旧中山道の妻籠宿から馬籠宿までは江戸時代の旧街道の名残りを色濃く残している。大妻籠から下り谷に入り、男滝、女滝、一石栃白木改番所跡、馬籠峠などの見どころを中山道を歩いたハイキング紀行で紹介する。

'99年9月、私と妻は神戸新聞文化センタ−が企画した、「秋色の中山道。馬籠から妻籠宿へのハイキングを楽しむ」と題したツア−に参加した。予想をはるかに超える参加人数の114名の申し込みがあり、追加でバス2台をチャ−タ−しての催しである。
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| 中山道地図 |
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| 妻籠本陣 |
元来、私はツア−には抵抗があった。それは大型バスを連ね、観光スポットに到着するやいなや、観光もそこそこに土産物屋に直行し、両手いっぱいに土産物袋を提げて再びバスに乗り込み、そぞろ帰って行く光景がツア−なんだと思いこんでいたからである。
また自分の興味関心のある場所で時間を自由に取れないのも抵抗の一つであった。
しかし、今回はハイキングである。目的が旧中山道を歩くことは、はっきりしている。
・個人で行くには山中での行動範囲が広く地理に不安がある。
・人通りもほとんどない山中の行動は危険も多い。
・到着先ではバスが待ち受けて居て時間のロスがない。
・日帰りツア−だから経費も安い。
・妻も十分乗り気になっている。
などメリットがデメリットを打ち消して余りあるという判断で参加した。
実際に歩くペ−スが速すぎた不満があったものの、参加者はそれぞれ私と同じような目的を持った人達ばかりで土産物を買うツア−というのは私の行き過ぎた考え方であった。
さて、出発日は午前7時にJR姫路駅南バスタ−ミナルに集合した。
若いグル−プや男性客の参加者は全体の2割程度。あとは50歳前後の子育てを終えたと思われる女性が圧倒的に多かった。
8時前に姫路を出発するとバスは順調に山陽道、中国道、名神道をひた走った。中央道にさしかかる頃、添乗員から現地での行動上の説明があった。今回のツア−は予想をはるかに上回る参加者のため、まとまって食事をする場所がない。
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| 宿場を通る中山道 |
そのため予定通り馬籠から妻籠まで歩くのは1号車だけ、あとの2〜3号車は予定していたコ−スを逆に妻籠から馬籠へ歩くのだという。
馬籠で114名もの団体がまとまって食事をする事はとても無理だと納得した。しかし逆コ−スになっても歩く距離は同じだと思っていたが、旧中山道は山道であるから登り降りが逆になれば体力の消耗度が全然違うことに誰も気づかなかったのである。
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| 上嵯峨屋 |
途中の桂川SAと内津峠PAでトイレ休憩をして、バスが妻籠に到着したのは予定時間を30分ほど過ぎた1時だった。
バスは宿場の並びで馬籠側のはずれに駐車した。昼食は妻籠宿の町並みから少しはずれたお食事処「音吉」がとってあった。宿場の通りから完全に離れているせいか、町並み保存の規制がないのであろう。建物は新しく、白木造りで檜特有の香りが漂っていた。
食事が始まってから30分後に町並みの中心部まで移動した。
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| 妻籠宿 |
私自身は妻籠はこれで3度目である。初めて訪れたときは松代屋と白木屋の間の細い路地から宿場の通りに出た。通りに出た瞬間は、時代劇映画の銀幕が突然、目の前に迫ってきたかのような驚きがあった。
それは座頭市シリ−ズのロケが妻籠宿で行われたとき、通りのアスファルトに砂や小石を敷くだけで即、時代劇のセットになったと聞けば、江戸時代の宿場の町並みがどれだけ保存されているか、想像に難くない。
やがて間もなくして「妻籠を愛する会」の郷土史家が出てこられ、宿場の要塞である桝形跡や、約200年前の江戸時代から営々、当時の旅籠の佇まいで営業を続ける松代屋の話。出梁(だしばり)造りや、蔀戸(しとみど)など建築物の細部の説明。脇本陣内部と奥谷郷土館の見学など、懇切丁寧な説明を約1時間ほど聞くことが出来、非常に有り難かった。
さて、いよいよ馬籠に向けてツア−の移動が始まる。出発時刻は3時5分。予定していた時間をオ−バ−しているらしい。私は傘、スパッツなどの雨用品、カメラに交換レンズ2本、ストロボと一脚などをザックに入れ、背負って列に並んだ。
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| 大妻籠 |
空はよく晴れているが木曽の天気は変わりやすいと聞いた。用心深い性質のせいか、皆のように手荷物をバスに置いて身軽になる気持ちにはなれない。水筒さえ持たない手ぶらの人もあった。
出発してすぐ蘭(あららぎ)川の橋を渡る。昨日の台風のせいか、水量が非常に多い。山間を流れる川の水音は滝壺のような轟音をたてて荒々しく、淀みが全くない急な流れである。
昼食をとったお食事処「音吉」を右に見てすぐ車道から離れ、山道にさしかかった。山は秋色にはほど遠く、濃い緑一色である。
歩き始めて15分ほどした頃、妻が「今やっと1kmほど歩いた処よ。」と言った。後で聞いたことであるが、この辺りでギブアップして引き返し、逆コ−スの1号車に便乗して帰途についた人があるらしい。誰かに誘われて参加した人であろう。このような旅ははっきりした目的が無ければ続かない。賢明な判断をされて引き帰えされたのだと思う。
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| つたむら屋 |
馬籠まではざっと9kmの道のりである。添乗員はこれを2時間30分で越えるつもりである。馬籠峠までは5km強の登りの山道だからこのペ−スはかなり辛い。大妻籠の辺りまで歩いたところで先頭と最後尾がかなり開いてしまった。先頭が立ち止まって待ってくれた。後方の集団の一人が追いつくやいなや「速すぎる」と添乗員に言った。まわりの数人がすかさず口々に同じ事を言い出した。私はこれで少しペ−スが下がれば、と期待したがそうはならなかった。
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| 中山道地図 |
大妻籠の集落は随分と山の中である。「木曽路はすべて山の中である」との「夜明け前」の書き下ろし思い出す。そして集落の屋根には「見事なうだつが上がっている」と聞いていたが、足もとを見ながら歩いていると、うっかり見過ごしてしまった。家の中で子供が4〜5人遊んで居るのが見えた。妻籠の子供達は、学校に通うにも、人気のない山道を通わねばならない。昼も薄暗い森は精霊でも出てきそうな不気味さを漂わせている。学校の行き帰りは心細く怖いだろうなと想った。
途中に水力発電所があった。電柱も街道沿いに建っている。妻籠宿では景観を損なわないように電柱は見えないようにしてあった。それでも発電所は景観に違和感の出ない配慮がされ、コンクリ−ト造りの外壁は焦げ茶色のペンキに塗られ、木造の感じに仕上げてある。
山道を少し奥へ歩くと、わずかな平地に民家が4軒あり、その中に秋篠宮さまが、ご学友と一緒にお泊まりになった民宿、「つたむら屋」があった。つたむら屋の玄関を1枚撮ったが休むことはなかった。
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| 庚申塚 |
さらに少し歩くと、車道と交錯するところがあり、そこに「こおしん塚」(庚申塚)と書かれた民宿があった。どちらも築後100年は越すであろう、古い佇まいである。ここのご主人は笠に地下足袋のいで立ちで、妻籠宿の名物郵便配達人をされているらしい。庚申塚前を通る車道を横切って「くだり谷」に入る。陽は木立に遮られ、薄暗い登りの山道である。街道時代は1日にどれほどの人が、往来していたのだろうか。旅人の懐(ふところ)をねらうスリもいたし、「身ぐるみ置いていけ」などと、怖い顔で凄む追い剥ぎもいたことだろう。
江戸末期は戦さはなかったが、治安は現代ほど良くなかったことは確かである。ひとりやふたりで峠を越えるには怖い山中である。そう思うと、「このツア−は江戸時代に逆のぼる貴重な実体験をさせてくれているんだ」と、嬉しくもなったし、旅人の苦労を偲ぶことも出来た。
「くだり谷」は途中で何度か車道に出る。そして男滝(おたき)、女滝(めたき)の見えるところから再び山道に入る。男滝は車道から10mほど入った所にあり、吉川英治の小説では「宮本武蔵」と「おつう」のロマンスのあった場所として有名である。台風が降らせたまとまった雨は、この男滝を一層荒々しく演出し、水しぶきが山道に降りかかってくる。滝を背景に何人かが記念写真に納まっていたが、私はカメラがしぶきに濡れては困るので、ここは1枚だけシャッタ−を切って早々に歩を進めた。
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| 女滝 |
女滝を左手方向に見るあたりから、1号車の馬籠発の人達と対向するようになった。みんな口々に「まだまだよ、先は長いよ」とか「頑張ってね」などと声を掛け合っている。対向する人は下り坂のせいか、楽しそうに足どりも軽い。それに比べ私達は息づかいも荒々しく、しんどそうだ。考えてみれば妻籠から出発すると馬籠峠頂上を境に、登り坂が5.2kmで下り坂が3.3km。しかも下りは単調な舗装道路になっている。妻籠から馬籠に越す方がうんとしんどい訳だ。もっと早く参加申し込みをしていれば、1号車の人たちと一緒に楽な逆コ−スが歩けたのにと悔しかった。
女滝を横目に見るあたりは階段状の急登である。標高801mの馬籠峠まではまだ遠い。少なくなりかけた水筒のお茶を、我慢して残していたが、とうとう飲み干してしまった。それでも足りない分、妻のお茶をねだった。山の湧き水が飲めるようになっているところが何カ所かあった。汗で濡れた顔を洗いたかったが先頭からあまり遅れても困る。中団の位置をキ−プしたい気持ちもあり、妻の様子を気遣いながら歩いた。男滝、女滝から続いた急登を登り切ると再び車道に出て、さらに100mほど歩くと、車道から離れて右に小川を渡り、再び山道に入った。道標は無いからうっかりすると車道を歩いてしまう。この先、三たび車道と交錯する所があり、石畳が数十メ−トル続く所から、いよいよ馬籠峠の入り口である。
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| 馬籠峠のすぐ手前 |
最初は緩やかな登りで、あたりは木曽五木(檜、さわら、ねずこあすなろ、高野槙)の豊かな森林である。左手に400年はあろう大木の傍に高札場のような大きな看板があって、何やら説明が書いてあったが読む余裕はなかった。前を行く人の背中が、段々小さくなる代わりに、後の集団の話し声が少しずつ大きくなるような気がする。「気力が行動を起こす」という言葉を野球中継の放送で聞いたことがある。まさにその気持ちで歩き続けていると右に「一石栃白木改番所」の表示板があり、その横に立場茶屋らしきものがあった。尾張藩の役人が、木曽から木材が外に出ないように、監視していた番所跡である。江戸幕府尾張藩は木曽の木を非常に重視していて、「檜一本首一つ。枝一本腕一つ」と言われ、檜一本盗伐すれば首がひとつ飛ぶ、と言う厳しいものであった。現代も木曽の国有林は全体の60%である。昔も今も「森林は近くにありて遠きもの」とも言われる所以(ゆえん)である。
島崎藤村の歴史大作「夜明け前」の書き出しに「木曽路はすべて山の中である 〜 一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。」とあるが、今歩いている街道はそれをすべてを言い尽くしている。
やがてわずかの平地を耕した稲作田や、イノシシなどの害獣を避けるための電柵が現れる頃に、山の峰も近くに見えるようになった。いよいよ馬籠峠頂上かな、と思いながら坂道を登りきると、峠の茶屋があった。先着が10人ほどいて、五平餅をほおばり、缶飲料を飲み、しんどかった峠越えの疲れを癒していた。私たちも普段は甘いからと敬遠しがちな缶飲料を好んで探した。正岡子規の「白雲や青葉若葉の三十里」と書かれた句碑を探すことなどすっかり忘れていて、それに気がついたのは峠をかなり下ったあとであった。疲れているせいか引き返して調べる意欲も萎えていた。
峠を越えると旧中山道は下り道の舗装路になっていて、日常身近に利用している道路とあまり変わりがない。道ばたにちらほら見える桔梗屋とか岩田屋といった古い佇まいの民宿や、十返舎一九の句碑が何とか旧街道の名残を留めている。
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| 馬籠 藤村記念館 |
2kmほど下った所から、いよいよ馬籠宿の入り口に入る。宿場の下り坂道は木曽石と御影石によって舗装がしてある。これは旧街道時代のものではなく平成3年に完成したものである。馬籠は島崎藤村の生誕の地で、生家が本陣であった所に藤村記念館が作られている。時間は5時を少し過ぎた頃であるが、もう閉館していて、辺りをそぞろ歩いている人は我々の一行だけである。
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| 馬籠 但馬屋 |
宿場のほぼ中間辺りには行灯がともっていて古い佇まいの旅籠、但馬屋がある。このあたりは遊ぶところがない。たぶん泊まり客であろう。若い男女10人ぐらいが玄関先で佇んでいた。前に見える恵那山を仰ぎながら桝形跡を通り、バスの駐車場へと下りていった。駐車場横の土産物屋を吟味し、バスの中では汗で濡れたシャツを着替え、ほっと一息ついた頃、時計は5時半を少し過ぎていた。
ああ、これから姫路まで4時間半、さらに西脇市まで1時間をかけての帰り道である。疲れた身体を座席にうずめ、今日一日を振り返った。重めのザックを背おって歩き続けた旧中山道の旅は江戸時代の旅人の苦労を十分、味わい知ることができた。−おわり−
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