松山常次郎記念館

松山常次郎記念館正面松山常次郎記念館は、郷土(九度山)が生んだ
政治家・松山常次郎さんにかんする遺品や資料の展示また平山郁夫画伯の絵画を展示(予定)してあります。
平山画伯とのご関係は、画伯の奥さんであられる美知子さんは松山常次郎様の長女であり、この記念館は美知子さんのご実家をそのまま改修された建物であります。

 

 

 

 

■平成19年5月3日オープン

■所 在 地 ; 九度山町九度山1452番地の1  (九度山駅下車、商店街(真田のみち)通り)・Googlemapで場所を確認

■開館時間 ; 午前9時〜4時30分

■休 館 日 ; 年末年始と毎週月・火曜日(月・火曜日が祝日の場合は、その翌日が休館日)

■入 館 料 ; 大人200円 小・中学生100円

松山常次郎さんとは?松山常次郎記念館側面

1884年(明治17年)に父常治、母さわの長男として九度山で生まれました。
常次郎さんは、人生の前半部分においては「実業家」として、後半部分では「政治家」として活躍されました。

1:実業家としての常次郎
常次郎は、明治41年に東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業後、アメリカに留学し、橋梁の建設などについての知識を深めました。
2年間の留学を終えた後、米の増産を目標に朝鮮にわたり、新たな土地の開拓に取り組みました。
大正7年には開墾会社「黄海社」を創立し、自らが社長となり、各方面からの農業土木事業を受諾しました。
さて、その当時、九度山の人々は誰もが「九度山は耕地がせまいので、若者の活動の場として、新天地を開く必要がある」と感じていました。
そこで、相談を受けた常次郎は、地元の有志の人々と協力し、朝鮮に新たな開墾会社「南海拓殖株式会社」を設立しました。
会社の事業は順風満帆ではなく、大正14年の大豪雨により、莫大な被害を受けたこともありましたが、通算2万4千ヘクタールにわたる水田を造成し、朝鮮において、最も広く開拓した人といわれるまでに至りました。
また、朝鮮への進出は、将来不安を感じている町農家の次男三男の進む道を開き、また外地への進出の夢を果たす画期的なものでした。

2:政治家としての常次郎
松山常次郎記念館裏側次に、政治家としての常次郎は、 大正9年から終戦までの24年間、衆議院議員を務めました。
昭和11年には外務参与官、昭和15年には海軍政務次官などを歴任。
しかし、敗戦の後は海軍政務次官の経歴のため、公職追放となり、政界から引退しました。
彼が最も力をいれたのは、廃娼問題、普通選挙、婦人参与権などで、極めて進歩的な政治家であったと言われています。
また、熱心なクリスチャンで、昭和16年にはキリスト教平和使節団を組織して渡米、日米開戦防止に力を注ぎました。
九度山に関わりのある常次郎の功績を一つとりあげますと、現在、九度山と高野口を結ぶ「九度山橋」は、明治時代は通行料金をとる木造の橋でした。
しかし、橋が木造であったため、たびたび修理の必要があり、さらに洪水のたびに流されてしまいました。
そんな中、地元から鉄橋の建設を望む声が高まり、大正8年に、鉄橋建設の請願書が県知事に提出されました。
その時、常次郎が県知事に鉄橋建設の必要性を強く説きました。
そういった努力もあり、大正11年に幅11.5m、長さ226mの鉄橋が完成しました。
この鉄橋のおかげで、多くの九度山人が隣の高野口方面に進出できるようになり、常次郎の功績の一つに上げらています。
このほか、常次郎は数多くの功績を残し、77歳でなくなった時には、正四位、勲二等が贈られました。

3:常次郎の家族
常次郎は家族を深く愛したと言われており、記念館には、常次郎がアメリカ留学中に、母さわに出した手紙なども展示されています。
常次郎の長女・美知子さんは、「手紙には母を想う若者の心があふれていました。そんな父の心を忘れないでいたいと思います」と、後に語っています。
松山常次郎の長女「美知子さん」は、絵画界の巨匠・平山郁夫画伯の夫人であります。
そのご縁で、この記念館に平山画伯の絵画を数点ご寄付いただくことになり、それを記念館で展示する計画も徐々に進行しています。

正面玄関を入ったところ1正面玄関を入った所左側

九度山を訪問された際には、ぜひお立ち寄り頂きたい記念館です。


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(上記説明文は九度山町広報4月号より抜粋させていただいてます。)