っています。けれど、望を出すことが見世物とどう違うのか明確な理由を見つけられないでいました。

私達は、今まで、テレビや週刊誌の取材をお断りしてきました。それは、プライバシーのこともありますが、私達が取材されるような特別な家族ではないことと、マスコミに取り上げられ世間からちやほやされることによって、望が、自分を特別の人間だと勘違いして育っては困るという思いからでした。私達が拒んできたマスコミと舞台との違いについても、はっきりとした答えが出せないでいました。

私達が望を育てていく上で、考えていることがあります。一つは、望はフツウの子ではないけれども、なるべく普通の環境で普通に育てていくことです。(普通って何?という事になってしまいますが、それを論じることはここではしません)友達と一緒に大きくなっていくこと、地域社会の中で生きていくこと。そうあってほしいと願っています。望は、重い障害をもって生きていかなければなりませんから、普通に生きていくことは難しいし、普通に生きて欲しいとも思ってはいないのですが、普通の感覚は知っておいてもらいたいのです。社会一般のルールは守って欲しいのです。障害者だから、時間に遅れてもいいとか、後から来ても一番前に行くことができるなんて思うようになっては困ると思っています。

二番目は、望の先輩、つまり、障害者から私達が学ぶということです。私達は、望の親であっても望になる事はできませんし、望の思いを100%理解することもできないのですから、彼らの話を聞き、彼らの生き方を知りたいと思っています。だからと言って、望が、障害者Aさんと同じ思いを持って同じ生き方をするわけではなく、望には望の生き方があります。ですから、私達は、彼らに学び参考にさせてもらうのです。話がそれますが、私は、よく「障害者」という言葉を使用します。それは、本人が「障害」なのではなく、本人を取り囲んでいる社会に「障害」がある、障害を受けている者という意味で使っています。適切な言葉が今のところ「障害者」以外に見つからず、大切なのはその中身と思い使用しています。

最後に、これが一番大切なのですが、将来、望に自分の生き方を自分で決めることができる人になって欲しいと思っています。そのためにも、先の二つのことが必要なのです。重度の障害児にとっては大変なことかもしれませんが、障害児にもいろんな人生があっていいはずですし、私達は、望に、自分の人生は、自分で作っていって欲しいと思うのです。ここに、金満里さんがおっしゃった「介護されるプロ」も含まれています。心地よく生きられるように介護をされて欲しいと思いますし、様々なことを自分で選択して欲しいと思います。選択は経験がないとできませんから、望にたくさんの体験をさせてやりたいと思っています。そして、生きていく上での楽しみや、わずかでも収入を得る術を与えてやることができればと思っています。私達は、望の人生に、もちろん学校を出た後も、なるべく多くの選択肢を準備してやりたいと思っています。選択していく力が望にあると、私達は思っていますし、そんなふうに育てていきたいと考えています。

「態変」の舞台に出ることは、まさに体験と選択肢とを増やすことだと思いました。望は、まだ幼く時期が早いかとも思いましたが、「また今度」は、来るかどうかがわからないのが人生です。迷う気持ちに結論が出せぬまま、「やってみよう。やっていくうちにきっと見えてくることがある。態変は、障害者運動でも、慈善事業でもないのだから、望がエキストラで使えるかどうかは行ってみなければわからない」と考え、オーディションの申し込みをしました。

99年11月21日、オーディション。中旬から出ていた咳がなんとか治まってきてほっとしていたのですが、前夜から急に嘔吐下痢が始まり、その日、望は休んでしまいました。ため息をつきながらも、望が行きたくないと身体で訴えたのかもしれないなどと自分を納得させ、チャンスはそうあるものではないし、オーディションの日に体調を整えることができなかったのだから不合格と思いました。ところが、12月中旬になって電話があったのです。「オーディション申し込みをされているので、受ける資格があると思うのですが、面接を受けにきますか」というものでした。もう終わってしまった事と思っていた私は驚いて、そして、金満里さんからの直接の電話に緊張してしまい、思わず「はい、お願いします」と応えました。

12月18日。態変の事務所に個人面接を受けに行きました。事務所には舞台で見た役者さんがいらして、私はうれしくなってしまいました。少しして、金満里さんが到着され、望と対面されました。雀の巣のようになっている望の後頭部の髪の毛にブラシをかけようとされましたが、私達でも苦労する細くもつれた髪を手に力のない金満里さんが梳かすことは容易ではありませんでした。プリンのカップを追いかけてずりずりと遊ぶ望をしばらく見ながら、質問を受けました。なんだかお受験みたいです。でも、このお受験には、親は関係ありませんでした。決めるのは、金満里さんと望。しばらくして、金満里さんは、望と顔を見合わせて、出るかとたずねられました。自分で決めたら最後までやらなければならないと話されました。望が子どもだということや知的な遅れがあることは関係なしです。私は、知的障害があるの?そうかなあ。誰かにそう言われた?理解できていても話せない人はたくさんいるでしょと、対面しながらおっしゃったことを思い返しました。質問された望は、首を横に振りました。誰かに何かを聞かれると、警戒心の強い望は、とりあえず首を横に振って「NO」と言うのです。あらま、望が「お断り」することになってしまうと心配しながら様子を見ていました。それから、これが最後という感じで「どうする?出てみる?」と聞かれた時、望は、首をこっくりと縦に振ったのです。これで、エキストラに合格でした。でも、私は、右も左もわからない望が、演出どおりにできるのか心配でした。観客は、お金を払って観にくるのです。そこで、「使えないと思われたら、いつでも切ってください」とお願いをしました。

帰り際に、態変の情報誌「イマージュ」を買いました。その中に「ウオルフガング氏講演会」という記事があり、芸術と見世物の違いについて書いてあるのを見つけました。彼は、芸術は、「そこに意図やアイディアというものが表現されている」もので、「意図を持って人が見にくるのであればそれはアート」で、「そこに相互作用というのも必要」だと言っていました。

翌日の日曜日から、練習に参加しました。金満里さんに初めて対面した時の望は、ごそごそと元気に這いずり回ったのに、練習が始まると、動こうとしないのです。「望ちゃん、動かへんかったら、お客さんはかわいそうな子としか見てくれへんで」と、金満里さんの声がとびます。私は、はっとさせられました。集団でうごめく場面では、「望ちゃんを怖がらせないように気をつけて」と言ってくださいました。望が顔を上げたところにガッと口を開けたエキストラさんの顔があって望が慌てて顔をそむける場面もあり、私は、面白く見ていました。練習に参加するうちに望も慣れて、少し這うようになりました。でも、舞台に出たまま、退場しないことが多くありました。

態変の舞台には多くの黒子がいます。幕から役者を出したり、舞台裏で役者を運んだりと大忙しです。役者と黒子との関係は、障害者と介護者との関係に似ています。主役は役者で、その役者がスムーズにいかによく演技できるかを支えるのが黒子の役目です。黒子が自分で全く移動できない役者を舞台に連れ出すこともあります。

ある日、金満里さんから、望が舞台に出るかどうかは自力で退出できるかどうかにかかっていて、そのことを時間を掛けても見極めたいと思うこと、自力で退出できることで望が6才といえども自分で出るという意志において観客に観せる存在として立つことができるということ、楽しんだ後には片付けがあるように舞台のルールに従うことを自分で引き受け決めることができる子だと思っているとのメールがありました。黒子が望を舞台に連れて出て、連れて入ることもできるかもしれませんし、金満里さんほどの演出家ですから他の演出の案もないわけではないと思います。けれど、望を特別扱いしないで、大人のエキストラと同じように自分の力で出て入るとしてくださったこと、時間をかけて見てくださることをありがたく思いました。

望にとっても、楽しむとか体験することだけでなく、学びの場となりました。それとともに望は、自分の身体を感じ、異文化と出合いました。障害児の望にとって障害者の身体表現が異文化とはおかしな話ですが、望は、自力ではできない立位の姿勢を早くからとっており、リズム遊びや体操は、抱っこか座位保持の道具を使って立位でやってきましたから、健常者の視点でやってきたことになります。音楽を聴きながら、自分の身体だけで動くなんて、よく考えてみるとさせたことがありませんでした。私達は、様々なことに気付かされた場となりました。私の中に、望を出すことの迷いは、もうありませんでした。

私が所用で付き添うことができず、夫だけが付き添ったある稽古日。金満里さんの伝えたような動きを望が見せたようで、「のぞみちゃん、できる?」と聞かれ、みんなが見守る中、手を上げて答えたとのことでした。周りの皆さんが、拍手してくださったようで、後で知った私は、とてもうれしく思いました。これで、望は、態変歴代の出演者の中で最年少のエキストラとなりました。

そして、ついに18日の望が出演する初日が来ました。夫は用事があったため、望と二人で会場の扇町ミュージアムスクエアまで、電車を乗り継いで行きました。扇町の駅で電車を降り、扇町公園を横切りながら、私は、ドキドキしてきました。狭い楽屋で譲り合いながら着替え、化粧をし、リハーサル。望は、リハーサルでも「もっと前に出てきて」と注意されていました。午後1時。気あわせをして、後は幕が開くのを待ちます。望の出番は、最後の方なので、出番近くまで、他のエキストラさんたちと楽屋で待ちました。出番近くなり、黒子さんが呼びに来てくれました。黒子さんに望を渡し、舞台裏に続く寒くて薄暗い通路で、扉の向こうのガムランの音を聞きながら、待っていました。望が出ているころかな、役者紹介になったなと緊張しながら耳をすましていました。楽屋では、大きな声を出して元気だった望は、役者紹介が終わって帰ってきた時は、真っ赤な顔をしてボーとしていました。自分で出て入ったようでしたが、幕のあたりをぐるぐると這っていたようで、客席の方に向かって行く事はできなかったようでした。でも、望は、心の中では「這わなければならない」と思っていたのか、夜中は、一時間おきに布団から這いずり出ていました。

19日、20日は、望を黒子さんに渡した後、舞台裏で待ちました。狭い舞台裏なので様子がよくわかりました。望が出る場所は、私からは見えませんでしたが、出ている時はわかりました。役者紹介のときの、「むかいのぞみ」という金満里さんの声もよく聞こえました。望は横を向いて返事をしていないようでした。夫は、20日に客席で観ました。20日の役者紹介での拍手の時、胸が熱くなりました。楽屋の前で、裏方さん達が拍手で迎えてくださいました。

望は、3日間の舞台に元気で参加し、打ち上げにも行きました。稽古を休んだのは病み上がりの一日だけでした。エキストラの出番は少しだけですから、待ち時間のほうが長いのに、稽古場から出るとは一度も言わず、毎週の稽古に楽しそうに参加しました。稽古場に入るとき「おはよう」と頭を下げるようになっていました。一度だけ、泣いたことがありました。本番近くで、張りつめた空気の中、体調が今ひとつの望は、待つのに疲れてきて早く舞台に出たいとか、他の役者さんと遊びたいとぐずぐず言い始めました。他の役者さんの迷惑になると思い、私は、望を稽古場の外に連れて行き、「ぐずぐず言うのなら帰ろう」と車椅子に乗せると、帰りたくないといやいやして泣いたのでした。本当によくがんばって参加しました。舞台での演技は、今ひとつだったかもしれませんが、望なりによくやったと思います。舞台の外では、役者さん達やスタッフの方々にかわいがっていただきました。舞台ではちやほやしないが、金満里さんのやり方で、私はそのこともうれしく思っていました。)

私達も、たくさんの人と出会い、たくさんのことを教えられました。私は、今まで観てきた舞台の、想像以上の稽古と計算された展開に驚きながら、舞台裏を見ることができて大変面白い日々でした。でも、ステージママは、なかなか大変でした。この冬は、あっという間に過ぎていきました。スキーにも行けませんでしたし、休日にのんびりともできませんでした。けれど、ずっしりとした3カ月間でした。

ひとこと

 今月は、とても長い通信になり申し訳ございません。それだけ、この舞台デビューまでが大切な日々であり、私自身、書きとめておきたい事がたくさんありました。わがままな通信となりました事をお許し下さい。

 3月25日に保育所の修了式がありました。修了児は、名前を呼ばれると返事をして前に出て証書をもらい、お母さん達のほうを向いて、「毎日お迎えに来てくれてありがとう」「ドッチボールが楽しかった」「○○小学校に行きます」等、ひとこと言います。望は、名前を呼ばれて返事をしました。ビックマックで「S小学校に行きます」と言いました。私は、こらえることのできない涙がボロボロとこぼれました。お世話になった方々、心からありがとうございました。

      撮影:未来さん

 保母さんと一緒に、修了証書をいただきました。

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